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2005年3月の記事

2005.03.31

〔小金井(こがねい)〕の万五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻2の[埋蔵金千両] (初出『オール讀物』1969年3月号)では、〔土蜘蛛(つちぐも)〕の万五郎の「通り名(呼び名)」で登場したが、文庫巻11の[土蜘蛛の金五郎] (初出『オール讀物』1973年12月号)と重なったため、万五郎のほうは、文庫10刷(1981年11月1日)から、生国に由来する〔小金井(こがねい)〕に改められた。

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年齢・容姿:56歳。小柄。
生国:武蔵(むさし)国多摩郡(たまこおり)小金井村(現・東京都小金井市桜町あたりか)。

探索の発端:麻布の飯倉片町に住む医師・中村宗仙に、「いまの病気を治癒してくれたら100両でも払う」といったことが、芝・新銭座の表御番医・井上立泉から鬼平へ伝わった。
「100両」という金額に不審を抱いた鬼平が、ひそかに探索をはじめる。

結末:いまは引退して信州・上田の城下で小間物屋を営んでいる〔加納屋〕利兵衛こと、元配下の〔須川(すがわ)〕の利吉を呼んできてほしいと、妾兼女中のおけい(24歳)を迎えにやったものの、中村宗仙の治療によって体調回復のきざしが見えると、利吉のことが疑わしくおもえてきた。
馬をやとって、みずからの手で千両の埋蔵金を掘り出しに、小金井村の隣の貫井村へようやくにたどりついたものの、金はすでになかった。そのショックで、心ノ臓がとまってしまった。

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埋蔵金は貫井橋---手前から3つ先---の南の地蔵堂に。
(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

つぶやき:シリーズ第14話目(文庫には、シリーズ前の[浅草・御厩河岸]が収録されている)なので、池波さんとしても力投の結果の、新鮮で出来ばえのいい作品にしあがっている。

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上田へ向かったおけいが引き返しを決めた柳瀬ノ渡し
幕府道中奉行製作『中山道分間延絵図 岩鼻=新町間』

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〔鹿山(かやま)〕の市之助

『鬼平犯科帳』文庫巻8に収録の[流星]で、大坂の艾問屋[山家屋]仙右衛門と組んで大仕掛けの悪業を働く兇賊の首領。

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年齢・容姿:荒っぽい所業をつづけているにもかかわらず、記載がない。
生国:武蔵(むさし)国高麗郡(こまこおり)鹿山(かやま)村(現・埼玉県日高市鹿山)

探索の発端:長谷川組の同心・原田一之助の妻女きよが白昼、四谷御門外で惨殺された。つづいて与力・三浦助右衛門の次男・又二郎が三光院稲荷のところで襲われて死亡。
浅草・北馬道の味噌問屋〔佐野蔵〕と、本郷2丁目の扇問屋〔太田屋〕が同じ日に押し入られて一家皆殺し。
先手弓組の山本伊予守組の同心・木下与平治が暗殺されたのにつづき、火盗改メの役宅の門番が斬り殺された。
そして、思案橋ぎわの船宿〔加賀屋〕の船頭・友五郎が仮親をつとめていた、故・〔飯富〕の勘八お頭の遺児・庄太郎が奉公先から行方不明となり、友五郎も姿を消した。
(参照: 〔浜崎〕の友蔵の項)
ここへきて、探索は、友五郎がむかしやっていた川越船頭の新河岸川向けられた。

結末:新河岸川(しんがしがわ)ぞい、福岡村のあたりの廃寺に、〔鹿山(かやま)〕一味と仙右衛門の配下が長谷川組の急襲を受け、18名逮捕。盗人たちは死罪。手伝わされた友五郎は遠島。
庄太郎は染井村で無事に救出。

つぶやき:ノンフィクション作家・後藤正治さんが日経新聞(2005.03.19)夕刊「あすへの話題」に、「究極の読書」と題して書いていた。
睡眠薬代わりの読みものには、「もっぱら池波正太郎氏の『鬼平犯科帳』のお世話になっている」「全巻、一度は読んだはずであるが、筋はすっかり忘れていて、常に新刊をひも解いている感がある」「前夜、読んでいたところもすっかり忘れてしまっていて、同じページを何度もめくるテイタラクなのだ」「悪党盗っ人は最後、切られて、鬼平の刀の錆びとなってしまう。勧善懲悪、寝床の本は罪がないのが一番である」
「睡魔のなか現世幽界さだかならぬ読書。これぞ究極の読書というべきか」

後藤さんが記している点が、池波小説の特長であり、泣きどころでもあろうか。

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2005.03.30

〔殿貝(とのがい)〕の市兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻6に収録の[剣客]に、駿河・遠江を荒しまわっている〔野見(のみ)〕の勝平一味で、本所・清澄町(切絵図は尾張屋板・近江屋板ともに「清住町」)の藍玉問屋〔大坂屋〕へ、引きこみに飯炊きとして入っている。
(参照:〔野見〕の勝平の項)

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年齢・容姿:爺。大男。うすのろを装う。
生国:三河(みかわ)国加茂郡(かもこうり)殿貝津(とのがいつ)村(現・愛知県豊田市貝津町・大清水町・浄水町)

探索の発端:清澄町の藍玉問屋〔大坂屋〕の横手から出てきた浪人の袖に血がついているのを見た鬼平は、同心・木村忠吾に尾行を命じたが、忠吾はまかれてしまう。
〔大坂屋〕の横手奥から、同心・沢田小平次のうめき声がした。師の老剣客・松尾喜兵衛が斬殺されていたのだ。
松尾喜兵衛の葬儀もすんだ。手伝いにきていた密偵おまさが、〔大坂屋〕に近い万年橋を北へわたり、新大橋のたもとで、かつて助(す)けたことのある〔野見(のみ)〕の勝平一味にいた〔滝尻(たきじり)〕の定七を見かけ、〔大坂屋〕の飯炊きにはいりこんでいる〔殿貝(とのがい)〕の市兵衛と連絡(つなぎ)をつけているところまで押さえた。

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藍玉問屋〔大坂屋〕(『江戸買物独案内』文政7年 1824刊)
(参照: 女密偵おまさの項)

〔相模(さがみ)〕の彦十が定七の尾行の成功、南千住の盗人宿をつきとめた。

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千住川 千住大橋(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

そこに、松雄喜兵衛を斬った浪人・石坂太四郎も潜んでいた。

結末:石坂浪人は沢田小平次との果し合いに斃れた。
南千住の盗人宿へつぎつぎに立ち現われた〔野見〕の勝平ほか、一味7名も待ち伏せていた火盗改メに縛られた。そうでないと、危険を察知して逃亡されるおそれがあるので〔殿貝〕の市兵衛は最後に逮捕。全員死罪だったろう。

つぶやき:[剣客]は、『オール讀物』1971年3月号に発表された。『剣客商売』の連載が『小説新潮』で始まったのは翌1872年の新年号からである。
『剣客商売』は、連載開始の大分前から創作ノートがきちんとつくられていたフシがある。推察するに沢田小平次と石坂太四郎の決闘は、その副産物として、連載9カ月前に書かれたのだろう。

もちろん、〔野見(のみ)〕の勝平や〔殿貝(とのがい)〕の市兵衛は、[剣客]のために創造された盗人であるが。

引きこみの飯炊きのような端役、そして実際に清住町に実在していた藍玉問屋まで、きちんと造形するところが、池波小説にリアリティをもたらしている。読み手が〔大坂屋〕が実在していたことを知らなかったとしても、「へえ、藍玉問屋が南本所にねえ。堀を利用して荷を運んだのだろうねえ」と納得。

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2005.03.28

〔薮塚(やぶづか)〕の権太郎

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収録されている[浮世の顔]に登場する流れづとめの非道でケチな盗人。物語の早々に仲間の〔三沢(みさわ)〕の磯七に刺殺される。
(参照: 〔三沢〕の磯七の項)

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年齢・容姿:30男。痩せた小男。
生国:上野(こうずけ)国新田郡(にったこおり)薮塚村(現・群馬県新田郡薮塚本町藪塚)
流れづとめだが、事件当時は、口会人〔鷹田(たかんだ)〕の平十の口合で、上州に本拠を置いている畜生ばたらきが専門の〔神取(じんとり)〕の為右衛門に雇われたという。
(参照: 〔鷹田〕の平十の項)
(参照: 〔神取〕の為右衛門の項)
上総(かずさ)国長柄郡(ながえごおり)藪塚村(現・千葉県長生郡長生村)も候補にのせた(地名は、雑草木の茂る荒地だからと)ことはのせた。
しかし、上州も広いし、街道筋でもあるし、で、薮塚本町を採った。

探索の発端:王子権現の裏参道の小川のほとりの林の中で、武士と30男が殺されてい、百姓が背負う籠がのこされていた。
武士は袴をぬぎ、下帯もはずしたままだった。30男のふところには20両入った財布があった。
密偵〔大滝〕の五郎蔵が、30男は、流れづとめの〔藪塚(やぶづか)の権十郎で、現役のころにいちど雇いかけたことがあると証言した。
それで、権十郎の人相書を〔鷹田の平十の老妻に見せると、〔神取(じんどり)〕の為右衛門に口合したらしいことをおもいだした。
また、滝野川村の娘のおよしが、気絶したふりをしているときに、死んだ30男の連れが、「板橋の旅籠へ早くもどろう」といったことを鬼平へ告げた。

結末:30男がおよしを犯そうとしたので、刺殺して逃げたのは、〔三沢(みさわ)〕の磯七だった。
板橋を洗っていた〔大滝〕の五郎蔵が、街道で〔牛久保(うしくぼ)〕の甚蔵をみかけ、尾行して旅籠〔上州屋〕をつかんだ。そこは〔神取〕の為右衛門一味の盗人宿であった。

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板橋の駅と石神井川(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

つぶやき:撲殺された武士が、鳥羽藩士・小野田武助が長谷川平蔵へ宛てた手紙を胴巻へ入れていた---などというのは、いかにもつくり話めいていて不自然だが、小説ということで目をつむるしかあるまい。

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〔鹿間(しかま)〕の定八

『鬼平犯科帳』文庫巻21に入っている[討ち入り市兵衛]で、元のお頭〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛の本格派の盗めぶりに飽き足らず、畜生ばたらきの〔壁川(かべかわ)〕の源内一味につき、〔蓮沼〕一味との交渉役を買ってでた盗賊。
2年前から深川・三好町で釣具屋を構えて、〔壁川〕一味の江戸での初仕事に備えている。

