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2005年1月の記事

2005.01.31

浪人・近藤勘四郎

『鬼平犯科帳』文庫巻3---『オール讀物』へ連載が始まって1年9カ月目に発表された篇。初めて奥方・久栄が主役をはるとともに、その過去があきらかにされる。久栄の過去にかかわっていたのが、旗本(250石)の近藤家の嫡男・勘四郎だったが、24年前、久栄も家や両親をも捨て、吉原遊郭で金を奪ったうえに殺傷を行い、遊女と駆け落ちした。

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年齢・容姿:このとき---寛政5年(1793)、40代半ば。みにくく肥え、あぶらの浮いて酒光りのした顔貌。往年のすっきりした美男の面影はどこにもない。
生国:]武蔵野国江戸・本所(現・東京都墨田区緑4丁目)。

探索の発端:鬼平が一時、火盗改メの任を解かれ、京都へ亡父の墓参へ出かけてい、目白台の留守宅を守っていた久栄のもとへ、文がとどいた。
かつて、17歳だった久栄の乙女の証しを奪って捨てた、旗本の嫡男・近藤勘四郎からのものであった。
指定の茶屋へ出向いた久栄(41歳)は、勘四郎にきつい言葉を投げつけ帰るが、それは久栄をおびきだしておいて、養女のお順(6歳)を誘拐さるための罠だった。

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(護国寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
久栄は護国寺前の子育稲荷脇の茶店へ呼びだされた。

知らせをうけた与力・佐嶋忠介以下が、中間の鶴造がたしかめてきた勘四郎の隠れ家を襲う。そこにはお順も隠されていた。

結末:近藤勘四郎は磔刑。

つぶやき:この篇には2カ所の読みごたえシーンがある。
その1.近藤勘四郎にギスものにされた久栄との初夜のこと、

 久栄が両手をつき、平蔵に問うた。 
「このような女でも、ほんとうに、よろしいのでございますか---」
「このような女とは、どのような女なのだ?」
「あの、私のことを----」
「きいたが、わすれた」

今日のように、ヴァージニティがはすやばやと喪われる時代、若い人たちには、このような会話の価値は認められないのかもしれないが---。

近藤勘四郎をぴしゃりと拒絶した久栄のやりようを聞いた鬼平が、

「怒るな。いやみを申したのではない」
「申しあげまする」
「何じゃ?」
「女は、男しだいにございます」

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2005.01.30

〔霧(なご)〕の七郎

『鬼平犯科帳』文庫巻4に収録の[霧の七郎]のほか、巻3[むかしの男]、巻5[山吹屋お勝]にも登場する、盗賊団の首領。

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年齢・容姿:[[山吹屋お勝]のとき、41歳。でっぷりとした躰つきの大男で、おだやかそうな風体。
生国:武蔵(むさし)国江戸・深川
父親は、深川・亀久橋たもとの船宿〔みのや〕の船頭だった。

探索の端緒:15年前の恋仲だった〔山吹屋〕のお勝ことおしのとともに姿を消す〔関宿〕の利八(43歳)が、武州・桶川の休み茶屋〔飯野や〕の若い者(の)にことずけた手紙で、〔霧〕の七郎の所在が知れた。
駒込片町の数珠屋〔油屋〕がそれであった。
(参照: 〔山吹屋(やまぶきや)お勝 の項)
(参照: 〔関宿(せきやど)の利八 の項)

〔蓑火〕の喜之助が老齢を理由に、一味を解散したあと、おしのは〔霧〕の一味に身を寄せていたのである。
(参照: 〔蓑火(みのひ)の喜之助 の項〕)

そして、鬼平の実母の巣鴨の実家で、従兄の三沢仙右衛門をたらしこんで家に入り込んだ上で〔霧〕の一味を手引きし、一家を皆殺しにして鬼平を苦しめる計画であった。
というのも、〔霧〕の七郎は、さきに鬼平によって処刑された〔小川や〕梅吉の実弟であり、[むかしの男]事件で捕まり島送りになった老婆おすえは義母であっために、復讐の機を狙っていたのである。
(参照: 〔小川や〕梅吉の項)

結末:駒込片町の〔油屋〕で捕まったのは、〔霧〕の七郎ほか5人。七郎は過去に殺傷の罪状が幾度もあったとが発覚し、獄門。ほかの者は死罪。

つぶやき:稼ぎ場所の中国筋では名が知られていた〔霧〕の七郎だったが、実兄の〔小川や〕梅吉の仇をとるべく入府して幾度となく鬼平の命を狙うがことごとく失敗しているのは、この盗人の計画がどことなく甘かったからのように見える。
やはり、田舎では通用しても、鬼平組のほうが1枚も2枚も役者が上ということであろう。
ことに、鬼平の奥方・久栄のかつての恋人・近藤勘四郎を使ったり、剣客浪人・上杉周太郎を雇ったりは、いかにも人品を見きわめる眼が甘い、としかいいようがない。
おしのには、躰の関係をつけていたのであろうか。もしそうなら首領として、手なずけ方も甘かったのでは?

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2005.01.29

〔関宿(せきやど)〕の利八

『鬼平犯科帳』文庫巻5に所載の[山吹屋お勝]で、鬼平の意をくんで、お勝の素性を探りに来て、駆け落ちしてしまう。

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年齢・容姿:43歳。色白で、でっぷりとした躰つき。細い眼がやさしげで、なかなかに人品がよい。
生国:備後国福山(現・広島県福山市)の浪人の子として生まれたとというが、〔関宿(せきやど)〕を「通り名(呼び名)」にしているところをみると、生まれたか育ったのは下総国葛飾郡関宿(現・千葉県東葛飾郡関宿町)であろう。

探索の発端:といっても、属していた〔夜兎〕の角右衛門が、配下の不首尾のために一味を解体して自首して出たときに、ただ一人、お頭にしたがい、のち、火盗改メの密偵として、本所・横網町で〔玉川〕という小料理屋の亭主をして生計をたてていたから、当人の発端ではなく、〔山吹屋〕のお勝の素性調べの発端である。
お勝--おしのについては、
(参照: 〔山吹屋(やまぶきや)〕お勝 の項)
(参照: 〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門 の項)

お勝が、王子の料理屋〔山吹屋〕の茶屋女中にもぐりこみ、たぶらかして後妻の座を狙っている相手は、鬼平の従兄・三沢仙右衛門(55歳)である。
その人品を確かめに〔山吹屋〕へ出むいた鬼平が、かすかにこだわることになったのは、たわむれに掴んだ手首を、引かないで、逆に鬼平の鼻のほうへ押すようにして外したその手練であった。
その3日後、利八が〔山吹屋〕へやってきた。

結末:庭先の茶室めいた離れへ通った利八(触れ込みは湯島天神下の畳表問屋〔白子屋勘兵衛〕)に、酒を運んできたお勝(じつは、おしの)は、15年前に無理やり仲を引き裂かれた利八と見定め、燃え上がり、2人ともなにもかも捨てて駆け落ちするのだが、その途中で利八は、江戸へ潜入してきている盗賊〔霧(なご)〕の七郎の所在を手紙で鬼平へ知らせてき、捕物となった。
(参照: 〔霧(なご)の七郎 の項)

つぶやき:15年前に2人ができたのは、武州・岩槻の物持の家をねらって組んで仕事をしていた、思慮分別よりもまだ躰の方がが先行してしまう年齢利八が28歳、おしのが23歳のときだった。
2人の情事に気づいたのは、〔夜兎〕一味の家老格の〔前砂〕の捨蔵だったが、おしのは〔蓑火〕の喜之助に引き取られて1件は落着した。〔蓑火〕とすれば、利八を〔夜兎〕の一味へ送り込んだ手前もあったろう。
(参照: 〔蓑火(みのひ)の喜之助 の項〕)

当時、先代〔夜兎〕の時から大番頭として采配をふるっていた〔前砂〕の捨蔵とすれば、一味の内規を守りぬくのは当然のことだが、老いて、元鳥越の松寿院門前で一味の盗人宿の花屋の番人をしていた後年の温和さのかけらでもあったら、若い2人のその後は物語とは違ったものになっていたろう---などというのは、恋愛至上主義に毒された者のいいぐさである。
(参照: 〔前砂〕の捨蔵の項)

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2005.01.28

〔山吹屋(やまぶきや)〕お勝

『鬼平犯科帳』文庫巻5に収録の[山吹屋お勝]のヒロインで、いまは凶悪な大盗〔霧(なご)〕の七郎の命をうけて、王子権現の近くの料理屋〔山吹屋〕の茶屋女中となって住み込み、鬼平の従兄の三沢仙右衛門(55歳)の気を惹く。
(参照: 〔霧(なご)〕の七郎 の項)

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王子権現社(『江戸名所図会』 塗り絵師・西尾 忠久)

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年齢・容姿:40の声をきこうというのに30歳ほどにしか見えない。平凡な顔だち。ふっくらとくくれたあご。仕事場の座敷では、小肥りの躰を機敏にさばき、絶えず柔和な微笑を口もとにうかべている。仙右衛門の表現では「----亡くなった、おふくろさまの乳のにおいがするような女」と。
生国:当人がいうところでは、備前・岡山のどこか(現・岡山市)。
父親は、錠前外はずしの名人〔天空(てんきゅう)〕の政五郎。〔天空〕とは虹のこと。

探索の発端:三沢仙右衛門の長男・初造(30歳)が役宅へ鬼平を訪ねきて、父親が〔山吹屋〕のお勝という女を後妻に迎えるといってきかないとこぼした。

人柄の検分に出かけた鬼平、お勝のふとした動作に疑念をいだき、いまは密偵となっているかつての巨盗〔夜兎〕の角右衛門(45歳)の配下で、これも密偵として働いている〔関宿〕の利八(43歳)に、お勝の身辺を探らせることにした
(参照: 〔関宿(せきやど)〕の利八 の項)
(参照: 〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門 の項)
(参照: 〔蓑火(みのひ)〕の喜之助 の項)

結末:〔山吹屋〕へ出向いた利八を見たお勝は、すぐに15年前の恋人だった彼とわかるや、むかしのおしのに立ちもどり、なりふりかまわず旧情をあたためる。

そして翌日。仙右衛門をたぶらかして三沢家へ入り込んで内情を探るという〔霧(なご)〕のお頭の指令を捨てて、利八とともに駆け落ち。

つぶやき:おしのの父親で、先代〔夜兎〕の角右衛門の一味でもあった〔天空〕の政五郎が、彼女が19歳のときに歿すると、角右衛門が引き取って仕込んだ。
「こういうときには、先ず、首領が女の躰を自分のもにしてしまう」のが常道だという。
そして「仲間どうしではの男女がむすびつくことは断じてゆるされない」 いまは効力が失われてしまっている社内恋愛禁止の社内内規と同じである。

〔夜兎〕の先代が死んで組が手薄になったので、〔蓑火〕の喜之助の配下だった〔関宿〕の利八が、〔夜兎〕一味へ移ってきて、おしのと組んで仕事をしたとき、2人はできてしまった。
制裁をうけるところを、〔蓑火〕がおしのを預かる形で解決がはかられた。
以来15年、2人は一度も会うことはなかったのである。

利八はおしのの最初の男ではなかったし、また、別れさせられたあとの彼女はいくつもの男性経験を重ねたであろうに、まるで初恋のように---いや、彼女にとって、まさに初恋とでもいうべき恋だったのだろう---焼けぼっ杭に火がついた。純愛(?)ものは、いつの時代でもラブ・ストーリーの本道---という証明のような筋書き。

玉子焼きが名代の王子権現脇の店〔山吹屋〕といえば、〔扇屋〕がモデルであろう。

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『江戸買物独案内』(文政7年 1824刊)の〔海老屋〕と〔扇屋〕
両店の説明はコメントに。


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2005.01.27

2代目〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門

独立短篇[白浪看板] (『別冊小説新潮』 1965年7月号、のち新潮文庫『谷中・首ふり坂』に[看板]と改題して収録)で初登場。『鬼平犯科帳』文庫巻5[山吹屋お勝]では、密偵として顔を見せている。

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[看板]が収録されている『谷中・首ふり坂』(新潮文庫)

年齢・容姿:[白浪看板]のときは40歳。大店の番頭風の物堅い扮装がよく似合う。
生国:不明。1歳のとき、遠江国城東郡浜松の旅籠〔なべや〕三郎兵衛方の軒下に捨て子されていたのを、初代〔夜兎〕の角右衛門にもらわれ、育てられた。
したがって、生国はとりあえず、静岡県としておく。

探索の発端:先代同様、
1.盗まれて難儀するものへは、手を出すまじきこと。
1.つとめをするとき、人を殺傷せぬこと。
1.女を手ごめにせぬこと。
の掟を守ってきたつもりなので、召し捕らえられることはなく、これも先代同様に、畳の上で往生できるとおもっていた。
それが、7年前、駿府のご城下の紙問屋でのお盗めのとき、同業の〔くちなわ〕の平十から預かった〔名草〕の綱六(参照:当サイトの〔名草〕の綱六の項)が、飯たき女の腕を切りおとしたことがわかり、一味を解散し、火盗改メへ自首して出、組頭の鬼平のはからいで密偵となった。

結末:盗人を廃業していたので刑罰はない。かわりに、仲間を売った狗(いぬ)と、盗人のだれかによって刺殺、制裁された。

つぶやき::現役時代の2代目〔夜兎〕の角右衛門のセリフ---「つまるところ、いま、この世の中で金と力のあるやつどもは、みんな泥棒と乞食の寄り集まりだ」が、作品[白浪看板]の主題とみる。

というのも、 大金の入った財布を拾った女乞食が、ネコババしないで落とし主へ渡してやり、「乞食は人さまの余りものを頂戴して生きているが、盗みはしない」と角右衛門にいう。

