« 2005年1月 | トップページ | 2005年3月 »

2005年2月の記事

2005.02.28

〔赤尾(あかお)〕の清兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻14に所載の[さむらい松五郎]に、ちらっと出てくる、高崎在住の〔口合人〕。

214

年齢・容姿:まったく記述されていない。
生国:武蔵(むさし)国入間郡(いるまごおり)赤尾村(現・埼玉県坂戸市赤尾)
甲斐(かい)国山梨郡(やまなしごおり)赤尾村(現・山梨県塩山市赤尾)の線もすてがたいが、距離的に、こちらは高崎まで山また山で、街道づたいだとゆうに120キロを越してしまう。
坂戸市の赤尾からだと、50キロだし、絹の流通路づたいなので。

探索の発端:同心の兎忠こと木村忠吾が、非番の日に、中目黒の威得寺へ仲のよかった密偵・伊三次の墓参に行った。忠吾は、自家の墓域の横に伊三次を葬ってやっていたのである。
帰路、不動前の〔桐屋〕で、お頭の奥方のために、黒飴をもとめていたところ、〔須坂(すざか)〕の峰蔵と名のる盗人に肩をたたかれ、自分が〔さむらい〕松五郎こと〔網掛(あみかけ)〕と瓜二つであることを知った。
〔さむらい〕松五郎に化けきった忠吾の働きにより、、〔須坂)〕の峰蔵がいま助(す)けようとしていた〔轆轤首(ろくろくび)〕の藤七一味の動きもつかめた。
峰蔵を〔轆轤首〕へ引き合わせたのが、〔赤尾(あかお)〕の清兵衛だった。

結末:〔轆轤首〕の藤七一味はもちろん、ほんものの〔さむらい〕松五郎と〔須坂〕の峰蔵も、火盗改メの手によって捕縛された。〔轆轤首〕の藤七一味はとうぜん死罪。〔須坂〕の峰蔵は密偵になったろうが、記録はない。
〔赤尾〕の清兵衛にも手がまわったはずだが、これも書き残されてはいない。

つぶやき:〔口合人〕という新語を考案した池波さんのネーミング上手を確認するために、〔赤尾〕の清兵衛に登場してもらった。
〔口合人〕---いまふうにいうと、人材派遣業。盗賊界専門の〔口入れ屋〕である。盗賊界専門というところが目新しい。たしかに、表向きにはできない人材派遣業者ではある。

30年ほど前、ニューヨークの広告界を取材していたとき、コピーライターとかアート・ディレクター専門の〔口入れ屋〕のことを、〔パーソナル・エージェント〕と聞いた。いや、「パーソナル・エージェント」とは人材派遣業者全般をさす言葉かもしれない。

しかし、話してくれたのがコピーライターだったから、そのときは広告制作技術者専門の〔口入れ屋〕と受けとめた。
仕事先を依頼した側からは月収分、制作技術者を紹介してほしがった企業側からも月収分の紹介料をもらうのだとか。それで、人材の移動を激しくして稼ぎを大きくするために、1、2年単位で辞めさせてつぎの職場に送り込むタチの悪い〔口合人〕もいるのだとか。

池波〔口合人〕の紹介料は、いかほどだったのだろう。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005.02.27

〔妙義(みょうぎ)〕の團右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻19に所載の[妙義の團右衛門]のタイトルになっているほどの巨盗の首領。上信2州から越後へかけて大仕掛けの盗みをはたらく。手下も3,40人。女好き。

219

年齢・容姿:60歳。肥って血色のいい、6尺近い大男。歯が若者のように白い。
生国:上野(こうずけ)国甘楽郡(かんらごおり)妙義村(現・群馬県甘楽郡妙義町妙義)

探索の発端:芝の愛宕権現下の大鳥居のところで、〔妙義〕の團右衛門が、〔嘗役(なめやく)〕だった〔馬蕗(うまぶき)〕の利平治と、6年ぶりに、ばったり出会った。團右衛門は利平治から押しこむ先の店の情報を買ってはいるが、彼がいまは火盗改メの密偵となっていることは知らない。
利平治が團右衛門へ売ったのは、浜松町3丁目の蝋燭問屋〔三倉屋〕の覚書や間取り、金蔵の絵図面であった。
團右衛門から聞きだしたことは、すっかり、鬼平へ報告された。

結末:團右衛門と酒を飲みかわしたあと、料理屋〔弁多津〕を出て火盗改メの役宅まで、利平治は尾行されていた。
〔妙義〕一味は、〔三倉屋〕への押しこみを断念、その代わりに、湊町の盗人宿に扼殺した利平治の遺体を残して去った。

つぶやき:鬼平一代の失策---といわれるこの物語には、2番底が用意されている。
愛宕権現、女坂上の水茶屋の女お八重の肌を忘れかね、高崎からわざわざ出府してきた團右衛門は、お八重を見張らせていた鬼平の手に落ちた([座頭と猿]の二番煎じの観もあるが)。

〔嘗役(なめやく)〕としての〔馬蕗〕の利平治が、押しこみ先の情報を売ったのは、「犯さず、殺さず、貧しきからは盗まず」の3カ条を守っている首領にかぎられるという。とすれば、〔妙義〕の團右衛門もそういうお頭だったのであろう。
しかも、ずっと前のことだが、利平治が有馬へ湯治に出かけたとき、利平治のお頭〔高窓〕の久兵衛がとどけてよこした見舞金は50両だったのに、〔妙義〕の團右衛門は100両を使いの者にもたせたという。
その團右衛門を裏切ったのは、利平治がよほどに鬼平に惚れこんでいたからであろうが、裏切りは、ちょっとひどすぎる感じもないではない。もっとも、このとき利平治が團右衛門をかばうと、物語が成りたたなくなるとはおもうが。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2005.02.26

〔牛尾(うしお)〕の太兵衛

『鬼平犯科帳』には、〔牛尾〕を「通り名(呼び名)」にしている盗賊の首領が2人、登場する。
1人は文庫巻9[泥亀]で取りあげた〔牛尾〕の太兵衛である。
(参照: 〔泥亀〕の七蔵の項)
もう1人は巻20[おしま金三郎]で、かつて小柳安五郎と松波金四郎が現役時代に捕らえた賊で、名前だけがでてくる〔牛尾〕の又平。
この項で扱うのは、前者の〔牛尾〕のほう。

209

年齢・容姿:記されていないが、25年も昔に、空き腹をかかえて難儀していた〔泥亀〕の七蔵(当時28歳)を一味に拾いげたというから、5,6歳年上とすれば、57,8歳。中風で倒れて3カ月後に、再起不能と見た一味全員に逃げられた。
生国:遠江(とおとうみ)国山名郡(やまなこおり)金谷宿牛尾郷(現・静岡県島田市牛尾)
「牛尾」はほかにも数箇所あるが、お盗めは駿河・遠州から伊勢へかけてとあり、岡部宿で呉服屋を表看板にしていたというから、東海道筋、大井川西岸の金谷町をとった。

探索の発端:3年前、三田寺町の魚籃観音堂・境内の茶店〔泥亀茶や〕の亭主におさまるとき、〔牛尾〕の太兵衛の盗人宿の番人を20年間もつとめていた七蔵は、お頭からもらった50両で茶店の権利を買ったのである。
大恩があると七蔵がおもいきわめているそのお頭の太兵衛が中風で亡くなり、遺された妻娘が苦労していると聞かされ、なんとか恩返しに50両の金をと、痛む痔疾をおして、押しこみ先をさがす七蔵に尾行がついた。

結末: 〔牛尾〕の太兵衛の遺族の苦境を七蔵に知らせた〔関沢(せきざわ)の乙吉の盗み金50両が、鬼平のはからいで妻娘へ届けられた。

つぶやき:「恩は着せるものではなく、着るものだ」は、池波さんが長谷川伸師から教わった人生作法の一つである。
〔牛尾〕の太兵衛に対する〔泥亀〕の七蔵のつくしようは、まさに「恩を着る」人間らしい姿であろう。
恩は、金子や物品とはかぎらない。いまでは、むしろ、無形の情報やアイデアのほうが貴重な場合もある。

つぶやき その2:2005年03月06日 金谷町牛尾地区を訪れた。
JR東海線金谷駅で、昼間は1時間に1本という大井川線で4駅、「五和(ごか)」下車。もちろん、駅員はいない。
徒歩5分で建設中の第2東名にぶつかる。右手の小高い丘が牛の後半身に似ているので、それで「牛尾」かとも思った。違った! 初老の男性が教えてくれた。
「かつては、潮(うしお)と呼ばれていたようです。それというのも、いま、向こうの杉の木立の(と、牛の後身に似た丘を指し)養福寺の麓に、老人のための集会所〔牛尾潮寿会憩の家〕がありますが、あそこで、湧いてでている潮水を引いて沸かして温泉にしています。その、潮(うしお)が、いつのまにやら牛尾になったとか」

平成16年(2004)刊の『掛川市史 中篇』で確認したら、牛の後半身に似た丘は、その昔は「潮山」といっていたと。

067
牛の後身に似た丘から見た牛尾地区

066
高齢者のための潮水温泉のある「牛尾潮寿(ちょうじゅ)会憩の家」

そうか、プレートの移動で海中から日本列島ができたとき、地下にとりこまれ、たくわえられた海水かな。
それにしても、「潮(うしお)」が「牛尾」とはねえ。現地を踏まないとわからない経緯。

いやいや、池波さんの取材力に感心すべきだ。
金谷町の牛尾地区は、旧東海道からそれほど北ではない。徒歩20分ばかりか。家康や信玄との関連はまだ調べていないが、池波さんは足を踏み入れたにちがいない。もしかして、潮水温泉のことも承知していたかも。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005.02.25

〔藪の内(やぶのうち)〕の甚五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻10に収録されている[追跡]で鬼平に捕まった元火盗改メの〔目明し〕。
ちょっと気分を変えて、盗賊〔初鹿野(はじかの)〕の音松に火盗改メの市中見廻り情報を売ったり、盗みの手伝いまでしていた悪徳〔目明し〕をとりあげてみた。

210
(参照; 〔初鹿野〕の音松の項)

年齢・容姿:50男。小柄な細い躰つきだが動きはきびきびしている。
生国:江戸・浅草の山の宿の一画の藪の内(現・台東区花川戸1丁目)に住いがあるので、このあたりの生まれか。

探索の発端:鬼平が雑司ケ谷の鬼子母神の茶店〔ひたちや〕で休んでいたとき、行く方をくらませていた〔藪の内〕の甚五郎をみかけ、尾行した。
〔藪の内〕の甚五郎は、元は鬼平がお頭に就任する以前から火盗改メの目明しだったが、鬼平が「これまでの火盗改メの目明しどもは、御役目をつとめるというよりは、御役目を利し、御役目に狎れ、ついにはおのれの利益のためには盗賊共とも狎れ合うているようなところがあった」と遠ざけるようにし、替わりに改心した盗人を密偵として重宝するようになった。
果たしてその後、甚五郎は〔初鹿野〕の音松一味に加担していたことが、〔初鹿野〕一味の参謀格でのちに火盗改メの密偵となった〔舟形〕の宗平の口から明らかになった。
〔舟形〕の宗平が火盗改メに逮捕されると、組織の全容が洩れたこととおもった〔初鹿野〕一味は江戸から姿を消し、身の危険を感じた〔藪の内〕の甚五郎も失踪したのだった。
突発の変事で甚五郎を見失った鬼平だったが---。