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年齢・容姿:どちらも記述されていない。
生国:伊勢(いせ)国鈴鹿郡(すずかこおり)鹿間村(現・三重県四日市市鹿間町)
別に、飛騨(ひだ)国吉城(よしきごおり)郡鹿間村(現・岐阜県吉城郡神岡町鹿間)の線も捨てがたかったが、3つの理由で前者を採った。
1.神岡町の鹿間は、江戸期、戸数9、人数64の辺鄙な郷であった。こういう土地で育った仁が、目先の利益にとらわれることはすくなかろう。
2.〔蓮沼〕一味のテリトリーはほとんど江戸。対する〔壁川〕一味の本拠は上方から中国筋。このように盗みのテリトリーが異なる一味のあいだを器用に渡れるのは、東海道筋育ちの世慣れた仁でなくてはできまい。ましてや、〔鹿間〕の定八がやったのは、〔壁川〕の源内に代わっての〔蓮沼〕の市兵衛やその右腕〔松戸(まつど)〕の繁蔵との交渉役であった。
3.池波さんは、忍者ものの取材で、伊賀や鈴鹿辺を丹念にしらべてい、土地勘がある。

探索の発端:本所・二ッ目、弥勒寺門前の茶店〔笹や〕の女主人お熊が、隣の〔植半〕の裏庭で倒れていた重傷の男を見つけ、自分の家へ運んだ。
密偵・彦十がその男は、20年も前に知り合っていた〔松戸〕の繁蔵と証言し、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が、いまは神格化されている盗賊の頭領〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛の右腕だといった。
〔松戸〕の繁蔵の頼みで、彦十が〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛に事情を説明すると、市兵衛はさっそくに仇討ちを決めた。

結末:旧暦2月初めの朝5時近く。灰色の筒袖の上着に股引、紺の手甲・脚絆、鉢巻に足袋跣(たびはだし)の〔蓮沼〕一味6名に、木村忠右衛門に化けた鬼平が、深川・三好町の釣具屋に討ち入った。
首魁の〔壁川〕の源内は、鬼平に捕まり、市兵衛の短刀で刺殺されたが、〔蓮沼〕側も市兵衛のほか3人が討ち死に。
しかし、〔壁川〕側の4名の死者、3名の逃亡者の中に、なぜか、〔鹿間〕の定七の名は記されていない。

つぶやき:本格派の〔蓮沼〕一味対畜生ばたらき派〔壁川〕一味の対決は、どちらも首領を失っているから、勝ち負けなしなのだが、読み手は、〔蓮沼〕一味の勝ちとおもいたがる。池波さんの筆力の妙である。

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2005.03.26

〔万福寺(まんぷくじ)〕の長右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻12に収められている[見張りの見張り]で、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵と親しかった、上方がテリトリーの首領。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)

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年齢・容姿:まったく記されていない。
生国:山城(やましろ)国宇治の五ヶ荘の万福寺のあたり(現・京都府宇治市五ヶ荘)。

探索の発端:大身旗本・本多寛司(寄合。7,000石)の広大な屋敷(5,590余坪)の南側---本所・相生町4丁目の裏通りに、〔大滝〕の五郎蔵・おまさ夫婦と義理の父〔舟形〕の宗平の煙草屋〔壺屋〕がある。
(参照: 女密偵おまさの項)
その〔壺屋〕へ、たまたま煙草を買いにきて、宗平とばったり顔をあわせた老爺は、はるかむかし、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助のところでいっしょだった〔長久保(ながくぼ)〕の佐助だ。
(参照・〔蓑火〕の喜之助の項)

佐助が江戸へきたのは、息子・佐太郎を殺した〔杉谷(すぎたに)〕の虎吉を討つためだという。探しているその敵(かたき)が、〔大滝〕の五郎蔵一味になっていると聞いたことは告げなかったが。
〔舟形〕の宗平から、〔壺屋〕が五郎蔵の盗人宿だときかされた佐助は、五郎蔵を尾行して、南品川で寅吉の女房とむすめがやっている蝋燭店までたどりついた。
その2人を、密偵の伊三次が見つけ、鬼平へ報告。
(参照: 伊三次の項)
さて、〔杉谷〕の寅吉はもと、〔万福寺(まんぷくじ)〕の長右衛門一味にいたのだが、長右衛門が病没して一味が解散すると、長右衛門と親しかった〔大滝〕の五郎蔵をたよってきたのである。しかし、腕はたしかだが人物ぶりに表と裏がありすぎ、3年ほどして、一味を離れていった。

結末:京・祇園の茶汲女をめぐって、佐太郎と殺し合いを演じたのは、佐助に寅吉のことを吹き込んだ〔橋本(はしもと)〕の万造だということを、〔大滝〕の五郎蔵に捕らえられた寅吉が、佐助と相対で白州に引きだされて、ぶちまけた。
けっきょく、佐助は仇討ちをしないまま、処刑されることになった。
〔万福寺〕の長右衛門は、さきに書いたとおり、病死。

つぶやき:武州・荏原郡馬込村にある万福寺かとおもった。というのも、『仕掛人・藤枝梅安』のもう一人の仕掛人である楊枝削りの彦次郎が、ここの寺男として住み込み、女房を迎えているから、池波さんの頭の中にこの寺があったと推察した。
武州・都筑郡万福寺村(現・川崎市麻生区万福寺)も考慮に入れてはみた。
しかし、わざわざ、本拠は「上方」とあるので、黄檗(おうばく)派の大本山である宇治市の万福寺を採った。
『忍者丹波大介』(新潮文庫)p10に「京都市中の東面をかこむ東山地塁につらなる台上の伏見城は、眼下に宇治川をのぞみ、山科と京都両盆地を左右に見下す突端にあった」と、実地を取材したとおもえる描写もしている。

盗賊の首領同士の付き合い方---盗みに対する似た考えをしている同士---がうかがえておもしろい。

〔大滝〕の五郎蔵・おまさ夫婦と〔舟形〕の宗平がやっている煙草屋〔壺屋〕は、最初に登場した巻7[隠居金七百両]からずっと本所・相生町5丁目だったが、この篇でとつぜん本多寛司邸の南側---すなわち相生町4丁目(文庫初刷り)となった。
多くの読者から指摘があったのであろう、文庫も何刷り目から「相生町5丁目」へ訂正されたが、
「道をへだてた北側、大身旗本・本多家の広大な屋敷の土塀であった」
の1行がくっついたままなので、切絵図で見ると依然として相生町4丁目となる。
さらに、新装版(第2刷り)では、また、「相生町4丁目」へ戻ってしまっている。

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剣客(けんかく)医師・堀本伯道

『鬼平犯科帳』の最初の長篇である文庫巻15[雲竜剣]で、謎の人物として鬼平を悩ます。探索していくうちに、伯道に虎太郎という息子がいることが分かってきた。

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年齢・容姿:74歳 p268(新装版p278)。白髪。すっきりと高い背丈、みごとな筋骨。物腰に気品。
生国:近江(おうみ)国 滋賀郡(しがごおり)本堅田村(現・滋賀県大津市堅田)。

探索の発端:本芝の法泉寺の塀の外で、同心・片山慶応次郎が斬殺されていた。つづいて深川の海福寺(明治42年に目黒区下目黒3丁目へ移転。跡地は明治小学校)の境内に、同心・金子清五郎の死体が捨てられていた。殺人者の手がかりはまったくない。
府内では、外道じみた押し込みが行われ、鬼平も闇討ちにあう。
そんなとき、西久保町の京扇店[ 平野屋]の番頭・茂兵衛が、近江・八日市村の鍵師・助治郎が訪れてきたとの密告してきた。鍵師・助治郎を尾行することで、背後に剣客医師・堀本伯道の影が見えてきた。深川の足袋問屋〔尾張屋〕が標的らしい。
(参照: 鍵師・助治郎の項)
(参照: 〔馬伏〕の茂兵衛の項)

結末:伯道がおせきに産ませた虎太郎は、浪人どもと組んで非道な盗めを繰り返していた。伯道は、盗人宿にしている根岸の寮で虎太郎を成敗しようとして、逆に斬られた。対決を、鬼平が引き継いだ。虎太郎の喉もとに血が走った。

つぶやき:盗みに手を染めざるをえなかったことを、堀本伯道が、鍵師・助治郎にしみじみと述懐する。
「わしが剣術のほかに医術をおさめていたからじゃ。金がな、金がないと、いまの世の中では医術も物をいわぬ。見す見す助けてやれる者も助けてやれぬことが多い」

鍵師・助治郎は、合鍵を盗賊たちへ売った金で各地に報謝宿を営んでいた。同郷の伯道とも、報謝宿の縁で付き合いが始まった。
悪を行いつつ善をほどこす----池波人生哲学のいい意味での具現者が堀本伯道であり、助治郎である。


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2005.03.25

女盗(にょとう)おたか(お豊)

『鬼平犯科帳』文庫巻3に所載の[艶婦の毒]で、長官のお供で京都にのぼってきた同心・木村忠吾(26歳)を食わえこんだ女盗(にょとう)p107 (新装版p112)。ちなみに、女賊(おんなぞく)という呼称が定着するのは、〔猿塚(さるづか)〕のお千代がヒロインをつとめる巻5[女賊]以降である。
当時27歳だった銕三郎(平蔵の家督前の名)が、八坂神社裏の茶店〔千歳(せんざい)〕の女主人お豊(いまの名おたか)と痴情のかぎりをつくし、京都西町奉行だった父にたしなめられたのは、23年前のことであった。

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年齢・容姿:40をこえているはずだが、30そこそこにしか見えない。豊満な肉(しし)おき、健康な年増女の血のほてり。
生国:不明。5,6歳のとき、浪人だった父親に尾張・鳴海の宿外れで捨てられた。その幼女を引きとってそだててくれたのは、先代の〔虫栗(むしくり)〕の権十郎・おだい夫婦だった。

探索の発端:京・千本出水の七番町にある華光寺へ参詣、亡父の墓参りをすませた鬼平が、ほど近い北野天満宮で、四条の料亭〔瓢駒(ひょうこま)〕で落ち合ってやってきた、木村忠吾とおたか(かつてのお豊)を見かけた。

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〔俵駒〕は『商人買物独案内』(天保4年 1833刊)からと採られた

後をつけると、2人は裏手・紙屋川ぞいの風雅な料亭〔紙庵〕の離れへ入った。
3時間ほどして出てきたお豊を尾行、釜座(かまざ)下立売(しもたちうり)上ルの〔諸色えのぐ・筆刷毛---万絵具所 柏屋〕へ入るのを確かめた。

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店の住所は左隣から転用(『商人買物独案内』1833刊)

誓願寺境内の〔五分五厘屋〕で茶汲女をしていたお豊が、〔柏屋〕店主・四郎助に見初められ、後妻に納まっていたのである。

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〔五分五厘屋〕はここから採られた(『商人買物独案内』1833刊)