〔夜兎〕の角右衛門の金看板は、先に掲げた3カ条の掟だったが、それが配下によって破られたからには、もうお盗めをつづけてはゆけない、と一味を解散、自首したが、鬼平は、
「お前の看板は、盗人の見栄だ。乞食のかんばんとはだいぶに違う」
といいきる。
[白浪看板]が[看板]と改題されたゆえんでもあろう。

(参照: 〔山吹屋(やまぶきや)〕お勝 の項)
(参照: 〔関宿(せきやど)〕の利八 の項
(参照: 〔前砂(まいすな)〕の捨蔵 の項)

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2005.01.26

〔雲津(くもつ)〕の弥平次

『闇の狩人』(新潮文庫 上下)の主人公の一人。
『報知新聞』に、昭和47年(1972)11月1日から翌48年11月25日まで連載され、昭和49(1974)年新潮社から単行本。昭和55年(1980)9月25日に同文庫。

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数年前に読んだがすっかり忘却しているので、いま、わくわくしながら読み返し、盗人たちの〔通り名(呼び名)〕をリストアップしているところ。

年齢・容姿:上州と越後の山間にある坊主の湯で療養していたときは42歳。江戸で活躍しているのは3年後の45歳。
口は小さい。細い眼が柔和。濃くぽってりした眉。
小柄で細い躰だが、裸になると筋肉は針金でも縒りあわせたようにひきしまっている。
生国:能登国珠洲郡雲津郷か?(現・石川県珠洲〔すず〕市三崎町雲津)か?能登半島の最先端にあたる故郷の匂いはほとんど書かれていない。

探索の発端:大坂出身の巨盗〔釜塚〕の金右衛門の小頭だったが、いまわの際の首領から後継をいわれたものの独りばたらきを願望している。ところが後釜を目指している五郎山の伴助と土原の新兵衛の争いにまきこまれ、生命を狙われる。
いっぽうでは、坊主の湯で助けた若い武士が仕掛人になってしまっているのを憂慮。

つぶやき:付きあう人、知りあう仁に好感を与え、どうしてああも親身になってもらえるのか、〔雲津〕の弥平次のもののいい方、接する仕草、考えようを確かめたい。
珠洲市も訪ねてみたい。坊主の湯のことも調べたい。

そういえば、これまで、20人以上の盗人たちを列挙したが、故郷の匂いを発散させている仁はいなかったようにおもうが、なぜだろう? 池波さんが東京生まれで、田舎をもたないからかしらん。

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2005.01.25

〔野槌(のづち)〕の弥平

『鬼平犯科帳』文庫巻1の第1話[唖の十蔵]に登場、逮捕・処刑される、凶悪・無慙な怪盗。
江戸郊外・王子稲荷の裏参道で料理屋〔乳熊屋〕清兵衛として身をひそめていた。


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王子稲荷社(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

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王子稲荷社の切絵図(近江屋板) 稲荷の上部が裏参道。

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年齢・容姿:どちらも記されていないので、不明。
生国:三河とのみ。で、いちおう、愛知県側としておく。池波さんの家康、信玄、信長についての取材エリアからいうと、静岡県側という線も捨てがたいのだが。

探索の発端:小石川・春日町の薬種問屋〔長崎屋〕が〔野槌〕の弥平一味に襲われ、主人夫婦に息子、むすめ2人、奉公人8人が惨殺され、380余両が奪われた。手引きしたのは2年前に雇われた中年の飯たき女と判明。
火盗改メ方(先手弓第1組・堀帯刀組)の与力・佐嶋忠介の督励にもかかわらず、〔野槌〕の弥平の手がかりはつかめない。
そこで、下っ端からあぶりだせと、密偵の報告で、新鳥越町の小間物屋・下総無宿の助次郎(前の助次郎の項参照)を張り込んだが、女房おふじの手ですでに絞殺されていた。
そのおふじから、一味の〔小川や〕梅吉の存在がうかびあがり、捕らえられた粂(のちの〔小房〕の粂八)の自白により、〔乳熊屋〕清兵衛こと〔野槌〕の弥平の所在が明らかになった。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
(参照: 〔小川や〕梅吉の項)

結末:配下の下総無宿・助次郎が愛人にしていた愛宕下の水茶屋の女お常をつれて故郷の三河(詳細は不明)へ逃亡寸前のところを、鬼平軍団に踏み込まれ、手下5人とともに逮捕。お常をのぞく全員が磔刑。

つぶやき:与力・佐嶋忠介が探索の指揮をとっているとき、堀帯刀から長谷川平蔵へと火盗改メの人事移動があった---とあり、その日付は天明7年(1787)9月19日となっている。

これは、池波さんが『徳川実紀』のみ調べて、『柳営補任』を見なかったための、誤認である。
『徳川実紀』の天明7年9月の項には、長谷川平蔵の火盗改メ任命のみが記されている。これは、火事の多い冬場の火盗改メ・助役(すけやく)への任命であって、本役は依然として堀帯刀が勤めていた。

平蔵は助役であるから、とうぜん、春先に解任される。そのことは[血頭の丹兵衛]冒頭の錯覚文となって記されている。平蔵が本役を拝命したのは、天明8年(788,)10月3日である。その7日ほど前の『徳川実紀』に、堀帯刀が持弓頭へ栄転したことのみが記されてい、火盗改メ・本役除任のことは省略されている。すべての誤認の元は、こここから発しているとおもわれる。

2005.11.17追記:
お幾さんのコメントがヒントになり、鳥山石燕『画図百鬼夜行』(国書刊行会)を図書館から借り出してきて、妖怪「野槌」の図をコピー。
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絵の中の添え書。
「野槌は草木の霊をいふ。又沙石集に見えたる野づちといへるものは、目も鼻もなき物也といへり」
池波さんは、形態よりも語感から採用したようにおもえる。

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2005.01.24

下総(しもうさ)無宿の助次郎

『鬼平犯科帳』文庫巻1、〔鬼平犯科帳〕のシリーズ・タイトルがついての第1話として『オール讀物』(1968年新年号)に載った[ 唖の十蔵]で、身重の女房に絞殺された盗人。
〔野槌〕の弥平一味だが、おもての商売はかつぎ小間物屋。

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年齢・容姿:30がらみ。容姿の描写はない。
生国:下総(しもうさ)無宿とのみ。

探索の発端:火盗改メの任についている先手・弓第1組(組頭・堀帯刀秀隆)の同心・小野十蔵が、密告(さし)のあった新鳥越4丁目、光照寺の横手の小間物屋を見張っていた。

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現在の光照院 四囲は住宅がぎっしり

と、女のすすり泣きがする。女房おふじが、彼女を捨てて、別の女とどこかへ行ってしまうといい泥酔して眠りこけた亭主・助次郎を絞殺していたのである。
殺されるまえに、身重のおふじを蹴ってつき放した助次郎が「梅吉兄いがくるまで---」といったことから、〔野槌〕の弥平一味の逮捕につながっていった。

結末:助次郎は絞殺されたが、梅吉といっしょに現れた粂が捕まり、鬼平の拷問に耐えかねて吐いたので、王子稲荷の裏参道で〔野槌〕の弥平がやっていた料理屋〔乳熊屋〕へ鬼平以下の火盗改メが打ちこみ、7名を逮捕。一同、はりつけ刑。

つぶやき:当サイトの初期に紹介した大盗〔海老坂〕の与兵衛のところに書いたように、[浅草・御厩河岸]は、『オール讀物』1967年12月号に単発短篇として発表された。

長谷川平蔵がチラッと顔を見せる白浪ものの短篇を2編、それまでに他誌に寄せたにもかかわらず、どの編集部からも長谷川平蔵ものの依頼がこなかったので、しびれをきらしていた池波さんは、、[浅草・御厩河岸]の原稿を渡すとき、駆けだしの編集者にコナをかけた。

帰社した編者者から池波さんの言葉を報告された杉村友一編集長は、即座に、長谷川平蔵ものの連載を決意し、その旨を池波さんに伝えた。

その決定を心待ちしていた池波さんは、「すぐに書くので、新年号から---ということに」と告げて、あわただしく執筆したのが、この[唖の十蔵]だった。
その分、調査が行きとどかなかった点がいくつか見られる。

小野十蔵や佐嶋忠介が所属していた堀帯刀(先手弓の第1組の組頭)の家禄は、500石ではなく、1,500石。

小野十蔵の住いのある先手弓第1組の組屋敷は牛込・矢来下ではなく、酒井若狭守の牛込の矢来をめぐらせた上屋敷の西。

小野十蔵は父親ゆずりの琴古流の尺八をよくしたというが、虚無僧が吹くのは明暗流で、まったく別の奏法。

ついでに----。粂(のちの〔小房〕の粂八。当サイトの彼の項を参照されたし)に鬼平が使った、五寸釘を足の甲に打ちこんで熱蝋をたらす拷問は、子母沢寛氏の新選組三部作中で、古高俊太郎の拷問に採用したものである。

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2005.01.23

鍵師の助治郎

『鬼平犯科帳』文庫巻11の[穴]でチラリと名が出、巻15長編[雲竜剣]で活躍をする。
ふだんは、近江の八日市で小さな鍛冶屋をやっているが、〔蓑火〕の喜之助などから合鍵づくりを依頼されると、その土地へ出向いて仕事をしとげる。

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年齢・容姿:60すぎ。人相書はつくらけれたらしいが、記述はない。
生国:近江国蒲生郡(がもうごおり)八日市(現・滋賀県東近江市内の旧八日市地区)

探索の発端:西久保の京扇屋〔平野屋〕へやってきたため、火盗改メに、藤代や報謝宿是の一つがある東海道の南江(なんこ)まで尾行されることに。

結末:元盗賊の首領〔帯川〕の源助、いまは引退して〔平野屋〕源助と鬼平との約束により目こぼしされているので、逮捕も処刑もない。
(参照: 〔帯川(おびかわ)〕の源助 の項)
(参照: 〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛 の項

つぶやき:白浪もので、鍵師という仕事師を創造したのも、池波さんが最初ではなかろうか。

助治郎の師匠は、権平。
弟の伊作は木彫り師。

八日市市には、池波さんがわざわざ賞味に出むいた料亭〔招福楼〕がある。八日市市本町8-11

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『招福楼・おりふしのこと』(世界文化社 2002.10.30 \8,000税別)

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2005.01.22

〔血頭(ちがしら)〕の丹兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻1に[血頭の丹兵衛]と、主役の盗賊がそのままタイトルとして登場。

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年齢・容姿:60歳には見えない若々しさ。でっぷりとした体格で、大きくはっきりした眼鼻だちの〔役者面(ずら)。小豆粒大の黒子があごの下にある。
生国:駿河国志太(しだ)郡島田宿のどこか(現・静岡県島田市)

探索の発端:江戸で〔血頭〕の丹兵衛を名乗り、荒っぽいお盗めをつづける集団があった。火盗改メの牢へとどめられていた〔小房〕の粂八は、あれは〔血頭〕の丹兵衛の名をかたるニセモノだと憤慨している。
かつて粂八は19歳まで〔血頭〕一味にいたのだが、岡崎の城下でお盗めをしたときに下女を犯して破門されたものの、いまでも丹兵衛は3カ条の掟を守っているりっぱなお頭として崇拝しているのだ。
そんなとき、〔血頭〕一味が麹町3丁目の紙問屋〔万屋〕彦左衛門方を襲い、皆殺しにしたとおもいこんだ首領とおぼしい男が、「次にあつまるところは島田宿」といったのを小耳にはさんだ彦左衛門の次女おこうが、鬼平に告げた。
で、「ニセモノの皮をひんむいてやりたい」と力んで牢から仮出所させてもらった〔小房〕の粂八は、勇躍、島田宿へ飛んだ。

結末:島田宿で、天野与力たちと張っていた〔小房〕の粂八の網にかかったのは、なんと、ほんものの〔血頭〕の丹兵衛だった。丹兵衛は粂八にいった。
「おれも年齢(とし)だ。いつまでもゆっくりと手足をうごかしちゃいられねえ。急ぎ仕事ゆえ血も流そうし、あこぎなまねも平気でするさ。そうでなくっちゃあ、当節生きてはゆけねえ----」
丹兵衛ほか捕縛され5名は、盗みの上に殺傷をくり返しているから、獄門。

つぶやき:島田宿を3回取材した。集合場所で盗人宿になっている本通り(旧東海道)7丁目裏の大久保川っぺりの煙草店〔三倉や〕のあたりをウォークしたり、林入寺に詣でたり、いまは覆われて道となった下を音を立てて流れているいくつもの小川を見たり、大井川の川会所あとを訪ねたりして、こここそ丹兵衛の生国との念を、強くもった。

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江戸から出張ってきた火盗改メの与力・同心が連絡(つなぎ)の場所のひとつにした林入寺

粂八が15年前に破門されたときにも、丹兵衛がどぎつい〔血頭〕を名乗っていたとすると、3カ条の掟を守っていたころには似つかわしくない「通り名(呼び名)」のようにもおもうのだが---。

島田宿へやってきた〔小房〕の粂八が草鞋をぬいだ5丁目の旅籠〔鈴や紋十〕は実在した宿である。

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島田宿 本町4丁目の図(部分 島田市教育委員会制作)

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2005.01.21

伊三次が発端

◎伊三次が見かけたのが事件の発端

[6-2 猫じゃらしの女] 〔伊勢野(いせの)〕の甚右衛門
                    p69 新p74
[9-3 泥亀]      〔関沢(せきざわ)〕の乙吉
                    p95 新p100
[10-4五月雨坊主]   〔羽黒(はぐろ)〕の九兵衛
                    p162 新p170
[12-3見張りの見張り] 〔長久保(ながくぼ)〕の佐吉
                    p115 新装p121
[14-5五月闇]
     〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵
                    p195 新装p201

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〔朝熊(あさくま)〕の伊三次

『鬼平犯科帳』文庫巻14の[五月闇]で刺殺されるまで、巻4[あばたの新助]で鬼平直属の密偵として初登場して以後、34篇で活躍。歿後も6篇に名前が出、その働きがしのばれている。
代表的な篇は、巻6[猫じゃらしの女]、巻9[泥亀]、巻12[見張りの見張り]同じく[密偵たちの宴]と、殺される[五月闇]