結末:鬼平に手合わせを強要した浪人剣客が、気がふれて出会って斬りつけた通行人の中にいまは〔坂田〕の金助一味の〔藪の内〕の甚五郎もいたのは、皮肉といえば皮肉。死罪であったろう。

つぶやき:『鬼平犯科帳』に登場する「ご用聞き」は町方から十手を預かっている者やその手下もふくめて全部で12名。うち、悪徳「目明し」は〔藪の内〕の甚五郎のみ。ほかはまっとうなご用聞きばかりなのは、鬼平の人柄によるものか。

| | コメント (4) | トラックバック (1)

2005.02.24

〔浜崎(はまざき)〕の友蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻6の[大川の隠居]で堅気の船頭・友五郎として登場。その後、巻8[流星]ほかでも顔を見せる。

206

年齢・容姿:寛政3年(1791)の初秋の事件、[大川の隠居]では68歳。[流星]は翌々5年(1793)の事件。
日増しの焼竹輪のような肌色。棹をあつかう手さばきはみごと。
生国:武蔵国新座郡(にいざごおり)浜崎(はまさき)村(現・埼玉県朝霞市浜崎)
池波さんのルビは(はまざき)だが、地元での発音は(はまさき)と濁らないと。

902
明治19年(1886)ごろの川越-浜崎

900
上記の地図の部分拡大

602
〔浜崎〕の友蔵が川越船頭として雇われたかもしれない上福岡の回漕問屋〔福田屋〕。
上福岡市立河岸記念館となつている入館チケット

探索の発端:風邪で伏せっていた鬼平の寝間から、亡父ゆずりの煙管を盗んでいった者がいた。
快気祝いを兼ねた鬼平は、剣友・岸井左馬之助と連れだって、思案橋たもとの船宿〔加賀や〕から舟を出した。と、船頭の友五郎が、長谷川家の替紋「釘貫(くぎぬき)」を彫りこんだ煙管をだしてくゆらせたではないか。
密偵の〔小房〕の粂八にいいつけてさぐらせてみると、友五郎は10年ほど前に、〔飯富〕の勘八一味で右腕として段取りをしきっており、粂八もその薫陶を受けたものであった。
(参照: 〔飯富〕の勘八の項)
そこで鬼平が、煙管を取りもどすための一計を案じた。

結末:今戸橋ぎわの料理屋〔嶋や〕で友五郎に酒をすすめた鬼平は、煙草入れからくだんの煙管を取り出して一服つけた。
と、友五郎の手から盃が、音をたてて落ちた。

601
亡父・宣雄が特注した煙管師・後藤兵左衛門(赤印)
文政12年(1829)ごろ刊行の京都の問屋名鑑『商人買物独案内』

つぶやき:池波さんが少年時代をすごした永住(ながずみ)町の東には、新堀川が流れていた。その対岸の竜宝寺(台東区寿 1-20- 4)は、別名「鯉寺」と呼ばれている。目の下4尺5寸もあった巨鯉の供養塚が建立されているからである。

402
竜宝寺(鯉寺)の正面。かつては新堀筋に面していた。

401
「大川の隠居」の巨鯉のモデルの供養塚

この巨鯉が、大川の隠居のモデルである。少年時代に鯉塚の由来を知った池波さんの胸の中で、[大川の隠居]の物語はしずかに発酵してい、『鬼平犯科帳』随一の佳篇に育った。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005.02.23

〔泥亀(すっぽん)〕の七蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻9にはいっている[泥亀]の主人公。足を洗って、三田寺町の魚籃観音堂・境内の茶店〔泥亀茶や〕の亭主。

209

085
境内に〔泥亀茶や〕のある魚籃観音堂(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
(参照:魚籃観音(楽天))

年齢・容姿:52歳。あだ名のとおり、ずんぐり肥えた胴体に、愛らしいほどの短い手足がついている。
生国:上野(こうづけ)国那波郡(なわごおり)南玉村?(現・群馬県佐波(さわ)郡玉村町南玉(なんぎょく)?)
上記には自信なし。地元の鬼平ファンのご教示をまつ。

探索の発端:{泥亀〕の七蔵は、偶然に出会った〔関沢(せきざわ)〕の乙吉から、かつてのお頭〔牛尾〕の太兵衛が亡くなり、藤枝にいた遺族が苦境におちていることを知らされた。
(参照: 〔関沢〕の乙吉の項)
(参照: 〔牛尾〕の太兵衛の項)
いっぽう、密偵・伊三次は、芝の宇田川町で〔関沢(せきざわ)〕の乙吉とばつたり出会った。7、8年前、伊三次が房州の盗賊〔笹子(ささご)〕の新右衛門のところへいたときに、乙吉が助(す)けばたきにきて、知り合ったのだった。
伊三次は、乙吉を船宿 〔鶴や〕へ誘って〔泥亀〕の七蔵が〔中尾〕の太兵衛の遺族のためにお盗めをくわだてていることを聞きだした。
(参照:伊三次の項)

結末:〔関沢(せきざわ)〕の乙吉は、〔鶴や〕で御用。乙吉が持っていた分配金50両が伊三次の手で七蔵へ渡された。
七蔵は、痛む痔の尻をだましだまし、三河の御油へ。50両を太兵衛の遺族へ届けるためである。

つぶやき:〔泥亀〕の七蔵の純真、愚直、真剣ぶりがなんともユーモラスに描かれていて、おもわず笑ってしまう。
さきに、小中学生に読ませたい篇を挙げた。この篇もとうぜん含まれてしかるべきとはおもうが、なんせ、痔持ちの話なので、小中学生にはいささか、ね。

かつて痔疾は字(痔)のごとく、「寺へ入るまで癒らない病い」(やまいだれの中へ寺の字がはいっている)といわれていたものだが。

火盗改メの白州で、放免をいいわたした鬼平が、いたずらごころを発揮、
「伊皿子の中村景伯先生へ、よろしくな」
と付けたして、七蔵を、
「げえっ---」
と驚かせた、池波さんの手練の技!

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2005.02.22

〔五井(ごい)の亀吉

『鬼平犯科帳』文庫巻4に所載の[敵(かたき)]に、〔大滝〕の五郎蔵とともに大盗〔蓑火〕の喜之助の薫陶をうけたのち、〔ならび頭(がしら)〕のかたちで独立した、とある。

204
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)

年齢・容姿:[敵]は寛政元年(1789)の夏から晩秋へかけての事件。〔ならび頭〕五郎蔵が50がらみ、亀吉の一人息子の与吉が25,6歳。〔五井〕の亀吉が死んだのはその10年前というから47,8歳かそれよりちょっと上だったろう。容姿についての記述はない。
生国:上総(かずさ)国市原郡(いちはらごおり)五井---といっても取れ高2,500石前後と広い(現・千葉県市原市五井のどこか)。
とはいえ、東海道筋・御油との見方も捨てきれないのだが。

探索の発端:〔五井〕の亀吉の息子・与吉が、「父親の敵(かたき)」と、三国峠で〔大滝〕の五郎蔵へ斬りかかってきた。
五郎蔵としても、10年前に駿府(静岡市)の笠問屋〔川端屋〕へ8名で押しこみ、320余両を奪って名古屋城下の旅籠で金を分配、1年後を約して散ったのに、亀吉の消息がその後ばったりと絶えたのを心配していたところだった。
しかし、与吉が火盗改メのイヌといったので、〔坊主の湯〕の盗人宿を知られたのでは、と与吉を殺害してしまった。
その一部始終を望見していたのが、たまたま通りがかった鬼平の剣友・岸井左馬之助で、見たことを鬼平へ報告したことから、〔大滝〕の五郎蔵の探索がはじまった。
五郎蔵は五郎蔵で、与吉に、〔五井〕の亀吉殺しの犯人とそそのかした奴を探しはじめた。

結末:与吉をそそのかした〔小妻〕の伝八を始末した〔大滝〕の五郎蔵は、〔舟形〕の爺つぁんとともに、火盗改メの密偵となった。

つぶやき:じつは、〔大滝〕の五郎蔵の出生地を探索しているのだが、結論がでないままに、先に〔ならび頭〕だった〔五井〕の亀吉を取り上げてしまった。
五郎蔵の出生地の有力候補は、2つにしぼられているのだが、いまだ実地検分がすんでいない。

その候補地とは、一つは近江の「大滝地区」、もう一つは秩父山中の「大滝郷」である。ほかにも、「大滝」を称している土地は15ばかり見つけてはいるが、いまは、上記の2カ所にしぼって探索している。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005.02.21

〔白駒(しろこま)〕の幸吉

『鬼平犯科帳』文庫巻9に入っている[浅草・鳥越橋]に出てくる、ほかの盗人団がすすめている計画を横取りする〔小判いただき〕みたいな、卑劣な盗人。
配下は3人ほどしか持たず、お盗めのときには「助(すけ)ばたら」の手を借りる。
ふだんは、本所二ツ目の裏通りで小間物屋〔三好屋〕を営み、世間の目をごまかしている。

209

年齢・容姿:50がらみ。でっぷり肥えた温厚な商人風。声やものいいもおだやか。
生国:上総(かずさ)国周准郡(すえごおり)白駒郷(現・千葉県君津市白駒)。のち、木更津で指物師の修業。
【参照】君津市の白駒神社

探索の発端:〔小房〕の粂八が預かっている、深川の船宿〔鶴や〕へ、かつて粂八が〔野槌〕の弥平一味だったときに、〔傘山〕の瀬兵衛のところから助(す)けにきてくれた〔押切〕の定七が、先客〔三好屋〕幸吉を訪ねてあらわれた。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
(参照: 〔傘山〕の瀬兵衛の項)
(参照: 〔押切〕の定八の項)
粂八が隠し部屋からうかがうと、〔三好屋〕幸吉もどうやら盗人の首領らしい。そして、定七は、〔傘山〕の瀬兵衛が1年前から浅草・瓦町の蝋燭問屋〔越後屋〕へ引きこみにいれている〔風穴〕の仁助へ、瀬兵衛が仁助の女房おひろを慰んでいるとの作り話を吹き込んで、〔白駒〕一味へ寝返らせた。
(参照: 女賊おひろの項)
2人を尾行した粂八は、居所を確かめ、鬼平へ報告。ただちに2カ所には見張り所が設けられた。

結末:火盗改メが見張る中、鳥越橋のところで事件がおきた。〔風穴〕の仁助が偶然に出会ったお頭〔傘山〕の瀬兵衛を刺殺したのである。〔白駒〕の小間物屋〔三好屋〕にあつまった連中の一網打尽もまもなく---。