結末:お豊も、属していた2代目〔虫栗〕の権十郎(50がらみ)一味も、京都西町奉行所の浦部与力の指揮で逮捕された。死罪のはず。
(参照・〔虫栗〕の権十郎(2代目) の項)

つぶやき:長谷川本家の末裔である長谷川雅敏さんが、京・千本出水の華光寺へ問い合わせ、送られてきた過去帳のコピーを見せてもらった。それには、葬儀は執り行ったが、遺骨は江戸へ持ち帰られたので、墓はない、とあった。
それだと、墓参ではなく、単なる表敬訪問をしたことになる。

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京都、千本出水の華光寺楼門前

ただ、息・辰蔵(家督後は平蔵宣義)が提出した「先祖書」に拠った『寛政重修諸家譜』には、「華光寺へ葬る」とある。これを史料と見るかぎり、墓があるとおもうのも致し方なかろう。

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2005.03.24

〔日影(ひかげ)〕の長右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻8の中の秀作[あきれた奴]と、巻20の[おしま金三郎]にチラッと名前だけが出てくる盗賊。

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年齢・容姿:いずれも記されていない。
生国:信濃(しなの)国水内国(みのうちごおり)日影村(現・長野県上水内郡鬼無里(きなさ)村)。
〔通り名(呼び名)とも〕の〔日影(ひかげ)〕からだと、岩代(いわしろ)国の2カ村、上州、武州、三河、甲斐、飛騨などにもに各1カ村ある。
あえて、信濃を採ったのは、現村名が鬼無里(きなさ)村と、いかにも池波さん好みだから。ここは明治22年(1889)4月1日に、鬼無里村と日影村が合併して現村名を名乗った。

探索の発端:寛政2年の雪の頃、同心・小柳安五郎と松波金三郎が、兇賊〔日影(ひかげ)〕の長右衛門の探索の手がかりをつかんだとある。
小柳同心は、7日ほども組屋敷へ帰らないで役宅へつめきりで逮捕にあたった。
その間に、初産が難産だった妻のみつは男の子を産みおとすと息絶え、まもなく赤子も逝った。その死に目に立ち会えなかったことが、長く小柳同心の心の傷となっていた。

結末:逮捕された〔日影〕一味は、全員死罪だったろう。

つぶやき:かつて10年間ほど、池波さんや落合恵子さんらと読売映画広告賞の審査をやっていて感じたのは、池波さんの判断のずば抜けた早さ、決めたらあとはほとんど口をきかないいさぎよさだったが、横から見ていて、池波さんの好みは黒っぽい紙面の広告が多いと気づいた。つまり、視覚的な好みを優先させていたようにおもった。
ひきかえ落合さんとぼくは、白っぽい紙面の広告におおむね高い点数をつける気味があった。

池波小説の題名に「暗剣」とか「闇」とかが多いといっているわけではない。そのテの話だと、池波小説の主人公---長谷川平蔵や秋山小兵衛、藤枝梅安は、白い花をとりわけ好んでいる。

小柳家の菩提寺というか、亡妻みつと赤子が眠っている、浅草・阿部川町の竜源寺は、池波少年が育った下谷・永住町の近くの竜福寺(台東区元浅草3丁目17-2)と隣の了源寺(同・3丁目17-5)の寺号を合成したもの。近すぎるのでテレて、そのままは借りられなかったのだ。

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2005.03.23

〔瓢箪屋(ひょうたんや)〕勘助

『鬼平犯科帳』文庫巻7に所載の[盗賊婚礼]で、本格派の〔傘山(かさやま)〕一味の2代目・弥太郎の大番頭格。先代の弥兵衛のときから仕えている。表の顔は、駒込富士前町の料理屋〔瓢箪屋〕の主人。

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年齢・容姿:60がらみ。白髪、蜻蛉髷(とんぼまげ)の小さな好々爺(こうこうや)。
生国:出羽(でわ)国山本郡(やまもとごおり)高畑(たかばたけ)村(現・秋田県大曲市小貫高畑(おぬきたかばたけ))。

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(赤○=大曲旧市内 青〇=小貫高畑 明治23年 参本部製)

探索の発端:〔鳴海(なるみ)〕の繁蔵の項でも記したが、巣鴨村の三沢家を訪ねた鬼平は、従兄弟の仙右衛門と、駒込片町の円通寺(文京区本駒込3丁目)で生母の墓参をすませ、駒込富士前の岩ぶち街道に面した小料理屋〔瓢箪屋〕で午餐をとり、その料理のよさに満足。
(参照: 〔鳴海〕の繁蔵の項)
あいさつに現れた主人は、そうそうに引きとった。鬼平の感想は、
(これでは、あまり儲かるまい。これは、あの主人が道楽でしていることか---?)

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駒込の富士浅間社(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾 忠久)

それから半月後。
所用で〔瓢箪屋〕の裏手にさしかかると、屋内で起きている騒ぎが---。岸井左馬之助とともに飛び込んだ。

結末: 先代同士の約束を盾にとって、2代目〔鳴海(なるみ)〕の繁蔵がたくらんだ婚礼だったが、花嫁はニセモノとばらした繁蔵配下の〔長嶋〕の久五郎は、繁蔵を短刀で刺殺した。
〔傘山〕の弥太郎と勘助は、両手を突き出し、頭をたれた。

つぶやき: 先代の〔傘山〕の弥兵衛の出身は冨山県上新川郡大山町と推測している。出府し、本格派の盗賊の首領として関東一円を縄張りにしていた。
表の顔だった武州・八王子の休み茶屋〔古屋〕の主人として、8年前の天明5年(1785)に畳の上で大往生をとげるとき、弥太郎へ、嫁は同じ本格派の〔鳴海〕の繁蔵どんのむすめという約束を交わしている、と告げた。

先代の「弥兵衛が倒れたとき、勘助は、生まれ故郷の出羽・高畑へ帰っていた」とあるのが、勘助の生国を割り出した手がかりだが、じつは、出羽国には、「高畑(たかはたけ)」という地名が同じ山本郡の田沢湖町にもある。
しかし、観光資源としての孔雀城址がある大曲市のほうを採った。

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2005.03.22

〔寺尾(てらお)〕の治兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻20の[寺尾の治兵衛]とタイトル名にもなっている口合人(くちあいにん)。
生業(なりわい)としては盗賊団のお頭たちへ〔ながれ盗(づと)め〕の盗人を口合(斡旋)して紹介料を受けとる口合業だが、この篇では、盗みの世界で生きてきた棹尾(とうび)を飾るべく、手持ちの〔ながれ盗め〕人の名簿の中からえ選(え)りすぐった者たちで組織し、自ら采配をふるう計画を樹てている。

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年齢・容姿:50がらみ。弥勒寺門前の茶店〔笹や〕のお熊婆ぁさんいわく。「寺尾の治兵衛という男(の)も、ちょいと、しゃぶってみたくなるような顔をしているねえ」
生国:駿河(するが)国庵原郡(いはらごおり)寺尾(てらお)村(現・静岡県庵原郡由比町寺尾)
「由比町が合併されないで現存しているかどうか、地元の鬼平ファンの方のコメントを得たい)。

探索の発端:いまは長谷川組の密偵になっている〔大滝〕の五郎蔵が、現役(いま働き)のお頭だったころに〔ながれ盗め〕人の口合(斡旋)をなんども頼んだことのある〔寺尾〕の治兵衛から、浅草寺の境内で声をかけられた。
2人はともに、〔蓑火〕の喜之助から盗人として守るべき薫陶をうけた間柄だったのである。
(参照・ 〔蓑火〕の喜之助の項)
その「〔寺尾〕の治兵衛どん」が、助(す)けてくれないかといったのは、芝・片門前町2丁目の蝋燭問屋〔橘屋〕方への押し込みだった。
鬼平に報告すると、〔ながれ盗め〕人を逮捕するいい機会だから、自分も一味に加わると、乗ってきた。

結末: 上方から助っ人をさらに12,3人ほど探してくると、 寄宿している茶店〔笹や〕を明日には発とうかという日、〔寺尾〕の治兵衛は、座敷牢を破り出るや白刃をふりかざして町中を暴れまわる旗本の狂人息子に斬殺されてしまった。

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本所・弥勒寺の門前は二ツ目の通り。中央あたり木戸柵の右手、門前茶店〔笹や〕。右隣は〔植半〕(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾 忠久)

留守中の資金としてわたされた50両を、〔大滝〕の五郎蔵は、島田宿で古着屋をやっている遺族へ、ひとり娘の嫁入り資金として届けるべく旅立った。治兵衛が最後のお盗めをおもいたったのも、この嫁入り資金かせぎが目的の一つでもあった。

つぶやき:鬼平が盗人の浪人に化ける話、シリーズ後半に入ってからいささか多いなあ。1,500石格の火盗改メの長官が、そうそう軽率に盗賊団に潜入していいものかと、このところ、いささか首をかしげている。

〔口合人〕は、池波さんの造語になる人材紹介人である。「口合」を小学館『日本国語大辞典』で引くと、「間に立って口をきき、保証をすること」とある。
池波さんが愛用していた昭和10年(1935)刊の平凡社『大辞典』は「中に立って口をきく人。保証人。口入れ」とある。ここからたどったとおもう「口入」は、「奉公口、又は金銭の貸借などの世話をすること。又それらを営業とする人。桂庵。周旋屋」。

池波さんが「口合人」という造語をおもいついたのは、『オール讀物』(昭和51年 1976 2月号)に発表した[尻毛の長右衛門](文庫巻14)のためである。「口合人」という造語がよほどお気に召したか、つづく『殿さま栄五郎』(同)、『浮世の顔』(同)、1号おいた『さむらい松五郎』にも、〔鷹田(たかんだ)〕の平十、音右衛門、〔赤尾(あかお)〕の清兵衛といった「口合人」を登場させている。
(参照・ 〔赤尾〕の清兵衛の項)

「寺尾村」を『旧高旧領取調帳』で確かめると、越後・大野郡と高座郡、上州・片岡郡、上総・天羽郡、甲州・八代郡、武州・秩父郡、相州・高座郡にもあるが、〔蓑火〕の喜之助は京都など上方がおもなテリトリーであったこと、治兵衛が留守宅を島田宿においたことから、もっとも京にちかい東海道筋の駿州・庵原郡の「寺尾村」(63余石)とした。
駿河には安部郡の寺尾村(1,945余石)もあるが、家康の関係者がよく往来したはずの東海道筋であること、取れ高が少なく貧しげであることから、庵原郡を採った。