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年齢・容姿:初めて顔見せした[あばたの新助]のときが寛政元年(1789)で30歳、それから7年後の[五月闇]は37歳。きびきびしたいなせな立ち居ふるまい。
生国:不明。2歳のときに東海道・関宿で捨て子されており、女郎屋で女郎衆に育てられた。

探索の発端:〔四ッ屋〕の島五郎の配下だった29歳のときに捕縛されて、密偵に。〔四ッ屋〕一味の逮捕の経緯は記されていないため不明。
(参照: 〔四ッ屋〕の島五郎の項)

密偵となってからは、清水門外の火盗改メの役宅の長屋で起居。

結末:密偵として働いていたとき、過去の女がらみのことで、〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵に刺殺された。気があった同心・木村忠吾が、菩提寺・威徳寺の自家の墓域の隣に葬ってやった。
(参照: 〔強矢〕の伊佐蔵の項)

つぶやき:出生地を三重県としたのは、捨て子以前のことはまったくわからず、発見されたのが関の宿(しゅく)だったから。

「とおり名(呼び名)」を付したのは、これまでの盗人たちのタイトル例を踏襲しただけ。
かんがえられるのは、捨て子された関の宿をとって「〔関〕の伊三次」とするのがふつうと。。

が、あえて〔朝熊〕とつけたのは、文庫巻9[泥亀]で、金をとどけてやった初対面の相手〔泥亀〕の七蔵を安心させるために、「おれも、お前さんや〔関沢〕の乙吉どんと同じお盗(つと)め仲間でござんすよ」とおもわせるために、咄嗟に名乗ったにちがいないと推量したから(注・[〔泥亀(すっぽん)〕の七蔵]を参照されたい)。このあたりが、伊三次の機転がきくところ。
(参照: 〔泥亀〕の七蔵の項)
ちなみに、伊三次が〔朝熊〕を名乗ったのは、文庫巻9p111 新装p116 の1回こっきりである。

朝熊神社は、かつては度会(わたらい)郡朝熊郷の氏神だったが、いまは伊勢市に合併され、同市朝熊町に鎮座。

関宿の女郎屋〔丹後屋〕の女将に拾われ、宿場女郎衆にそだてられた伊三次は、10歳のとき岡崎の油屋へ出されたが、いつのまにやら盗人の世界に入っていた。

28歳のとき〔強矢〕伊佐蔵の女房と駆け落ちし、けっきょく、その女を殺してしまい、伊佐蔵に命を狙われることになった。

鬼平にいわせると、密偵として、することなすことにそつがなく、鬼平の意のあるところを遺漏なく察し、探索が壁にぶちあたって困憊していると、「いま、すこしでござんす」と声をかけてみんなをふるいたたせたほど、チームにとってかけがえのない男であったと。享年37歳。

ちなみに、伊三次の墓標のあった威徳寺は、明治20年に廃寺となり、瑞聖寺(港区白金台3丁目)へ合祀された。
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威徳寺を合祀している瑞聖寺(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾忠久)

瑞聖寺は禅宗系でも黄檗宗だが、威徳寺は、権之助坂にあった浄覚寺ともにその支院だったようだ。
瑞聖寺の住職・古市師によると、黄檗宗はもともと檀家をもたないので、明治の排仏毀釈のときに経済的に行き詰まるところが多く、仏具なども売り払い、合祀のときにはほとんど何もなかった例が少なくなかったと。
(ということは、木村忠吾の家は威得寺の檀家ではなく、墓域だけ借りていた?)

司馬遼太郎さんの、徳川家康と三河衆の気質を書いた『覇王の家』(新潮文庫 連載は『小説新潮』1970.01-71.09)p537に、家康が於阿茶局が産んだ第6子・忠輝を追放した先が、伊勢朝熊(あさま)だった、とある。
[泥亀(すっぽん)]は、『オール讀物』1972年11月号に掲載された。

発表の時期が近いから、池波さんも連載中の『覇王の家』を読み、「朝熊」という三重県の地名に興味を覚えたのだろう。吉田東伍博士『大日本地名辞書』には、村名「朝熊(あさくま)」も「朝熊(あさぐま)神社」も載っていることだし。
村名がいつから「朝熊(あさま)」と縮まったかは不明。


東海道・関宿の探索リポート(2005.09.19)

密偵・伊三次がいう。
「おれは、むかし、勢州(三重県)関の宿場で捨子にされてねえ」
「二つのときだ。そのおれを、関の丹後屋という店の宿場女郎のみなさんが拾ってくれてね、それから十(とう)になるまで、おらあ、そこの女郎衆に育ててもらったのさ」  (文庫巻6[猫じゃらしの女])

そういうことだと、関宿(せきしゅく)へ行って、伊三次が育てられた置屋を見たくなるではないか。

長い間の懸案だった。
池波さんも、現地を踏んだにちがいない。思い切って出かけた。
1251
1320
JR関駅

かつての東海道筋。櫺子(れんじ)窓の家並みが保存されている。
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宿場の真ん中あたりから亀山方面を望む
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関宿の石標

配達途中の酒屋のご主人に聞いた。
「江戸時代に、女郎屋があったのはどのあたりでしょう?」
「あの、塩の軒下看板が出ている家の、向う隣ですよ」
塩の軒下看板の家は八百屋だった。
八百屋の前から逆T字に関神社(写真)への参道がのびている。
b
その隣(江戸側)の家に、教育委員会の銘板があった。
b
「かつての置屋。隣の家(写真)には飯盛女がいた」と。
0134
伊三次を育てた女郎衆は、この家で旅人に色を売っていたのだ。
伊三次が捨子されていたのは、関神社の鳥居の下だったのかも。置屋へも泣き声が届く、百歩の距離だ。


朝熊神社の探索リポート(2005.09.20)

こんどの取材旅行の目的の一つに、密偵・伊三次が、文庫巻9[泥亀(すっぽん)]で、痔病みの七蔵へ、鬼平のいいつけで大金を届けてやるとき、なぜ、 〔朝熊(あさくま)〕という「通り名(呼び名)」を名乗ったかの謎を探ることもあった。

日本中で朝熊と書く地名は、三重県伊勢市朝熊(あさま)しかない。そこの鎮守が朝熊(あさま)神社である。
近鉄山田線に「朝熊」無人駅があり、有料・伊勢二見鳥羽ラインに「朝熊IC」がある。
無人駅「朝熊」にはタクシーは客待ちしていないらしい。
一つ手前の「五十鈴川」駅下車。初老のタクシー・ドライヴァーに行く先の〔朝熊神社〕を告げると、無線で本社へ問い合わせる。
1300B
あれこれのやり取りの末、80歳・運転歴60年の大ヴェテランから道案内が伝えられてき、発車。
「私も20年運転しているが、朝熊神社へ行くのは今日が始めてですわ」とタクシー・ドライヴァー。
舗装道路を左にそれると、車1台がやっとの農道のような未舗装の、丘の麓づたいに曲がりくねった道へ入る。木の枝葉や草が容赦なく車体をかする。
徐行3分。消えかかっていて字の読めない標識と石段があった。
石段を登る。左に皇大神宮摂社の朝熊御前(あさくまみまえ)神社、右手奥に同・朝熊神社。まったく瓜二つの社殿。
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朝熊神社

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朝熊御前神社
それはいいとして、地元では「朝熊(あさま)」と呼ぶのに、池波さんは、〔朝熊(あさくま)〕の伊三次とした。
池波さんが常用していた吉田東伍博士の労作『大日本地名辞書』(明治33--)は「朝熊(あさぐま)神社」と濁っている。地名のほうには「朝熊(あさくま)」のルビ。

「僧空海求聞持法を山中に修めし時、朝に熊獣出で、夕に虚空蔵現ぜしよりてかく名づけたりと。又、旧籍聞書には熊野は朝隈なり---うんぬん」

伊三次が名乗るとしたら、揺籃の地名をとって〔関(せき)〕の伊三次のはず。
池波さんがそうさせなかったのは、生誕地が不明であること、「呼び名」は〔泥亀〕の七蔵を安心させるために同業らしく一時的に〔朝熊〕を借りたこと、そのとき、池波さんの脳中には吉田博士の辞書の記述があったのであろう。

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伊三次(いさじ)の年譜

〔朝熊(あさくま)〕の伊三次の年譜
(三重県伊勢市の東部にある山。ふもとに朝熊神社

宝暦10年(1760)生
宝暦11年(1761)  関の宿場で捨子
( 2歳)      〔丹後屋〕のおかみに拾われ、宿場女郎衆
          育てられる。
           [6-2 猫じゃらしの女]p52 新p55

宝暦19年(1761)  岡崎の油屋へ奉公。
(10歳)       [6-2 猫じゃらしの女]p74 新p79

天明6年(1786)頃 名古屋で〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵と
(27歳)      もめごと
             [14-5 五月闇]p196新p206
天明7年(1787)  盗賊〔笹子(ささこ)〕の新右衛門配下
(28歳)           [9-3 泥亀]p96 新p100
天明8年(1788)  〔四ッ屋)(よつや)〕の島五郎の下で
(29歳)      急ぎばたらきをしていて捕まる。
             [14-5 五月闇]p196新p
寛政元年(1789)春 すでに密偵になっている。
(30歳)       [4-5 あばたの新助]p179 新p188
〃       夏  [4-6 おみね徳次郎]p220 新p231

寛政3年(1791)
(32歳)       [6-2 猫じゃらしの女]

寛政7年(1795)春  [12-4密偵たちの宴]
(36歳)
寛政8年(1796)  〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵が刺殺
(37歳)                [14-5 五月闇]

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2005.01.20

〔馬越(まごし)〕の仁兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻8に入っている[用人棒]で、高木軍兵衛をたぶらかして味噌問屋〔佐野倉〕へ押し入ろうとした盗人。

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年齢・容姿:五十男。愛嬌のいい微笑をたえずうかべている。
生国:越後国三島郡黒川村馬越(現・新潟県長岡市与板町馬越)

探索の発端:肥前・唐津藩をしくじり江戸へ上府、深川の味噌問屋〔佐野倉〕の用心棒の口にありついた高木軍兵衛(35歳)は、身の丈6尺(1.8メートル)強、頬から顎へかけての立派な鬚で、いかにも豪傑風の外見ながら、ヤットウのほうはさっぱり。
その高木軍兵衛、須崎弁天社の境内茶屋で、不逞な浪人3人にいいようにいじめられたところを、15年ほど前につき合っていた〔馬越〕の仁兵衛に見られ、適当なつくりばなしで、〔佐野倉〕をごまかしてもらう。


574cn
洲崎弁天社(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

その代わりに、〔馬越〕一味が〔佐野倉〕へ押し込む仲間へ引きずりこまれてしまうハメとなった。
食いつめ浪人のふりをしている鬼平の強さを目にした軍兵衛、助っ人を頼み込む。そして2人で、〔馬越〕一味の来襲を待ちかまえた。

028
『江戸買物独案内』(文政7年 1824刊より)池波さんが借用した〔佐野倉〕の屋号。右手の〔乳熊〕は当シリーズ第1話[唖の十蔵]で〔野槌〕の弥平がやっている料理屋〔乳熊屋〕に借りられている。

結末:軍兵衛が手引きしてくれるものと信じきって先頭に立って〔佐野倉〕へ押し込んできた〔馬越〕の仁兵衛は、鬼平(仮名・木村平九郎)に、一刀のもとに斬り殺されてしまい、一味も捕縛された。
が、すべての手柄を軍兵衛にゆずっておいて、鬼平は姿を消した。

つぶやき:〔馬越〕の仁兵衛を越後の馬越村の出身としたが、口の達者なところは、北陸の人に見えない。
が、昭和30年(1955)、黒川村(字馬越)などをとりこんだ与板町は、長岡市の北西に接している。長岡市は山本五十六元帥の出身地でもあり、熱弁宰相・田中角栄氏の地盤でもあった。中には〔馬越〕の仁兵衛のように、口のまわりのいいのも出てこよう。

そうそう、池波さんには、幕末、長岡藩の家老をつとめた人---[悲劇の英雄 河井継之助](講談社文庫『若き獅子』に[悲劇の英雄]の題名で収録)という好短篇もある。

このあたり、中越地震の震源地に近い馬越島はどうだったのだろう? 一日も早い復興を祈念しよう。

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2005.01.19

下総(しもうさ)無宿の安兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻5に収録の[鈍牛(のろうし)]に出てくる、名前のとおりに安っぽい無宿人。

205


年齢・容姿:50がらみ。小さく痩せこけて、干涸(ひから)びてい、灰のような顔色。ごま塩あたま。漁師あがり。
生国:下総国香取郡潮来あたり(現・茨城県潮来市潮来)

探索の発端:深川熊井町の蕎麦屋〔翁庵〕が放火で焼けた。隣の相川町の菓子舗〔柏屋〕の下男・鈍牛の亀吉が、放火犯として捕まり、自白もした。
(参照: 〔鈍牛〕の亀吉の項)

027
熊井町の蕎麦屋〔翁屋〕(『江戸買物独案内』 文政7年 1824刊)

しかし、近隣の人たちは、亀吉は真犯人ではないとおもっている。
どうも、同心・田中貞次郎と密偵・源助が手柄をあせっての乱暴な取調べの結果のようにおもえる。

鬼平は、南町奉行の池田筑後守へ処刑延期を依頼し、亀吉が晒されている現場へ張り込んだ。
と、人だかりのなかに、亀吉と視線をまじえた男がいた。

捕らえてみると、亀吉の母親がかつて潮来で女郎をしていたときのなじみ客だった安兵衛で、亀吉には菓子などを与えていたという。
亀吉は、放火現場で安兵衛を見かけ、「だれにも言うな」といわれたので、身代わりに立った次第。

