トップページ | 2005年1月 »

2004年12月の記事

2004.12.31

〔小房〕の粂八が発端

◎〔小房〕粂八が見かけたのが発端

[4-2 五年目の客]    〔江口〕の音吉  p49 新p51
[12-2高杉道場・三羽烏] 長沼又兵衛   p60 新p64
[18-2馴馬の三蔵]   〔瀬田〕の万右衛門p75 新p77

| | コメント (0) | トラックバック (0)

〔小房(こぶさ)〕の粂八

『鬼平犯科帳』文庫巻1[唖の十蔵]で〔野槌〕の弥兵衛一味として登場。
(参照: 〔野槌〕の弥平の項)
同巻第3話[血頭の丹兵衛]のあと、密偵となる。
(参照: 〔血頭〕の丹兵衛の項)

201

年齢・容姿:天明7年(1787)で30がらみ(33歳?)。軽業一座にいたこともあるので身が軽い。
生国:北近江(推定)。ただし、呼び名は保護者だった「おん婆」が行き倒れた地の「小房」からとったとおもわれる。
小房=現・滋賀県蒲生郡蒲生町桜川東、桜川西(上小房、下小房)
2001
明治20年ごろの地図 中近江近辺

2002
同上の拡大図

探索の発端:浅草・新鳥越4丁目の小間物商〔越後屋〕の亭主・助五郎を絞殺したおふじは、火盗改メ方同心・小野十蔵の世話をうけながら、女児を出産。晩秋のある日、赤子を抱いて柳島の妙見堂へ参詣したおふじが、助五郎と交誼のあった〔小川や〕梅吉と連れの30男をみかけたことを、小野同心へ告げた。
火盗改メ方が網を張っていたが、梅吉を取り逃がした代わりに粂と呼ばれている男を逮捕。
粂を拷問の末に吐かせた〔野槌〕の弥兵衛一味を盗人宿---王子稲荷社裏参道の料理屋〔乳熊屋〕で追捕した。

結末:〔野槌〕一味は死罪。ただし、粂は、鬼平が見どころがあると、そのまま牢へつなぎおいた。

つぶやき:粂が、〔小房〕の粂八とわかるのは、第3話[血頭の丹兵衛]においてである。
残虐なつとめぶりをする〔血頭〕の丹兵衛を名乗るニセモノの面をひんむいてやりたいからと、牢を出されて島田まで行って、けっきょく、〔血頭〕がホンモノだったことを知り、密偵となる。
時代は本格派のおつとめから畜生ばたらきの時代へ移行しつつあることを暗示している。

鬼平が火盗改メのお頭になってから、粂八は直属第3号の密偵である。
第1号は、〔相模〕の彦十、第2号は、おまさ。

鬼平の信頼度からいうと、おまさ、粂八、伊三次、五郎蔵の順。
働きぶりからいうと、おまさ、粂八、伊三次、彦十、五郎蔵の順。

「小房」について、滋賀県小房(桜川西)の「歴史を誘う会」代表の西田善美さんは、
「中世の商人団(座商人)に従事する足子(寄子)と呼ばれる商人がいた。鈴鹿山系を越えて伊勢国の桑名、四日市に至る道筋の村々を商圏とする保内商人の足子〔おふさのひこ太郎〕とある〔おふさ〕は小房であり、その集団が〔小房〕とされる」
「保内商人として活躍した行商人の一部は、御代参街道脇……すなわち地元で商いをしたと思われる。
1714年(正徳17)の春日局からはじまる代参、1678年(延宝6)遊行寺僧の街道の利用によって沿道が発展して栩原神社(上小房)付近に商い場があったとしても不思議はない。
保内の(野方)商人の分家にあたる彦太郎商人集団がそこへ移り住んで、小房を称した。小はへり下った謙称語であり、房は束ねた糸の垂れ房とともに、分家の意味もある。〔小房〕は〔私は分家〕という当時の呼称のようにおもわれる」
と、ご教示くださった。

2005年4月4日。蒲生町を訪れた。

605
近江鉄道本線[桜川駅] 

607
[桜川]駅のホームから田畑を望む

じつは初めての訪問で距離感がつかめないので、八日市市からタクシーを奮発した。
運転士の早川玄雄さんに今は「桜川」、もとは「小房」と告げると、合点してくれた。最初に「桜川東」で「上小房」のバス停標識を見つけた。

608
「上小房」のバス停。明治22年の町村合併で「桜川東」となる

つづいて早川さんは、「下小房のほうが旧家が多い」といって、「桜川西」へ車を走らせた。「小房銀座」というらしい旧道へ入ると、「小房銀座 歴史の舘」という看板を出した家があったが、月曜日のせいか、錆びのでたシャッターが降りている。かつては日本生命の支所だったようだ。開館日にあらためて訪ねてみたい。

604

606
休舘していた「小房銀座 歴史の舘」

早川さんは、いまは年に3度ほどしか積雪しないが、かつては50センチも積もっていたと。おん婆ァが行き倒れたときもそんな積雪の日だったのだろう。

粂八と5寸釘の拷問

[唖の十蔵]Iに、拷問に耐えぬいている粂八が、鬼平の発案による5寸釘を足の裏に打ちこみ、熱い蝋をたらされ、ついに〔野槌〕の弥平の盗人宿を吐いてしまった、とある。
『鬼平犯科帳』の2年前の池波さんの作品『さむらい劇場』(『週刊サンケイ 1966.8.22~67.7.17 のち新潮文庫)に、
1103

「ひと通りの拷問ではねえ。さかさづりにしておいて、足のうらへ五寸釘をぶちこみ、その上から蝋(ろう)の煮えたやつを、とろとろ、とろとろとたらしこむ。こいつはたまらねえものだ……」p182

ところが『鬼平犯科帳』の1年前に書かれた『近藤勇白書』(『新評』 1967.11月号~69.3月号 のち講談社文庫 新装版)上p280 におなじ拷問ぶりが記されている。
1101

池波さんのエッセイによると、この『近藤勇白書』の執筆に先立ち、『新選組』3部作(中公文庫)の著者である先達の子母澤寛氏を訪問、データ借用について快諾をえた、とある。
1102
(1928)            (1929)            (1931)

上記『新選組始末記』p121に、

壬生の屯所へ引立てた(古高 ふるたか)俊太郎を、土方歳三(ひじかたとしぞう)が、尻上りの多摩弁で針を刺すように厳重に取調べたが、素より古高も決死の覚悟である、一言半句も口を開かない。
背中の皮が破れて血が流れたが、
「如何にも本名は古高俊太郎である。それならばどうしたというのか」
こういったきり、瞑目した黙った。
夕刻になって遂々(とうとう)、土方はむかっ腹を立てて、古高をしばったまま逆さに梁(はり)へ釣るし上げさせ、足の甲から裏へ五寸釘をずぶりと突き通し、それへ百目蝋燭(ろうそく)を立てて火をつけ、とろりとろりと蝋を肌へ流すようにした。
これには、流石(さすが)の古高も堪えかねたと見え、ものの一時間も悶え苦しんだ上に、素直に尋問に答えるようになった。

古高の白状の結果、新選組による池田屋襲撃へと、つながっていく。

ところで、長谷川平蔵と同時代の貴重な記録である『よしの冊子』iには、平蔵の自慢話「おれは町奉行所や松平左金吾のように拷問なんかしない。しなくてもするすると白状におよぶ」と記されている。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

〔小房〕の粂八が見たのが事件の発端

◎粂八が見たのが事件の発端

[1-3 血頭の丹兵衛]  〔血頭(ちがしら)〕の丹兵衛
             p91 新p96
[4-2 五年目の客]   〔江口(えぐち)〕の音吉
             p49 新p51
[12-2高杉道場・三羽烏]長沼(ながぬま)又兵衛
             p60 新p64
            〔笠倉(かさくら)〕の太平
            〔砂蟹(すながに)〕のおけい
[18-2馴馬の三蔵]   〔瀬田(せた)〕の万右衛門
             p75 新p77
            〔馴馬(なれうま)〕の三蔵

| | コメント (0)