つぶやき:〔白駒〕の幸吉が現・君津市白駒と確かめるのに、ずいぶん手間どった。というのも、聖典に「下総の生まれで、若いころは、木更津で指物師をしていた」とあったからである。
明治20年(1887)に陸軍参謀本部陸地測量部が制作した20万分の1地図で、下総の「白駒」をさがしたがみつからない。CD-ROM版『郵便番号簿』で検索をかけたら、君津市の「白駒」がひっかかった。
白駒町は君津の中央部に近いところにあるが、もともとこの君津市は昭和46年(1971)9月1日に、付近の20数カ町村が合併してできた、房総半島の南西部の山ぞいの市で、木更津市と隣りあっているが、海には面していない
それで、幸吉の生国を上総国望陀郡白駒郷と推定した。

池波さんは、どういう経緯で「白駒郷」を見つけたのだろう。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005.02.20

〔墨斗(すみつぼ)〕の孫八

『鬼平犯科帳』文庫巻13に収録の[墨つぼの孫八]のタイトルにもなっている首領。「通り名(呼び名)」のゆらいどおり元・大工。

213

年齢・容姿:50歳直前。小柄だが筋肉質できびきびした動作。肌の色が黒い。
生国:武蔵国豊嶋郡(としまごおり)板橋宿(下板橋か上板橋かは不明)(現・東京都板橋区板橋)。

411
(板橋駅 『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)
板づかいの橋だから「板橋」

探索の発端:竪川にかかる二ツ目の橋を南から北へわたろうとしていた女密偵おまさに、〔墨斗(すみつぼ)〕の孫八の方から声をかけてきた。7年前に、〔墨斗〕の江戸でのお盗めにおまさが引きこみとして助(す)けたことがあったのだ。
(参照: 女密偵おまさの項)
岡部の旅籠の女中に産ませた子にまとまった金をのこしてやるための盗めを、亭主の〔大滝〕の五郎蔵ともども手伝ってほしいという。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
ひょんなことから、鬼平までが〔墨斗〕を助(す)けることになったが、配下を信じきる〔墨斗〕の態度に、捕らえるにはちょっと惜しい人物とおもうようにもなっていた。

結末:狙いをつけていた通旅籠町(大伝馬町3丁目の俗称)の神仏具店へ押し入るため、近くの朝日稲荷に一味が集まったとき、〔墨斗〕の孫八は、脳内出血の発作で倒れてしまい、意識がもどらないまま、4日後に成仏した。
一味の4人は、稲荷でそのまま逮捕。2年前に、上州・高崎の紙問屋を襲って得た1,200両を、〔墨斗〕を裏切ってネコババした〔名瀬〕の宇兵衛と浪人3人もあわせて捕縛。いずれも死罪であろう。

つぶやき:〔墨斗〕の孫八は、7歳のときに、板橋で古着屋をしていた父親が腹の激痛で狂ったように苦しんだすえに死んだのを見ている。さらに、6年のうちに兄弟2人と母親も病死。
それで、病いによる死を極度に恐れてい、逮捕されて死罪の宣告で打ち首になるほうを望んでいたから、脳内出血の発作による突然死は、孫八には幸いだったといえよう。

あるとき、『週刊朝日』[ひと、死に出あう]という欄に、エッセイ「名なしのほとけでかまわない」を寄稿したことがある(その文は同題で2000年1月25日刊の朝日選書に収録)。それに、「死の床での痛みと苦痛は医学が除去してくれるだろう---」と記した。
〔墨斗〕の孫八の病魔と激痛への恐怖は、ぼくの懼れでもある。


| | コメント (3) | トラックバック (0)

2005.02.19

〔文挟(ふばさみ)〕の友吉

『鬼平犯科帳』文庫巻4に収録の[あばたの新助]で、〔網切(あみきり)〕の甚五郎(50男)の右腕として顔見せしている。
(参照: 、〔網切〕の甚五郎の項)

204

年齢・容姿:40男。商人風。身のこなしが猿のように敏捷。
生国:下野国都賀郡(つがごおり)日光神領文挟宿(現・栃木県今市市文挟町)。

探索の端緒:火盗改メのお頭・長谷川平蔵(44歳)が、深川・富岡八幡宮の門前で組下の同心・佐々木新助(29歳)が、黒えりつき黄八丈の女と歩いているのを認めた。女は、境内の甘酒屋〔恵比寿屋〕の茶汲女お才であった。お才のほうから新助を誘ったのである。
お才のくちびると舌技による愛撫をうけた生まれて初めての強烈な刺激に、新助はお才のとりこになってしまった。

冨吉町の正源寺裏の〔川魚・ふじや〕の2階で素裸で抱き合っていたとき、〔文挟(ふばさみ)〕の友吉があらわれ、
「お才は、〔網切〕の甚五郎の女房」だと新助をおどし、火盗改メの夜の巡回路の提供を約束させた。
以後、巡回の隙をつくように、盗賊団の押しこみがはじまったのである。

結末:ことの次第を長官に知られたとおもいきわめた新助は、お才との決着をつけるべく、冨吉町の〔川魚・ふじや〕へ乗り込んだが、待っていた浪人どもに惨殺されてしまい、新助に心がかたむきかけていたお才は、、〔文挟〕の友吉に首筋を斬られて絶命した。
その友吉は、猿のような身軽さで、姿をくらましたのであった。

つぶやき:〔網切〕の甚五郎一味は、『鬼平犯科帳』シリーズの前半部における、鬼平の宿敵的な存在として描かれてい、手をかえ品をかえて鬼平に襲いかかる。まさに池波さんのストーリー・テリングの才の見せどころの一つともいえようか。

探偵小説の鉄則の一つに、悪人が強ければ強いほど、智謀に長けていればいるほど、探偵側の知恵と力がきわ立つ---というのがある。〔蓑火〕の喜之助や〔夜兎〕の角右衛門のような本格派だけでは、鬼平の凄さは光らないのである。

冨吉町の正源寺の前庭には、四季とりどりの花が咲くが、真夏のスイカズラの淡い橙色の花弁がみごとだ。

084
正源寺の前庭に咲くスイカズラ

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005.02.18

〔堀切(ほりきり)〕の次郎助

『鬼平犯科帳』文庫巻7に所載[隠居金七百両]で、4年前に病いのためにお盗めがつづけられなくなり、大盗賊のお頭〔白峰(しらみね)〕の太四郎(72歳)に、雑司ケ谷の鬼子母神・参道の茶店〔笹や〕を買ってもらい、その見返りにお頭の隠居金700両を秘匿することを頼まれた。
(参照: 〔白峰〕の太四郎の項 )

207

年齢・容姿:事件時は58歳。足を洗った4年前は54。6尺(1メートル80センチほど)近い大男で無愛想。
生国:捨て子として発見されたのは下総国(武蔵国とも)葛飾郡(かつしかごおり)掘切村(現・東京都葛飾区堀切)? 正確なところは不明。

探索の発端:長谷川平蔵の嫡男・辰蔵が、鬼子母神・参道の茶店〔笹や〕のむすめ・お順を見初(みそ)めた。遊び仲間の阿部弥太郎にいわせると「芋の煮ころがしのような小むすめ」のお順をである。
そのお順がかどわかされるところを偶然に行きあわせた辰蔵と弥太郎が、〔掘切〕の次郎助が隠した700両をねらっている〔奈良山〕の与市の存在を知り、盗人たちの全貌が明らかになった。
(参照: 〔奈良山(ならやま)の与市の項)

結末:捕らえられた与市と弟分の孫吉は、死罪であったろう。
〔掘切〕の次郎助は事件が解決した夜、腸捻転のような病気で死んだ。
火盗改メからの連絡で、京都・下寺町に潜んでいた〔白峰〕の太四郎とその妾・おせいを、京都町奉行所は取り逃がした。

つぶやき:ひとりになったお順を、育ての母親、勢州(三重県)の関の宿場の饂飩屋〔かめや〕へ送りどけるよう、鬼平からいわれた辰蔵は、どうやら、途中でお順に手をつけなかったのは、すでに熱が冷めていたのであろうか。それとも、勇気がなかったか。

〔白峰〕の太四郎の隠居金が〔掘切〕の次郎助のもとへ運ばれたことを〔奈良山〕の与市へ告げたのは、〔白峰〕の妾のおせいであった。与市が実の弟であることを隠したおせいが太四郎へ推薦、余市が一味を脱けたあとも情報を流していたというから、躰の関係ができたといっても信用はできない。
もっとも、おせいは茶汲女あがり---ああいう躰を張った仕事についていた女は、一筋縄ではいかないのかも。いや、72歳の〔白峰〕の太四郎が寝床でおせいを満足させていたかどうか。

雑司ケ谷の鬼子母神の「鬼」の字には、「田」の字の上の「ノ」を取り去り、「角がない」といい、一ノ鳥居の偏額の文字も案内板もそうなっているが、いつからそうしたかは、つまびらかでない。
というのは、鬼子母神を抱えている法明寺のご住職によると、都電の駅名も「角なしの鬼」に変えると、全駅の案内板などの変更には3億円の費用がかかる、と聞いたから、そう昔のことではなさそう。

ご住職に冗談で、「ここの本堂の下には七百両が埋まっているそうで---」といったら、「そのお金のことが早くから分かっていたら、本堂の修復費が助かったのに---」と笑いながら返された。

398_360
雑司ケ谷・鬼子母神 法明寺(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

雑司ケ谷や入谷の鬼子母神が有名だが、日蓮宗のお寺なら、たいてい、合祀している。最初に発案したのが日蓮上人なのか、高弟の一人なのかはしらないが、授児、安産、育児にご利益があるということで、女性の参詣者を集めるマーケティング・アイデアとしては抜群である。

『江戸名所図会』の[雑司ケ谷の鬼子母神]の絵をもみても、参詣者の8割、女性が描かれている。こんなに女性が多いシーンは、『名所図会』では、ほかに「堺町葺屋町戯場」と「木挽町芝居」があるだけである。

| | コメント (10)

2005.02.17

〔雨引(あまびき)〕の文五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻9の[雨引の文五郎]と巻12[犬神の権三]に登場。〔西尾(にしお)〕の長兵衛一味にいたときは、その右腕だった。長兵衛の歿後は後継者になることを嫌って〔ひとりばたらき〕。
(参照: 〔西尾〕の長兵衛の項)

209

〔西尾〕一味にいたときのライバルだった〔落針(おちはり)〕の彦蔵との因縁の果し合いに勝ったのち、密偵に。
〔ひとりばたらき〕時代の別名は、[隙間風(すきまかぜ)]。
(参照: 〔落針〕の彦蔵の項)

年齢・容姿:[犬神の権三]のとき(寛政5年 1793)33歳。その前年の寛政5年の事件である[雨引の文五郎]では32歳。小柄で矮躯で、その躰の半分はあろうかというほどに長い馬面の顔がのっている。笑うと左の頬に笑くぼがうかび、なんともいえぬ愛嬌があった。
生国:常陸国真壁郡(まかべごおり)本木村あたり(現・茨城県桜川市本木。ここの雨引山の中腹に有名な雨引観音がある)。