結末:安兵衛は、晒しのうえ火あぶりの刑。
拷問で亀吉からウソの自白を引きだした密偵の源助は、八丈島へ島送り。
田中同心は、身分と役目を召しあげられ江戸追放。

つぶやき:文庫の巻20まで、放火事件は、この[鈍牛]と巻16[火つけ船頭]くらいではなかったろうか。

で、池波さんと読売映画広告賞の審査員をしていたとき、審査の前後の雑談で、つい、「火盗改メは、放火犯と泥棒を捕まえるのが任務なのに、犯科帳では、火つけの話がすくないですね」といってしまった。
池波さんの返事は「ぼくは火事がきらいでね。それに、火事の描写はむつかしすぎる」

それから2か月もしないうちに、『オール讀物』に長篇[炎の色]が掲載された。池波さんが負けず嫌いなことを、改めて納得した。

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2005.01.18

〔泥亀(すっぽん)〕の七蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻9に所載の[泥亀]で、大真面目だがユーモラスな役割を演じている元盗人で、いまは芝・三田寺町の魚籃観音堂・境内の茶店の亭主。

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三田4丁目の籃観音堂(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾忠久)

年齢・容姿:52歳。まるまると肥えた胴体に、愛らしいほどの短い手足がつていおり、脳天がとがった頭は剃りあげている。ひどい痔持ちなので、歩くにもひと苦労。
生国:上野国佐波(さわ)郡玉村(現・群馬県佐波郡玉村町)の貧農の三男。

探索の発端:痔疾の治療に行く途中で、10年ほど前に、〔牛尾〕の太兵衛の下でいっしょにお盗めをしたことがある、ながれ働きの錠前はずしの名手〔関沢〕の乙吉と出会い、〔牛尾〕のお頭が中風で倒れると、盗人宿でもあった藤枝の宿の呉服太物屋〔川崎屋〕から一味がかき消え、太兵衛は引っ越した陋屋で病死、女房おしまと盲目のむすめが行方不明になったと聞いて、動転。
3年前に痔が悪化したとき、、〔牛尾〕の太兵衛は女房おしまの口ぞえもあり、50両の引退金(ひきがね)を渡してくれた。それで魚籃観音堂・境内の茶店の権利を買い、深川・一色町の船宿で女中をしていたいまの女房お徳(44歳)といっしょになり、お徳の母親(60歳)も引き取って平穏に暮らすことができるようになっていた。

それはそれとして、七蔵と別れた〔関沢〕の乙吉は、すぐに密偵・伊三次と出会い、〔小房〕の粂八があず゜かっている深川の船宿〔鶴や〕へ案内され、逮捕。
が、その前に伊三次は乙吉の口から、〔泥亀〕の七蔵が、かつてのお頭〔牛尾〕の太兵衛の内儀とむすめのために金策に走りそうな、と聞きとっていた。

結末:捕まった〔関沢〕の乙吉は、島おくりになるところを、鬼平の考えで入牢のまま。
乙吉から取り上げた50両を伊三次が七蔵へとどけると、七蔵は痔をかばいながら100里近い道中をへて御油へ行き、おしま母子のために小さな荒物屋を買ってあたえた。恩返しのつもりだった。
帰ってきた七蔵を品川宿で逮捕させた鬼平は、〔牛尾〕一味の盗人宿や、小頭の〔梶ケ谷〕の三之助や〔牛久保〕の幸兵衛らの人相・居所を吐くことで、これまでの所業には目をつむる、と。

つぶやき:座業の池波さんも、ひどい痔疾になやまされていたことをエッセイで告白している。
だから、〔泥亀〕の七蔵の歩きぶりや痛がりよう、また、厠での苦心惨憺・難行苦業は、池波さんの体験とおもうと、おかしさが二倍三倍となってくる。いや、ご当人にはお気の毒なかぎりだが---。

池波さんは、「痔用体操」を考案して、寺に入るまで直らないといわれていた痔を快癒させたことを、未刊エッセイ第2集『わたくしの旅』(講談社 2003年03月15日)に書いている。
「痔」という字を観察していただきたい。「ヤマイダレ」に「寺」----つまり「寺に入るまで直らない病」といわれるゆえん。

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2005.01.17

〔名越(なごし)〕の松右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻17、長編[鬼火]の終末にチラッと語られる、3カ条の掟てを守りぬき、[鬼火]の中心人物で、身をよせたことのある元、600石の旗本・永井弥一郎(のめんどうを、14,5年間もみつづけた。

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年齢・容姿:書かれていないため、不明。
生国:伊勢国のどこか。

年齢・容貌:上富士の富士浅間神社の近くの〔権兵衛酒屋〕へ鬼平が立ち寄った晩、そこの夫婦が何者かに襲われた。

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駒込の富士浅間神社(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾忠久)

亭主の弥市は逃げおうせ、鬼平は女房のお浜を牢役宅にとどめたが、見張りの島田同心が油断したすきに自害して果てた。
長い長い物語はこうしてはじまり、かつての表御番医・吉野道伯や6,000石の大身旗本・渡辺丹波守直義などもからんで進展する。

結末:〔名越〕の松右衛門については、亡妻の墓前に現れて捕まった弥市の口から語られる。
浪人くずれの凶暴な盗賊団の首魁である滝口金五郎ほか14名が逮捕されて一件落着ののちのことである。
吉原の花魁と駆け落ちした旗本・永井弥一郎は、表御番医・吉野道伯とつながりがあった〔名越〕の松右衛門の下で盗人稼業を手伝うが、ほかに男をつくった女は、殺した。
(参照: 元旗本・永井弥一郎の項)
弥一郎がは、〔名越〕の松右衛門一味にいた14,5年のあいだに上方で二度、江戸で二度お盗メをし、江戸での最後の仕事---小網町の線香問屋〔熊野屋〕作兵衛方へ押し入ったとき、手代と小僧あわせて4人に重傷をおわせてしまった。
これを嘆いた〔名越〕の松右衛門は、盗金3,000余両をすべて配下へ分配し、飄然と故郷の伊勢の国へ姿を消した。

そのときに、松右衛門、
「お前さまの、たよりになる婆(ばば)じゃ。共に暮しなされ」
こういって、お浜を弥一郎に引き合わせたのである。p320 新装p331

永井弥一郎(弥市)は、死罪。
〔名越〕の松右衛門は、不明。

つぶやき:CD-ROM版『郵便番号』で「名越」を検索すると、
 岐阜県各務原市鵜沼真名越町
 滋賀県長浜市名越町
 京都府八幡市下奈良名越
 熊本県下益城郡砥用町名越谷
が現れ、伊勢をふくむ三重県はない。

念のため、長浜市の「名越」を問い合わせた。
長浜市役所市史編さん室学芸員 橋本さんからメール。

1.名越(なごし)の地名は、同地に創建された名超(なこし)寺とここに祀られた名超(越)童子に由来するとされています。
江戸時代中期の書物『近江輿地誌略』には、名超寺について「寺記に曰く人皇40代天武天皇白鳳年中の草創、三朱沙門の開基、名超童子久條練行の臨跡、故に名超寺と號す」との記述が見えます。
また、名越町には後鳥羽上皇行幸の伝承があり、明治12年に名超寺境内に後鳥羽神社が創建されました。この付近は古代に鳥羽上庄と呼ばれる荘園が置かれたあたりとされ、後鳥羽上皇の侍臣藤原能茂の子孫に預所職があてがわれています。
なお、名越が村として単立したことが史料上確認されるのは、幕藩体制下の彦根藩支配においてで、正保・元禄・天保の各郷帳では、その石高は常に約 507石と報告されています。
ちなみに元禄8年の「大洞弁天寄進帳」には、当時の人口は男126、女126、寺方の男7、同女5と見えます(ただし、郷帳などの書き出しには高持ちではない人びとは記載されません。念のため)。

2.合併時の名越村の人口と戸数、および主たる産業
合併時の様相ですが、名越村はいわゆる行政村ではありません。明治維新の後、明治22年(1889)の町村制施行によって西黒田村の大字となり、その後昭和18年(1943)には、西黒田村ほか6地区が合併して現在の長浜市域となりました。
明治13年前後に刊行された『滋賀県物産誌』によると、名越村の人口は平民のみで 210人、戸数は63とあり、全戸が農業に従事し、その約半数が養蚕を営んでいます。米以外の主な作物としては、大麦、大豆、菜種、桑葉、そして葉煙草とあり、周辺他村と際だった違いはありません。
ちなみに、平成14年8月時点での名越村の世帯数は71、人口は男女共134名となっています。

池波さんは、姉川の戦いのことを調べるために、いくども近江を訪れている。そのときに長浜市の名越を知ったのではないかともおもった。

明治20年ごろに陸軍参謀本部測量部が作成した地図で、愛知県南設楽郡に「名越」を見つけた。
その問い合わせに対する、南設楽郡鳳来町教育委員会史跡文化財係 谷川さんからのメール。

1.名越村の誕生の時期
名越村の誕生の詳細な発生については、不明ですが、寛永年間(1624~44)の検地本帳には、「なこへ」という  文字が見えます。
また、享保8年(1723)の文書には「名越」というものが見えています。
現在でも字名として「名越」の地名が残っています。
2.名越村の合併の経緯と人口、戸数および主たる産業
名越村→大野村(明治22 合併)→名越村(明治23分村)
七郷村(明治39 合村)→鳳来町(昭和31 合併)
明治21年 45戸  224人
明治39年 49戸  280人
平成 3年 51戸  220人  
主たる産業 明治・大正と養蚕。
3.名越の読み方
「なこえ」

池波さんは、三重県を荒木又右衛門のためと、伊賀忍者の取材で幾度か訪れている。そのときに目にした地名が「名越」だったのかも。

この上は、三重県の鬼平ファンのご教示をまつしかない。

蛇足--〔名越〕の松右衛門一味の江戸での最後のお盗めは、小網町の線香問屋ということだが、ここを池波さんが選んだのは、『江戸買物独案内』の業種別に分類さている「線香問屋」のページを見てのことであろう。
が、じつは、線香問屋単独というのはほとんどなく、薬種(くすりだね)問屋の兼業であった。
江戸の薬種問屋は、線香のほか絵具問屋、丸藤問屋もかねていた。だから、押し込み先は、薬種問屋とすべきであった。

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2005.01.16

〔初鹿野(はじかの)〕の音松

『鬼平犯科帳』文庫巻4[敵]ほかで、密偵になる前の〔舟形(ふながた)〕の宗平が、この首領の、目黒にあった盗人宿を預かっていた、と。
〔初鹿野〕の音松自身はいちども素顔を見せない。

204


年齢・容姿:書かれていないので、不明。ただ、「ほかのところの者のめんどうもよくみる」性格とある。
生国:甲斐国山梨郡初鹿野村(現・山梨県東山梨郡大和町初鹿野)

探索の発端:探索もなにも、〔舟形〕の宗平はお頭を売って密偵になったわけで゜はないから、火盗メとしても、探索にかかってはいない。
ただ、宗平が預かっていた盗人宿は、探索を受けた。

結末:名前が書かれているだけなので、刑罰もうけていない、『鬼平犯科帳』に登場する数多いお頭の中でも不可思議な巨盗。

つぶやき:滅んだ武田軍から徳川方へ取り込まれた武将に、初鹿野家があり、長谷川平蔵が火盗改メの長官をやっていたとき、その末裔が北町奉行職を務めていた。
平蔵が、人足寄場の資金を調達するために銭相場に関与したとき、両替商などを月番だった北町奉行所へ呼びつけ、初鹿野河内守信興を横に、銭の値をあげるように申しつけた。
河内守は、この銭価格の操作に関与したことを苦にしたかのように、その年末に病死した。

初鹿野家の家名は、武田信玄の命で改姓したものという。

大和村役場 総務課の佐藤さんからのメール。

初鹿野村」などが合併、大和村が誕生した経緯を『村史』から引用します。
「大和村は、昭和16(1941)年2月に、近隣の5カ村、すなわち木賊(とくさ)村、田野村、日影村、初鹿野村、鶴瀬村が合併してできた行政村である。(略)役場を初鹿野村に置いた。
その後昭和29年(1954)の町村合併促進法に基づいて隣接の勝沼町との合併の運動もあったが、産業経済や地理的立地条件も異にする点が多く併合するところまではいかなかった。しかし、勝沼町に隣接していた深沢地区は、このおり勝沼に合併し、大和町から分離したのである」

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ワインの勝沼から東へ数キロメートル

昭和10年(1935)の「初鹿野村」の全戸 228が本農業および自作農家で、うち半数が養蚕をしていたから、江戸時代もそんなところであったろうと推察できます。
村全体の人口は、平成12年(2000)に1,541人、少子化や若者の流出でご多分にもれず老齢化がすすんでいます。

『甲斐国志』山川部は、初鹿野山を「マタ初鹿根ニ作ル、山中ニ木賊(とくさ)多シ、故ニ古名ヲ木賊山ト云フ、此ノ山最モ高クシテ……」と記しています。

長谷川平蔵のころに町奉行をしていたという初鹿野河内守信興については、村誌などを調べた範囲では記載がなく、また初鹿野家が村を領していたという記録はありません。

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2005.01.15

〔荷頃(にごろ)〕の半七

『鬼平犯科帳』文庫巻10に収録の[五月雨坊主]で、仲間に刺され、絵師・石田竹仙の家の裏庭へ転がりこんで息絶えた盗人。

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年齢・容姿:42,3歳。町人風。
生国:越後国古志郡荷頃村(現・新潟県栃尾市荷頃)。