〔小房(こぶさ)〕の粂八 年譜

密偵:〔小房〕の粂八の年譜

宝暦5年(1755) 近江国蒲生郡(滋賀県東近江市付近)で
 生       おん婆ぁと死別の記憶
           [1-3 血頭の丹兵衛]p96 新p101

宝暦10年か11年  〔おんばあ〕死
(5,6歳)      [1-3 血頭の丹兵衛]p96 新p101
         見せ物芸人・山鳥銀太夫一座で綱渡り

安永2年(1773) 〔血頭(ちがしら)〕の丹兵衛から破門
(19歳)        [1-3 血頭の丹兵衛]p92 新p97
安永3年(1774) 〔飯富(いいとみ)〕の勘八の配下
(21歳)        [6-5 大川の隠居]p192新p202
         このとき、〔浜崎〕の友蔵が勘八の右腕。
(27歳)まで   〔浜崎(はまざき)〕の友蔵と10年ぶり
            [6-5 大川の隠居]p192新p201

天明3年(1783) 〔羽佐間(はざま)〕の文蔵の下
(28歳)         [4-2 五年目の客]p49 新p51
         〔海老坂(えびさか)〕の与兵衛の下で
         2年ほど
          [5-4 おしゃべり源八]p145 新p153

天明5年(1785) 芝高輪の料理屋〔川宗〕の女あるじ・お紋
(31歳)ごろ?  と駆け落ち。お紋を〔馴馬(なれうま)〕の
           三蔵の岡部の女房に預ける。
            [18-2 馴馬の三蔵]p48 新p51

天明7年(1787) 野槌(のづち)〕の弥平の下で捕まる
(33歳)         [1-1 唖の十蔵]p34 新p35

天明8年(1788) 〔血頭〕の丹兵衛と再会
 10月(34歳)           [1-3 血頭の丹兵衛]

寛政2年(1790) 船宿〔鶴や〕をまかされる。
(36歳)
寛政3年(1791) [6-5 大川の隠居]の事件
(37歳)
寛政7年(1795) [12-4 密偵たちの宴]p158 新p166
 春(41歳)

寛政9年     粂八の采配よろしきをえて〔鶴や〕はけっ
(43歳)     こう繁盛しており、その儲けの大半を粂八
         は諸方へ振り撒き盗賊探索に使っていた。
         密偵たちへも分ちあたえているらしい。
          [18-2 馴馬の三蔵](p43 新p45)

| | コメント (0)

2004.12.30

〔稲熊(いねくま)〕の音右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻9の[狐雨]に登場する本格派の首領。
浅草・駒形の眼鏡屋〔信濃屋〕文七が仮の家業。
516
駒形堂と駒形町(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)
継父のことで若いころの青木助五郎がぐれていたときに、稲熊兄弟が面倒を見てやったことがある。

209

年齢:50代後半(神田旅籠町で小間物屋を営んでいる60がらみの実兄〔信濃屋〕久兵衛から推測)。
生国:三河(みかわ)国額田郡(ぬかたこおり)岡崎在の稲熊(いなぐま)村(現・愛知県岡崎市稲熊町)
池波さんか編集部か、なぜか(いねさき)とルビをふっている。

探索の発端:鬼平の長男・辰蔵が、谷中・天王寺門前のいろは茶屋で遊興していた同心・青木助五郎を見かけた。火盗改メの手当てが別に出るとはいえ、30俵2人扶持の分際でいろは茶屋などで遊べるはずがない。辰蔵が〔近江屋〕で聞きだしたところによると、青木同心は旅籠町の小間物屋〔信濃屋)久兵衛と連れ立って上がったのが最初とのこと。
辰蔵はそのことを父の鬼平へ告げた。平蔵が若年寄・京極備中守高久に呼び出されて注意を受けたのも、町奉行所からとどいた青木同心の所業であった。
さっそくに〔信濃屋)久兵衛方が見張られたが、あやしいフシはない。
そのうち、狐が憑いた青木同心が、眼鏡屋〔信濃屋〕文七こそ、じつは過日、本郷4丁目の筆墨硯問屋〔静好堂〕辻勘兵衛方へ押しこみ1,300余両を奪った賊であるぞよ、と告げた。

結末:青木狐の告発で、〔稲熊〕兄弟一味は捕らえられたが、処刑については記されていない。
青木同心は、狐が落ちてからというもの、寝ついてしまったままだ。

つぶやき:二軒の〔信濃屋〕の屋号から長野県の出身と見たが、CD-ROM〔郵便番号簿〕での検索で岡崎市がひっかかった。

岡崎市役所観光課 鈴木さんからのリポート

当市に合併される前は、「稲熊村」だったか「乙見村」だったかとのご質問ですが、江戸時代の古地図には、「稲熊村」と明記されています。もっとも、明治22年には「乙見村大字稲熊」となりましたが。
「稲熊村」は大正6年に合併によって岡崎市稲熊町となりました。位置は市中央部のやや東寄りです。
合併前の産業は農業でした。
稲前(いねさき)神社 稲熊町へ入り、伊賀川をわたると前方に小高い森が見えます。神社の森です。岡崎市でもっとも古い神社です。

リポートへのレス

明治中期に出た『大日本地名辞書』で、「乙見」村の項に「稲熊」が包括されているわけが、よくわかりました。
ありがとうございます。
『鬼平犯科帳』文庫巻9「狐雨」に、江戸の浅草・駒形(こまかた)で眼鏡屋〔信濃屋〕文七という店を出していたのが〔稲熊〕の音右衛門です。
〔信濃屋〕という屋号なので、信州の出身とばかりおもっていたところ、『大日本地名辞書』に、三河国額田郡の〔稲熊〕と稲熊神社が載っていました。
稲熊神社は稲前神社の誤記なんですね。
さほど貧しくはない稲熊村育ちのため、本格派でとおしていたのでしょう。

長谷川平蔵とほぼ時代に佐渡奉行、勘定奉行、町奉行を歴任した根岸鎮衛の随筆集『耳袋』や、北九州の殿様・松浦静山の『甲子夜話』にしても、狐憑きをはじめとして妖怪変化の話が多く書きしるされている。
池波さんがその種の話を信じていたとは思わないが、江戸気分を出すために、ときどき、採りあげた。これはその一編。

宮部みゆきさんは、根岸鎮衛『耳袋』を愛読しているという。
平岩弓枝さんの『はやぶさ新八ご用帳』シリーズの新八の上司は根岸肥前守鎮衛である。

2005年12月5日(月)取材リポート

岡崎市役所観光課 鈴木さんのリポートに、「稲前(いなさき)神社 稲熊町へ入り、伊賀川をわたると前方に小高い森が見えます。神社の森です」とあった。
市の北---足助へいたる街道筋の「大樹寺前停留所」から、寒風の中を、片側3車線と巾の広い環状道路にそって東へ2キロ歩く。
環状道路はバイパスでもあるのか、すごい数のトラック群が飛ばす。
道は、岡崎の市名の「岡」の部分をつなげるような、ゆるやかな起伏にそって敷設されている。

長い石段の参道の右手に、「稲前神社」と石碑が建っている。
『街ごとまっぷ ニューエスト23 愛知県都市地図』(昭文社2004.1 3版2刷)では、「稲荷神社」と印刷されている。「前」を「荷」と早合点したらしい。
1112
石碑には「稲前神社」と刻まれている

