豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(5)
掛川城の天守閣でおもいだしたのは、12年前、盗賊〔荒神(こうじん)の助太郎(すけたろう 50がらみ)一味の盗(つとめ)の探索にかかわったことによった。
そのころ、火盗改メ・本役を勤めていた長山百助直幡(なおはた 58歳 1350石)に頼まれての出張りであった。
ふつうなら忘れてしまうほどの手柄であったが、お竜(りょう 30歳=当時)との5日間の親密で豊艶な旅がつづいていたので、記憶が鮮烈であった。
【参照】2009年1月21日~[銕三郎、掛川で] (1) (2) (3) (4)
2009年1月25日[ちゅうすけのひとり言] (30)
もっとも、掛川城下の探索ごとは、駿府での〔荒神〕たちの奇妙な請負いごとのついでであった。
【参照】2009年1月8日~[銕三郎、三たびの駿府](1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13)
平蔵(へいぞう 24歳=当時)と助太郎一味とのかかわりはもっと古く、銕三郎(てつさぶろう)が14歳の旅で顔見知りとなった。
関係はその後、助三郎のむすめ---〔荒神〕のお夏(なつ 26歳)に、おまさ(37歳)が[誘拐]されたのを助けだすところまでつづいた。
【参照】2007年1月14日~[〔荒神(こうじん)の助太郎] (1) (2) (3) (4)
もっとも、〔荒神〕の助太郎が盗賊と気づいたのは、銕三郎が18歳のときであった。
それにしても、長くつづいた因縁であった。
このブログの縦糸をところどころで彩るのは、〔荒神〕一味の挙動ともいえよえか。
【参照】2007年12月27日~[与詩(よし)を迎えに] (7) (8) (9)
週末で、もし、お時間がとれるようであれば、以下の数項目へもリンクし、〔荒神〕と平蔵の因縁の深さをお楽しみいただければ幸いである。
ただ、いまは、西丸老中の上座に発令される太田備中守資愛(すけよし 44歳 掛川藩主 5万石)とのつながりを推察しているので、〔荒神〕のことは、とりあえず---ということであれば、以下は後日のリンクになさってもかまわない。
【参照】2008年1月25日~[〔荒神(こうじん)の助太郎] (5) (6) (7)
2008年3月26日~[〔荒神(こうじん)の助太郎] (10)
【参照】2009年1月3日~[明和6年(1769)の銕三郎] (3) (4) (5)
【参照】2009年9月15日~[同心・加賀美千蔵] (3) (4) (5) (6)
【参照】2010年7月12日~[〔世古(せこ)〕本陣〕のお賀茂] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
養君・豊千代(9歳)を支える要として西丸・若年寄上座として発令されることとなった太田備中守資愛(すけよし 44歳 掛川藩主)は、父・資俊(すけとし)が20歳のときに側室から生まれた。
正室は嫡男が早世していたため、嫡母となった。
正室は板倉本流の周防守勝澄(かつずみ 備中・松山藩主)の養妹。
明和5年(1768)に奏者番(30歳)、安永4年(1775)に寺社奉行(37歳)というのは中堅どころの大名としては順当の昇進であろう。
奏者番に任じられてから、帰国はなくなったかして『武鑑』には上府・帰国の記載がない。
帰国していないとすると、銕三郎が掛川の〔京(みやこ)屋〕事件をさばいたことまでを、しるわけはない。
於佳慈(かじ 30歳)の耳打ちはなにゆえとて断ずればいいのか?
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