探索の発端:上記したように、湯島の妻恋明神の裏手に住む石田竹仙の裏庭へ、転がりこんでいて、抱きかかえた竹仙の顔をみて「く、九兵衛どん。武助(ぶすけ)に、やられた---と、十日のお盗(つと)めは、だめ---」と告げたあと、そのまま命が絶えた男がいた。
盗人の前歴のある竹仙ゆえ、「お盗め」の言葉に、すぐさま、男の似顔絵を描いてから番所へとどけ、似顔絵は鬼平の許へ持参。
その似顔絵に、鬼平の発案で描いた竹仙の自画像を加えて、同心・密偵たちの聞き込みがはじまった。

結末:意外なところから、竹仙の自画像に似た者が、道灌山の貧乏寺の寺僧と知れ、火盗改メが踏み込むと、越後から岩代、信濃にかけて荒らしまわっている〔羽黒〕の九兵衛一味が潜んでいた。早くから江戸へ流れてきていた〔荷頃〕の半七と組んで、江戸でのひと仕事をたくらんでいたのである。
ところが、女房を半七に寝取られた一味の武助が、そのうらみを晴らすために半七を刺殺した。

捕らえられた〔羽黒〕の九兵衛一味6人は、たぶん死罪。

つぶやき:栃尾市行政管理課 広報広聴係の石丸さんからのメール。

戦国の武将・上杉謙信の旗揚げの地・栃尾には、静御前、那須与一、酒呑童子と茨木童子、弘法大師など、かずかずの伝説があり、語り継がれていますが、『鬼平犯科帳』巻10に登場する〔荷頃〕の半七に関する伝説は、残念ながらありません。
『栃尾市史』は、「中村検地帳」(慶長3年[1598])の栃尾郷に濁(荷頃)村の名前が見えていることを報告しています。
『栃尾市史 別巻2』は、荷頃は栃尾市街地の南西約4キロに位置し。「北荷頃・一之貝・軽井沢・比礼・本津川の五集落で旧荷頃村を形成」していたといいます。北荷頃の開村を大同3年( 808)とする伝承もあり、縄文土器も出土しています。

『鬼平犯科帳』の時代に近いといえる天保12年(1841)の戸数は 147、人口は 919人です。
明治10年(1877)の荷頃を地誌は、田は23パーセント、畑が約14パーセント、山林61パーセントとも報じ、稲作のほかに大豆・小豆・栗・蕎麦・里いも・大根を記します。秋には広瀬辺(北魚沼郡)から炭を買って長岡藩の家中へ入炭もしていたとも。
栃尾縞紬の創始(天明から寛政のころ)の地としても記録されています。

荷頃村が市に合併されたのは昭和29年(1954)6月1日でした。

池波さん着用の縞紬は、もしかしたら『蝶の戦記』で越後を取材したときにもとめた栃尾産だったのかも。

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栃尾市の名産・紬の着物(市のパンフレットより転載)


2006.08.31にいただいた、ミク友のレンさん(三条市在住)からのメール---。

栃尾は古い歴史を持つ土地としての良い意味での誇りのある町です。
やはり長尾景虎の影響でしょう。
栃尾は文化度も高く、いい人達が多いので、
そこに育っタのに、荷頃の半七の性格はちょっといただけません。

荷頃の半七は、早いうちに江戸へ行ったと思いたいのですが、あのわずかなセリフの中に「あきらかに国訛りがあった」とあり、でも「江戸にくわしい半七の手引きで」ともあるし、栃尾ではないけれども、越後に普段はいた、ということになるのでしょうね。

そんなに越後は国訛りがあるかな……、と自分の訛り具合がわからないので、ちょっと落ち込んでみたりしています……。


また羽黒の九兵衛も国訛りがあるというけれども、羽黒が中条だとすると、荷頃の半七とは方言が違うので、同じ越後人としての仲間意識を持てたのかどうか……。
(中之口村羽黒だと、ほぼ同じ方言になります)
でも、そうすると鳥坂の武助の方言が違う……。
標準語、いえせめて江戸弁で話さないとたった7人とはいえ、会話ができないような気がします。

(ところで、一味は生きていれば7人、というのは合っているのでしょうか?
荷頃の半七、羽黒の九兵衛、他5人の手下、ですが、引き込みのはずの長五郎が、夜に盗人宿の天徳寺にいることになってしまいますが、いいのかしら、と思ってしまいました。
予定の押し込みは諦めた、ということなんでしょうか。)

そう思って調べたところ、栃尾には荷頃の他に、鳥坂という棚田、羽黒山(羽黒神社)がありました。
http://www.pref.niigata.jp/doboku/engawa/sosiki/seibi/toshiseisaku/keikan5/nourinkank

you_ka/index.html
http://www.city.tochio.niigata.jp/kankou/zinzyabukkaku/zinzyabukkaku.html
もしかしたら、一味は全員栃尾出身かもしれません。(2つのグループのようですが)
女房とったりしているあたり、年も近そうですから、意外と幼なじみだったとか。
それで、「短刀で二突き刺し」た程度だったのかもしれません。

また武助も「何喰わぬ顔で」参加しているあたり、やなやつだと思うのですが、それに気づかぬ、九兵衛も九兵衛。
仲間意識が強く、よそ者には排他的な越後人の気質もでているような……。
他の盗人の仲間割れの話ではもうちょっと裏読みもするし、ドロドロと黒く、緊迫したシーンが多いような気がします。ここでそんなシーンは、忠吾が首を絞められるところだけかと。

mixiの日記でも書きましたが、越後人の基本は、「恥ずかしがり屋」で「人がいい(自嘲的な意味で)」ので、どの盗人もすべてを素直に信じてしまっているところがあるようにも感じます。要するに田舎者なんですね。

個人的には、武助の女房というのが、性悪だった可能性も高いかと。
だいたい仲間割れは女性が原因、と言われていますし、いつの時代にも、どこの土地でもこういう人はいますから……。
この女房は、およねとか、お今のような、少しノーテンキで優しい人だったら、彼らの人生も違ったのでしょうねぇ。

こうしてみると、越後には男も女もいい人がいないじゃないか、と思いましたが、盗人ばかりだから、しょうがないですね。
大物が少ないのも、現代の新潟と一緒……。←残念です。

善達がかろうじて、善人風、といったところでしょうか。
その善達をみても、「越後の男は、昔からあばら骨が一本足りない」と言われている通りのような気がします。「人がいい」越後人丸出しです。

池波さんが、そこまで越後人を分析して書いていらっしゃるわけではないと思いますが、なんとなく、彼らは越後人らしいな、と思いました。

羽黒の九兵衛の、越後の他に岩代と信州、というのがちょっと驚きました。
本拠地をどこにするかにもよりますが、どちらも遠すぎるような気がします。
せめて会津若松か、上州だったらわかるのですが……。

それにしても、この話、忠吾がいじめられすぎのような気がするのは私だけでしょうか……。

Photo_263
旧栃尾市荷頃の遠景写真の画像です。
北荷頃の北側の方です。
建物が建っているあたりが荷頃の中心地です。
木が多く、写真を撮れるところがなくて、こんな写真になってしまいました。

写真を見ると、「のどかな田舎」程度に見えますが、冬は相当厳しいですし、川の氾濫も多かったようですし、
ここに着くまでの道程はどこから行っても山越えですので(旧栃尾はすべて)、相当つらい地域だったと思われます。

Photo_262
荷頃を流れる西谷川です。左は荷頃小学校。
荷頃鉱泉などがあり、少し(50mくらい)温泉街的な情緒を持っています。
水もおいしく、景虎という日本酒が有名です。

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2005.01.14

〔前砂(まいすな)〕の捨蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻1に所載の[老盗の夢]で、女のことで戻り盗めをしなければならなくなった老盗〔蓑火〕の喜之助。江戸で人集めのために訪ねた元鳥越の松寿院門前で花屋の老亭主をしていたのが〔前砂〕の捨蔵だった。

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じつは、ここは、巨盗〔夜兎〕の角右衛門の「盗人宿」で、捨蔵はその番人でもある。
(参照: 〔蓑火(みのひ)〕の喜之助 の項)
(参照: 〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門 の項)

年齢・容姿:60代後半か。痩せこけて、焼きざましの干物(ひもの)のよう。
生国:武蔵国中仙道ぞい前砂村(現・埼玉県北足立郡吹上町前砂)

探索の発端:巨盗〔夜兎〕の角右衛門は、『鬼平犯科帳』シリーズに2年半ほど先立つ単独短篇[白浪看板](新潮文庫『谷中・首ふり坂』に収録時[看板]と改題)で、〔夜兎〕は頼まれて臨時にお盗めに加えた者の不始末を恥じて一味を解散、自首して出て鬼平の下で密偵となった。
それまで、〔夜兎〕一味は火盗改メに追われたことはなく、したがって〔前砂〕の捨蔵も目をつけられたことはない。

結末:〔夜兎〕一味の解散のとき、角右衛門にいいつかり、かつて先代ゆずりの掟の3ヶ条をやぶった臨時の手下〔名草(なぐさ)〕の綱六を始末するために備前の下津井へ向かった。
そのあと、門前花屋の亭主として一生を終え、畳の上で往生をとげたものとおもわれる。

つぶやき:元鳥越にあるのは、「松寿院」ではなく、「寿松院」。現存の寺院名を避けたとの考え方もあろうが、じつは、池波さん愛用の近江屋板の切絵図の誤植---が真相。池波さんが切絵図の誤植をそのまま書き写しただけのこと。

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台東区鳥越2丁目にある不老山寿松院

吹上町前砂まで現地へ足をはこんだ朝日CC〔鬼平〕クラスのリポーター・上尾宿のくまごろうさんによると、「吹上町」の町名は、荒川(現・元荒川)がその名のとおりによく荒れ狂い、洪水時につくり出す両岸の自然堤防に、晩秋から春先、北西の風が砂ぼこりを吹き上げるところから吹上(ふきあげ)との名が生まれた、と。
で、くまごろうさんは、地元では「前砂(まえすな)」と呼んでいるが、「舞砂(まいすな)」がなまったのかも、と。

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幕府道中奉行作製『中仙道分間延絵図』(寛政年間)にみる前砂村と村社・氷川神社

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村社・氷川神社の石標(くまごろうさん撮影)

池波さんは、「前砂」という「呼び名」がかなりお気に入りのようで、前掲[〔手越(てごし)〕の平八](新潮文庫『あばれ狼』収録の[さいころ蟲]の主人公。参照:当サイト[〔手越(てごし)〕の平八])にも、〔前砂〕の甚五郎な老人を登場させているし、これも単独短篇[正月四日の客(角川文庫『にっぽん怪盗伝に収録)には〔前砂〕の甚七という引き込み役の盗人を描いている。

池波さんが、なぜ、「前砂」にこだわるのか、調べは今後の課題---といっておく。

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2005.01.12

〔不破(ふわ)〕の惣七

『鬼平犯科帳』文庫巻7に収録の[泥鰌の和助始末]に登場している食えない盗人夫婦。
役者くずれ料理人くずれで、腹の底では何を考えているのかわからないような男なので、先代〔狐火〕のお頭がていよく追い出した。
他人のお盗め金を横取りする、盗人の風上におけない奴。
女房おかねもいっとき、先代〔狐火〕の勇五郎のところで、引き込みをやったことがあり、おまさとは顔見知り。

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年齢・容姿:45,6。でっぷりと肥え、顔の血色もあざやかで、人あたりもいい。
女房おかねは、大女。
生国:美濃国不破郡のどこか(現・岐阜県不破郡内)

探索の発端:嫡男・辰蔵が通っている市ヶ谷左内坂上の坪井主水道場へ、松田十五郎と名乗る剣客(50がらみ)が現れたことから、鬼平は、その剣風で、20t数年前に高杉銀平道場の食客だった松岡重兵衛と察する。
(参照: 剣客・松岡重兵衛の項)
そのころ、無頼の徒の頭分を気どっていて小遣い銭に窮した銕三郎(平蔵の家督前の名)は、岸井左馬之助とともに盗人の手伝いをしようとしたのを、松岡重兵衛にこっぴどくたしなめられて、思いとどまったことがある。

結末:〔不破〕の惣七を、松岡重兵衛が信用し、〔泥鰌〕の和助の計画---自殺した息子の仇討ちを兼ねたお盗めの一味に引き入れたが、けっきょく、裏切られる。重兵衛も和助も〔不破〕の惣七が雇った浪人たちに斬殺される。
〔不破〕の惣七と浪人4人が火盗改メの縄にかかかり、獄門。

つぶやき:他人が苦労して得た盗み金を、横からさらっていくなんて、言語道断。
しかし、情報社会の現在は、横取りされるのは金だけではない。情報もそうだし、アイデアもそう。

『江戸名所図会』は池波さんが1日に1回は見て、創作の糧としているとエッセイにあったので、少年時代に画家を志した池波さんのことゆえ、『名所図会』の長谷川雪旦の単彩の絵も頭の中で彩色しているに違いない、と推察。

それで、8年前から、枠つき2ページに分かれている『江戸名所図会』の絵の枠を取っ払ってつなぎ目を補整して元絵をつくり、それを〔鬼平〕クラスの有志で塗り絵して江戸を現代によみがえらせた。
また、『鬼平犯科帳』や『剣客商売』のこの場面はこの絵が発想のバネ----とリスト化し、FDに入れて情報の共有化ということでクラスのメンバーへ配布したら、さっそく真似したばかりか、さも自分のアイデアのように装い、しかも、ホームページのタイトルまでもパクリ同然につけたのが現れた。

現代版〔不破〕の惣七である。こういうご仁は、反省ということを知らない。
この仁がクラスにいたときに塗り絵をすすめたら、「私は塗り絵はしません」とにべもなく断ってきたのだが---。

ま、松岡重兵衛ほどの苦労人でも、〔不破〕の惣七の本性を見破れなかったのだから、凡人のぼくがだまされたのはいたしかたないか。


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2005.01.11

〔門原(もんばら)〕の重兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻8の[白と黒]にほんの数行だけ書かれている首領。

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年齢・容姿:書かれていないため、不明。
生国:信濃国伊那郡門原村(現・長野県下伊那郡阿南町富草 門原)