095
赤印の村々が昭和29年(1954)に大和村となった(経緯はコメント欄に。地図は明治20年制作)

探索の発端:江戸で12件、400両の盗みをし、あとに〔鬼花菱〕の紋章を黒地に白く浮きたたせ、下に朱で〔雨引文五〕と刷った手札をのこす。

099
鬼花菱

さらに、江戸を去りぎわに、自分の彩色人相書を桐箱に入れて鬼平へとどけてきた。
その、これ見よがしのふるまいに、鬼平はよい気もちはしなかった。

2年後、二ツ目通りの茶店〔笹や〕の前を行きすぎた、人相書きどおりの風体の〔雨引〕の文五郎を見かけた鬼平が尾行すると、その前を歩いていた男が、文五郎に匕首をつきつけた。〔落針〕の彦蔵であった。

結末:捕らえた彦蔵を、牢から逃がしたのは、鬼平からいいつかった密偵〔舟形(ふながた)〕の宗平で、密偵たちがみごとに尾行して所在をつかみ、見張っていると、ふたたび、〔雨引〕の文五郎と決闘し、文五郎もについた。
(参照: 〔舟形〕の宗平の項 )
刑を受ける代わりに火盗改メの密偵となった〔雨引〕の文五郎は、こんどは〔犬神〕の権三郎を破牢させて因縁に決着をつけようとし、けっきょく自決して果てる。
(参照: 〔犬神〕の権三郎の項)

つぶやき:〔雨引〕の文五郎を売ろうとしなかった密偵〔舟形〕の宗平のいい分がおかしい。
「雨引の文五郎ほどの芸のある盗人に、御縄を頂戴させるのが---ちょいと、その、惜しい気もいたしまして---」
つまり、盗人が盗人に惚れているということで、読み手はその盗人へ、一挙に感情移入をしてしまう---池波小説のヒミツの一つである。

雨引観音を祀っている雨引山楽法寺の事務方の大畑さんによると、楽法寺の住持も『鬼平犯科帳』の大ファンで、ビデオ全巻を購入してひそかに鑑賞されていると。

151
雨引山法楽寺の境内。雨引観音は安産子育にご利益があると。


| | コメント (12)

2005.02.16

〔明神(みょうじん)〕の次郎吉

『鬼平犯科帳』文庫巻8で[明神の次郎吉]と、タイトルにまでなっている、〔櫛山〕の武兵衛一味でも腕っこきの盗人。下の諏訪の諏訪明神からとった「通り名(呼び名)」とか。

208

年齢・容姿:30男。狸のような顔。小肥り。
生国:信濃(しなの)国諏訪郡(すわごおり)下の諏訪(現・長野県諏訪郡下諏訪町)

30360_1
木曾海道六十九次の内・下諏訪(広重) 

(もっとも、諏訪社を社号とする神社は多く、南佐久郡小海町豊里、同郡八千代村、諏訪郡富士見町落合などにも鎮座。地元の鬼平ファンの方のご教示を待ちたい)。
5年前に病死した父親の〔諏訪(すわ)〕の文蔵も、〔櫛山〕の武兵衛一味にいた。
(参照: 〔諏訪〕の文蔵の項)

探索の発端:、〔櫛山〕の武兵衛の呼びだしに応じて、中仙道を江戸へ下る途路、小田井宿をすぎて前田原へさしかかった〔明神〕の次郎吉は、心の臓の発作で苦しんでいる旅僧から、江戸の春慶寺へ寄宿している岸井左馬之助への短刀をことずかった。
旅僧の遺骸は、小田井宿はずれの妙音寺へ背負って行き、とむらいを頼んだ。お盗めをしていないときには善いことをしてきた次郎吉だったのである。

104
左・岩村田、塩名田、芦田、和田経由で下の諏訪へ 
前田原村 小田井宿 右・江戸へ
(幕府道中奉行制作『中山道分間延絵図』部分)

21360
木曾海道六十九次の内・小田井(広重) 
宿場の西はずれの「かないか原」の風景。勧進僧と遍路。

旧知の宗円坊の遺品を届けられた左馬之助は、次郎吉を荷車に乗せて二ツ目北詰の〔五鉄〕へ連れこんでの酒盛り。その帰り姿の次郎吉を、かつて〔櫛山〕の武兵衛を助(す)けたことのある密偵おまさが覚えていた。

結末:いさぎよく縛についた〔櫛山〕の武兵衛一味に鬼平は、一同、死罪をまぬがれて島送りですむようにと、南町奉行の池田筑後守へ頼んだ。とりわけ、次郎吉の刑は軽くとも。

つぶやき:幕府の道中奉行制作の『中山道分間延絵図』で小田井宿をあたってみたが、妙音寺らしい寺はなかった。池波さんが創作した寺かもしれない。

〔明神〕の次郎吉の、5年前に病死した父親〔諏訪〕の文蔵も、〔櫛山〕の武兵衛の配下だった。

〔明神〕の次郎吉の「諏訪の旅籠屋の亀五郎」との自己紹介を信じきっている岸井左馬之助に、鬼平は〔櫛山〕一味の逮捕を告げない。
そして、「人間(ひと)とは、妙な生きものよ」「悪いことをしながら善いことをし、善いことをしながら悪をはたらく。心をゆるし合うた友をだまして、その心を傷つけまいとする---」の池波人生哲学をつぶやく。

2005年06月06日、下諏訪町の諏訪大社下社2座に参詣した。
春宮は大門に、秋宮は甲州道中に面して東町にあるが、〔明神(みょうじん)〕の次郎吉の家は、どたらの宮に近かったのであろう。
そうおもいながら、春宮から秋宮までの中山道1キロほどを歩いてみた。

805
諏訪大社春宮。前は中山道

806
秋宮。前は甲州道中

809
秋宮。神楽殿の脇から拝殿をのぞむ

808
秋宮。一の御柱

上に掲げた『中山道分間延絵図』を検分していて、池波さんの錯覚を発見した。
[明神の次郎吉]の冒頭の部分である。文庫p90 新装版p96

つぎの宿場は信州・追分で、そこまで一里半ほどある。
西空の果てに、血のような夕焼けの色がわずかに残っていたけれど、これが夜の闇に変わるは間もなくだった。
その暗くなった道を、旅の男は前田原をぬけて行くことになる。
(略)
「私は、笠取峠に住む古狸ゆえ、怖いものなんかありぁしないのだ」 

031
明治20年製作の20万分の1。
赤○:左から岩村田宿、小田井宿、追分宿、沓掛宿

『分間延絵図」 を見ると、左手(下諏訪側)から来て前田原村、小井田宿(つまり、前田原は小田井宿よりも下諏訪寄り)に入っている。

04360
赤○:左下から下諏訪宿、和田宿、長久保宿・(笠取峠)・芦田宿

26360
木曾海道六十九次の内・あし田(広重) 笠取峠の松並木

ところで、司馬遼太郎さんは『覇王の家』(新潮文庫)で、織田信長が甲州攻めで武田勝頼の生母の実家の諏訪氏の諏訪神社をことごとく焼いたと書く。手元の史料にはそのことが記されていない。これも、地元の鬼平ファンの方のご教示を得たい。

| | コメント (7) | トラックバック (0)

2005.02.15

〔鷺原(さぎはら)〕の九平

『鬼平犯科帳』文庫巻5に所載の[兇賊]で脇役をつとめるユーモラスにひとりばたらきの盗人。
ふだんは、神田・豊島町1丁目の柳原土手で居酒屋〔芋酒・加賀や〕の亭主。

205

年齢・容姿:60歳。老爺とあるだけ。いっとき、坊主頭の旅僧を装った。
生国:加賀国河北郡(かほくごおり)深谷村(のち、田近(たじか)郷(現・石川県金沢市深谷町)
Photo_93
明治20年ごろの金沢市(左下)と、深谷村=のちの田近郷

探索の発端:40年ぶりに加賀の郷里・田近谷を訪れての帰路、〔鷺原〕の九平は、倶利伽羅峠で盗人らいし男たちの声を耳にした。

097
九平は、金沢城下の北の田近谷から津幡宿を経て倶利伽羅峠、石動へと---(地図は明治20年制作)

その声をふたたび聞いたのは、自分の店の前で斬りあいがあったときであった。
斬りあいの一方の主は、直前まで店の客だった浪人だったが、なんと「火盗改メ」のお頭だったのである。
店を閉めて、青山・久保町の同郷の飯屋でほとぼりが冷めるのを待っていたいたとき、倶利伽羅峠で見かけた盗人の片割れを見かけ、鬼平が向島の料亭〔大村〕へ呼び出されたのを知り、ひょんないきさつで火盗改メにそのことを告げることができた。

結末:だまされて料亭〔大村〕へ呼び出された鬼平を待っていたのは、兇賊〔網切〕の甚五郎であったが、〔鷺原〕の九平の忠告によって駆けつけた佐嶋忠介以下の手で鬼平は九死に一生を得た。
(参照: 〔網切〕の甚五郎の項)
〔鷺原〕の九平がもらした情報で、鬼平と沢田小平次、竹内同心らは倶利伽羅峠に待ち伏せ、うまく逃げおうせたつもりの〔網切〕の甚五郎とその残党を斬って捨てた。
(参照:〔網切〕一味で、先に逮捕された 〔佐倉(さくら)〕の吉兵衛 の項)

つぶやき:芋酒といい、芋膾といい、九平のつくるものには、どことなくユーモラスな味がある。
人柄によるのであろう。

ともに〔鬼平〕を学んでいる学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラスの新兵衛さんは、吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治33年-)から引く。「河北郡、今田近村と云ふ。大字深谷に塩類性の冷泉湧出す、隣接して花園村の岸川にも同性の冷泉有り、近年浴場開きたり。神祇史料云、式内加賀郡波自加弥神社は二日市の田近山に在り」。
さらに『角川地名大辞典』から「田近村(金沢市・津幡町)明治 22-40年の河北郡の自治体名。梨ノ木平山の西麓に位置する。滝下、松根、中尾、上平、琴、琴坂、北千石、南千石、今泉、朝日牧、朝日、榎尾、向山俵原、千杉、鞁筒、四坊高坂、四坊、浅野深谷、浅谷の20ヵ村が合併して成立。旧村名を継承した20大字を編成。村役場を四坊高坂に設置。村名は村内を通る田近往来と当地域を田近18ヵ村と俗称したことによる」

九平の「通り名(呼び名)」の〔鷺原〕についても、金沢市の地図の南端に、「鴛原(おしはら)」という地名がある。また金沢市の南側には鶴来町があることから、鴛鴦や鶴などが飛来していたと想像され、「鷺」も飛来していたと考えても無理はなく、読みの響きから[鷺原]という地名にしたか? あるいは単なる字の見まちがい、思いこみによるのであろうと想像、と。