いや、大樹寺に近い鴨田交番が備ている番地入りの大区分地図も「稲荷神社」と誤植していた。こちらは番地まで誤植。正しくは、「稲熊字森下6」。
1113
稲前(いなくま)神社の拝殿

市役所の鈴木さんの「稲前(いなさき)神社」も、交番備えつけの電話帳の「稲前(いなまえ)神社」も正しくはなかった。
拝殿下に置かれている由緒掲示板には、「稲前(いなくま)神社」とルビがふられていた。社務所も神職の住まいも閉まっていて無人だったから、問い合わすことができなかったが。
ここは、名鉄バスの路線から外れているから、市役所も交番も確認していなかったのかも。

| | コメント (6)

2004.12.29

〔布目(ぬのめ)〕の半太郎

『鬼平犯科帳』文庫巻14の[尻毛の長右衛門]配下の連絡(つなぎ)役。
本所吉田町2丁目の薬種問屋〔橋本屋〕へ引き込みに入っているおすみの恋人。
(参照: 〔尻毛〕の長右衛門の項)
(参照: 引き込み女おすみの項)
いまの住いは、本所四ツ目橋をわたった百姓・為七の物置小屋。

214

年齢28歳。
生国:越中(えっちゅう)国婦負郡(ねいごおり)布目(ぬのめ)村(現・冨山県冨山市布目)

探索の発端:薬種問屋〔橋本屋〕へ引き込みに入っていた19歳のおすみの母親お新も女賊だった。亭主が死んだあと、〔尻毛〕の長右衛門のものとなったが、おすみが12歳のときに病死してしまった。おすみはしばらく長右衛門に養われていたが、その後、みずからすすんで引き込みを買ってでた。

薬種問屋〔橋本屋〕へ入っても、金蔵の錠前の蝋型もとっているし、屋敷内の間取りから家族・奉公人のあれこれまでしっかりと調べ、それを〔布目〕の半太郎に伝えていたのはいいが、生娘の体を法恩寺裏の林で自分から誘いをかけて半太郎に与えていた。

そのおすみが、女密偵おまさに見つかった。
お新の亭主の市之助が亡父の忠助と親しかったので、母親そっくりのおすみをみて、見当をつけたのだ。

結末:おすみから半太郎、深川清澄町の霊雲門前に近い釣道具屋〔利根屋〕---〔尻毛〕一味の盗人宿---とたぐられて、〔蓑火〕ゆずりの本格派の長右衛門は、いさぎよくお縄をうけた。

つぶやき:一方の半太郎である。
父親〔布目〕の伊助ともども、本格派の大盗〔蓑火〕の喜之助の薫陶をうけてこの道をきわめていた。血をみるおつとめに嫌気がさして、こちらも、〔蓑火〕ゆずりの長右衛門一味を頼った。
それはよかったのだが、お頭が30余歳も年下のおすみを後添えにしたいといいだした。

いたたまれず、上州・妙義山の笠町で小さな旅籠〔駒屋〕をやっている万吉をたよって江戸を出ようとして、両国橋の上で、薩摩藩士ともめごとをおこして惨殺された。

本格派が滅びつつあった時代の一つの象徴のような末路といえようか。
(参照: 〔蓑火(みのひ)〕の喜之助 の項)
(参照:〔尻毛〕の長右衛門の右腕 〔藤坂(ふじさか)〕の重兵衛 の項)

ついでにひと言。布目村は沼地の多い草付の地であったが、寛永(1624-43)のころ、牛ケ首用水の開削で新田がつくられた。用水の名前のゆえんは、工事の着工にあたり牛の首をささげて無事を祈念したことによるという。

参考:布目は、富山市のほか、新湊市、上新川郡大山町と、福井県坂井郡に2件、新潟県西と北の蒲原郡に2件、山形県の鶴岡市と酒田市に各1件。冨山市布目ときめていいか決断を要するところだが、冨山市の観光課からいち早くデータがとどいたので、同市の観光資源になればと。

同市布目のURLは、
http://www.fitweb.or.jp/~nunome/

| | コメント (13) | トラックバック (0)

2004.12.28

〔野見(のみ)〕の勝平

『鬼平犯科帳』文庫巻6の[剣客]に名前だけが出る首領。駿河・遠江を荒らしまわっていた。
女賊時代のおまさが、1年ほど引き込みをつとめたことがある。

206

年齢・容姿:不明。記述されていない。
生国:尾張(おわり)国碧海郡(あおみごおり)野見(のみ)村(現・愛知県豊田市野見町)

探索の発端:逮捕されたのは、〔野見〕の勝平の配下の〔滝尻(たきじり)〕の定七(30男)と千住大橋の南詰の山王権現の脇で足袋職人をしていた留吉(50がらみ)である。
(参照: 〔滝尻〕の定七の項)
おまさが〔滝尻〕の定七を見かけたのが逮捕の発端となった。
(参照: 女密偵おまさの項)

つぶやき:おまさが〔野見〕の勝平のところで引き込みをしていた時期を、HP[『鬼平犯科帳』の彩色『江戸名所図会』]の[参考データ]「おまさの年譜」では、産んだ女児を亡父の郷里の佐倉へ預けたころと推定している。そのころ、おまさ23歳。
〔乙畑〕の源八のところから〔狐火〕の勇五郎へ移籍、その息子の又太郎を男にしてやり、それがバレて〔狐火}一味から追放されたのはその前。
いずれにしても、おまさの経歴にはつじつまのあわないところがある。池波さんがもし、おまさの年譜をつくっていたのなら、ぜひ、見たいものだ。

野見についての愛知県豊田市在住 宇野 さんからの連絡---
1956年(昭和31)9月30日 (昭和28年)に新制定された「町村合併促進法」に基づき、野見を含む高橋村が愛知県挙母市へ合併。
1959年(昭和34)1月1日 挙母市から豊田市へ市名変更。野見は「野見町」として豊田市に現存。野見町の人口は 805人(2002年11月1日現在)。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.12.27

法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻4の[おみね徳次郎]の女賊おみねのお頭。
上総(かずさ)、下総(しもうさ)がおつとめのテリトリー。
(参照: 女賊おみねの項)

204

年齢・容姿:60がらみ。でっぷりと肥えた、おだやかな老顔。
生国:栃木県足利市の城山南麓に法楽寺(禅宗)があり、あたりが法楽寺の里。

探索の発端:女密偵おまさが、四谷・舟町の全勝寺の前で、幼馴染みで女賊おみねと出会い、おみねがいま同棲している徳次郎のことを惚気(のろけ)たことから、狙いがつけられた。
(参照: 女密偵おまさの項)
おみねのお頭〔法楽寺〕の直右衛門には、おまさの父親・〔鶴(たづがね)〕の忠助が一味に加わっていたこともあり、忠助の歿後、おまさは〔法楽寺〕の手配で〔乙畑〕の源八一味へつけられた。
(参照: 〔鶴(たずがね)〕の忠助 の項)
(参照: 〔乙畑〕の源八の項)

結末:おみねが、一味の盗人宿である千駄ヶ谷の仙寿院(日蓮宗)の門前茶店〔蓑安〕の店主〔名草〕の嘉平を訪れ、そこへ〔法楽寺〕の直右衛門が早めに上府してき、新堀川端の浄念寺(浄土宗)門前の茶屋で盗人宿の〔ひしや〕へ入ったところを、一味5名もろともに捕らえられた。
〔鶴〕の忠助が配下になったぐらいだから、本格派のおつとめだが、重ねてきた罪状からいって死罪はまぬがれないところ。
しかし、おみねだけはおまさの懇願で釈放されている。
(参照;〔名草(なぐさ)の嘉平の項)
(参照:女賊おみねの項)