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2005.03.21

〔土崎(つちざき)〕の八郎吾

『剣客商売』文庫巻7に収録の[徳どん、逃げろ]で、下っ引きの〔傘徳〕---傘屋の徳次郎(40歳)を賭場で見込んだひとり働きの盗人。あろうことか、秋山小兵衛の家へ盗みに入ろうという、このシリーズに登場するきわめて数少ない盗人の一人。

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年齢・容姿:中年。丸顔の童顔で愛敬がある。小肥り。東北訛り。
生国:羽後(うご)国飽海郡(あくみごおり)土崎(つちざき)村(現・山形県酒田市土崎)。

探索の発端:松平肥前守(佐賀藩 35万7千石)の千駄ヶ谷の下屋敷の中間部屋で開帳されている賭場で、芽がでないので、あきらめて帰りかけた〔傘徳〕を呼び止め、盗みの片棒をかつぐように誘いかけてきたのが、〔土崎〕の八郎吾であった。

結末:親分〔武蔵屋〕の弥七の「やってみろ」のすすめで、〔傘徳〕たちが新鳥越橋のところまで来たとき、浪人4人に斬りかかられ、〔傘徳〕は来合わせた秋山大治郎に助けられるが、八郎吾は斬殺される。
不逞浪人たちは捕えられ、死罪。

つぶやき:〔傘徳〕の腕に抱かれ、八郎吾がいまわのきわの述懐をする。「男をつくった女房を殺した報いだろう」と。

八郎吾の〔傘徳〕への信頼にふれて、小兵衛がいう。「人の世の中は、みんな、勘ちがいで成り立っているものなのじゃよ」

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〔天徳寺(てんとくじ)〕の茂平

『鬼平犯科帳』文庫巻23は長篇[炎の色]。〔荒神(こうじん)〕のお夏一味と〔峰山(みねやま)〕の初蔵一味が共同で日本橋・箱崎町2丁目の醤油酢問屋〔野田屋〕を襲う計画をすすめている。しかし、〔峰山〕一味の狙いはもう一つある---〔荒神〕一味の腕っこきを取りこんでの自派の組織強化がそれだ。
その案を立てたのが〔峰山〕の初蔵の片腕といわれている〔天徳寺(てんとくじ)〕の茂平であった。

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年齢・容姿:50がらみ。細身の躰。細い両眼は瞼の下へ埋めこまれたようで、表情がない。
生国:若狭(わかさ)国遠敷郡(おにゅうごおり)天徳寺村(現・福井県遠敷郡上中(かみなか)町天徳寺)。
一味の頭・初蔵は丹後(たんご)国中郡(なかごおり)峰山(現・京都府中郡峰山町)の出だから、それほど遠く離れてはいない。

探索の発端:湯島天神の境内で、かつて盗みを二度ほど助(す)けたことがある〔峰山〕の初蔵(50男)に、密偵のおまさが声をかけられ、死後13年になる〔荒神〕の助太郎の祥月命日に、供養の集まりがあると知らされたことから、探索の手がかりがついた。おまさは〔荒神〕にかわいがられた。
その〔荒神〕に遺児がいた。むすめのお夏である。レスビアンのお夏がおまさに興味をもったことから話がややこしくなっていく。

結末:火盗改メが水ももらさぬ布陣をしいて待っている〔野田屋〕へ、〔峰山〕一味と〔荒神〕一味がやってきたからたまらない。初蔵は斬殺され、茂平ほかは逮捕されたが、お夏はどこをどうくぐりぬけたかものか、逃げきった。

つぶやき:「天徳寺」という村名は、この村の古寺の寺号に因る。三木姓が多いのは、赤松氏の後裔の三木城主の舎弟が帰農したから。のちに移住してきた武田氏の一族の末流は河原姓を名乗っていると。
茂平はそのいずれでもなく、苗字をもたない貧農の息子だったのかも。

「峰山」が、『鬼平犯科帳』で長谷川平蔵の後ろ盾と書かれている京極備前守高久(1万1千余石 峰山藩)の城下町であることは、池波さんも承知のはず。その城下町の名を盗人の〔通り名(呼び名)〕にした真意はなんなんだろう。

かつて、読売映画広告賞の審査員を池波さん、落合恵子さんなどと10年間ほどつとめた。雑談時に、「火盗改メは火付けも取り締まるのが役目ですよね。『鬼平犯科帳』には放火犯の事件が少ないようですが」と生意気なことを口にした。池波さんは「ぼくは、火事がきらいでね。それに、火事の描写はむつかしいんだよ」と笑った。
『炎の色』は、そのあとで発表された。池波さんの一面---負けずきらい。

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2005.03.20

〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(2代目)

『鬼平犯科帳』文庫巻6に収められた[狐火]の主人公・又太郎は、10代が終るころ、いまは女密偵になっているおまさ(21歳)に男にしてもらった過去がある。一味の中で色ごとをやった罰としておまさは〔狐火〕一家を追放された因縁をもつ。
又太郎は、先代が逝った4年前に〔狐火〕の勇五郎の2代目を継いだが、ちかごろ、〔狐火〕を名乗って非道な「畜生ばたらき」をつづける盗賊が出現した。

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その正体をあばくべく、引退して江戸川・新宿(にいじゅく)の渡し場で茶店の亭主におさまっている〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七に相談しようと、京都から下ってきた。源七は先代〔狐火〕の右腕といわれた男である。

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〔瀬戸川〕の源七の茶店のある「新宿(にいじゅく)」の渡し場(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

(参照: 〔瀬戸川〕の源七の項)

年齢・容姿:(寛政3年 1791)32歳。しなやかな躰つき、てきぱきとした身のこなしは20代のもの。顔貌は10も老けていて落ち着きがある。
生国:相模(さがみ)国小田原城下のどこか(現・神奈川県小田原市のどこか)。母親は先代〔狐火〕の妾だったお吉。

探索の発端:市ヶ谷田町の薬種店〔山田屋〕に押し入り、一家皆殺しにして金を奪い、〔狐火〕の札を遺して去った賊がいた。
かつて〔狐火〕一味にいたことのある密偵おまさは、火盗改メのお頭に〔狐火〕の内情を聞かれ、又太郎に10日遅れて正妻お勢が産んだ文吉がいることをおもいだした。「畜生ばたらき」はこの文吉かもしれないと、鬼平には黙って〔瀬戸川〕の源七を訪ねると、なんと、京都から下ってきた又太郎(2代目〔狐火〕)とばったり出会い、焼ぼっくいに火がついた形になってしまった。

結末:2代目〔狐火〕の勇五郎(又太郎)とおまさ、それに〔瀬戸川〕の源七が、向島の木母寺の近くに盗人宿をかまえている文吉を質しに行き、けっきょく、又太郎が文吉を刺殺する。
盗人宿にたむろしていた凶悪な浪人たちは、〔狐火〕たちを尾行(つ)けていた鬼平と〔小房〕の粂八に殪された。
又太郎はお目こぼしになるが、左肘から切断され、京都でおまさと仏具店の主人として再出発。

つぶやき:この篇は映画化にも選ばれほどで、起伏に冨んだストリーと、正邪のめりはりがきいたわかりよさをもつ。

彦十がおまさにいう、
「男と女の躰のぐあいなんてものは、きまりきっているようでいてそうでねえ。たがいの躰と肌が、ぴったりと、こころゆくまで合うなんてことは百に、一つさ。まあちゃん、お前と二代目は、その百に一つだったんだねえ」 p134 (新装版p142)
珍しく、彦十が吐いた人生論だが---。

〔狐火〕という「通り名(呼び名)」は、地名を指さしてはいないみたいだが、ヒントとなったのは、『江戸名所図会』の王子稲荷の[衣装榎]の絵で燃えている「狐火」あたり。大晦日の夜、関東一円の命婦狐が階位をもらいに集まり、走りまわる灯火が一晩中消えないという。が、ありようは掛取りの提灯の灯火とも。
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装束畠衣装榎(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)
そして、池波さんの頭に、上方の伏見稲荷社が浮かび、あのあたりを初代〔狐火〕の勇次郎の出生地と定めたか。

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2005.03.19

〔鹿熊(かくま)〕の音蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻12に収録の[いろおとこ]で、火盗改メ方の同心・寺田又太郎と女賊おせつを殺害させた盗人の首領。江戸での盗人宿のひとつが品川宿2丁目の質屋・栄左衛門の店。血を見なくてはおさまらない荒っぽい盗みをするが、流れづとめを使わないので火盗改メも手がかりがつかめなかった。
(参照: 女賊おせつの項)

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年齢・容姿:どちらも書かれていない。もっとも、居酒屋〔山市〕の亭主・市兵衛の供述で人相書がつくられたが、その詳細はつたえられていない。
生国:越中(えっちゅう)国新川郡(しんかわごおり)松倉村鹿熊(現・冨山県魚津市鹿熊)。
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明治20年ごろの松倉村

探索の発端:探索中に〔鹿熊(かぐま)〕の音蔵に中目黒の雑木林へ誘いこまれて殺害された兄・又太郎の仇をうちたいと、手がかりを求めていた同心・寺田金三郎が、非番の夜、〔五鉄〕で好きでもない酒を飲んでいたので、〔相模〕の彦十が尾行してみると、四ツ目の居酒屋〔山市〕へ入った。
(参照: 〔山市〕の市兵衛の項)
去りかけた金三郎は斬りつけられ、屋内では女の悲鳴が---。彦十が入ってみると、24,5歳の女が胸を一突きされて倒れていた。金三郎が「おせつ!」と呼んだ。
〔山市〕の亭主・市兵衛の自白で、躰の関係ができた金三郎のために、〔鹿熊〕の消息をさぐっていたおせつは、配下の〔松倉〕の清吉に刺された。

結末: 〔鹿熊〕の音蔵ほか8名は、品川の質屋・栄左衛門方を包囲した火盗改メに逮捕されたが、残る一味は逃亡。9名は死罪のはず。

つぶやき:〔鹿熊〕の音蔵の生国については、別に、『堀部安兵衛』執筆のために、池波さんが仔細に取材した新発田市に近い、越後(えちご)国蒲原郡(かんばらごおり)鹿熊(かぐま)村(現・新潟県南蒲原郡下田村鹿熊)の線もないではない。
しかし、女賊おせつが属していた〔舟見(ふなみ)〕の長兵衛が越中国新川郡舟見村の出であること、また、おせつを刺した〔松倉〕の清吉が「鹿熊」をも束ねる「松倉村」の出であることを考慮に入れ、越中説を採った。
(参照: 〔舟見〕の長兵衛の項)