〔鴛原〕を『角川地名大辞典』で引くと、「昔当地に鴛の生息する池があったところから鴛ケ原と称したが、延宝3年ごろに鴛原と改めたという」と。

前田cさんの波自加彌神社リポート(2003.09.28)

由緒というのか、歴史の重みを感じてきました。
かなり階段を上って神社があって、後ろのうっそうとした森にも厳かさを感じました。
父母(母は病院から一時外出をして)と一緒に行きました。(ちゃんと車でも神社まで登れるようになってます)
香辛料・医薬・産業の神様ということで、兄が薬剤師(今は病院ではなく厚生??省にいるのですが)なのと、リウマチは投薬治療しかないことで、近くにいてもこれまで全く知らなかったのだから、両親ともに、これもなにかの御縁だと、大変喜んでいました。
場所がわからなかったので、従兄弟が神社近くに住まいの知人に場所を聞いてくれ、そこを訪ねたところが一軒家。どうやら田近宮司さんのお住まいとのことで、慌てて通りがかった方に聞きなおして神社へ行きました。
さすがに直接宮司さんを訪ねることはできませんでした。という、ちょっと楽しい寄り道もしてきました。

Photo_112
波自加彌神社の鳥居

Photo_113
同、拝殿

| | コメント (8) | トラックバック (0)

2005.02.14

〔猫間(ねこま)〕の重兵衛

[『鬼平犯科帳』文庫巻22、特別長篇[迷路]の影の悪党の首領。もとは30俵2人扶持の貧乏御家人の妾腹の子で、父親の悪業により、家名断絶ののち、無頼の徒となり、盗みにも手を染め、一団の頭目となる。

222

年齢・容姿:老人と書かれているが、若いころの銕三郎(長谷川平蔵の家督前の幼名)との間柄から推測すると、さしたる年齢差はみとめられないから、50代中ばか。右腕がないのは、30余年前に銕三郎との争いで斬りおとされたため。
生国: 武蔵国江戸・深川(現・東京都江東区深川)

探索の発端:同心・細川峯太郎が博打に手をだし、すっかりすられた日、立ち寄った小料理屋で知り合った年増女と老爺の人相書の絵から、おまさが老爺を盗人〔矢野口〕の甚七と名ざした。
それから年増女お松が見張られ、中山道・深谷の在に潜んでいた〔猫間〕の重兵衛---じつはかつての御家人の息子・木村源太郎の存在が知れた。

105
〔猫間〕の重兵衛が潜んでいたのは深谷宿のはずれ(幕府道中奉行制作『中山道分間延絵図』・部分)

結末:深谷の隠れ家に踏み込んだ鬼平と火盗改メに、重兵衛ほか[ 猫間〕一味10名が逮捕された。かずかずの悪業のゆえに、おそらく、獄門。お松は死罪。

つぶやき:「猫間」とは、辞書によると、夏の扇子の親骨に彫られた透かし文様の格狭間。それから転じて、さまざまに変化する猫の瞳。
〔猫間〕の重兵衛の瞳もそのように、平凡から悪業へと変わり身が早かったのであろう。

銕三郎時代の鬼平が、盗賊の片棒をかついだことが明かされてい、文庫巻7[泥鰌の和助始末]にも、生まれて初めて片棒をかつく寸前に剣客盗賊・松岡重兵衛に叱責されて思いとどまったとある。この2篇の相関関係をどう解釈したものか。

弟は〔池尻(いけじり)〕の辰五郎とあるが、銕三郎に斬り殺された御家人の父親・木村惣市の本妻は身ごもることはなかったというから、弟とは、源太郎(のちの〔猫間〕の重兵衛)を産んだ深川の料理茶屋で女中をしていた女性であろうか。
(参照: 〔池尻(いけじり)〕の辰五郎 の項)。
〔池尻〕の辰五郎は、この[迷路] の冒頭に、、「岐阜県大垣市の池尻の生まれ」とわざわざ書かれてい、「源太郎が3歳の折に、行方知れずになった---」とあるから、身重の躰で生国の池尻へ戻って辰五郎を産みおとしたのかも。
のち、源太郎(〔猫間〕の重兵衛)と辰五郎がなにかの機会に出会い、おたがいに父親と生母をともにしている実の兄弟であることを確かめあったのであろうか。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005.02.13

〔鹿谷(しかだに)〕の伴助

『鬼平犯科帳』文庫巻18に収録の[一寸の虫]に出ていて、血なまぐさい盗めをする盗人。親子2代にわたって本格派の〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛の配下だったが、信州・上田城下で押し込み先で、奉公人を1人殺害してしまい、100敲きの上、追放されたことを、根深く恨みに思っている。

218

年齢・容姿:中年男。小肥りで赭ら顔。
生国:越前国足羽郡(あすわごおり)鹿谷郷(現・福井県勝山市鹿谷)
福井県下でも九頭竜川上流の山間にあり、鹿谷の郷名にふさわしいと思ったので決めた。

が、〔ながればたらき〕として「上方から中国筋をまわっていた」ともいっているから、静岡県浜松市鹿谷の線も捨てがたい。とりわけ、〔船影〕の忠兵衛一味の稼ぎのテリトリーは、関東一円から上信の2州、さらに北陸へかけてであったという。
(参照: 〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛 の項)
(このあたりのところは、勝山市と浜松市の鬼平ファンの方のご意見が聞きたい)。

探索の発端:〔船影〕一味にいたときに押し込み先で女中を犯して破門され、その後、〔不動〕の勘右衛門のところにいて逮捕されて密偵になった仁三郎が、深川・蛤町の一本うどんが名代の[豊島屋」で、〔鹿谷〕の伴助に声をかけられた。

〔鹿谷〕の伴助は、「お互いに、〔船影〕の忠兵衛にはひどい目に合わされたのだから、その復讐ばたらきを手伝わないか」と、仁三郎を誘った。が、仁三郎としては、10数年以上も昔の〔船影〕から受けたのは愛の鞭で、それ以後まっとうに生きることができたのだから、感謝こそしているが、露ほども恨みにはおもっていなかった。

それでも、手伝うことを承知したのは、〔鹿谷〕の伴助が目をつけているのが、本銀町(もとしろがねちょう)の菓子舗〔橘屋〕で、そこの若女将が〔船影〕の忠兵衛のむめすだから、一家皆殺しにして、忠兵衛を苦しめるという算段を阻止しようとかんがえたゆえだった。

結末:〔橘屋〕伊兵衛方へ押し入ったとたんに、仁三郎は伴助を刺し殺したうえで、自害して果てる。

つぶやき:、正統派盗賊として「犯さず、殺さず、貧しきからは盗まず」の3カ条の掟を金科玉条としている〔船影〕の忠兵衛による処罰を、仁三郎は愛の鞭として受けとめて以後の指針とし、〔鹿谷〕伴助は恨みとして根にもった。
同じ言葉や行為でも、受けとめる者の人間性によって、善にも悪にもなる---という池波さん流のさりげない人生訓の一例。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005.02.12

〔鶴(たずがね)〕の忠助

『鬼平犯科帳』文庫巻4の[血闘]に、長谷川平蔵の20歳前後---銕三郎と名乗っていた時代---に自分の家のように親しく寝泊りしていた、本所四ツ目の〔盗人酒屋〕の亭主。
元は〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門一味だったが、一人むすめのおまさが少女期になると盗めをやめていた。

204

年齢・容姿:20余年前は40がらみ。鶴のように痩身で背が高い。
生国:下総国印旛郡佐倉村の在(現・千葉県佐倉市のどこか)
101
102
近在の村々を合併していった現在の佐倉市圏(地図は明治20年ごろのもの)

探索の発端:主要キャラの一人であるおまさの出現が、文庫巻4に入っている[血闘]で、『オール讀物』にシリーズ連載がはじまってから丸2年、第25話目なので、あまりにも「遅すぎる」とおもい、ハッと気づいた。
(丸2年目といえば、仲間でありプロデューサーでもあった故市川久夫さんによってテレビ化の企画がすすんでいた時期だ)。
テレビ化ともなれば、出ずっぱりに近い女性キャラが必要---と、市川さんが池波さんに要請したのではないかと。

で、一面識もない市川さんに、厚かましくも電話で問い合わせた。
「テレビ用に、おまさの創造を要請されたのは、市川さんだったのではないのでしょうか?」
「お察しのとおり」
(参照: 女密偵おまさの項)

その後、市川さんとの文通がはじまり、細かな字でぎっしりと情報がつまったハガキが10枚ばかり、いまも手元に残っている。

〔鶴(たずがね)〕の忠助と知り合ったのは、おまさの探索を通じてであった。

ほっそりとした長身ということからの〔通り名(呼び名)〕であろうが、ひょっとすると、生国の印旛沼には冬になると鶴の一群が渡ってきていたので、そこから自称したのかもしれない。
江戸時代、印旛沼に鶴が飛来していたかどうかは、地元の鬼平ファンのご教示を得たい。

結末:銕三郎が、京都西町奉行に栄転した父・宣雄について京都へ行っていたわずか1年半のあいだに死去。もちろん、畳の上での逝去である。享年は47,8か。
忠助の死により、〔法楽寺〕の直右衛門の手配で、おまさは、〔乙畑(おつばた)〕の源八(げんぱち)へ預けられた。

つぶやき:忠助の女---おまさの母親についての記述はまったくない。

[血闘]p131 新装p137に、

そのころの平蔵は二十歳を出たばかりで、父・宣雄に引きとられ、実母と別れて本所・三ツ目の長谷川屋敷で暮らすようになったものの、継母の波津と紛争の絶え間がなく、ほとんど屋敷へは寄りつかなかった。

とあるが、実母は、宣雄が義理で波津と結婚したきに幼い銕三郎とともに巣鴨の実家へ帰り、まもなく病死したような記述がどこかにあったはずだが。

もちろん、史実の生母は、寛政7年(1795)5月6日まで生きており、ずっと長谷川家に居住していた。
むしろ、早くに病死したのは、継母の波津のほうで、銕三郎が5歳のときだった。

| | コメント (6)

2005.02.11

〔藤坂(ふじさか)〕の重兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収録の[尻毛の長右衛門]に、〔尻毛〕一味の最高幹部役としてちらっと登場。4か所に設けられている江戸の盗人宿のうち、浅草の宿を束ねている。

214
(参照: 〔尻毛〕の長右衛門の項)

引きこみのおすみのほうからの誘いに、つい、できてしまった〔布目〕の半太郎が、お頭の長右衛門にそのことを報告・許しをえようとしかけた。が、長右衛門のほうから、年齢が30余も若い「おすみを嫁にしたいのだが---」と打ち明けられ、半太郎は切羽つまった。
そのとき、重兵衛が部屋へ入ってきたので、半太郎は救われるように引き下がることができた。[〔布目(ぬのめ)の半太郎]の項も照されたし)

年齢・容姿:中年。あとは記載されていない。
生国:三重県度会(とあらい)郡南島(なんとう)町の北、藤坂峠のあたりの出か?