つぶやき:〔法楽寺〕は、池波さんが盗人に「通り名」をつけるときにいつも参照していた吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治38年-)に、
法楽寺(摂津・田辺)
法楽寺(播磨)
法楽寺(上野・足利郡)
903
明治20年(1887)ごろの足利市とその近郊

『蝶の戦記』(文春文庫)には、北近江(滋賀県東浅井郡浅井町)の法楽寺も登場する。

904
明治20年(1887)ごろの北近江・小谷山近辺

茶店の亭主・嘉平の〔名草〕が決め手となった。足利市の北に「名草」という山間(やまあい)の里がある。
また、〔法楽寺〕の直右衛門がつかまったのちの吟味で、上総・下総に潜んでいた一味22名もそれぞれ逮捕されている。

〔法楽寺〕の直右衛門がおまさを預けた〔乙畑〕の源八も、どうやら栃木県矢板市乙畑の出身らしい。

足利義氏の墓所でもある足利市の法楽寺を訪れた。
館林をすぎたあたりから車窓は一望、田圃で、むかしから豊かな農村地帯だったみたい。こんな土地でのびのびと育った〔法楽寺〕の直右衛門を〔鶴〕の忠助が信用してお頭と仰いだわけも、なんとなく納得がいく。
現実の法楽寺は、足利市駅から徒歩25分、本城山の東南麓にあり、中級武士たちの屋敷が建ち並んでいた雰囲気をのこした高台の地区で、きれいな疎水が流れていた。
9月初旬だったので、境内には赤萩がまっさかり。高台の下の平地は足利氏のころは農地だったのであろうか。

035
足利市本城山下の法楽寺

2001
法楽寺の内陣

池波さんは、いつ、足利義氏の墓所のあるこの寺の存在を知ったのだろう。
『蝶の戦記』の執筆中に、近江・浅井町の取材で見えおぼえた法楽寺村を脳裏にとどめて、上杉謙信がらみで『大日本地名辞書』で足利家の支配地を調べているうちに、引きあてたのかも……。
名草は、町営バスが昼間は3時間に1本間隔だったので、いつか自分の車で……と、断念。

| | コメント (6)

2004.12.26

〔赤観音〕の久兵衛


『鬼平犯科帳』文庫巻2[妖盗葵小僧]の副ストーリーに登場した一味。
凶悪な仕業を荒稼ぎする盗賊団の首領。

202

年齢・容姿:不明。記述がない。
生国:陸奥国白川郡薄木(現・福島県石川郡古殿町大字松川字薄木)
薄木の馬頭観音の俗称「赤観音」からとった「通り名」か。

探索の発端:1年がかりの探索---とあるだけで、どうやって端緒をつかみ、どう手配したか、まったく触れられていない。

結末:上州・高崎へ出張った鬼平に、7名が捕縛された。凶悪の一味とあるから獄門がふさわしい。

つぶやき:かつて開かれていた森下文化センター〔鬼平〕クラスに、会津若松から毎回受講にきていた熱心な婦人が、ぼくのHPの書き手の一人--[会津若松のおくまさん]だ(森下文化センターを本拠としている熱愛倶楽部とは別のクラス)。
郷土史の熱心な研究家で、独自にあれこれ調べていらっしゃる。

「福島県の石川郡に流鏑馬の町として知られる古殿町があります。そこは1994年に白川郡から石川郡へ変更となりましたが、塩の道といわれたいわきへ抜ける御斎所街道の途中に薄木地区といわれる集落があります。そこに赤観音があると聞きました。これって、[妖盗葵小僧]に顔見せする盗人の一人ですね。
赤観音はいいつたえによりますと、ここを通りかかった人の馬が崖下へ落ち、奇跡的に立ち上がりいなないたので、感謝して観音さまを彫らせたとのことです」

おくまさんのリポートである。

〔赤観音〕一味が御用となったのは、上州・高崎である。あのあたりにも、馬頭観音があったような記憶がある。あれは、〔赤観音〕とは呼ばれてはいなかったか。高崎あたりの鬼平ファンの方コメントからのいただきたいところ。


| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.12.25

〔雨乞(あまご)い〕庄右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻7に収録[雨乞い庄右衛門]の主役。
〔夜兎〕角右衛門に仕込まれた本格派。心臓に疾患がある。

207

年齢・容姿:58歳。6尺に近い大男。
生国:甲斐(かい)国山梨郡(やまなしこおり)横根村(現・山梨県南巨摩郡身延町横根中)

探索の発端:江戸・芝の浜松町の蝋燭問屋〔宮本屋〕方を襲って870余両を盗み、愛妾のお照と東海道・藤枝宿の北「下ノ郷村」の〔盗人宿〕に潜んだが、発病。
(参照: 女賊お照の項)

1002

005
藤枝市下之郷。町の中央部を南流する花倉川が葉梨川に合流する。金比羅社への山道から俯瞰

かつて父親と行ったことのある安部峠の駿河側・温泉場「梅ヶ島」へ、配下の〔勧行(かんぎょう)〕の定七に馬を曵かせて湯治におもむいた。
(参照: 〔勘行〕に定七の項)

003
雨にけむる現代の梅ケ島温泉

病状は一進一退だったが、3年目のこんどは、自分でも快癒とおもうほどに回復したので、妾のお照の待つ江戸で一仕事すべく、東海道をくだっているとき、平塚宿で配下に殺されかかったのを岸井左馬之助に助けられた。


結末:六郷の渡し舟が岸を離れてすぐ、心臓発作で苦しみ、左馬之助の手の中で絶命した。
そのいまわのきわに、お照の住いを告げたが、若い伊太郎とできたお照は、参謀格の〔鷺田(さぎた)〕半兵衛に粛清されてしまっていた。
(参照: 〔鷺田〕半兵衛の項)

つぶやき:〔雨乞〕の名のついた山はあちこちにあるが、庄右衛門は甲斐の生まれだから、「通り名」は山梨県内にある雨乞岳(北巨摩郡白州町)からとったのであろう。
梅ヶ島の湯泉にむかしからの一軒だけの湯治宿だったという〔梅薫楼〕に一泊した。いまは民宿などが10数軒ある。
宿の主人によると、梅ヶ島の湯は、武田軍の傷病兵の湯治場のひとつであったという。
池波さんは、30歳をすぎたのころ、武田軍と徳川軍の戦記を調べていて、ここの湯と安部峠に興味をもち、静岡からバスで4時間かけて温泉場へ到着、翌日峠越えして身延へ下りたとエッセイにある。
そのときの記憶がよみがえっての、[雨乞い庄右衛門]の創作につながったのであろう。

山梨県南巨摩郡身延町 商工観光担当 垣島さん・望月さんかの「横根中」についてのリポート

「横根」という地域は、江戸時代(1800年ごろ)には横根村、中村という形であったようですが、横根中村と呼ばれていたようです。現在は「横根」という地域はありません。「横根中」です。「横根」と略して呼ぶ人はいるかもしれませんが。身延町へ合併された経緯は、明治8年(1875)1月19日に、小田船原・門野・大城・相又・清子・横根中・光子沢が合併して豊岡村に。
昭和30年(1955)2月11日に、身延町・下山村・豊岡村・大河内村が合併して身延町となりました。横根中は身延町の南部に位置しています。
3001
身延山ロープウェイ(身延登山鉄道株式会社のリーフレットより)

温泉湯治の甲斐あった庄右衛門は、病いの小康をえるや、盗みの血やみがたく、江戸へ向う。
小田原で泊まった旅籠が宮ノ前の〔伊豆屋又八〕とある。
小田原で、旧東海道筋の宮ノ前を探索した。町名は消えていたが、松原神社がのこっていた。宮ノ前の町名のゆえんと思えた。