池波さんは〔鹿熊(かぐま)〕と、にごらせてルビをふっているが、魚津市の「鹿熊」も新潟県の「鹿熊」も(かくま)なので、「呼び名(通り名)」もそれにならった。

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2005.03.18

〔網虫(あみむし)〕のお吉

『鬼平犯科帳』文庫巻16に収録されて題名になっている女賊[網虫のお吉]
おまさが密偵になる前に、引きこみ役として〔苅野(かりの)〕の九平(60に近い)を2度ほど助(す)けたときに、一味にいた〔網虫(あみむし)〕のお吉を知った。
(参照: 〔苅野〕の九平の項)
(参照: 女密偵おまさの項)

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年齢・容姿:35歳だが、骨が細いせいか、すっきりした躰つき、皺ひとつない顔で、5つほどは若く見える。
生国:武蔵(むさし)国江戸(現・東京都23区内の下町のどこか)

探索の発端:〔苅野(かりの)〕の一味からはなれ、江戸で休養をしていたお吉をは、琴師・歌村清三郎(53歳)に見初(みそ)められて後妻に入っていた。
雨宿りしていた火盗改メ同心・黒沢勝之助(40歳)が招き入れられ、お茶をだしに姿をみせたお吉が見つかり、それから黒沢の強請りがはじまった。
平右衛門町の河岸道にある船宿〔井ノ口屋〕から出てきた黒沢とお吉を認めた同心・小柳安五郎が尾行、不忍池のほとりにある出合茶屋〔月むら〕へ入るのをたしかめ、店に身分を明かした隣の小部屋へしのんだ。
黒沢は、お吉の躰をさいなみながら、〔苅野〕一味の盗人宿を白状させようとしていた。

結末: 黒沢同心は切腹。琴師とのやすらかな生活を思い絶ったお吉は、品川宿で旅装をととのえて、いずこかへ逃走。

つぶやき:16歳のときに、江戸でも名の通った指物師の父親が逝き、つづいて母親も病死したあとのお吉は、男にだまされ、さんざんなぐさみものにされた末に、大坂で放りだされた。蜘蛛(くも)の異名でうる〔網虫(あみむし)〕という「通り名(呼び名)」は、お吉の骨がないようにからみついてくる躰から、男につけられたのであろう。
その後、小働きの盗人に仕込まれて盗みの道へ入った。〔苅野〕一味で引きこみ役をつとめたが、躰の不調を訴えての休養中に、黒沢同心に見つかった。
お吉のような女にとって、琴師・歌村との平穏な生活は、なにものにも代ええがたく、黒沢同心に会わなければ、そのまま、一生を送れたかもしれない。が、過去の清算はいつかはさせられるものでもある。
〔苅野(かりの)〕の九平は、相模国足柄上郡苅野村の出生。
2人で出てきて小柳同心に見つかった船宿の店名になっている〔井ノ口〕の「井ノ口」村も、足柄上郡苅野村の近くにある。池波さんは、吉田東伍著『大日本地名辞書』から首領・九平の「通り名」の〔苅野〕のひろい、ついでに「井ノ口」もいただいた。

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2005.03.17

〔鳥坂(とりさか)〕の武助

『鬼平犯科帳』 文庫巻10に載っている[五月雨坊主]の首領〔羽黒(はぐろ)〕の九兵衛一味の連絡(つなぎ)役。〔羽黒〕が手を組んでいっしょにお盗めをしようとしていた〔荷頃(に)ごろ〕の半七に女房おしんを寝取られ、「おしんは、お前が物足りなかったのだとよ」と、男のプライドを傷つけられて刺し殺したが、そのまま、一味に居つづけた。

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(参照: 〔荷頃()〕の半七の項)

年齢・容姿:40がらみ。容姿は記されていない。
生国: 越後(えちご)国北蒲原郡(きたかんばらごおり)鳥坂(とっさか)山(現・新潟県北蒲原郡中条町野中の鳥坂山麓あたり)

探索の発端:いまは、湯島の妻恋明神(文京区湯島3丁目)の脇へ住んでいる絵師・石田竹仙の庭へ、瀕死の男が倒れこんでいた。
男は、竹仙の腕の中で、「武助に、やられた---と、十日のお盗めは、だめ----」と告げてこと切れた。
竹仙は、男の人相書を役宅へとどけたが、密偵たちも見覚えのない者であった。
鬼平がおもいついて、竹仙に自分の似顔絵を描かせると、上野山下の岡場所・提灯店のおよねが似た男をおもいだした。道灌山の貧乏寺〔天徳寺〕(架空)の僧・善達だった。
火盗改メが天徳寺へ向かった。

結末:善達坊を物置へ押し込め、住職を殺して、天徳寺を盗人宿代わりにしていたのは、善達の弟の越後生まれで、越後から岩代、信濃へかけてあらしまわっていた〔羽黒〕の九兵衛一味6名で、全員捕縛。その中に〔鳥坂〕の武助もいた。死罪。

つぶやき:「鳥坂山」を地元では(とっさかやま)と呼んでいるようだが、ここは池波さんのルビにしたがって〔鳥坂(とりさか)〕とした。

「羽黒」という地名は、新潟県下にいつくかある。
村上市羽黒町
西蒲原郡中之口村羽黒
北蒲原郡中条町羽黒
北蒲原郡笹神村羽黒
で、池波さんがらみで検討すると、『堀部安兵衛』の取材で新発田(しばた)市を訪れたときに知ったか、そのとき求めた地図からひろったか、取材に行く前にひろげた吉田東伍博士『大日本地名辞書』で読んだか、あたり---とすると、中条町羽黒がもっとも近いような気がするのだが、地元の鬼平ファンの方々のご意見を徴したいものである。

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鳥坂山麓の中条町と羽黒(明治20年の地図)

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2005.03.15

〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収められている[五月闇]で、火盗改メ・長官の鬼平の信頼の篤い密偵・伊三次を刺殺した、急ぎばたらきの盗賊。上信の2州から越後・越中へかけてが縄張り。
(参照:密偵・伊三次の項)

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年齢・容姿:上野山下の下谷2丁目の提灯店にある岡場所の女・およねの見立てだと37,8歳。
色白ですこし肥っている。胸に刃物の傷痕。
生国:越後(えちご)国蒲原郡(かんばらごおり)暮坪(くれつぼ)村(現・新潟県五泉市暮坪)

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(越後国蒲原郡の暮坪の小里)

鬼平が活躍していた寛政期の家数は18だったというから、小さな貧しい郷だったにちがいない。
[五月闇]には伊佐蔵の生国は明かされていないが、文庫巻24の[二人五郎蔵]に登場している〔暮坪(くれつぼ)〕の新五郎が、伊佐蔵の実の弟とあるので、「暮坪」生まれと見た。
(参照: 〔暮坪〕の新五郎の項)

探索の発端:下谷2丁目の提灯店の私娼家〔みよしや〕のおよねの客になったことから、伊佐蔵のことが伊三次に告げられ、伊三次から鬼平へ報告された。
しかし伊三次は、自分と伊佐蔵のかかわりあいは、死の直前まで、鬼平に打ち明けることができなかった。
〔みよしや〕に網が張られた。そして、伊佐蔵が現れた。

結末: 現れた伊佐蔵を、〔みよしや〕で待ちぶせていた〔大滝〕の五郎蔵が追ったものの、すんでのところで逃げられそうになった摩利支天横丁へ、運よく入ってきた鬼平が、捕まえた。火あぶりの刑。

つぶやき:この篇の読み手の関心は、伊佐蔵のことより、殺された伊三次へ集中する。周囲を明るく、骨惜しみをしない伊三次の密偵ぶりに惜しみない声援を送ってきたからである。
鬼平も、やることなすことがいちいちつぼにはまってきたと、その働きぶりを高く評価していた。

しかし、池波さんによると、行きがかり上、伊三次はどうでも死なねばならなかったのだと。その理由(わけ)は、伊佐蔵の妻と通じて駆け落ちし、その果てに彼女を殺した罪を、池波さんが許せなかったからかも。
それはいいとして、伊三次の死後、伊三次のような根あかでしっかり者のキャラクターはついに創られなかったのは、どうしてだったのだろう。

「暮坪」という地名は、羽前(うぜん)国田川郡(たがわごおり)温海(あつみ)村(現・山形県西田川郡温海町五十川(いらかわ))にもあった。吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治33年-)は、こう記している。「暮坪(クレツボ) 今温海村の管内にて、駅路に由り、五十川に至る間也○風土略記云、暮坪村は海辺也。立岩とて数十丈高き岩岨あり、上に諸木繁れり、四方に登るべき便見えず(後略)」
しかし、〔強矢〕のテリトリーが上信2州と越中越後とあるので、越後説をとった。

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〔戸祭(とまつり)〕の九助

『鬼平犯科帳』文庫巻24に収録されている[二人五郎蔵]に顔を見せている盗人。はじめは〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵の配下だったが、伊佐蔵が火あぶりの刑に処せられたあと、伊佐蔵の弟の〔暮坪(くれつぼ)〕の新五郎の配下となる。

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(参照 : 〔強矢〕の伊佐蔵の項)

年齢・容姿:中年。小肥り。鼻の下に大きな黒子(ほくろ)がある。
生国:下野(しもつけ)国河内郡(かわちごおり)戸祭(とまつり)村(現・栃木県宇都宮市戸祭)。

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(下野国宇都宮城下の真北の戸祭村 日光街道ぞい)

探索の発端:女密偵おまさの手引きで密偵となったお糸の初仕事---筋違御門外でお糸に見かけられて尾行され、千駄ヶ谷の百姓家へ入ったところまで確かめられた。
一方、〔大滝〕の五郎蔵が、神田・旅籠町の菓子舗〔桔梗屋〕に引きこみに入っている〔長尻〕のお兼を認めた。
お兼を見張っていると、御成道の黒門町のあたりで、すれ違った〔戸祭〕の九助がかすかにうなづいたのを、五郎蔵は見逃さなかった。
〔暮坪〕一味の、〔桔梗屋〕への押し入りは今夜と知れた。

結末:菓子舗〔桔梗屋〕へ押し入りかけた〔暮坪〕一味は、待ちかまえていた火盗改メに全員逮捕。首魁の新五郎は火あぶりの刑。九助らは死罪。

つぶやき:池波さんが、〔戸祭(とまつり)〕という風雅でいわくありげな地名に目をつけたのは、博徒ものの取材で下野地方を取材して見つけたともおもえないこともない。が、吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治33年-)の、以下の記述に目をとめたからとも推察する。
「戸祭(ト マツリ) 今宇都宮の西北郊の里名なるも、割けて一部は市中、一部は国本村へ編入す(中略)。宇都宮の庶流に、戸祭氏あり、天正十七年(1589)、戸祭備中は、多気城へ拠り、北条勢を拒ぎたり」