探索の発端「その男、異名を〔翻筋斗(もんどり)の亀太郎〕といい、平蔵が去年の春(注・寛政4年 1792)に捕らえた門原(もんばら)の重兵衛一味の盗賊であった」
[白と黒]の篇の主役は、お目見え泥の女2人と〔翻筋斗〕の亀太郎であり、〔門原〕一味が捕らえられるときに逃げおうせた亀太郎の説明として、重兵衛が添えられている。

結末「盗賊改方が、高輪台町の小さな寺に潜み隠れていた門原の重兵衛以下十一名を捕らえたのは、去年の二月末の或日の夕暮れであった。
平蔵みずから出役(しゅつやく)し、与力・同心合せ十三名、捕方十名をもって、件(くだん)の寺を包囲し、いっせいに打ちこんだ」
逃げおうせた亀太郎を除く一味は、死罪だったろう。

つぶやき:火盗改メと盗賊団の知恵比べ・力比べの物語がこのシリーズのはずだか、中に、探索の経緯を省略したものがいくつかある。
〔門原〕の重兵衛もその1人----それを、執拗に調べたのが、学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラスでともに学んでいる新兵衛さんである。
池波さんが調べたにちがいない、伊那から遠江国へ抜ける遠州街道へ着目し、「八幡宿-時又宿-阿知原宿-粒良脇宿-山田河内宿-合原宿-雲雀沢宿-粟野宿-門原宿-早稲田宿-帯川宿-新野宿と、長野県側に12の宿場」を見つけた。

詳細の書かれていない逮捕劇を、自分流に組み立てて想像してみるのも、このシリーズを読む、楽しみ方の一つともいえようか。

探索の発端や逮捕の経緯が書かれていない逮捕劇

探索の発端や逮捕の詳細ん書かれていない逮捕劇
文庫 篇名      事件
[1-4 浅草・御厩河岸] 〔真泥〕の伊之助を堀帯刀が逮捕。
(参照: 〔真泥〕の伊之助の項)
[1-7 座頭と猿]     〔五十海〕の権平を逮捕。
(参照: 〔五十海〕の権平の項)
[2-1 蛇の眼]       〔上蚊野 〕の乙五郎逮捕
(参照: 〔上蚊野 〕の乙五郎の項 )
[2-4 妖盗葵小僧]   〔赤観音〕の久兵衛を高崎へ出張って逮捕。
(参照: 〔赤観音〕の久兵衛の項)
[4-5 あばたの新助]  〔神崎〕の弥兵衛一味を越ヶ谷へ出張って。
(参照: 〔神崎〕の弥兵衛の項)
[8-2 あきれた奴]    〔日影〕の長右衛門一味の逮捕。
(参照: 日影の長右衛門の項)
[10-3 追跡]       岡部へ急行、坂田一味11名を捕縛。
[10-6消えた男]     高松元同心の働きで5組の盗賊を逮捕。
[12-1いろおとこ]    〔舟見〕の長兵衛一味、
(参照: 〔舟見〕の長兵衛一味)
              〔鹿熊〕の音蔵一味の逮捕。
(参照: 〔鹿熊〕の音蔵の項)
[13-2 殺しの波紋]   〔高窓〕の久兵衛の後釜の浪人逮捕に小田原へ。
(参照: 〔高窓〕の久兵衛の項)
 〃          3年前、〔下津川〕の万蔵一味6名を逮捕。
(参照: 〔下津川〕の万蔵の項)
[14-4 浮世の顔] 〔神取〕の為右衛門に何度か臍を噛だ。
(参照: 〔神取〕の為右衛門の項)。
[14-5 五月闇]      〔四ッ屋〕の島五郎を逮捕。
(参照: 〔四ッ屋〕の島五郎の項 )
[16-6 霜夜]       〔須の浦〕の徳松一味を池田又四郎が襲う。
(参照: 〔須の浦〕の徳松の項 )
[18-4 一寸の虫]     〔不動〕の勘右衛門一味の逮捕。
[20-1 おしま金三郎]  牛尾一味の逮捕。
(参照: 〔牛尾〕の又平の項)
[21-4 討ち入り市兵衛]〔蓮沼〕の市兵衛。
(参照: 〔蓮沼〕の市兵衛の項)
[21-5 春の淡雪]    〔雪崩〕の清松の密告により3件の事件が解決。
[24-1 女密偵女賊]   浪人:大野甚五郎を逮捕。

などがあり、自分で勝手に、探索の発端や見張りの手配、結末などが空想できる。[1-4 浅草・御厩河岸] 〔真泥〕の伊之助逮捕
[1-7 座頭と猿]      〔五十海〕の権平逮捕
[2-1 蛇の眼]       〔上蚊野 〕の乙五郎逮捕
[2-4 妖盗葵小僧]    〔赤観音〕の久兵衛逮捕
[4-5 あばたの新助]   〔神崎〕の弥兵衛逮捕
[8-2 あきれた奴]     〔日影〕の長右衛門逮捕
[8-5 白と黒]        〔門原〕の重兵衛逮捕
[10-3 追跡]        〔坂田〕一味の逮捕
[12-1 いろおとこ]     〔舟見〕の長兵衛と
              〔鹿熊〕の音蔵逮捕
[13-2 殺しの波紋]   〔下津川〕の万蔵逮捕
[14-4 浮世の顔]    〔神取〕の為右衛門取り逃がし
[14-5 五月闇]      〔四ッ屋〕の島五郎逮捕
[16-6 霜夜]       〔須の浦]の徳松逮捕
[18-4 一寸の虫]     〔不動〕の勘右衛門逮捕
[20-1 おしま金三郎]  〔牛尾〕一味逮捕
{21-4 討ち入り市兵衛] 〔蓮沼〕の市兵衛の盗みを逃した
[21-5 春の淡雪]     3件の盗難事件
[24 女密偵女賊]   浪人・大野甚五郎逮捕

2005年06月07日、阿南町に門原を訪ねた。
経路などの詳細は、 〔帯川〕の源助
を参照されたい。
阿南町役場前から151線を北上すること7分(3キロ)ほどで、集落(現・60戸ほど)のとっかかりの門原川にこの橋が架かっていた。

803
門原大橋

阿南町のURL
http://www.town.anan.nagano.jp/

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2005.01.10

〔岡津(おかつ)〕の与平

『鬼平犯科帳』文庫巻6に所載の〔狐火〕に顔をみせる、だらしのない盗人。
初代〔狐火〕の勇五郎の歿後、本妻の子・文吉側につき、畜生働きを京坂で2件、江戸・市ヶ谷・田町の薬種屋〔山田屋〕でも家族使用人17人を皆殺しにした犯行に従事。

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年齢・容姿:とりたてて書き込むほどの盗人ではないと池波さんが考えたか、いずれも記述なし。
生国:遠江国佐野郡岡津(現・静岡県掛川市岡津)

探索の発端:京坂での押し込み先の者たちを皆殺しにした畜生働きの現場に、〔狐火〕の札が貼られていたことに不審をおぼえた、妾の子ながらそのすぐれた知力・胆力に、〔狐火〕の2代目を名乗ることを先代から許された又太郎が、中川ぞいの葛飾郡・新宿(にいじゅく)の渡舟場の茶店の亭主・源七を訪ねてきた。
この源七こそ、先代〔狐火〕の勇五郎の右腕といわれた〔瀬戸川〕の源七の引退後の姿であった(参考:当サイトのカテゴリー[静岡県]2004年12月20日の〔瀬戸川〕の源七もあわせてご覧いただきますよう)。

〔瀬戸川〕の源七は、初代〔狐火〕の勇五郎が江戸に構えていた向島・木母寺の近くの隠れ家の始末を頼まれた初代の左腕〔竹森〕の彦造が、その代金を又太郎へ渡していないことから、そこがニセの〔狐火〕を名乗る文吉の「盗人宿」になっていると見きわめた又太郎、源七、密偵おまさは、その家を見張る。
そこへ、〔岡津〕の与平がその家から出てきて諏訪明神の前にさしかかったところを、舟で先まわりしていた又太郎に捕まり、右手の指を2本切り落とされるや、ふがいなく、すべてを白状してしまった。

結末:これも記されていないが、鬼平に召し捕られた文吉一味7名とともに処刑されたろう。

つぶやき:こういう軽い役の盗人にまで「通り名(呼び名ともいう)」を池波さんがつけているのは、物語のリアリティを尊重しているからである。

そういう気くぱりは、押し込まれる商家の町名や屋号にもおよんでいる。そのため『鬼平犯科帳』は、再読、三読に耐え、なお、重ね読みのたびに新しい発見が出てくる。

ニセの2代目〔狐火〕の勇五郎を名乗った文吉が「盗人宿」として使った家から出た〔岡津〕の与平が捕まった場所、諏訪明神は、池波さん愛用の近江屋板の切絵図にも尾張屋板にも載っているが、現在はそこにはなく、明治初年の太政官府の神社統合令により、近くの白鬚神社(墨田区東向島3丁目)の拝殿右へ移された。

「髯」は頬ひげ、「髭」は口ひげ、白鬚神社の「鬚」は顎ひげ。したがってここの祭神は猿田彦命(さるたひこのみこと)だが、隅田川七福神としては寿老神。ちなみに、白鬚とは百済(くだら)のことで、帰化人を意味するとも。

木母寺には謡曲「隅田川」の梅若塚が祀られている。寺号は「梅」の字を分解したものとか。

「岡津」について、「横浜市在住 未熟なファン」と称される方から「横浜市泉区に岡津町があります。かつての戸塚区から新しく分けられたところだと思います」とのメールをいただいた。

横浜市の岡津町は、池波さんがよく食事なんかへ行っていた横浜の一区画である。
掛川市の岡津は、『鬼平犯科帳』連載前に武田信玄、織田信長、徳川家康などの合戦記録を調べるために旅行していた地区……。
どちらの岡津が池波さんの頭にあったか、かんがえた。

〔狐火〕の文吉は江戸に不案内だから、横浜生れの〔岡津〕の与平を引き入れたのかも……ともかんがえたが、江戸にくわしい配下としては〔竹森〕の彦造が配下にすでにいることだし、京都に縁の深い先代〔狐火〕に近い土地として掛川市の岡津のほうを採った。

探訪記:(2005年02月06日 東京駅・朝07時10分発の〔こだま〕で静岡へ。さらに東海道線で掛川。天竜浜名湖鉄道の1輌きりの電車で西へ3つ目の「桜木駅で下車したのはぼくともう1人きり。運転室の窓から顔と手を出している運転手へ切符を渡す。9時28分。日曜のこの時間帯は無人駅なのだ)。駅前にも人影がないから道もきくことができない。

(ままよ)と、信州街道(秋葉街道)を北西へ向ってウォーク。追い越してゆくのは疾走する車ばかり。
途中のコンビニの店員に「岡津」を尋ねると、来た方角を指さすばかり。
引き返し、天浜鉄道の踏み切りをわたって丘への道を上る。と、見渡すかぎりいちめんの茶畑だ。岡津の地名のゆえんが理解できた気がした。

風力発電機のような風車が無数、畑のいたるところへ立って、寒風をうけてくるくる回っている(あとで岡津の老人に聞いたら、防霜機で、畑の気温が4度Cに下がったら作動して大気を撹乱する装置なのだと)。

茶畑で仕事をしていた80年配の男性に聞く。岡津はいま70戸ほど。若い人が出て行って、茶畑を継ぐ者が減っているのだと。

その老爺のいうには、茶畑の中につくられた歩いていた道をはさんで、南が大須賀、北が浅井が支配地だったと聞いていると。どうも、家康と信玄の時代のことらしい。
手元の『旧高旧領取調帳』だと、岡津の3分の1は西尾隠岐守の領地、あとは幕臣の久保田にがしと細井なにがしの知行地だった。
とにかく、台地なので米ができない。それで、村を出て行く若者が昔も多かったろう。〔岡津〕の与平もそのひとりだったのではなかろうか。

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郷の周囲の丘陵は見渡すかぎり茶畑。無数に立っているのは防霜機

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2005.01.09

〔真泥(まどろ)〕の伊之松

『鬼平犯科帳』文庫巻1の[浅草・御厩河岸]にチラッと顔出しする盗人。
甲州・石和(いさわ)が本拠の〔鶍(いすか)〕の喜右衛門の頭株。
(参照: 〔鶍〕の喜右衛門の項)

201

年齢・容姿:不明。記述されていない。
生国:伊賀(いが)国山田郡(やまだこうり)真泥(みどろ)村(現・三重県阿山郡大山田村真泥)

探索の端緒:鶍(いすか)の喜右衛門の配下で頭株のくせに、単独で江戸へ出てきて盗みを働いたところを、そのころ火盗改メだった堀帯刀の組(先手弓の第1組)に捕らえられ、佐嶋与力が拷問にかけて鶍(いすか)一味の所在を吐かせた。

結末:大坂で大仕事をするために本拠の石和(いさわ)に集まっていた鶍(いすか)の喜右衛門以下一味12名が捕縛され、江戸送りの上、死罪。

つぶやき:佐嶋与力が拷問の指揮をとったというから、堀帯刀が弓第7組から弓第1組の組頭へ転じた天明6年(1786)12月17日から、持弓頭へ栄転した同8年9月28日までの事件であろう。
この組替えには、弓第1組の与力たちが100両のワイロを、堀帯刀の用人へ贈ったという噂があった。
火盗改メの組の与力には20人扶持(月に約4両に相当)の手当てがつくからである。

[浅草・御厩河岸]は『オール讀物』1967年12月号のために、単発で書かれた鬼平ものである。
この原稿を駆け出しの編集者へ渡すとき、池波さんは「長谷川平蔵というおもしろい男がいてね。人足寄場なんかつくってね」とコナをかけた。
社へ帰った新米編集者は、そのことをさっそく編集長へ報告し、『オール讀物』への連載が決まった。