探索の発端:本所・吉田町2丁目(現・石原4丁目)の薬種屋〔橋本屋〕へ引きこみとして入っていたおすみを見かけた女密偵おまさが、顔や体つきがおすみの母親お新とそっくりなのに疑念を抱き、鬼平へ伝えた。
〔橋本屋〕とおすみに見張りがつけられた。

結末:〔布目〕の半太郎が失踪し、代わりに〔橋本屋〕へのお盗めが中止になつたから急いで脱けだすようにと、おすみに告げにきた重兵衛が尾行され、浅草の盗人宿が急襲され、重兵衛ほかが捕まった。
(参照: 〔布目(ぬのめ)〕の半太郎 の項)

つぶやき:どちにしても結果は同じとおもうが、おすみにつなぎをつけるために、〔尻毛〕の長右衛門の右腕である〔藤坂〕の重兵衛がわざわざ出かけるというのも、いかにも軽々しいとおもう。

あるいは、おすみと一緒になることを望んでいた〔尻毛〕の長右衛門のこと、押し込みは中止、すぐに抜けだしてこい---という大事なつなぎだから、じかに重兵衛にいいつけたのかもしれない。

おすみの躰には泥鰌が100匹棲んでいるという。母ゆずりの躰ということもあろう。お新をものにしていた長右衛門だから、そのことを想像して、年齢差もなんのその、一緒になることをのぞんだのかも。
いや、池波さんもとんだ読者サービスを仕込んだものだ。安来の男でないものまでが、つられて、泥鰌すくいを試みることになるではないか。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2005.02.10

〔池尻(いけじり)〕の辰五郎

『鬼平犯科帳』の文庫巻22、長編[迷路]の冒頭で、鉄砲洲で待ちうけていた火盗改メの網にかかり、自害して果てた頭目。上方から北陸路を縄張りにしていた。

222

年齢・容姿:54,5歳。目鼻立ちのすっきりした顔貌、細身の引きしまった躰。
生国:美濃国大垣在の池尻村(現・岐阜県大垣市池尻町)
池尻という名の町は、CD-ROM版「郵便番号簿」で検索すると、全国に28町村ある。池があればその端っこがあるわけで、現実には池(埋められた池も含めて)の数ほどあるはず。しかし、辰五郎のばあいは、「岐阜県大垣市の池尻の生まれ」とわざわざ書かれている。

探索の発端: 〔池尻〕の辰五郎一味が江戸での2度目の狙いどころとして、鉄砲洲の薬種屋〔笹田屋〕に目をつけたのは、越中(冨山県)産の〔熊の胆〕だけを商って巨利を得ていると見たからだが、そのことを内偵したのは女密偵おまさだが、経緯は書かれていない。

結末:逮捕された〔池尻〕一味12人のうち、頭目の辰五郎は、かぶせられた投網(とあみ)の中で自害して果てた。逮捕された者たちは死罪・打ち首。

つぶやき:大垣在住の畏友・川中さんが寄せてくれたメール。
「池尻町」について---赤坂宿から、池尻村、河間村、大垣町と東海道へ結ぶ鎌倉街道沿いにあり、関ヶ原合戦の前、石田三成軍が徳川軍の先遣隊を破ったところ。明治22年(1889)、河間村、笠縫村、笠木村、木戸村、一色村、興福地村と合併して北杭瀬村となりました。昭和3年(1928)、大垣市へ合併のさい、興福地村とともに残って赤坂町へ併合、昭和42年(1967)に大垣市に遅れて合併し、元の村名が町名となりました。古い寺院は残っているが、町並みに特徴はありません。
また、池尻村には戦国期の城があり、美濃国主・土岐頼芸の家臣の飯沼長就が築城し、本能寺の変後、池田輝政が城主となり、岐阜城に移ると廃城になった。天保郷帳に83戸、明治4年69戸の村とある。(平凡社『日本歴史地名体系21 岐阜県』より)

明治期の戸数が天保期よりも減っているところをみると、たつきの苦しかったことがわかるような気がする。辰五郎が盗みに走ったのもそのせいのようだが、池波さんは、信長と道三の関係をししらべいて、この村の存在に気づいたのであろうか。
(参照: 〔猫間(ねこま)〕の重兵衛 の項)

| | コメント (2)

2005.02.09

〔伊勢野(いせの)〕の甚右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻6に所載[猫じゃらしの女]で、本拠の武州・熊谷から、江戸でのお盗めをたくらんで、浅草・新堀端の荒物屋を買い、とりあえず本郷5丁目の薬種問屋〔堺屋〕に目をつけていた。

206

年齢・容姿:老爺とあるから、そうとうに高齢なのかも。容貌は書かれていない。
生国:埼玉県八潮市に「通り名」の伊勢野という町名がある。

探索の発端:[伊勢野〕一味が、40両の約束で〔型師〕の卯之吉から入手しようとしていた〔堺屋〕の金蔵の錠前の蝋型を、卯之吉が寸前に70両に値上げしたため、怒った〔伊勢野〕の甚右衛門が卯之吉を幽閉してしまった。
(参照:〔伊勢野〕の甚右衛門に型師・卯之吉を紹介した、 〔中釘(なかくぎ)〕の三九郎 の項)
危険を察知した卯之吉は、蝋型を提灯店の娼婦およねに預けていた。
それを伊三次が見つけて、蝋型を受け取りに来た〔伊勢野〕一味の者を尾行し、盗人宿を突き止める。

結末:残りの一味は熊谷まで出張った長谷川組に、本拠で追捕された。これまで上州・信州で犯した盗みの数々により、獄門のはず。

つぶやき:卯之吉の二枚舌は、〔伊勢野〕一味から仕置きをうけてとうぜんなのに、つい、読み落としていたのが、〔伊勢野〕の甚右衛門の「殺傷ぎらい」の一行。
殺傷ぎらいの甚右衛門が卯之吉に死にいたるほどの仕置きをしたのだから、盗人仲間での二枚舌はそれほどに忌みきらわれていたということだ。

いや、なに、ふつうの世間でも、二枚舌は信用の死滅にあたいする。、

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2005.02.08

〔佐倉(さくら)〕の吉兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻4の[おみね徳次郎]では、加賀のどこかを本拠にしている〔網切あみきり)〕の甚五郎一味の中ではかなりの上部に属してい、通称〔連絡(つなぎ)の吉つぁん〕と呼ばれてしっかりと働いていた。

年齢・容姿:50男。商人風。
生国:下総国印旛郡佐倉村(現・千葉県佐倉市のどこか)
もっとも、佐倉という地名は、茨城県稲敷郡江戸崎町にも、静岡県小笠郡浜岡町にもあるが、池波さんの佐倉への肩入れ---鬼平の剣の師・高杉銀平や剣友・岸井左馬之助、また、おまさの父親〔鶴(たずがね)の忠助の出身がすべて佐倉周辺---を考えると、吉兵衛も下総の「佐倉」出ときめたい。
(参照: 女密偵おまさの項)
(参照: 〔鶴の忠助の項)

探索の発端:四谷舟町の全勝寺の前で、おまさは幼馴染のおみねと出会った。飲みながらのおみねの惚気(のろけ)ばなしに名が出た徳次郎を、火盗改メが見張った。そこへ、大坂での一仕事の連絡(つなぎ)に吉兵衛があらわれ、石切横丁で追捕された。
(参照: 〔山彦〕の徳次郎の項 )

結末:〔網切]〕一味の幹部級の盗人らしく、拷問の屈するよりはと、入牢のその夜に、舌を噛み切って死んだ。
ある意味で、〔網切〕一味を差したのは〔鷺原(さぎはら)〕の九平だが---。
(参照: 〔鷺原(さぎはら)〕の九平 の項)

つぶやき:おみねは市ヶ谷八幡宮の境内の料理屋〔万屋〕の女中をしながら、〔法楽寺〕の直右衛門からの指令を待っている女賊で、おまさの父親〔鶴〕の忠助が〔法楽寺〕一味と関係があったために、おみねとも幼馴染だが、どう考えても、四谷・伝馬町2丁目裏道、祥山寺に近い長屋ずまいのおみねが、舟町へ出むく用事がおもいつかない。
そこは小身の武家の屋敷と寺院が並んでいるだけで、店屋などはない。
密偵おまさにしても同然。
(参照: 〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門 の項)

で、池波さんの思惑を推理してみるに、いま、あのあたりにできている小料理屋へ通ったことがあるのでは---と。
あるいは、あのあたりのアパートに住んでいた担当の編集者がいたか。

編集者といえば、佐倉にも担当の編集者担当か知り合いの編集者がいたのではないかと、推測しているのだが。
そうとでもかんがえないと、高杉銀平や岸井左馬之助(臼井の郷士の子)、〔鶴(たずがね)〕の忠助や連載の早い時期に現れた〔佐倉〕の吉兵衛などの、出生地の重なりの理由が解けない。
(参照: 〔鶴(たずがね)〕の忠助 の項)
まあ、佐倉宗五郎とか、10年前に巨人軍入りした長島茂雄さんもいることはいるが。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005.02.07

〔鬼坊主(おにぼうず)〕清吉

独立短篇[鬼坊主の女]『週刊大衆』1960年11月7日号に掲載)は、享和(1789-)から文化2年(1805)iにかけたかせぎまわった盗賊一味の首領。
『にっぽん怪盗伝』(角川文庫)に収録。

311

年齢・容姿:[金太郎蕎麦](『小説現代』1963年5月号に発表。『にっぽん怪盗伝』(角川文庫)に収録)によると、40がらみ。痘痕(あばた)のあなだらけのどす黒い顔。躰は筋骨たくましい。
生国:諸田玲子『鬼あざみ』(講談社文庫)によると、江戸・牛込。

探索の発端:伊勢神宮の前で、藤堂家の侍たちに捕まったことになっているが、詳細は不明。なにしろ、江戸をはじめとして全国を荒らしまわった大盗賊なので、伊勢から江戸へ護送されて取調べを受けた。

結末:文化2年6月27日、乾分の入墨吉五郎、左官粂次郎とともに、江戸市中引き回しの上、品川の刑場で磔の刑。
市中引きまわし中、大辻ごとに馬を止めさせ、妾のお栄にいって浪人者に代作させた辞世の歌「武蔵野に名ははびこりし鬼あざみ、きょうに暑さに少し萎(しお)れる」と唱した。

つぶやき:『大日本人名辞書』(明治19年 1886 刊。講談社復刻)には、
「オニバウズ セイキチ 鬼坊主清吉 兇賊、強盗追剥等を犯し天下に出没す。勢州にて縛に就き文化 2年 4月26日江戸に押送せられ 6月26日他賊 2人と引廻しの上千住に梟せらる。辞世の狂歌「武蔵野に名もはびこりし鬼薊今日の暑さに乃て萎るる」浅草新鳥越町妙光山圓常寺に墓あり(街談文々集要)

『大日本人名辞書」は、刑場が品川(鈴が森)でなく千住と記録されているのと、処刑日が27日でなく26日となっている点に注目。

墓はその後、雑司が谷霊園へ移転。墓地番号 1種 8号 。

039
雑司が谷霊園・鬼坊主の墓域指標。

040
正面左が墓石。なぜか香華が絶えない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2005.02.06

〔中釘(なかくぎ)〕の三九郎

『鬼平犯科帳』文庫巻6の[猫じゃらしの女]に、上州・信州一帯をあらしまわっていた〔伊勢野〕の甚右衛門一味が、初めて江戸進出をくわだてたとき、上州・高崎に本拠をおく〔中釘〕が、外神田・山本町代地に住む〔型師〕の卯之吉を紹介した。

年齢・容姿:触れられていない。
生国:武州・大宮の中釘郷か?(現・埼玉県さいたま市大宮区中釘?)