付記:奈良博多さんからの「戸祭」の土地についてのリポート。

1、「戸祭」の地名の由来
由来に関しては、諸説があるが、代表的なものをあげると、
①「土」の「祭」「土祭」が、転訛し「戸祭」となった
②宇都宮氏の一族、戸祭備中守高定の領地であったため。
③宇都宮築城に際し、各家々の戸神を祭って、城(村)の繁栄を祈願したため
現在の地名の付く地域の広さからと、他の地方に無い地名であることから、 ②の説が有力であろう。

2、地形的な事実
現在、「戸祭」が付く地域(例、戸祭元町等)は、二荒山神社から北に続く丘陵地帯の西側で、 釜川に沿った平地である。
ここは、東の丘陵地帯には、古墳や、洞穴住居等の遺跡があることからも、古代より人々が集う地域であった。したがって、農業にも適していたと考えられる。
江戸時代にも、 大きな庄屋が南北に一軒ずつあったことから、豊穣な土地であったと推察できる。
また、日光杉並木の始めでもある。江戸時代には、杉並木の間に緑の田畑が広がる光景が みられたのではないだろうか。
昭和の後半まで、田畑がそこかしこに見られていた。平成の現在でも、少ないが田畑は残っている。

3、歴史的な事件
まず、平蔵の任期中の1787年~1795年に中年である
<戸祭>の九助に関する調査なので、 1790年頃に、
30から40歳と仮定した場合、宇都宮の歴史において、1750年以降の状況を調査すれば良い。
歴史上の事件として、当該年代にあったことは、
①宝暦3年(1753年)「籾摺り騒動」が発生した。
 これは、戸田氏に替わって、島原藩から移封されてきた松平氏が、藩財政再建のために、 年貢米の籾摺りの割合を変更し、2割の増税をしようとしたために起きた農民一揆で、 市内4箇所で一斉蜂起し、一部が宇都宮城に迫る大規模なものだった。
 また、醸造業も商い、繁栄していた戸祭の庄屋も、一揆衆に襲われた。
 この一揆は、二日ほどで平定されたが、首謀者の
一人鈴木源之丞だけは、抵抗した後、捕らえられ、
日光の僧侶の助命嘆願の使いが表門に届く前に、
処刑場に向かうため出た城門(裏門)を振り返り、
その門を「処刑された後で、必ず流してやる。」というようなことばを残した。
(この件は、②の洪水の後からの創作ではないかと個人的には思う)
②宝暦7年(1757年)、明和元年(1764年)、に宇都宮が洪水に襲われた。
 どちらも市街地が冠水する洪水だったそうだが、明和の洪水は城門が流されそうになるほどで、400人を超える犠牲者がでたと記録されている。
(これらの洪水は、当時、籾摺り騒動で処刑された庄屋の鈴木源之丞のたたりと思われたらしく、源之丞を供養する碑がこの後建てられ、現存している。)

4、<戸祭>の九助に関する考察
前回は、名前を考慮していなかったことを反省し、「九助」という名前に拘ってみる。
「九」ということは、単純に考えると、「九男」であろう。子沢山は農家に多い。
ここで、洪水である。
洪水でも、実家が無事であったとするならば、
食い扶持を減らすために、子供を外に働きに出したと考えられ、働きにでた子供が、いつしか悪の道に入ることはよくあるお話か。
または、洪水で家族が犠牲になり、生活のため、盗人家業に踏み入ったか?

最後に、ほとんど可能性は無いが、戸祭備中守の子孫というのはいかがだろうか?

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2005.03.14

絵師・石田竹仙(ちくせん)

『鬼平犯科帳』文庫巻6の[盗賊人相書]に初登場。前身は旅絵師として諸方の分限者の肖像画を描きながら甞役を兼ねていたが4年前に足を洗い、この篇で火盗改メ・長谷川組と関係ができた。巻10[消えた男]p240(新装版p252)、巻17[鬼火]p32,236(新装版p34,244)でも火盗改メのために人相書を描く。

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年齢・容姿:寛政3年(1791)盛夏の事件である[盗賊人相書き]のとき34,5歳。馬面で、頭を剃りあげ、おちょぼ口の下に山羊ひげ。
生国:伊勢(いせ)国飯高郡松阪(現・三重県松坂市)

探索の発端:飯田町の蕎麦屋〔東玉庵〕の深川・熊井町支店に賊が押し入り、夫婦と奉公人3人が殺害され、金を奪われた。そのとき、小女のおよしは腹をこわして厠へ入っていたために難をのがれ、盗人の首領とおぼしき男の顔を見た。
同心・酒井祐助・竹内孫四郎・木村忠吾らに頼まれて、およしが覚えていた盗人の人相書を描いた石田竹仙の緊張ぶりを聞いた鬼平が疑念を抱き、本所・弥勒寺橋の架かる五間堀のたもとの住居の監視を手配。

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弥勒寺と五間堀に架かる弥勒寺橋(『江戸名所図会 塗り絵師:西尾 忠久)

結末:竹仙が描いたのは、かつての盗人仲間だった遠州無宿の熊治郎だったが、彼が、盗め先で女は犯すは、殺傷はするはに愛憎をつかせた竹仙は、たもとをわかっていた。
京橋・竹河岸の居酒屋にひそんでいた熊治郎に、絵火盗改メのために人相書を渡したことを告げて逃亡をすすめたが、逆に絞殺されそうになったところを、飛び込んだ〔大滝〕の五郎蔵が竹仙を助けた。
熊治郎は屋根から路地へ飛び下りたが、待っていた鬼平に捕縛された。
竹仙はおかまいなし。

つぶやき:竹仙は家庭を持っていた。女房は本所・松井町の菓子舗〔井筒屋〕のゆき遅れだった三女で、腹には子がやどっている。竹仙が恐れたのは、熊治郎の線から自分の過去が暴露され、家庭が崩壊することだった。
熊治郎は、竹仙の線から、自分の身性が割れることを恐れた。
どちらも、おもいめぐらすのは、わが身のことだけ。

旅絵師が甞役とは、池波さんも考えたものだ。

徳川幕府の[御定書(刑法)]第81条に、「人相書を以って御尋ねになるべき者の事」という条があり、

(寛保2年 1742 極)
1.公儀へ対し候重き謀計。
1.主殺し。
1.親殺し。
1.関所破り。
(同)
1.人相書をもって御尋ねの者を存じながら囲い置き、または召仕等致し、訴え出ざる者、獄門。
(寛保2年 同3年極)
但し、存じながら請けに立ち候者、同罪。吟味のうえ存ぜざるに決し候とも、主人、請け人ともに過料。

ここでいう「人相書を以って御尋」とは、人相書を掲示などに公開することであろう。『鬼平犯科帳』に書かれている人相書は、火盗改メ組内での配布とかんがえておく。

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2005.03.13

〔倉渕(くらぶち)〕の佐喜蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻13に収録の[一本眉]で、〔清洲〕の甚五郎一味が仕込みをしていた、元飯田町の銘茶問屋〔栄寿軒・亀屋〕方へ、一足先に侵入して全員殺戮の上、奥座敷の金蔵から1,500両余を奪ってにげた〔畜生ばたらき〕一味の首領。
(参照: 〔清洲〕の甚五郎の項)

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年齢・容姿:いずれも記されていない。
生国:上野(こうずけ)国群馬郡(ぐんまごおり)三ノ倉村あたり(現・群馬県群馬郡倉渕村)
学習院〔鬼平〕クラスの堀 眞次郎さんのリポートによると、昭和30年(1955)2月、倉田村と烏淵村が合併して倉渕村となったと。池波さんがこの村名を知ったのは、合併後であろう。
現在の倉渕村は、江戸時代の、三ノ倉、権田、川浦、水沼、岩氷の5カ村にあたる。。池波小説にしばしば現れる倉ケ野村に近い。

探索の発端:押し入り先の一家惨殺に怒りをおぼえた〔一本眉〕こと〔清洲〕の甚五郎は、〔亀屋〕の間取りを売ったとおぼしい座頭・茂の市を見張った。案の定、〔倉渕〕一味の〔野柿〕の伊助が甞め料の半金を渡しに現れた。
その伊助の帰り道を尾行して盗人宿が知れた。

結末: 〔倉渕〕一味の主な盗人宿、板橋駅の石神井川ぞいの旅籠〔岸屋〕を襲った〔清洲〕一味は、佐喜蔵をはじめとして男の盗人10名は惨殺、生け捕った2名を柱にくくりつけた。その上で、火盗改メへ〔岸屋〕の顛末を投げ文したのである。

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板橋の駅(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

つぶやき:本格派の盗賊が、畜生ばたらき派の盗賊をたしなめる---どちらも盗人に変わりはないのに、読み手は、ついつい、本格派に肩入れしてしまう。ここが『鬼平犯科帳』の不思議な仕掛けともいえる。

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2005.03.12

〔蛇(くちなわ)〕の平十郎

『鬼平犯科帳』文庫巻2の巻頭に収録されている[蛇(くちなわ)の眼]の主人公の盗賊の頭目。

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年齢・容姿:46歳。才槌頭(さいづちあたま)の小男。眼の光が冷たい。
生国:摂津(せっつ)国大坂・西横堀本町(大阪府大阪市西区西本町?)の印判師の息子。

探索の発端:〔蛇(くちなわ)〕の平十郎一味7人は、寛政3年(1791)6月20日夜、土地の人たちが〔道有屋敷]呼んでいる橘町の医家・千賀道栄の邸宅へ押し入った。道栄の祖父で先年まで将軍の侍医だった千賀道有の遺産を狙ったのである。
皆殺しに近い荒業だったが、〔蛇〕一味が狙っていた金銭はほとんど無かった。道栄が寸前に幕府へ献金してしまっていたからだ。
一方、文庫巻1〔座頭と猿〕で姿を消した座頭の彦の市が、愛宕山の水茶屋の女おそのの躰を忘れかねて現れるのを、気長に見張っていた同心・酒井祐助が、姿を見せた彦の市を捕らえ、〔蛇〕一味の犯行が発覚した。

結末:彦の市の自白により、火盗改メは、小田原から西へ2里(約8キロ)ほどのところの水之尾にある〔蛇〕一味の盗人宿を急襲、平十郎のほかはその場で斬殺。平十郎は市中引き廻しの上、火あぶりの刑。

つぶやき: 〔蛇〕の平十郎の本名は井口与兵衛で、先記したごとく、大坂の印判師・井口林右衛門の一人息子で、甘やかして育てられた。
「他人をゆるすことを知らず、他人を容れることを知らず、助けられたことぬだけを知って助けることを知らぬ」人間になってしまった。
父が急死したあと、ほかの男と情をかわした母を許すことができず、2人を惨殺して逃亡。流浪中に盗賊に拾われてその世界に入った---と、一人の男が盗賊に転落していく経緯がのべられている数少ない例。