超人気小説の連載決定の裏話である。
三重県の真泥は、地元では(みどろ)と呼ぶ---とは、学習院生涯学習センター[鬼平]クラスでともに学んでいる新兵衛さんの説である。『旧高旧領』も(みどろ)としている。


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2005.01.08

〔荒金(あらがね)〕の仙右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻2に収録の[密(いぬ)偵]で、密偵をやっている弥一に売られた首領。
追捕された一味11名。

202

年齢・容姿:不明。記述されていない。
生国:因幡国小田村字荒金(現・鳥取県岩美郡岩美町荒金)

探索の発端:鬼平の前任者・堀帯刀秀隆の時代のことなので不明。、どういう経緯でか捕らえられた、〔青坊主〕の弥一がきびしい拷問に耐えきれず、麻布広尾にあった一味の盗人宿を白状したために、〔荒金〕の仙右衛門はじめ一味の11名が捕まった。
うち、〔縄ぬけ〕の異名をもつ庄五郎が縄をほどいて逃走し、裏切り者の弥一の命を狙う。

結末:〔荒金〕一味は、縄ぬけした庄五郎を除いて、全員打ち首。4年後、密偵・弥一は庄五郎に殺された。

つぶやき:池波さんが座右から-放さなかった吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治後半に刊行)には、「荒金」という地名は因幡国岩美郡の一つしかない。それで岩美町出身とした。

新潟県南魚沼郡大和町荒金は、未調査。

「荒金」とは、銅の古語(阿良加祢)。

岩美町役場 総務課長・向山さんからのメールに、「42代文武天皇2年3月に銅鉱を朝廷へ献上した経緯があり(略)、その後、武蔵野国も銅を献じて年号が和銅と改まったが、因幡(鳥取県)が献じたのはその7年前である。
荒金鉱山は、江戸時代にはあまり活発ではなかったようで、本格的な採掘は明治22年(1889)から。
経営母体もいろいろ移ったが、昭和18年(1943)の直下型地震による被害で採掘を中止したあとは、自然原水による沈殿銅採収になった。
現在は閉山。町は坑廃水処理に追われている」

1943年の鳥取地震のとき、ぼくは中学1年だったが、家も蔵も倒壊、すとんと垂直に落ちた蔵の屋根の庇の下でその夜、雨をしのいだ。

〔荒金〕の仙右衛門は本格派の大盗〔夜兎〕の角右衛門と親交があったというから、彼もまた「犯さず、殺さず、貧しきからは盗まず」の掟を守った本格派だったのだろう。古里・鳥取から一味を率いたお頭がでたことを誇りにおもう。

[密(いぬ)偵]での掘帯刀に対する池波さんの評価は、「なかなかの腕きき」ということだったが、連載が深まるにしたがって、評価は下がっていった。
堀帯刀はそれほどの切れ者ではなかったという史実が、だんだんに判明してきたのであろう。
堀帯刀の名誉のために付言しておくと、ご当人はともかくとして、ワイロをむさぼった用人のせいで世評を落としていた気配がつよい。

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2005.01.07

〔鹿留(しかどめ)]の又八

『鬼平犯科帳』文庫巻8に収録の[あきれた奴]の一人。
〔蓑火〕の喜之助の下で修行をつみ、3カ条を守りながらのひとりばたらききののち、足を洗い、浅草六軒町・裏道で数珠師として生計をたて、女房・子もいる。
(参照:〔蓑火(みのひ)〕の喜之助の項)

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年齢・容姿:42歳。ずんぐりとした体格だが、動作はきびきびしている。
生国:甲斐国南都留郡鹿留村(現・山梨県都留市鹿留(ししどめ))

探索の発端:谷中を夜廻りしていた同心・小柳安五郎が、古門前町の正林寺(架空)の塀から飛び降りた2人組の賊に出会い、峰打ちにして〔鹿留〕の又八だけを捕らえた。
その後、子ども連れで両国橋から身投げしようとしている又八の女房に行きあわせて、助けた。
相棒の名前を吐かない又八を、小柳は、女房に会わせてやろうといって牢から出し、けっきょくは逃がした形をとり、自分が身替わりりとなって、半年間入牢する。
半年後、〔鹿留〕の又八は、義理で助(す)けてやったのに僧2人を殺した〔雨畑〕の紋三郎を探しだして捉え、火盗改メの役宅へ帰ってきた
(参照: 〔雨畑〕の紋三郎の項)

結末:七年の遠島。女房おたかはその帰りを待つ。

つぶやき:せっかく足を洗い、女房ももらい、子もなしながら雨畑〕の紋三郎の助(す)け働きをしたのは、ひとり働きを時代に知り合い、心を許しあった、〔夜兎〕の角右衛門一味にいたことのある〔八町山〕の清五郎への義理がからんでいたからである。〔雨畑〕の紋三郎は清五郎の甥だった。

義理を重んじ、受けた恩をいつまでも忘れない---たとえ、それが自分の身の破滅を招くとわかっていても、恩義を返さないではいられない---西洋風も日本風もない、きちんとした人間の基本である。

山梨県都留市産業観光課 小宮さんからのリポート

あの『鬼平犯科帳』に、都留市鹿留出身の人物(鹿留の又八)が登場していたことに、驚きと喜びでいっぱいです。お教えいただきありがとうございます。

その鹿留ですが、明治8年(1875)1月に、ほかの8か村と合併して桂村となり、その後、鹿留を含む東桂村と西桂村に分離。東桂村は昭和29年(1954)4月29日に1町4か村が合併して都留市となりました。
かつての鹿留村ですが、文化3年(1806)は 222戸、 862人、天保12年(1841)は 177戸、 619人との記録にあります。昭和55年(1980)では 415世帯 1,704人でした。

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鹿留渓谷(都留市のリーフレットより転載)

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2005.01.06

〔網掛(あみかけ)〕の松五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻14に所載[さむらい松五郎]のじつの〔呼び名〕。
〔さむらい松五郎〕の由来は、好んで侍姿をしているため。
上方から中国すじを荒らしていた故〔湯屋谷〕の富右衛門の右腕だった。
(参照: 〔湯屋谷〕の富右衛門の項)

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年齢・容姿:事件は寛政8年(1796)夏におきているから、そっくりさんの木村忠吾はそのとき29歳。鬼平が「松五郎は兄か」といっているから30すぎだろう。忠吾に似ているなら、色白で兎のようにやさしい容貌。
生国:信濃国更科(さらしな)郡網掛村(現・長野県埴科(はにしな)郡)坂城(さかき)町網掛

探索の発端:[五月闇]で刺殺された密偵の伊三次を、菩提寺である中目黒の威得寺の墓域に葬った同心・木村忠吾が、墓参後、名物の黒飴を購っての帰路、〔須坂(すざか)〕の峰蔵に呼びよめられた。そっくりの〔さむらい松五郎〕と間違えられたのだ。
血を見るおつとめが嫌いの〔須坂〕の峰蔵とすると、正統派だった故〔湯屋谷〕の富右衛門の右腕〔網掛〕のお盗めを助(す)けたいと。
ところが忠吾と打ち合わせをしたすぐあとに、ほんものの〔さむらい松五郎〕に声をかけられたから、峰蔵は混乱してしまった。

結末:〔須坂〕の峰蔵が助(す)けることになっていた〔轆轤首(ろくろくび)〕の藤七一味は、断首。
小柳安五郎が捕らえたほんものの〔網掛〕の松五郎と、〔須坂〕の峰蔵の処置は書かれていない。

つぶやき:コメディー・リリーフ役の兎忠こと木村忠吾をの面目躍如の好篇。とくに、〔さむらい松五郎〕になりきっての先輩・小柳安五郎を手下あつかいしたあとのやりとりが秀逸。

威得寺は明治20年に廃寺となり、瑞聖寺(港区白金台3丁目)へ合祀された。

池波さんは、目黒不動門前の〔桐屋〕の黒飴----といろんなところに書いている。出所は『江戸名所図会』の店頭の絵だが、そこに書かれているのは「目黒飴」---つまり「目黒の飴」で、絵には白飴が描かれている。

また、不動門前の料理屋〔伊勢寅〕の名代の一つ、筍飯も、実際に筍が目黒の名産となったのは幕末から明治初めからで、鬼平のころにはまだ広まっていまかった。

ま、そういう詮索は、ファンには無用といっておく。話のおもしろさにひたればいい。そっくりさんを書いたのは、池波さんの頭に1人2役の舞台があったからであろう。もっとも、忠吾は総髪、松五郎は月代を剃っているから、この早替わりをどう解決するか。

これもファンは気にしないことだが、この事件のおきた寛政8年には史実の長谷川平蔵は故人になっている。
平蔵の歿年は寛政7年(1795)5月10日(旧暦)。『寛政重修諸家譜』に5月19日に歿とあるのは、辞職願などの手続きが済んで公式に喪を発した日。

長野県 埴科(はにしな)郡坂城(さかき)町商工課  三井 さんからの連絡---
「網掛村」は、明治22年4月1日に上平村(うえたいらむら)と合併し更級(さらしな)郡村上村(むらかみむら)となりました。その後、昭和35年4月1日に埴科(はにしな)郡の坂城(さかき)町に編入合併されました。町の西、千曲川の左岸に位置し、人口は930人(平成14年4月1日)です。

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2005.01.05

〔荒尾(あらお)〕の庄八

『鬼平犯科帳』巻10[お熊と茂平]に顔見せする、千住大橋の手前、小塚原で畳屋をやっている。
じつは、宇都宮を本拠とする〔今市〕の十右衛門の配下。
(参照: 〔今市〕の十右衛門の項)

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年齢・容姿:40がらみ。小柄だが筋骨たくましい。
生国:美濃国(養老郡?)荒尾郷(現・岐阜県大垣市荒尾町)

探索の発端:鬼平を支えるキャラの一人で、その言動に笑いをまきちらすお熊婆さんのボーイフレンド、南本所の名刹・弥勒寺の寺男の茂平の遺言で、お熊は茂平の死を、〔荒尾〕の庄八のところへ伝えに行く。

お熊から事情を聞いた鬼平は、茂平が引き込みではないかと疑い、〔荒尾〕の庄八に見張りをつける。
案の定、庄八の動きがあやしくなった。尾行すると、〔今市〕の十右衛門につながって行ったのである。

結末:ひそかに庄八夫婦を捕らえ、その畳屋を訪れる一味をつぎつぎと逮捕。その者たちの自白で〔今市〕の十右衛門もお縄に。死罪。

つぶやき:美濃生まれの庄八と、宇都宮が本拠の〔今市〕の十右衛門とのつながりがしばらくわからなかったが、庄八の母が京の紙問屋〔近江屋〕太四郎の妾腹と知り、太四郎かその先代が東近江の出身なら、赤坂宿の南にある荒尾郷は中仙道でつながると推測。庄八の母は、伝手を頼って〔近江屋〕へ奉公に上がったのだろう。
大垣市在住の畏友・川中さんからのメール「荒尾の旧家に尋ねると、明治以前はわからないが、大正―昭和で、荒尾に畳屋はないとのこと」
荒尾村に畳屋がなかったとすると、庄八は村をでてからどこかで畳職の技術を身につけたことになる。
まあ、「荒尾」という地名は、愛知県北設楽郡設楽町、同県東海市にもあるから、いちがいに荒尾郷の出ときめるわけにもいかないが、近江にもっとも近いのは美濃の荒尾郷なので----。

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2005.01.04

〔沼目(ぬまめ)〕の太四郎

『鬼平犯科帳』文庫巻18の[毒苺]に登場する凶悪で狡猾な盗人。
嘗役(なめやく)の〔針ヶ谷〕の宗助の女おさわをたぶらかして溜め込んだ金まで狙う。

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年齢・容姿:42,3歳。眉がうすく、眉間に小豆大の黒子。
生国:信濃国上高井郡沼目村(現・長野県須坂市沼目町)

探索の発端:亀戸の料亭〔玉屋〕で食事を楽しみ、帰路についた鬼平の先方で争う物音がしたので、鬼平が名乗ると、襲った側とともに襲われた商店主風の男も消えていた。

その男を〔玉屋〕へ尋ねてきた痩せて背の高い張替え屋を探していて、その男と逢った女おさわとわかり、2人の住い---下谷・坂本3丁目の正洞院の裏までつきとめられた。

池之端の出会茶屋でおさわが体を交わしあっていたのは、なんと、〔針ヶ谷〕の宗助から見取り図を買い取った〔沼目〕の太四郎だった。

つぶやき:亀戸の料亭〔玉屋〕では、鬼平の好物の酒の肴---削ぎ取った鯉の皮を細く切って、素麺と合わせた酢の物と、雄の鯉の煮つけを出した。
『江戸名所図会』によると、亀戸天神の門前や裏門の料亭は、それぞれ生簀(いけす)を構えて鯉を泳がせているそうな。池波さんは、これを読んで、〔玉屋〕の献立にくわえたのであろう。

ちょっと一言。
『鬼平犯科帳』には、〔玉屋〕は天神の表の鳥居前にあると書かれているが、広重の錦絵[江戸高名会亭尽]の〔玉屋〕には、「亀戸天神裏門前」と注記されている。もっとも、現存しない料亭だし、門前だろうと裏門だろう小説の雰囲気には変わりはない。あるのは、帰っていく沼目〕の太四郎がたどる道筋だけである。
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亀戸天満宮(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾忠久)表門と左手裏門あたりに料理屋と書かれている>

鯉の生簀について、『江戸名所図会』はもう一箇所、向島の秋葉大権現のまわりの庵崎の料亭の多くが構えているとしている。文庫巻20[高萩の捨五郎]で、鬼平が彦十を連れて行った裏門茶屋〔万常〕もその一軒である。ここで彦十が〔高萩〕の捨五郎を見かけた。
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向島請地の秋葉大権現の周辺の庵崎の料亭(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾忠久)