3012

リポートへのレス

[雨乞い庄右衛門]に、梅ヶ島(静岡市)温泉で療養している庄右衛門の生地は「梅ヶ島から安部峠をこえて甲斐の国へ入り、富士川へ下ったところの横根村」とありましたが、現代の地図には「横根中」しか載っていないので、不審におもっていたのです。
お蔭さまで、よくわかりました。
1001
梅ヶ島からけわしい安部峠をこえたところが身延町ですね。
ついでですが、〔雨乞〕庄右衛門の呼び名の〔雨乞〕は山梨県北巨摩郡白州(はくしゅう)町の管内の雨乞岳から、池波さんが借用したのでしょうね。

おまけ:
梅ヶ島でずっとつづいている湯治宿〔梅薫楼〕のもう一つの名物・薄衣弁天像。

S_2

薄衣のすその奥に、もう一つの弁天さんが見えると、男女浴客がうれしがって浄財を寄進。
なんでも、江の島にあった弁天像とか。

| | コメント (12)

2004.12.24

〔瀬音(せのと)〕の小兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻5に収録の[女賊(おんなぞく)]に登場した元お頭。
引退前は、上方から三河、遠江、江戸へかけて、同業の仲間うちでは知られた大泥棒だった。

205

年齢・容姿:60すぎ。小柄で痩せこけてはいるが、皺をとれば、まるで生まれたばかりの赤ん坊のような顔。
生国:近江(おうみ)国甲賀郡(こうかごおり)瀬音(せのおと)の里(現・滋賀県甲賀市瀬音)

探索の発端:養子に出した息子・幸太郎が、女賊〔猿塚(さるつか)〕のお千代に取り込まれていると知った元盗人の首領〔瀬音(せのと)〕の小兵衛は、死に水をとってもらうつもりで金をあずけていた東海道・岡部宿の小間物屋〔川口屋〕の寡婦おすみから、作り話で20両を引き出し、江戸へ。
(参照: 〔猿塚〕のお千代の項)
浅草寺の境内で女密偵おまさに出会い、事情を打ち明けて助力をもとめた。
(参照: 女密偵おまさの項)
〔猿塚〕のお千代一味を捕えられるとかんがえたおまさは、事情を鬼平に報告、ひそかに探索に入った。
お千代と幸太郎の逢引きの場所、池之端の出会茶屋を見張っていて、ついに〔猿塚〕の本拠をさぐりだした。お千代は金杉水道町は牛天神下の菓子舗〔井筒屋〕へ後妻というふれこみで入り込み、老齢の父親が死ぬと、そこを盗みばたらきの根城にしていたのだ。

結末:幸太郎が手代をつとめている橘町の乾物問屋〔大坂屋〕の間どりなどの仔細を聞きだすためのお千代の色じかけだったが、一味が火盗改メのお縄にかかる前に、〔猿塚〕のお千代は自裁していた。

つぶやき:池波忍者ものの舞台---甲賀の地図を見ていて、土山町に「瀬音」という里を発見。さっそく町役場(現・土山地区役場)へ電話を入れたら----、
「地元では、(せのおと)とか(せおと)と呼んでいますが---」

池波さんが、甲賀忍者ものの取材で、何度もこのあたりを取材したことはまぎれもないこと。とうぜん、「瀬音」の里名も目にしたろう。
しかし、この里名が、明治中期に「音羽野」と「一之瀬」という二つの部落が合併して生まれた村名だったことまでご存じだったかどうか。

2004年10月1日に、土山町、水口町、甲賀町、甲南町、信楽町が合併して甲賀市となったので、いまは甲賀市瀬音。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2004.12.23

〔海老坂(えびさか)の与兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻1の[浅草御厩河岸]に登場する本格派のお頭。

201

年齢・容姿:50がらみ。でっぷりと肥えている。
生国:大坂。ただし、出自は「通り名」にしている越中(えっちゅう)国射水郡(いみずこおり)海老坂村(冨山県高岡市の海老坂)
1351
高岡市から万葉ラインに海老坂(高岡市のリーフより)

探索の発端:「御厩の渡し」のある三好町で小さな居酒屋をやっている豆岩を訪ねてたきた老爺が、かつてのよしみだからといって、巨盗の名門〔海老坂〕の与兵衛のつとめを手伝わないかと誘った。
老爺は、福富町の浄念寺の寺男となって身を隠している彦蔵であった。

いまは火盗改メの密偵(いぬ)である豆岩としては、願ってもない探索の手ずる---と肯首はしたものの、三代もつづいて首領をやっている〔海老坂〕の与兵衛に会うと、その貫禄と信頼感にたちまち魅了されてしまい、密告(ち)くるどころではなくなった。

結末:けっきょく豆岩は、長谷川組に借りだされた与力・佐嶋忠介へあてた手紙を残し、一家で夜逃げ。〔海老坂〕与兵衛一味は、豆岩の密告文によって逮捕された。
処刑のことは書かれてはいないが、これまで盗んだ金額が金額だから、全員死罪になったろう。10両盗めば打ち首という時代であった。

つぶやき:〔海老坂〕の与兵衛は、『鬼平犯科帳』に登場する、数少ない本格派盗賊の一人である。『鬼平犯科帳』は、本格派盗賊への挽歌ともいえる小説なのだ。
と同時に、『オール讀物』1967年12月号に単独短篇として掲載されたこの篇が呼び水となって、翌新年号からシリーズ『鬼平犯科帳』の連載が始まったのだから、記念すべき好篇でもある。
豪華客船〔飛鳥〕の船客となって、東京港から神戸、唐津、屋久島、釜山を遊覧、冨山県の伏木港で下船したことがある。海老坂は伏木のすぐ西、高岡から氷見(ひみ)への中間にある。

もっとも、〔海老坂〕一家は、越中から出で、大坂に居をかまえていたのだが。


朝日CC[鬼平]クラス 河内三郎さんのリポート

海老坂村(現:高岡市 東、西 海老坂)富山平野、庄内の西側で、伏木港と守山町の中間の丘陵部、高岡市では西北部、小矢部川左岸より二上丘陵地帯にかけてひろがる地域です。
北にあたる氷見方面へ向かう海老坂峠は難所として知られています。
海老坂村は、近世初頭、東海老坂村と西海老坂村に分村、明治22年(1889)に射水郡守山村、須田村、五十里村、東海老坂村、西海老坂村が合併して守山村となり、昭和17年(1942)年に高岡市へ編入。
土地の大半を山林が占め、田畑は全体の3割程度。農林業が主体で、明治初頭には養蚕業が盛んになりました。
地勢としては、関西圏、京・大坂の文化圏です。
〔海老坂〕の与兵衛
・盗賊の首領で50歳前後。文中に「越中の生まれ」とあり、〔海老坂〕の通り名から、射水郡海老坂村の出身とかんがえられます。
・盗賊の家系で、3代目といいますから、盗賊界の名門の出ですね。
・大盗賊の理想をつらぬき通した人物で、真の盗賊の3ヵ条を金科玉条として守りました。
・部下思いで、計画はまことに綿密で、実行者(配下)もその妙味にほれこむほどでした。
・度量は大きく金払いがよいので、配下に慕われました。
・一度引退して足を洗ったにもかかわらず、余生を送るための金のため、改めての計画で失敗します。
私の評価・しょせん、現場の職長クラスかな、と。
・配下を信頼するあまり、部下も自分を信頼としているのはどんなものでしょう?
・過去の実績に自分自身が酔い、老齢になっていることを忘れたようですね。
・過去のお勤めの中心は関西だったはずで、関東(江戸)とは縁が少なく、情報も多くはなかった点についての評価はどんなものでしょう?

| | コメント (2)

〔羽佐間(はざま)〕の文蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻4に収録[五年目の客]に遠州の大盗賊(おおもの)として名前だけ登場。