『オール讀物』誌上へのシリーズの連載が始まって半年目あたりの篇で、その当時、池波さんは、連載を1,2年で終えるつもりでおり、登場する盗人の数も少ない。そのゆえに、一人々々のヒューマン・ヒストリーを念入りに創作していたといえる。
〔小房〕の粂八、しかり。〔蓑火〕の喜之助、しかり。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)

〔蛇〕の平十郎の火刑だが、もつとも重いこの処刑が盗みと殺人犯にも適用されるのだろうか。放火犯だけとおもっていたのだが。

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2005.03.11

〔伏屋(ふせや)〕の紋蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻11の[密告]に登場する盗賊の残忍な首魁。木更津を本拠に、安房(あわ)、上総(かずさ)、下総(しもうさ)、常陸(ひたち)を縄張りにした〔笹子(ささご)〕の長兵衛の義理の子。
ついでだが、「通り名(呼び名)」の〔伏屋〕はみすぼらしい小屋のことだが、別に行人(修行僧)を留宿休憩させる小舎を指すこともある。池波さんの頭には、むしろ報謝宿もふくめて後者が浮かんでいたかも。

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年齢・容姿:30そこそこに見えるが、じつは、25,6歳。長身、浅黒い肌、きりっとした顔つき。
生国:武蔵(むさし)国江戸の深川(現・東京都江東区深川1丁目)。育ちは上総国木更津の旅籠〔笹子屋〕。旅籠の亭主を隠れ蓑にしていた長兵衛が、上総の望陀郡(ぼうだごおり)笹子(現・木更津市笹子)の生まれによる屋号か。

探索の発端:清水門外にある火盗改メの役宅に近い九段坂下で葭簀(よしず)張りの居酒店をだしている久兵衛へ、長谷川平蔵あての文をことずけた中年女がいた。
書かれていたのは、今宵、仙台堀の足袋商〔鎌倉屋〕へ賊が押し入るというものだった。
鬼平は、すぐさま、寝巻き姿のままの同心・木村忠吾を、船宿〔鶴や〕をまかされている〔小房〕の粂八の元へ走らせて舟を〔鎌倉屋〕の前へまわすように伝えさせるとともに、筆頭与力の佐嶋忠介に命じて万端の手配りをととのえさせた。

結末:〔鎌倉屋〕へ押し入った賊は、〔伏屋〕の紋蔵一味だった。斬り殺され者7人、逮捕者7人、逃げおうせた者1人。逮捕者はいずれも、半月後に死罪。

つぶやき:密告したのは、〔笹子〕の長兵衛の女房で、連れ子・紋蔵の実母の〔珊瑚玉〕のお百。息子の畜生ばたらきに嫌けがさしてのことであった。
お百がまだ小娘で、深川・陽岳寺の前の茶店〔車屋〕ではたらいていたとき、百俵扶持の貧乏御家人の長男・横山小平次に子をみもごらされた。その子が紋蔵である。
赤子を抱いて、お百は上総へ去った。そのお百の懐中には、銕三郎(平蔵の家督前の名)が小平次から吐きださせた25両と銕三郎の餞別の3両、そして髪には銕三郎が贈った珊瑚玉のかんざしが置かれていた。
お百の「通り名」---〔珊瑚玉〕のゆえんである。

この物語の圧巻は、火盗改メの取調べにふてぶてしく対していた紋蔵が、鬼平に「お前の父親はおれだ」と告げられるやいなや、しょげかえったのと、処刑の前日に鬼平から軍鶏鍋をふるまわれた上、殺された母親の珊瑚玉のかんざしを「明日は、この簪を抱いて行け」と渡され、「は、はい---」と素直に受けたるシーンである。誠意対誠意の好場面。

「江戸市中を引き廻しの上、首を切られる」p207(新装版p224)のはおかしい、斬首は大伝馬牢内でおこなわれるのが常だから、市中を引き廻された者は刑場で磔(はりつけ)ではないのか、との疑念を呈する向きもあるが、引き廻しは付加刑だから、その後での斬首もありうる。
ついでにいうと、獄門は獄内(鈴が森、小塚原)で斬首のあとに首をさらす刑罰。

こちらは些細な指摘。寸鉄も佩びない寝巻き姿で、清水門外から深川・扇橋東の〔鶴や〕まで走った忠吾は、木戸々々を通りぬけるとき、火盗改メの同心であることを、どう、証明したのだろう?

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2005.03.10

〔乙畑(おつはた)〕の源八

『鬼平犯科帳』文庫巻4の[血闘][おみね徳次郎]、巻5の[女賊]、巻6[狐火]、巻19[引きこみ女]、巻23[炎の色]に名前のみでる、密偵おまさのかつてのお頭。
(参照: 女密偵おまさ)の項)

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年齢・容姿:どちらも記されていない。
生国:下野(しもつけ)国塩谷郡(しおやごおり)乙畑(おつはた)村(現・栃木県矢板市東乙畑か西乙畑のうち)。
池波さんは(おつばた)とルビをにごってつけているが、歴博のデータベース『旧高旧領取調帳』の(おつはた)によった。

探索の発端:天明8年(1788)9月28日、先手弓第1組組頭で火盗改メを加役していた堀帯刀秀隆(家禄1,500石 52歳)が持弓頭へ栄転。火盗改メの本役(定役)の後任として同年10月2日に、先手弓の第2組組頭(1,500石格)長谷川平蔵宣以(家禄400石 43歳)が発令された。
同月の初旬---とあるから、8,9日ごろであろうか、おまさが役宅をたずねてきて、密偵となることを願いでた。
おまさは、〔乙畑〕の源八一味の引きこみ役だったから、その線から〔乙畑〕一味の動静がつつ抜けになった。

結末: 〔乙畑〕の源八一味は逮捕、全員死罪。

つぶやき:おまさが密偵を志願したのが、天明8年10月初旬---とあるが、長谷川平蔵が火盗改メに任じられたという柳営内人事を、盗人世界にいたおまさは、どんなルートで知りえたか。
平蔵側は、引継ぎや挨拶廻りに忙殺されていた時期だろうに。あるいは、堀組のヴェテラン与力・佐嶋忠介を借り受けていたので、引継ぎは簡単にすんだのか。

おまさの父親〔鶴(たずがね)〕の忠助の歿後、忠助が親しくしていた、足利に本拠を置く〔法楽寺〕の直右衛門と親しく、同じ下野国を縄張りにしている〔乙畑〕の源八との話しあいによって、おまさは〔乙畑〕に入った。
その後、当サイト[女密偵おまさ]の項にリポートしておいたように、おまさは多くの首領の手助けをしている。
(参照: 〔鶴〕の忠助の項)
(参照: 〔法楽寺〕の直右衛門の項)

しかし----、
(ここがしおどき。どうせ足を洗うなら、銕さん---いえ、長谷川さまのためにはたらきたい)
と密偵を志願して出たときには、また、〔乙畑〕の源八一味へ復帰していたのであろうか。

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2005.03.09

〔落針(おちはり)〕の彦蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻9に収録されている[雨引の文五郎]で、文五郎を狙う盗人。
(参照: 〔雨引〕の文五郎の項)

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年齢・容姿:中年とのみ。大きく張りだした額の下に金壺眼(きんつぼまなこ)。
生国:伊勢(いせ)国鈴鹿郡(すずかごおり)落針村(現・三重県亀山市布気町のうち)
学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラスでともに学んだ堀眞治郎さんからの寄稿。「東海道に面していたかつての落針村は、明治8年(1875)に野尻村と合併して布気(ふけ)村となり、昭和29年(1954)10月1日、亀山市布気町となる」
落針という地名の由来は、平家の落武者が住んだ地---落逃村が変化したものと伝えられているとか。
池波さんは(おちはり)とにごらないルビを付しているが、歴博のデータペース『旧高旧両取調帳』は(おちばり)としている。

探索の発端:二ツ目通りの弥勒寺門前茶店〔笹や〕で、人相書きどおりの〔雨引〕の文五郎を見かけた鬼平が尾行。鬼平の前を歩いていた男が、宜雲寺(江東区白川2丁目)裏で、文五郎に匕首をつきつけた。
「盗賊改メの長谷川平蔵である。両人とも神妙にいたせ」と鬼平が叱咤すると、男は鬼平に短刀を向けてきた。
捕らえて密偵〔舟形(ふながた)〕の宗平に見せ、甲信2州から美濃へかけてが縄張りの〔西尾(にしお)〕の長兵衛一味にいた〔落針〕の彦蔵とわかった。
(参照: 〔舟形〕の宗平の項)
(参照: 〔西尾〕の長兵衛の項)

結末:〔舟形〕の宗平に破牢させてもらったが、本所・御蔵橋上で〔雨引〕の文五郎に刺殺される。


つぶやき:〔雨引〕の文五郎と〔落針〕の彦蔵の争いを、〔舟形〕の宗平fは、〔西尾〕の長兵衛の跡目争いによる怨念とみたが、真相は、長兵衛のもとから去った彦蔵があまりに血なまぐさい盗めをするのに憤慨した文五郎が、大坂・心斎橋の足袋屋〔形名屋〕へ押し入ろうとしていることを手紙で知らせた妨害を根にもっての私闘だった。
池波さんは、〔雨引〕の文五郎の盗人としての正義感を示したかったのかもしれないが、それで命を狙われたのだから、ちょっと出すぎた行為といえないこともない。

本所・御蔵橋は、10年ほど前に埋められて、いまはない。
御蔵橋に行きつく前に〔落針〕の彦蔵たちが渡った橋が「駒留橋」とあるのは、正しくは「石原橋」だが、これも駒留橋ともども、いまはなくなってしまっている。

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2005.03.08

〔鳴海(なるみ)〕の繁蔵(2代目)

『鬼平犯科帳』文庫巻7に収められている[盗賊婚礼]で、江戸の盗賊の首領〔傘山(かさやま)〕の弥太郎へ、親同士の約束だからと、自分の情婦を花嫁として押しつけようとした名古屋の盗人。

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年齢・容姿:30代。だが、ゆったりと大きく肥えて、とても30代には見えない。10も15も歳上に見え、白髪もまじっている。
生国:尾張(おわり)国愛知郡(あいちごおり)鳴海村(現・愛知県名古屋市緑区鳴海町)

探索の発端:生母の実家、巣鴨村の三沢家を訪ねた鬼平は、従兄弟の仙右衛門と、駒込片町の円通寺(文京区本駒込3丁目)への墓参りをすませ、岩ぶち街道に面した小料理屋〔瓢箪屋〕で午餐をとり、その料理のよさに満足した。

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駒込神明宮(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)
芝生の神明原ぞいに小料理屋〔瓢箪屋〕と「岩ぶち街道」