付記:長野県 須坂市役所 経済部商工観光課 北 さんからのリポート

「沼目村」は、明治22年4月1日に、周囲の八重森村など5か村と合併して「日野村」となり、昭和29年2月11日に「須坂町」へ合併、「須坂町」は2か月後に市制施行で「須坂市」となっています。
「沼目町」の人口は、平成14年11月1日現在で、世帯数91、男性 173、女性 176で、計 349名です。市内に占める「沼目町」の位置は、市教育委員会による『須坂市の地名』の地図に注をつけました。
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2005.01.03

〔蓑火(みのひ)〕の喜之助

『鬼平犯科帳』文庫巻1[老盗の夢]ほかにしばしば登場。
「犯さず、殺さず、貧しきからは盗まず」の本格派の3カ条を守りぬいて死んでいった。

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年齢・容姿:67歳。めっきり老け込んだ老顔。
生国:信濃(しなの)国上田(長野県上田市)
探索の発端:隠居していた京都で、偶然に、愛宕郡の山端(やまばな)の茶屋〔杉野や〕で茶汲みをしている20歳の大女・おとよと出会う。

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おとよが働く山端の麦飯茶屋は2本の板橋の向う岸の2軒のどちらか(『都名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

もともとから大女が好みの喜之助は、しばらく絶えていた老躯が抱いたおとよの狂態によって蘇えったのに驚喜。

おとよとの新生活の夢がふくらみ、その資金稼ぎに江戸へ下り、盟友〔夜兎〕の角右衛門の盗人宿の一つ---元鳥越の松樹院門前の花屋〔前砂(まいすな)〕の捨蔵に、おつとめを助けてくれる者たちを紹介してもらう。
〔蓑火〕一味は、これまで、江戸でおつとめをしたことはなかったからである。
(参照: 〔夜兎〕の角右衛門の項)
(参照: 〔前砂〕の捨蔵の項)

ところが、〔野槌〕の弥兵衛一味の生き残りだった彼らは、〔蓑火〕流の本格派のつとめをせせらわらい、喜之助を縛って彼らだけで押し入ろうとする。
(参照: 〔野槌〕の弥兵衛の項)

結末:本格派の意地にかけても見逃すわけにはいかない。九段坂下の屋台で出陣の酒を飲んでいた彼らを刺殺するが、みずからも命を絶った。
亡骸が〔蓑火〕の喜之助と知れたのは、彦十や〔小房〕の粂八が刺し傷だらけの壮絶な遺体改めたからである。
この篇は、本格派への挽歌といえる。

つぶやき:盗賊一味をたばねていく首領にも、相応の指導力と知力が必要である。しかしぼくは、もう一つの条件をつけたい。

それは、どれほどの配下を鍛え、育てたか、である。
〔蓑火〕の喜之助はすごい。


                      ★首領
 源吉 宿屋〔藤や〕の主人 50男  [1-5 老盗の夢]
(参照: 〔藤や〕の源吉の項)
 〔白玉堂〕の紋蔵 のち〔蛇の軍師〕 [2-1 蛇の眼]
(参照: 〔白玉堂〕の紋蔵の項)
★〔大滝〕の五郎蔵 6尺余の巨漢  [4-7 敵]
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
★〔五井〕の亀吉。〔大滝〕と共同で盗めを [4-7 敵]
(参照: 〔五井〕の亀吉の項)
 〔舟形〕の宗平。〔蓑火〕から 〔初鹿野〕一味ヘ [4-7 敵]
(参照: 〔舟形〕の宗平の項)
  〔大和屋〕金兵衛 〔蓑火〕の解散で上野山下で鰻屋を [5-1 深川・千鳥橋]
(参照:〔大和屋)金兵衛の項)
  〔関宿〕の利八 のち〔夜兎〕の角右衛門配下 [5-6 山吹屋お勝]
(参照: 〔関宿〕の利八の項)
〔夜兎〕配下の女賊おしのが〔関宿〕の利八とできたので、
〔蓑火〕がおしのを預かり利八は許してもらう [5-6 山吹屋お勝]
(参照: 〔山吹屋〕お勝 の項)
〔蛙〕の市兵衛 五郎蔵と仲がよかった。
 息子:〔砂井〕の鶴吉       [7-4 掻掘のおけい]
(参照: 〔砂井〕の鶴吉の項)
 〔鹿留〕の又八 数珠師     [8-2 あきれた奴]
(参照:〔鹿留〕の又八の項)
 おひろ 〔風穴〕の仁助の女房 骨がみたい [9-5 浅草・鳥越橋]
(参照: 女賊おひろの項)
 〔長久保〕の佐助。         [12-3 見張りの見張り]
(参照: 〔長久保〕の佐助の項)
★〔墨つぼ〕の孫八。         [13-4 墨つぼの孫八]
(参照: 〔墨つぼ〕の孫八の項)
  〔布目〕の伊助 半太郎の父親 [14-2 尻毛の長右衛門]
  〔布目〕の半太郎 父親とともに。 [14-2 尻毛の長右衛門]
(参照: 〔布目〕の半太郎の項)
★〔尻毛〕の長右衛門 [14-2 尻毛の長右衛門
(参照: 〔尻毛〕の長右衛門〕の項)
 〔駒屋〕万吉 妙義山の笠町で旅籠。 [14-2 尻毛の長右衛門]
(参考:〔駒屋〕の万吉の項)
 〔殿さま〕栄五郎 備前岡山の浪人  [14-3 殿さま栄五郎]
(参照: 〔殿さま〕栄五郎の項)
★〔堀本伯道 剣客医師。          [15-1 雲竜剣 赤い空]
(参照: 剣客医師・堀本伯道の項)
 鍵師の助次郎 八日市。可愛がった。[15-1 雲竜剣 赤い空]
(参照: 鍵師・助次郎の項)
 〔瀬川〕の友次郎 長年〔蓑火〕の下で。[18-6 草雲雀]
 (参照: 〔瀬川〕の友次郎の項)
 市兵衛 眼鏡師。70近い    [20-2 二度あることは]
(参照: 眼鏡師・市兵衛の項)
 女賊おしまの両親。        [20-1おしま金三郎]
 密偵・与吉 同心時代の松波金三郎の手の者
配下のころおしまの両親と親しかった  [20-1おしま金三郎]
(参照: 女賊おしまの項)
 〔三雲〕の利八 40前。役者にしたいほどいい男 [20-2 二度あることは]
(参照: 〔三雲〕の利八の項)
 〔寺尾〕の治兵衞 口合人。   [20-7 寺尾の治兵衞]
(参照: 〔寺尾〕の治兵衛の項)
 〔穴原〕の与助。          [20-7 寺尾の治兵衞]
(参照: 〔穴原〕の与助の項)

錚々たる顔ぶれである。『鬼平犯科帳』の4半分は、影で〔蓑火〕の喜之助の卒業生で支えられているといってよいのでは----。

その後、お幾さんから、〔蓑火〕が鳥山石燕『画図百鬼夜行』にでていることを教わった。
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絵には、「田舎道などに夜な夜な火のもゆるは狐火なり。この雨に着たる簑の島とよみし簑より火の出(いで)しは陰中の陽気か。又は耕作に苦しめる百姓の臑(すね)の火なるべし」が添え書きされている。

お幾さんの付記:
《みのひ》ではなくて《みのび》と言います。
新潟地方、秋田地方の妖怪
新潟ではイタチの仕業、秋田では寒い晴れた日に蓑や笠が光ることをいう。

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2005.01.02

〔犬神(いぬがみ)〕の権三郎

『鬼平犯科帳』文庫巻10に所載[犬神の権三]の主役のひとり。もうひとりは〔雨引〕の文五郎。
(参照: 〔雨引〕の文五郎の項)
ひとりばたらきの凶悪で狡猾な盗人。

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年齢・容姿:42,3歳。いわゆるいい男。中肉中背だが肥え気味。浅黒い。
生国:近江国犬上郡富尾村(現・滋賀県犬上郡多賀町富之尾)

探索の発端:見廻り中の筆頭与力・佐嶋忠介は、上野山下の五条天神門前の蕎麦屋〔名月庵〕の店頭で、出会い頭に長年探索していた〔犬神〕の権三郎と出会い、逮捕。

火盗改メの牢から、入牢中の〔犬神〕の権三郎を逃がした者がいた。密偵となって日の浅い〔雨引〕の文五郎だった。

上野・車坂下の筆師の二階で、〔犬神〕の権三郎は妾の女賊おしげと情欲のかぎりをつくしている。
権三郎は〔雨引}の文五郎を恐れている。盗み金をごまかしたことが露見、破牢は復讐のためと思いこんだ。

〔大滝〕の五郎蔵・おまさ夫妻と義父〔舟形〕の宗平は、本所・緑町で小さな煙草屋〔壺や〕をいとなんでいる。
煙草の仕入れに湯島横町の〔内田屋〕へ来たおまさは、北大門町の汁粉屋〔翁庵〕に立ち寄り、7年前に〔法楽寺〕の直右衛門の下でいっしょだったおしげに再会。尾行して居所を確かめた。
筆師の家は、火盗改メによって厳重な監視下に置かれた。

結末:千住・小塚原の桶職の家にひそむ〔雨引〕の文五郎を殺すために、浪人2人と筆師の家を出て千住へ向かった〔犬神〕の権三郎を、桶職の家の裏口で鬼平が捕縛。獄門。

つぶやき:〔雨引〕の文五郎が〔犬神〕の権三郎を破牢させたのは、かつて、大坂で身動きができなかったとき、江戸で病んでいた女房を看取ってくれた権三郎へ恩をかえすためであった。返したあと、盗み金の決着をつけるつもりでいたのだ。

鬼平がいう。
「犬神の権三郎という奴、恩をほどこしたことも、ほどこされたことも、すぐに忘れてしまう奴よ。俗にいうおっちょこちょいというやつだ」

新潟県佐渡郡小木町に犬神平という地名がある。
福島県西白河郡大字金山字犬神に、昭和56年(1971)に犬神ダムが竣工している。池波さんは「もしかしてこのダムのことを新聞かなにかで知って書き留めておいたのでは?」と推測しているのは、学習院〔鬼平〕クラスの調べ魔・新兵衛さん。[犬神の権三]の初出が昭和48年(1973)4月号」で、ダム落成はそのあととも。

池波さんが座右から離さなかった吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治37年-)に、宮尾村に祀られている犬神神社について---。
犬と暮らしていた猟師がいた。ある日、山中で、犬が吼えやまないので立腹した猟師が、山刀で犬の首を切断、首は飛び上がって樹上で猟師を狙っていた大蛇に噛みついた。
猟師は、犬の霊を慰めるために小社を祀った、と。似た伝説は諸所に見られるとも。
滋賀県の犬上郡や犬上川も、元は「犬神」と記したろう。

横溝正史『犬神家の一族』の犬神家は信州ということになっている。

多賀町のURL  http://www.tagatown.jp/

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2005.01.01

〔雨畑(あまばた)〕の紋三郎

『鬼平犯科帳』文庫巻8の[あきれた奴]に登場する盗人。
大坂の〔生駒(いこま)〕の仙右衛門の下からひとりばたらきに。
(参照: 〔生駒〕の仙右衛門の項 )

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年齢・容姿:30がらみ。頑丈そうな体格で猫なで声。
生国:甲斐国南巨摩郡雨畑村(現・山梨県南巨摩郡早川町雨畑)。

探索の発端:同心小柳安五郎が受けもちの谷中を夜廻りしていたとき、古門前町の正林寺(架空)の土塀の上から飛び降りた2人のうち、〔鹿留〕の又八(42歳)は捕らえたが、もう1人は逃がした。
非番の日、亡妻と子が葬られている安倍川町の竜源寺へ墓参、そのあと本所・亀沢町の亡妻の里で夕食をご馳走になった小柳同心は、両国橋で身投げしようとしていた母子を助けてみると、なんと〔鹿留〕の又八の妻(26歳)と子どもであった。
又八を妻子に会わせるといって牢から出し、逃げられてしまった小柳は、鬼平から入牢を申しつけられた。
半年後、〔鹿留〕の又八が大八車に棺桶を乗せて火盗改メの役宅へもどってきた。棺桶の中には、半死半生の〔雨畑〕の紋三郎がはいっていた。
飴売りに身をやつした又八は、東海道の御油で半年間、紋三郎が飯盛り旅籠の女のところへ現れるのを待ちつづけたのである。

結末:正林寺の寺僧2人を殺した〔雨畑〕の紋三郎は死罪。、〔鹿留〕の又八は遠島。

つぶやき:『鬼平犯科帳』全篇の中でも、男の信義を描ききった清冽な1篇である。太宰治『走れメロス』を連想させる。

「雨畑」に、池波さんは(あまばた)とルビをふっているが、地元では(あんばた)と呼んでいると。
良質の硯石の産地だから、紋三郎にはもったいない「通り名」で、むしろ[鹿留]と入れ替えたいほど。

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雨畑渓谷(早川町パンフレットより転載)

余談だが、郷原 宏さんから贈られた『松本清張辞典決定版』(角川学芸出版)で、松本清張ーさんの長篇みステリー『考える葉』(角川文庫)は、雨畑出身の青年が主人公と教えられた。

付記:山梨県南巨摩郡早川町 観光協会からりポート

当町の「雨畑の件」ですが、『鬼平犯科帳』では池波先生は「あまばた」とルビをふっておられるが、土地の人間は「あんばた」といっています。
町の沿革: 江戸、文化年間(1804~14)の甲斐国誌には、この地に19ヵ村あったことが記録されています。その後、これらの村々は明治初年以来、それぞれ合併や離反などの変遷を経て、大正初期には、本建、五箇、硯島、都川、三里、西山の6ヵ村に統合され、昭和32年9月30日をもって、この6ヵ村が合併、早川町が誕生しました。町の人口は約 2,500人。名硯石の産地としてよく知られている「雨畑」地区および雨畑湖は町の西南に位置しています。

硯石の原石が掘り出される雨畑渓谷(パンフレット「雨畑硯」より)

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