204

年齢・容貌:不詳。
生国:駿河国・志太郡羽佐間村(現・静岡県岡部町羽佐間)

探索の発端:じつは、大盗賊はこれまで、江戸ではおつとめをしていないので、長谷川組も手をつけていなかった。
ただ、〔小房〕の粂八が、〔野槌〕の弥兵衛の配下になる以前、3年がほど〔羽佐間〕一味にいたのだが、一味のあまりにも非道なつとめぶりに愛想がつきて、去った。
一味にいたときに見知った〔江口〕の音吉が、浅草・今戸橋を渡っているのを見かけて鬼平に告げ、同席していた岸井左馬之助が尾行して宿をつきとめ、逮捕のきっかけをつかむ。
音吉はなんと、泊まっていた東神田・下白壁町の旅籠〔丹後屋〕の女将お吉と船宿で密会をしていたのだ。

物語は、五年前にさかのぼる。
不幸せを絵に書いたような少女時代を送ったお吉は、品川宿の女郎屋〔百足(むかで)屋〕で売れない女郎をしていた。名古屋城下でのおつとめで分配金78両をふところにした〔羽佐間〕一味の〔江口〕の音吉が〔百足屋〕へあがり、たまたま相敵(あいかた)にでたお吉が、彼の胴巻から50両をくすねて逃亡。
その後の曲折を経て、〔丹後屋〕の女将におさまっていたところへ、偶然、音吉が宿泊客となって現れたので、てっきり、5年前の50両の始末をつけに来たとおもいあまっての、密会であった。

〔江口〕の音吉を糸口に、〔羽佐間〕一味の江戸での押し込み先をつかんだ長谷川組は、先行して一味を待ちかまえた。

結末:書かれてはいないが、、〔羽佐間〕文蔵以下、逮捕された一味10名は、これまでの血なまぐさい仕事ぶりから、いずれも獄門となったであろう。

つぶやき:〔江口〕の音吉との顛末をすべて白状したお吉へ、鬼平がいう。
「お前、夢を見ているのではないか----(略)。羽佐間一味の盗賊で、江口の音吉という悪党だぞ。(略)。そのような悪人と、丹波屋の女房が何らの関係(かかわりあい)のあるはずはない。な、そうであろうが----」

せっかくつかんだ幸せな生活を手放すまいと、音吉に体をまかせていたお吉の心根を、鬼平はやんわりと包んでやったのである。俗にいう、花も実もある鬼平の裁き----大岡越前t守や遠山の金さんの劇が、大向こうの受けをねらってよくやる名場面の再現といえそう。

羽佐間は、江戸期の地図で見ると、岡部宿から北へ31丁(3キロ強)、岡部川の上手の支流---桂川ぞいの60戸ほどの寒村とか。山と山の〔はざま〕のそんな村から、文蔵のような男が大盗賊(おおもの)に育っていった経過を、近いうちに「羽佐間」の地に立って、かんがえをめぐらせてみたい。

006
バス停の表示は「HASAMA」と濁らないが、バス運転手も車内アナウンスも「はざま」

013
羽佐間の家並み。南をのぞむ。東西と北はおろか、すぐ南にも山。町の中央を朝比奈川が貫流する。

014
西の小山。狭い山肌を開いて茶畑に

ちなみに、羽佐間村が岡部町へ併合されたのは明治22年(1889)のことで、静岡のSBS学苑〔鬼平〕クラスの中林さんの調べによると、土地では濁らないで、(はさま)と呼んでいると。

「羽佐間」についてリポートします。
     SBS学苑パルシェ(静岡)〔鬼平〕クラス 杉山幸雄

1401

〔羽佐間〕はその名のとおり、東西に山をいただく狭小な山あい(はざま)の地だが、明治22年(1889)に合併されて現在は岡部町の一画となっている。
徳川時代の当初は幕府の直轄領だったが、のち幕臣・大草主膳の知行地( 107石分)となった。
現在は戸数80余、人口 400人。
羽佐間は駿州だから、村をでて西隣の遠江一帯を稼ぎ場としていたことになっているが、池波さんは、どういう経緯でこの部落に目をつけたのか。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2004.12.22

〔馴馬(なれうま)〕の三蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻18の[馴馬の三蔵]に登場。

218

年齢・容姿:60近い。中肉中背。頭には白髪が混じっている。
生国:常陸国・稲敷郡 馴馬村(現・茨城県龍ヶ崎市馴馬町)

探索の発端:密偵で船宿〔鶴や〕をまかされている〔小房〕の粂八が、橋場の料亭〔万亀〕で、〔馴馬〕の三蔵をみかけた。

〔万亀〕の亭主は、〔瀬戸〕の万右衛門という盗賊で、十数年前、東海道・岡部宿で小間物屋をしていた三蔵の女房おみのと、粂八が預けた恋人お紋を惨殺していたのだ。粂八は、〔鮫津〕の市兵衛の仕業とばかりおもいこんでいたのだが。
女房の仇を討つつもりで〔万亀〕に忍びこんだ〔馴馬〕の三蔵だが、逆に用心棒の浪人に背中を刺されて、粂八に抱かれて息絶えた。

事件の結末:〔馴馬〕の三蔵夫婦と、お紋の仇とばかりに、粂八は、〔瀬戸〕の万右衛門の正体を鬼平に告げた。
火盗改メが〔万亀〕へ討ちこんで一味を捕獲したのは、翌朝であった。

つぶやき:深川・石島町の船宿〔鶴や〕をまかされて、女ッ気がないように見える〔小房〕の粂八にも、鮫津の香具師の元締の妾と「無我夢中の仲」となり、駆け落ちまでした過去があったなんて。
若いということは、思いもかけないようなことをしてのけられることでもあろうか。

いや、いまの粂八の奇妙なのは、19歳のとき、〔血頭〕の丹兵衛一味にいて、おつとめの先の下ばたらきの女に手をつけて破門されたほど女好きだったのに、いまは、妙に悟りすましていること。
(参照: 〔血頭〕の丹兵衛の項)

茨城県 龍ヶ崎市市役所商工観光課 観光物産係 青山 さんからの連絡---
明治22年、「馴馬(なれうま)村」と「若柴(わかしば)村」が合併して「馴芝(なれしば)村」となりました。
昭和28年、「馴芝村」は龍ヶ崎市へ併合。
市の北部に位置している馴馬集落は、比較的古い集落で、1402年の文書に記述があります。
来迎院(らいこういん)と日枝(ひえ)神社という古い史跡もあります。
また、馴馬城跡もあり、南北朝の時代には、存在していたそうです。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻18の[一寸の虫]に登場するお頭。
親の代からの本格派の盗賊。二代目。

218

年齢・容姿:52歳。でっぷりした躰つき。
生国:信濃国・長野(本妻が住んでいたことから推測)。

探索の発端:外堀ぞいの本銀町(もとしろがねまち)の〔橘屋〕の名代・薄焼せんべい〔加茂の月〕は、鬼平夫妻の好物の一つ。これを鬼平に教えたのは、若年寄・京極備前守高久(丹後・峰山藩主。1万1千余石)であった。
〔橘屋〕は、紀州家や加賀藩邸にも出入りを許されているほどの名菓子舗である。
その〔橘屋〕をうかがっていた初老の男に気づいた鬼平が、松永同心に尾行させたところ、湯島天神下の菓子舗〔柳屋〕へ入ったという。
で、柳屋を見張っていると、男は北品川1丁目の質店〔村田屋〕へ。さっそく、〔村田屋〕への見張所が設けられた。

事件の結末:その男---〔船影〕の忠兵衛一味が南茅場町の水油仲買商〔岡田屋〕へ押し入ろうとする直前に逮捕。忠兵衛は配下に一切の抵抗を禁じ、いさぎよくお縄をうけた。