探索の発端:〔型師〕の卯之吉が蝋型を、上野山下の提灯店のおよねに預けたために、伊勢野〕の甚右衛門一味の蠢動がばれたが、〔中釘〕の三九郎へは、追捕の手がのびていない。
(参照: 〔伊勢野(いせの)〕の甚右衛門 の項)

結末:素性・本拠がわかっているのに、逮捕の手がゆかない珍しい例。

つぶやき:a)提灯店の〔みよしや〕のおよねと密偵・伊三次の大活躍の篇だが、およねとの仲をとりもってもいいという鬼平に、伊三次は「とても、とても---」と断るのがおかしい。

「提灯店」は、「生池院店(しょうちいんだな)」から転じたものと。生地院は不忍池の弁天島にあった。その持ちものの貸家でもあったのだろうか。

提灯店の女性たちが「けころ」と書かれているが、昔のそのテのものの本によると、「けころ」はいまの上野松坂屋の1筋北あたりの娼婦の呼び名だったとか。提灯店はさらにもう2筋ほど北の岡場所。

〔みよしや〕のおよねが伊三次の腰につけさせ、その妙音を耳にしながら恍惚郷へ昇りつめたという「猫じゃらし」は、池波さんのエッセイによると、銀座のバーの女性が2個買ってきて、1個を池波家の猫たちへ進呈したものと。
その「猫じゃらし」をじっと眺めていて、伊三次の腰へ---と連想を働かせて物語をつくりあげるなんて、作家って奇妙な思考経路を持っているもののよう。

さいたま市 市政情報課 史料担当 加藤 さんからの連絡---
さいたま市の中釘町についてお知らせします。
市の北西にある中釘町は、かつては中釘村といっていました。明治22年4月1日に指扇村(ゆびおうぎむら)に合併し、昭和30年1月1日に旧・大宮市に合併。ずっと、農業をもっぱらとしていました。

| | コメント (2)

2005.02.05

〔帯川(おびかわ)〕の源助

『鬼平犯科帳』文庫巻11の[穴]で、盗みの血がおさまらず、隣家の化粧品店〔壺屋〕(史実は菓子舗で白粉もあつかった)へ、穴づたいに忍び込み、盗んだ金をそっくり、また返しにし忍んで行った引退盗賊。かつては、〔帯川〕一味を率いて西国でかせぎまくった首領。
長編巻15[雲竜剣]などでも、火盗改メに協力している。

211

年齢・容姿:70がらみ。鶴のように痩せ、白髪。湯あがりのようにつやつやしい顔色。
生国:信濃国伊那郡南原村和合帯川郷(現・長野県下伊那郡阿南町和合 帯川)
阿南町の帯川を見つけたのは、学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラス1期生の堀眞治郎さんである。かつての南原村地区と推定した根拠は、『旧高旧領』の知久頼鎌の知行地に「阿島村」と「南原村」があり、合併して「阿南町」となったのであろうと見た(史実は、1957年7月1日に大下条村、旦開(あさげ)村(明治8年帯川を合併)、和合村、富草村が合併した町制施行)。
3001
南北に長い阿南町 帯川郷は最下から次の赤スポット

3002
阿南町部分拡大 赤スポット---下から新野、帯川、早稲田郷

探索の発端:西の久保の菓子舗〔壺屋〕の盗難ともいえない不可思議な事件に疑問を抱いた鬼平が、密偵・彦十を〔壺屋〕へ住み込ませたところ、床下から隣家の京扇店〔平野屋〕の主人・源助の部屋の押入れへ通じていることがわかった。

つぶやき:〔平野屋〕源助が、金を返しに行くとき、三方に金とともに、麦藁細工のねずみと、ねずみがかじったような跡をつけた川越産のさつまいもを載せた。その麦藁づくりのねずみは、大森の名産で、川崎大師へ参詣した帰途に求めたものだが、池波さんは、そのねずみを『江戸名所図会』の[大森の麦藁細工]の絵から拾った。

132
0132大森の麦藁細工(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾 忠久)

132up_1
店内の向かって右隅棚にねずみが5匹

本郷3丁目の菓子舗〔壺屋〕が、その後の移転先---とは、店主・入倉芳郎さんの言。

学習院〔鬼平〕クラスの堀さんにとどいた、 「帯川関所」を解説した阿南町教育委員会のメール。

帯川関所について
遠州街道は、飯田市~下條村~阿南町新野~愛知県東栄町本郷へ通じる道です。
現在の国道 151号は遠州街道を沿った形になります。
帯川関所は現在の阿南町和合帯川地区にありました。昔の遠州街道です。
現在は畑になっており関所跡という看板しかありません。
寒川関所は、現在の阿南町和合心川地区にあり、昔の帯川村から現在の長野県平谷村へ通ずる道にありました。
以下は、『阿南町史』に記載の内容の抜粋です。

「知久規直 6歳の時、家康に謁し大久保忠世に預けられ、13才の時に廩米 300俵を給せられるようになり、22歳の時は関ヶ原の役に参戦し、慶長6年(1601)伊那郡本領の内3000石を給せられた。
そこで規直は、田村に入部し、後に阿嶋屋敷に移住する。
さらに、元和6年(1620)9月には、浪合・小野川・帯川・心川の4関を幕府から預かるようになった。
これは、江戸の守りとして、近江以東に55の関所が設けられ、主要道路はもちろん脇往還である三州街道や脇道等まで厳しく微行者を取り締まったのである。
阿南地区では和合・日吉・帯川の3ケ村が知久氏の預かり地となり支配されるようになり、延宝5年(1777)まで続いたのである。
以来知久氏はこれを支配して、明治維新に至った」

〔平野屋〕源助の番頭で、かつての配下〔馬伏〕の茂兵衛については、
(参照: 〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛の項)
(参照: 鍵師(かぎし)の助治郎 の項)

2005年06月07日、下伊那郡阿南町を訪れた。松本駅前のバス・ターミナルを飯田行急行バスで朝6時40分発、。飯田駅からJR飯田線で天竜峡経由で天竜川ぞい、11時半近くに温田(ぬくた)駅下車。

800
JR飯田線「温田(ぬくた)駅」

町役場総務課・町づくり推進室の澤田室長の車で天竜川に架かる南宮橋を西へわたり、起伏のはげしい山ぞいの舗装路151号線を上り下りしながら10分(3キロほど)南下し、右へ折れて帯川への斜面にへばりつくように点在している帯川集落へ。いまでは戸数10戸前後と。

802
帯川集落の対岸から帯川をのぞむ。手前は作業小屋

かつての村高は正保4年(1647)にわずか10石。そんな耕地の少ない集落から源助のような飄々とした性格の仁が、よくもまあ、生まれたものである。
集落の西はずれの小平地に、かつての遠州往還に接して帯川関所跡の銘板が立てられていた。

801
遠州往還の帯川関所跡の銘板 この右手が遠州往還跡

銘板の文章は、
「阿南町史跡 帯川関所跡
武田信玄西進にあたり、弘治2年(1556)遠州街道を押さえるため関所を作る。
関所跡は前方右側の畑にあり、面積畝18歩、江戸時代は、知久宇治あずかり、明治2年廃止となる」

司馬遼太郎さんの『覇王の家』は、信玄は通行料をとるためにいたるところに関所を設けたとある。これにたいして信長は中世的な遺物ともいえる関所を廃し、楽市楽座を設けて庶民を喜ばせたと。

余談を記すと、帯川関所跡の銘板のある小平所のすぐ下の家が、国語教育学者・西尾 実さんの生家と、澤田室長に教えられた。

阿南町のURL
http://www.town.anan.nagano.jp/

| | コメント (6) | トラックバック (0)

2005.02.04

〔州走(すばしり)〕の熊五郎

独立短篇[熊五郎の顔]『推理ストーリー』1962年2月号)に発表されているから、長編[雲霧仁左衛門](『週刊新潮』1972年8月26日号-1974年4月4日号に連載)の10年前の、雲霧一味ものである。

bunko_kumokiri_1
bunko_kumokiri_2

『雲霧仁左衛門』(新潮文庫 前後篇)

白浪ものとしては、『鬼平犯科帳』に先立つこと4年。

年齢・容姿:30歳ほど。丈5尺3寸(160cm前後)ほど。小肥りで色白く歯並び尋常。左耳たぶと左胸乳首の上に小豆大の黒子がある。
生国:近江国坂田郡(さかたごおり)醒ケ井(さめがい)村(現・滋賀県坂田郡米原町醒井)

探索の発端:〔雲霧I仁左衛門〕一味の四天王の1人---〔山猫〕三次が潜伏中の越後で捕縛された。
そのとき、もう1人の四天王---〔州走〕の熊五郎が「待っていねえ。きっと奪い返しにゆく」とつげて逃げおうせた。

火盗改メとしては、奪い返しにきた〔州走〕を捕まえるべく、武州・熊谷へ、与力・山田藤太郎一行が出張った。
その熊谷と深谷の間の新堀(にいぼり)の宿で茶店をやっているお延は、江戸で目明しだった亭主・政蔵を〔州走〕に刺殺されていた。

48
幕府道中奉行制作『中仙道分間延絵図』(部分)「新堀」

5日前、お延の店へ、かつぎ呉服商と称する男が倒れこんできて看病され、あげく、お延は躰をゆるしてしまったのである。信太郎と名のるその男の左耳たぶと左胸乳首の上に小豆大の黒子があった。

結末:逮捕され、唐丸篭に入れられた〔州走〕の熊五郎がお延の店の前をとおる。見守るお延の背後から名を呼ぶ声がした。館林や足利のお得意まわりをしてくるといって出て行って約束の日に帰ってはこなかった信太郎だった。
新太郎は双子として生まれ、貰い子にだされ、さらに売られたのだった。だから、双子の相方には会ったこともなかった。

つぶやき:池波さんは、5度も直木賞候補にあげられながら5度とも落ちている。そのたび滋味あふれる選評を語ったのが吉川英治さんであった。だからか、池波さんは、長谷川伸師についで吉川さんのことを崇敬していた。その吉川さんが、池波さんの候補作品に「ネタは大切に使いなさい」と選評した。
『雲霧仁左衛門』が[熊五郎の顔]を引き伸ばした作品とはいわないが、「雲霧仁左衛門」ものの準備は、10年前からされ、〔木鼠吉五郎〕も火盗改メ・安部四式部信旨も、作家の胸の中でずっと暖められていたのだとおもうと、襟をただしたくなる。

吉川英治さんの言葉は、そうとうに深い感動を池波さんに与えたようで、『文藝別冊 池波正太郎 歿後15年総特集』(河出書房新社)で、鶴松房次さんが、短篇から長編にしたものとして、[秘図]を『おとこの秘図』に、[賊将]を『人斬り半次郎』に、そして『真田太平記』をあげている。

| | コメント (5) | トラックバック (0)

2005.02.03

〔野川(のがわ)〕の伊三次

独立短篇[ 女毒](『アサヒ芸能 問題小説』 1969年9月号)の主人公。発表された1969年といえば、『鬼平犯科帳』シリーズが始まった翌年である。そのころには池波さんの作家としての声価も高まっていたろうに、『アサヒ芸能』から頼まれて引き受けたとは、まさに義理がたい。
『江戸の暗黒街』(角川文庫)収録。純然たる白浪ものではなく、香具師ものだが、裏の世界ものということで取りあげてみた。

091

年齢・容姿:26歳。引きしまた体躯。ぬけるように肌の色が白い。眉もきりりと濃い。切れ長の両眼はいつもやさしげなひかりをやどしている。
生国:相模国・野川とあるが、江戸期の相模にはなく、武蔵国橘樹郡にある(現・神奈川県川崎市高津区野川か、同市宮前区野川か)。

探索の発端:浅草一帯を縄張りとしている香具師の元締〔聖天〕の吉五郎(57歳)の一人むすめ・お長(22歳)が、一家の若い者(の)の〔野川〕の伊三次を婿に迎えて、跡目をつがせたいという。
伊三次にいなやはない。兄貴分の〔船形〕の由蔵も祝ってくれた。

567
真土山聖天宮(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

ところが、伊三次が、新堀端の竜宝寺門前の汁粉屋〔松月庵〕の小座敷で汁粉をすすっていると、隣室からお長の声が---。
「あの伊三次が、このあたしをことわる理由があるものか---」
その美貌を鼻にかけてかさにかかった傲慢ないいぐさに、伊三次は反発、
(いさ次はえさにかまわず飛びつくような、さかりのついたおすねこじゃ、ございません」
と置手紙をして姿を消した。

お長が、仕掛人〔田町〕の弥七に伊三次殺しを依頼したのは、おんなの誇りを傷つけられた怒りからだった。
弥七は、安倍峠へと向かう。伊三次が江戸へくる前にいた小田原の香具師の元締・和市から、伊三次が下ノ諏訪
生まれでいまは帰農している豊太郎と親しかったことを聞いたからだ。

結末:伊三次は運よく、弥七を刺したが、自分も片腕を斬り落とされた。
そりから五年後、安倍峠の駿河側の峠のとっかかりに梅ケ島の温泉場がある。そこで由蔵を襲っていた仕掛人2人を射殺したのは、猟師になっていた伊三次と義父であった。

つぶやき:「伊三次」は、『鬼平犯科帳』の密偵・伊三次と同名だが、じつは、こっちのほうが早い。松本幸四郎(白鴎丈)=鬼平で映画どりがはじまったとき、台本に「密偵」とし書かれていなったので、画面で名前を呼ぶときにこまるからと、誰かが「伊三次」とつけたのが、そのまま小説にもつかわれるようになったと----これは、そのときの監督だった高瀬昌弘さんから、じかに聞いた。

甘いものに目のない伊三次が入った、新堀端の竜宝寺門前の汁粉屋〔松月庵〕も、『鬼平犯科帳』文庫巻2[お雪の乳房]で兎忠がお雪と乳繰りあった店である。もっとも、兎忠のほうが半年ばかりはやかったが。

仕掛人・弥七は、『剣客商売』の四谷の御用聞き〔武蔵屋〕の弥七と同名だが、やはり、[女毒]のほうが3年半はやい。

安倍峠の麓の「梅ケ島」の温泉場へ池波さんが行き、安倍峠を越したいきさつは当サイト[〔雨乞い〕庄右衛門]に書いているので、そちらを参照していただきたい。
ぼくが訪ねた翌朝早く、安倍川上流を猿の群れが餌をもとめての移動だろう、瀬渡りをしていた。

前夜には、宿の車庫の床を小マムシが這っていた。

| | コメント (3)

2005.02.02

〔亀(かめ)〕の小五郎

独立短篇[正月四日の客]『オール讀物』1967年2月号)のタイトルどおり、正月4日に、本所・枕橋北詰の蕎麦屋[さなだや]へ、劇辛つゆの「さなだそば」を食べにくる大泥棒。
『にっぽん怪盗伝』(角川文庫)に収録。

061
『にっぽん怪盗伝』(角川文庫)

年齢・容姿:40がらみ。でっぷりとした体躯。右の腕に亀の刺青。
生国:信濃国更科郡(さらしなごおり)から埴科郡(はにしなごおり)、小県郡(ちいさがたごおり)のあいだのどこか(現・長野県長野市から上田市のあいだのどこか)。
須坂市の亀倉町という線もないではない。

探索の発端:枕橋北詰(墨田区向島1丁目)の蕎麦屋[さなだや]は、正月3ガ日は休み、4日に店をあけるが、この日に出すのは、〔ねずみ大根〕をすりおろしたしぼり汁をたっぷりあわせた劇辛のそばつゆに、極太・色黒の麺だけ。
というのも、亭主の庄兵衛(55歳)が亡父母への供養につづている故郷の正真正銘の〔真田そば〕である。
だから、近所の客は敬遠して1人もこない。

611
大川橋(『江戸名所図会 塗り絵師:ちゅうすけ)
対岸の中央あたりに小さく見えるのが枕橋

寛政3年(1791)の正月----ふらりと入ってきた40がらみの商家の旦那風の客は、喜んでお代わりしたばかりか、来年も来ると約束し、そのとおりにやってきて、亡妻おこうの仏前に線香を供えてくれたが、そのとき庄兵衛は、その男の右腕の亀の刺青に気づいた。

信州から小僧として江戸へきた10歳前後の庄兵衛に蕎麦職人の修行をすすめ、いまの店を持つまで見守ってくれたのは浅草・馬道の御用聞き・清蔵だが、その跡目をついで2代目を名乗っている清蔵から、亀の刺青のある大泥棒のことを聞いた庄兵衛は、その盗人が、押し入った先で女を犯すと知り、信州で酒屋をしていたわが家を襲った盗賊団が母親を犯したのちに撲殺したことをおもいだし、来年の正月4日にくるといっていた客のことを、清蔵へ告げた。

結末:寛政7年の正月4日、やってきた〔亀〕の小五郎は捕縛されたが、〔真田そば〕をたぐるときとは一変した、悪鬼のような形相で庄兵衛をにらみつけ、「売りやがったな!」と。獄門。

つぶやき:この短篇をはじめとして、池波さんはこの年(1967)、4篇の独立短篇を大衆小説の発表の場としては最高位の『オール讀物』に発表している。

うち、2篇が白浪もの---火盗改メがらみの作品で、もう1篇が、『鬼平犯科帳』連載のとっかかりとなり、のちにシリズへとりこまれた[浅草・御厩河岸](12月号)である(前日の[〔豆岩(まめいわ)〕の岩五郎] ほかをご参照あれ)。

[正月四日の客]の主題は、結末で〔亀〕の小五郎が庄兵衛へ投げつける「人間の顔は一つじゃねえ」だが、この金言は、池波さんが長谷川伸師から教わり、共感した人間観の一つである。

本所・枕橋たもとの蕎麦屋〔さなだや〕が聖典へ登場する篇は、文庫巻2[蛇の眼]、同[妖盗葵小僧]、文庫巻12[いろおとこ]。

〔真田そば]の発想のもとは、長野県上田市の池波さんがよく行った蕎麦屋[ 刀屋] あたりか。〔刀屋]の麺は8割そば、と同店で聞いた。

| | コメント (2)

2005.02.01

〔豆岩(まめいわ)〕の岩五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻1に収録されている[浅草・御厩河岸]で居酒屋〔豆岩〕をやりながら、筆頭与力・佐嶋忠介の手のもの・密偵として働いてもいる。

201

年齢・容姿:35,6歳。5尺に足りないほどの矮躯。どんぐり眼。
生国:越中国射水郡(いみずごおり)伏木村(現・冨山県高岡市伏木)

探索の発端:岩五郎はいまは足を洗い、厩橋北詰の三好町で、品川の宿場女郎あがりの女房お勝(41歳)とともに小さな居酒屋〔豆岩〕を、隣の葭簀ばりの小店では草鞋や大福餅などを売りながら、火盗改メの密偵となっている。

520
御厩河岸の渡し(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

その岩五郎へ、お盗めを助(す)けないかといってきたのは、近くの淨念寺で寺男として身を隠している彦蔵であった。親分は〔海老坂〕の与兵衛であるという。海老坂は岩五郎の故郷・伏木からほんの目と鼻の先だし、いまは中風で寝ている父親の卯三郎(76歳)など、「一生に一度でもいいから、〔海老坂〕のお頭の下でお盗みがしてみたかった」が口ぐせである。

面接した岩五郎も、〔海老坂〕の与兵衛の人物の大きさに参ってしまい、密偵としての役目を忘れそうなったほどである。
というのも、父親の卯三郎とともに岩五郎が一味として働いていたのは、甲州・石和が本拠の鶍(いすか)の喜左衛門で、やはり、田舎盗人の格でしかなかったからである。

結末:岩五郎の密告で、〔海老坂〕の与兵衛は従容として縛についた。岩五郎夫婦と老父はいずこへか逃げた。

つぶやき:卯三郎が女房とまだ幼なかったせがれの岩五郎を高岡の町中に住まわせ、自分は薬の行商にまわりながら、上方一帯から近江へかけてお盗めをしていた〔中尾〕の治兵衛一味に加わっていた。この〔中尾〕の出身は、いまは冨山県の氷見市に併合されている「中尾」であろうか。伏木とは海岸ぞいにつながっている。

いや、岩五郎に登場してもらったわけはというと、幼いときに身についた味覚はかわらないものだが、出生地の食べ物について述懐した盗人はほとんどいないのに、岩五郎は父尾がつくってくれた「しんこ泥鰌鍋」を語っているからである。

私事をつけくわえる。2年前、知友の仲立ちで、豪華客船〔飛鳥〕で、竹橋桟橋-神戸港-唐津-屋久島-釜山港-
伏木---)の6泊7日の船旅で、[鬼平犯科帳]船上スピーチをしたことがあった。伏木で下船したが、〔飛鳥〕はその後も、青森、仙台と巡った。
それで、伏木、高岡を体験できた。もちろん「しんこ泥鰌」は食べていない。が、海老坂」「氷見」が身近になった。現地はふんでみるにかぎる。
とはいえ、60代までのぼくは、目が海外に向いていて、138都市に宿泊。海外ミステリーを読むには土地勘が役だつが、捕物帳にはいささか。こんご、国内の旅をこころがけるつもりである。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

« 2005年1月 | トップページ | 2005年3月 »