鬼平の尋問にもすらすらと答えたところによると、長野の本妻が病死したとき、幼なかったむすめ・おみのを〔柳屋〕の養女にしてもらい、そこから〔橘屋〕のニ代目へと嫁がせていたのである。〔橘屋〕をうかがっていたのは、おみのと孫むすめをひと目見たかったからだった。

処刑は書かれてはいないが、死罪だったろう。

つぶやき:この篇は、じつは、〔船影〕の物語ではなく、かつて忠兵衛の配下だった密偵・仁三郎と、これも忠兵衛に追放された畜生ばたらきの盗人〔鹿谷(しかだに)〕の伴助の事件である(伴助は越前国・鹿谷村--現・勝山市鹿谷町の生まれか)。

ストーリーテリングに長けた池波さんは、二つの盗みばたらきのやり様を対比させて描くとともに、火盗改メの同心にも、報奨金目当てのおのれ中心の者がいることをからませた。

もちろん、主題は篇名にもなっている「一寸の虫にも、五分の魂」---15年前、若さゆえの不祥事をしでかして一味から追放されながらも、〔船影〕のお頭の本格派ぶりを慕いつづけていた仁三郎が、おみの夫婦をはじめ、幼ないむすめまで皆ごろしにして忠兵衛に復讐しようとした伴助を刺殺した心意気を伝えることにあった。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2004.12.21

〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻11の[穴]に登場。
かつての大泥棒〔帯川おびかわ)〕の源助の一の手下だった。
いまはお頭とともに引退し、京扇子店〔平野屋〕の番頭。

2111

年齢・風貌:40がらみ。糸瓜をおもわせる長い顔。
生国:遠江(とおとうみ)国磐田郡(いわたこおり)浅羽村馬伏塚(現・静岡県袋井市浅羽)。
(浅羽町は2005.04.01に袋井市と合併)。

探索の発端:西の久保の化粧品店の金蔵に、いつのまにか賊が入り、300余両が盗みとられ、しばらくして、藁づくりのネズミ2匹と川越産のさつまいもとともに、その全額が三方に載せられて、金蔵に戻っていた。
このあざやかな盗みの手口には、さすがの鬼平も犯人の見当がつかなかった。
ところが、老密偵〔舟形(ふなかた)〕の宗平が、深川の富岡八幡宮の境内で、近江の八日市の鍵師・助治郎に出会ったことから、探索の端緒がつかめた。
(参照: 鍵師(かぎし)の助治郎 の項

いまは足を洗い、〔平野屋〕の主人におさまっている〔帯川〕の源助と、番頭の茂兵衛のいたずらだったのである。
(参照: 〔帯川(おびかわ)〕の源助の項)

結末:70歳をすぎても、ときとして盗みの血がさわぐ〔平野屋〕源助のやむなきいたずらを、鬼平はとがめなかった。それよりも、源助・茂兵衛に密偵同様のはたらきをしてもらう利点のほうをとった。

つぶやき:警察大学校の校長をつとめた仲間のKさんによると、徳川幕府による刑罰の掟書きはきわめて少なく、警察官僚たちは、その隙間を埋めるようにして自分の裁量でことを処理できたという。

「馬伏塚」という城址を静岡県磐田郡浅羽町に見つけたときは、おもわず「やったぁ!」と声をあげた。
袋井駅前からバスで浅羽町役場へ。ここでできたばかりの『浅羽町史』を購入(5,000円)。
『町史』に、『馬伏塚城』の平面図が載っていたからである。
田圃の中のちょっとした丘---という城址に、武田軍の武将が守備していたことをしめすかのように、諏訪神社が祀られていたのが印象的だった。

018
馬伏塚城跡の標識

019
田圃の中にぽつんと馬伏塚城本丸跡

「馬伏」に、池波さんは(まぶせ)とルビをふっているが、地元では(まむし)と呼んでいる。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

〔手越(てごし)〕の平八

短篇[さいころ蟲]は、池波さんには初の博徒ものである。
昭和35年(1960)、『小説倶楽部』3月号が初出。
[錯乱](『オール讀物』)で直木賞を受ける前月の号である。
2年後の)、『小説倶楽部』5月号[盗賊の宿]にも〔手越〕の平八が顔を見せている。
両篇ともに『あばれ狼』 (新潮文庫)に収録。

年齢:27歳。[盗賊の宿]では、苦味ばしった浅黒い顔。
生国:駿河(するが)国有渡郡(ゆうとこおり)手越(現・静岡県静岡市駿河区手越)

探索の発端:一宿一飯の義理で、野州・真岡一帯を牛頭じる小栗一家の親分・伝吉を暗殺した〔手越〕の平八は、妙なことから、やはり、ひとり旅の老博徒、〔前砂(まいすな)〕の甚五郎と、山間の温泉で傷がなおるのを待っている。
甚五郎は、隙をみて、平八の首を小栗一家へとどけるつもりでいるのだ。

その2人の会話----。
「平八どんの在所は、手越だったな」
「うむ----」
「東海道のか----」
「府中の一寸先だよ」
「ふうん----」

つぶやき:手越は、安倍川下流の右岸にあり、いまは、静岡市に組み入れられている。下りの新幹線が静岡駅を出てすぐにわたる川が安倍川。その川上に扇をいくつも並べたような欄干の橋が望める。旧東海道にかかるその橋の西詰が手越である。

008
安倍川にかかる駿河大橋から上流をのぞむ。鉄橋は旧東海道の駿府(静岡)と西側右岸の手越をむすんでいる。鉄橋の西詰(写真左)が手越

ヒントは「東海道」。
「府中」はいたるところにあるが、「東海道」とあるから「駿府(静岡市)」も有力候補となる。
池波さんは、[さいころ蟲]を書く5年前に、静岡から安倍川を遡行して安部峠を徒歩で越えている。
手越は、そのときに見知った町名かも。

で、岸井良衛さんの『五街道細見』(青蛙房)でたしかめた。
この本は、時代ものを精読するには、離せない。

ついでにいうと、甚五郎老人の〔前砂〕は、中仙道の鴻巣(こうのす)の先だが、地元では(まえすな)と呼んでいると、朝日CC〔鬼平〕クラスでいっしょに学んでいる〔上尾宿〕のくまごろうさんがしらべた。
前掲『五街道細見』は(まいすな)とルビをふっているから、池波さんはこれによったのであろう。
岸井さんが(まいすな)とした根拠は未調査。

〔前砂(まいすな)〕という「通り名(または呼び名)」を持つ盗人は、『鬼平犯科帳』文庫巻1[老盗の夢]にも登場する。もっともこちらは、〔前砂〕の捨吉といい、巨盗〔夜兎〕の角右衛門の配下で、元鳥越の松寿院の門前で花屋の亭主をしている。この花屋は、もちろん、〔夜兎〕の盗人宿である。

松寿院という寺は、元鳥越にはない。あるのは、寿松院。
松寿院は、執筆時に池波さんが手離したことのない切絵図、近江屋板の誤植をそのまま写したにすぎない。


もう一人は、[正月四日の客(角川文庫『にっぽん怪盗伝に収録)に出てくる〔前砂〕の甚七。大盗〔亀〕の小五郎の配下で、向島・源森川に近い常泉寺の寺男に化けていた。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2004.12.20

〔伊砂(いすが)〕の善八

『鬼平犯科帳』文庫巻3の[盗法秘伝]に登場するネアカの独りばたらき。

203

年齢・容貌: 65歳。背丈ばかりか、顔もへちまのようにひょろりと長い。
生国: 遠江(とおとうみ)国天竜川の上流、伊砂村(現・静岡県浜松市伊砂)
池波さんは伊砂(いすが)とルビをふっているが、『旧高旧領』のルビは(いすか)とにごらない。もっとも、江戸期の書き物は、往々にして濁点を付さないが。
地元の鬼平ファンのご意見がほしいところ。
(「伊砂」は天竜市にあったが、天竜市が2005.07.01に浜松市に合併)。
12110
明治20年頃の湖北。赤印は、浜松市に編入された天竜地区の上から伊砂、舟明(ふなぎら)、二股

探索の発端:東海道の3つの難所の一つ---宇津谷峠を岡部宿の側へ下っていた鬼平は、乱暴をされていた若いカップルを助けた。
それを見ていた、独りばたらきの盗人、〔伊砂(いすが)〕の善八に男惚れされ、後継者に見立てられて「盗法秘伝」をゆずるといい、見付宿の多門小路の奥の醸造所〔升屋〕へ忍びこんだ。

_360_8
(東海道筋の歩道に埋めこまれている多門小路への標板)

結末:善八の盗みの手伝いをさせられた鬼平だが、正体をあかした上で「二度とおれの前に姿を見せるな」と、見逃す。

つぶやき:「伊砂(いすが)」は、実在の地名。現在は天竜市に含まれているが、天竜川ぞいで、伊須賀ともいった小さな貧しい村だった。

003
天竜市の伊砂橋。天竜川左岸の船明(ふなぎら)とを結ぶ橋。

池波さんは、武田軍と徳川軍の戦記をしらべていて、二股城の攻防の地図を眺めているうちに、伊砂の村の存在を知ったのだろう。

テレビでは、〔伊砂〕の善八をフランキー堺が演じたが、その飄々とした芸風がなんともいえないいい味をだしている。

司馬遼太郎さん[箱根の坂](講談社文庫)にこんな文章があった。

 川は、土砂を流す。犬が尻尾をふるように、古代に河道があちこちに変ったために、このあたりには砂地が多い。砂地は水田にならない。そういう役立たずの砂地のことを、古代では、
「スカ」あるいは、スガといった。早雲の時代でも,なお使われている。それが地名になって、菅とか須賀といった漢字があてられている………。

天竜の「伊砂」はもと「伊須賀」の字をあてられたとも文献にあり、「砂」という字のままになっている僅少の例であろうか。それにしても、「伊砂(いすが)」と濁らせた池波さんの知識もたいしたものといえそう。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

〔五十海(いかるみ)〕の権平

『鬼平犯科帳』文庫巻1の[座頭と猿]のサブ・ストーリーに登場する凶悪な盗人。

年齢・容貌:記述がない。
生国:駿河(するが)国志太郡(したこおり)藤枝宿五十海(いかるみ)村(現・静岡県藤枝市五十海)

探索の発端:記述がない。いきなり捕縛される。

結末:一味の8名、品川の刑場で磔(はりつけ)---というから、 盗みにとどまらず、殺傷をおかしていたのだろう。

002

つぶやき:五十海村の村名の由来は、葉梨川と朝比奈川の分流と瀬戸川の分流の合流点にあたっており、増水期には、しばしば、怒ったように氾濫したからという。
凶悪な賊の「通り名」にふさわしいと池波さんはかんがえた。
が、いつ、どうして、この村名を知ったかは、不明。
若いころに、この地を取材して知ったのだろう。

藤沢駅から真北に町名として残っているが、それらにしいものが見あたらなかったので、バス停を写した。

池波さんは、藤枝に深い関心があった。
『仕掛人・藤枝梅安』シリーズのヒーロー、梅安も藤枝宿の生まれである。
東海道ぞいの神明宮の鳥居の脇に茂っていた榎の巨樹の下の桶職の家に生まれた---と書かれている。
幕府道中奉行製作『東海道分間延絵図』の藤枝宿には、たしかに、神明宮の鳥居のかたわらに、なにかの大樹があると記されている。
ルーペでたしかめたら、榎樹ではなく、銀杏とあった。

「五十海」についてのリポート
     SBS学苑パルシェ(静岡)〔鬼平〕クラス 杉山幸雄

 〔五十海(いかるみ)〕の権平

参考史料
『修訂駿河国新風土記』 国書刊行会
『藤枝市史 資料編3 近世』付録絵図
『郷土史料事典22 静岡県』人文社
『焼津・藤枝・島田・志太・榛原歴史散歩』 静岡新聞社
『第5回企画展藤枝大祭』藤枝市郷土博物館
『藤枝町史』
『ふるさと百科 藤枝事典』国書刊行会
『志太郡朝比奈村誌』
『静岡県勢要覧』県企画部高度情報総室

1401

藤枝宿は、慶長 6年(1601)関ヶ原の翌年、品川から22番目、東は岡部宿へ 1里26町(約6,839m)、西は島田宿へ 2里 8町(約8,874m)の宿場として設営された。
特徴は、志太・益津両郡内の8カ村が、親村に属しながら一部を宿場のたろ
めに割いて宿域をつくったことである。
8カ村の一……五十海(いかるみ)村の周辺は、古代には葉梨川と朝比奈川の分流、または瀬戸川の分流などが合流する地点なので、大雨のたびに氾濫したらしい。その氾濫する水のさまが「怒る水(いかるみ)」という地名となった。
近くの「押切」という地名も、川に押し切られて氾濫したことを物語っている。
微高地に鎮座する原木神社と八坂神社は、ともに葉梨川を鎮めることを願って祀られた。


ミク友の〔あい〕さんのりポート

こんばんは。祖父から返事を貰ったので、書きますね。

五十海は、藤枝の宿駅になく、助郷村でした。
藤枝町は、東海道沿いにある六ヶ村で、構成され、 町外の48村は定められた助郷村であり、参勤交代時や、
使節の上京時等、公用の人手が必要な時に領主から、 人や資材が駆り出されました。
助郷村でも、村内から採れる米は年貢米として 強制的に納められ、五十海村は検地の結果、 総高336石を割り当てられました。
助郷村の場合、村の収穫一石につき、二人6分9厘分を を負担しなければならなかったらしく、農民の負担は
相当大きかったようです。
なお、田中藩の46000石分の336石の米しか取れない字に等しい面積なので、広さは容易に想像できると思います、
とのことです。

とりあえず、五十海はよくある農村だったみたいです。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

〔瀬戸川〕の源七

『鬼平犯科帳』文庫巻6に収録されている[狐火]に登場。
かつて、先代〔狐火〕の勇五郎の右腕だった盗賊。

206

年齢:60歳代か。
生国:駿河(するが)国志太郡(したこおり)藤枝宿を流れる瀬戸川ぞいのどこか(現・静岡県藤枝市の瀬戸川ぞい)

先代〔狐火〕の勇五郎が死去したとき、いちど、古里へ帰る。
(参照: 〔狐火(きつねび)〕の勇五郎 の項)
その後、中川ぞいの新宿(にいじゅく)の渡し口で茶店を開いている。

探索の発端:松戸からの帰路、女密偵おまさが見かけた。
(参照: 女密偵おまさの項)

結末:すでに、盗人を廃業しているので、おめこぼし。

001
写真:岡部川が合流して、水量が見える河口近くの瀬戸川

つぶやき:
2003年の秋に行ったときは、藤枝市の旧東海道のあたりには、まったく水がながれていなくて、焼津市との境あたりで、やっと水面を見ることができた。
〔瀬戸川〕のとっつぁんも、干上がっちまったもんだぜ」と、ジョウダンが口から飛び出した。
なんでも、農業用水、生活用水として取り込まれてしまっているんだとか。ほんとかねえ?

_up
水量はともかく、瀬戸川 中央=赤○は、長谷川家ゆかりの田中城(藤枝市 上=赤○)と小川(こがわ・焼津市 下=赤○)の間を貫流している。


| | コメント (4) | トラックバック (1)

トップページ | 2005年1月 »