それから半月後。
5,000石の大身旗本で旧知の林内蔵助の駒込・動坂の下屋敷で、岸井左馬之助ともどもにご馳走になり、巣鴨村の三沢家に泊まるつもりで〔瓢箪屋〕の裏手にさしかかったとき、屋内で起きている騒ぎに気づいた。
2人で打ちこんでみると、〔傘山〕の弥太郎と〔鳴海〕の繁蔵の妹お糸(じつは繁蔵の情婦お梅)との婚礼中、繁蔵の配下の〔長嶋〕の久五郎が、偽の花嫁の正体を暴露したための混乱であった。

結末:かつて、先代〔傘山〕の弥兵衛に大きな恩をうけた〔長嶋〕の久五郎は、偽りの次第をぶちまけるとともに、〔鳴海〕の繁蔵を刺し、自らは用心棒の土山浪人に斬られた。、弥太郎と先代からの〔傘山〕一味の重鎮で〔瓢箪屋〕の亭主・勘助老人はすなおに縛についた。

つぶやき:本格のお盗めについて、池波さんは本篇の中で、盗人宿の設置、盗金盗品の運搬方法、さらに逃走の経路の調べ、侵入のだんどりなどをあげている。いわゆる盗みのノウハウである。
仕事のこうしただんどりのつけ方を、池波さんは戦争中に旋盤工に徴用されたときに身につけたという。
そのだんどり癖は、小説の執筆にも応用していると。

小料理屋〔瓢箪屋〕がある場所、駒込神明宮(現・天祖神社 文京区本駒込3丁目)は、『江戸名所図会』にも長い参道の左右の芝生の庭とともに描かれている。前の道の「岩ぶち街道」を、「岩ふじ街道」と読んだのは池波さんの読みちがい。

〔長嶋〕の久五郎が先代の〔傘山〕の弥兵衛からうけた大きな恩については書かれていないが、「恩は着せるものではなく、着るもの」の、長谷川伸師ゆずりの池波流人生哲学を絵に描いたようなラストのつけ方といえよう。
似たような人生訓に、「子は一世、夫婦はニ世、主従は三世、世間は五世」というのがある。

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2005.03.07

〔舟見(ふなみ)の長兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻12に収録されている[いろおとこ]に、女賊おせつのお頭として名前を見せる盗賊。
(参照: 女賊おせつの項)

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年齢・容姿:いずれも記載されていない。
生国:越中(えっちゅう)国下新川郡(しもにいかわごおり)舟見(ふなみ)村(現・冨山県下新川郡入善(にゅうぜん)町舟見)
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明治20年ごろの舟見

探索の発端:火盗改メ方・長谷川組(先手弓第2組)の同心・寺田又太郎が使っている密偵・〔堀切(ほりきり)の彦六が、かつて〔神子沢(かみこざわ)〕の留五郎一味で盗業についていたとき、引きこみ役にまだ小娘だったおせつがいた。
そのおせつが、茅場町薬師前の薬種問屋〔中村屋〕に引きこみとして入りこんでいるのを、いまは密偵として働いている彦六に見つけられたために、〔舟見〕一味の全貌を吐く始末となった。

結末:〔舟見〕一味19名は一網打尽に捕らえれたが、その中におせつは入っていなかった。
おせつが生き残ったことで、寺田又太郎が〔鹿熊(かぐま)の音蔵一味に刺殺され、弟の寺田金三郎までが命を狙われる次第となったが、これは別の物語である。

つぶやき:おせつと、男と女の深みにはまった寺田兄弟のことは笑えない。この深みは、男の側ばかりでなく、女の躰のまわりにもぽっかりと口をあけている。
深みは、おせつの気立てのやさしさやたよりなげな風情といった、外見のこととはまるで関係なく存在している。
それがわかっていて落ちるから、人生はままならないのだし、物語はいくつもいくつもつむぎだされる。大げさにいうと、男女の数ほど、ともいえようか。
[いろおとこ]の一篇は、シリーズの中でも[唖の十蔵][あばたの新助][消えた男][おしま金三郎]と同巧の、同心が女賊との深みにはまり、男が自分の職務を一瞬、見忘れて人生の別の道をあゆむ物語。

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2005.03.05

〔赤堀(あかほり)〕の嘉兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻22は、長篇[迷路]。そのp212(右の新装版はp202)にちらっと記述されている盗賊の首領。

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もっとも、本旨は、密偵〔玉村〕の弥吉が、かつて現役(いまばたらき)の盗人だったころ、座頭〔徳の市〕と知りあった経緯を説明するために言及したものだった。が、そのようなときにも池波さんは、押し入り先の店名や業種まできちんと指定する律儀さを見てほしかったので、ライトをあてた。
(参照: 〔玉村〕の弥吉の項)

年齢・容姿:いずれも記述されていない。
生国:伊勢(いせ)国三重郡(みえごおり)赤堀村(現・三重県四日市赤堀)

探索の発端:火盗改メによって探索されたのは、〔法妙寺〕の九十郎一味につながる座頭〔徳の市〕である。彼が築地・鉄砲洲の薬種店〔笹田屋〕から出てきたのを、〔玉村〕の弥吉が見かけたのである。
上記したように、弥吉と座頭〔徳の市〕は、〔赤堀〕の嘉兵衛が名古屋城下の小間物問屋〔丸屋〕清助方へ押し込んだときに一味の中にいたのである。
そして、薬種店〔笹田屋〕には、その年の春に押し入ろうとした〔池尻〕の辰五郎一味が、長谷川組によって逮捕され、首魁の辰五郎は自害して果てていたという因縁があった。
(参照: 〔猫間〕の重兵衛の項)
(参照:〔法妙寺〕の九十郎の項
(参照:座頭・徳の市 の項
参照:〔池尻〕の辰五郎の項

結末:〔赤堀〕の嘉兵衛の逮捕については、記述がない。
先代〔池尻〕の辰五郎のむすめと夫婦になったのが猫間〕の重兵衛で、2代目〔池尻〕の辰五郎は義弟にあたる。
参考:〔猫間〕の重兵衛の項
先述のように、薬種店〔笹田屋〕方を襲おうとした2代目〔池尻〕の辰五郎は自害して果て、一味は火盗改メの手で捕縛され、死罪。

つぶやき:池波さんがつねに座右に置いて、盗人の〔通り名(呼び名)〕づけをするとき参照していた吉田東伍博士編『大日本地名辞書』(冨山房 明治33年-)には、「赤堀」は、伊勢・三重郡のほかにもう1カ所、上野国(こうずけのくに)佐波郡(さわごおり)の、こちらは「ぼり」とにごる「赤堀(あかぼり)村」をあげている。国定忠次の生まれた村の北にある。

「〔赤堀〕の嘉兵衛一味は名古屋城下の小間物問屋〔丸屋〕清助方へ押しこんだ」とある。池波さんが開いた『大日本知名辞書』のページは、伊勢国のほうだった---と、これで決めた。

「赤堀」というからには、堤の土が赤っぽいのだろうか。両所とも、現場をふんでいないので確かではない。
が、その土の色からフランスのコート・ダ・ジュールのカンヌ周辺を連想した。鉄分を含んだ赤土だった。
焼き物でいえば、万古焼(ばんこやき)である。万古焼は伊勢の桑名から興きたが、大陸・江蘇省の宜興窯(ぎこうよう)を模したことで知られている。そちらの土地の陶土もまだ見たことがない。

つぶやき2:2005日10月18日、近鉄線・四日市市から内部線で1駅の「赤堀」を取材に行った。
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「赤堀」はホームも短い無人駅だった。無頼庵さんのコメントにあるとおりの、四日市市の中心地へ間近い閑静な住宅地で、赤い土は見えなかった。というより、赤堀氏の城館跡かともおもえる堀川が目についた。
たったこれだけのことを納得しただけの訪問になった。

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〔虫栗(むしくり)〕の権十郎(2代目)

『鬼平犯科帳』文庫巻3に収められている[艶婦の毒]に登場。〔虫栗〕一味をたばねている2代目首領。

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年齢・容姿:50をこえている。ふっくらと肥えて人品はよく見える。
生国:尾張(おわり)国知多郡(ちたごおり)岩滑(やなべ)村(現・愛知県半田市岩滑(やなべ)地区のどこか)
(注・聖典には岩滑(いわなめ)とルビがふられているが、「岩滑」という地名はここしかないので、地元での読み方にしたがった)。

探索の発端:寛政5年(1793)、小休を得えた火盗改メ長官・長谷川平蔵は、お供の同心・木村忠吾を先行させて、京へのひとり旅をたのしんでいた。
その忠吾が、京の三条大橋で知りあった釜座・下立売の絵具屋〔柏屋〕の女房おたか(じつはお豊)と、北野天満宮の境内でねんごろにしているところを、平蔵が見つけた。その女は、20年前、平蔵が西町奉行として着任した父・宣雄にしたがって京へ住んだときに、互いに躰をむさぼりあった〔虫栗〕一味の女賊お豊であった。
40をいくつか越えているはずのお豊は30そこそこにしか見えない。
北野天満宮裏・紙屋川ぞいの料亭〔紙庵〕での情事をすませて帰るお豊を尾行する平蔵を、さらに尾行したのが、お豊の首領〔虫栗〕の権十郎(2代目)だった。
翌日、お豊をたとなめてから四条の料亭〔俵駒〕を出た〔虫栗〕の権十郎は、平蔵にいいつけられた忠吾に尾行され、東寺の北の盗人宿をつきとめられた。

結末:京都西町奉行所の浦部与力の指揮で、権十郎をはじめとする〔虫栗〕一味の大半、そして絵具屋〔柏屋〕の女房となって引きこみに入っていたお豊が捕縛された。死罪。

つぶやき:寛政5年(1793)に、長谷川平蔵が、いっとき休職を得たという史実はない。が、1,2年で終える予定だった『鬼平犯科帳』シリーズが、読者からの声で連載が延長されることになったので、池波さんとしては「しきりなおし」のつもりで、鬼平を京都へゆかせたのではあるまいか。

冨山県下新川郡宇名月町に「栗虫」という地名がある。近くに〔舟見〕の長兵衛の命名の基となったと推測できる「舟見温泉」があるから、池波さんは「栗虫」に土地勘があったとおもわれる。

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2005.03.04

〔妙法寺(みょうほうじ)〕の牛松

『鬼平犯科帳』文庫巻11に所載の[男色一本饂飩]の浪人盗賊・寺内武兵衛は、10年前(天明4年 1784ごろ)に上方の盗賊〔妙法寺(みょうほうじ)〕の丑松の下で助(す)けばたらきをし、2年後(天明6年 1786ごろ)、そこで知り合った流れづとめの吉六などとともに独立している。
(参照:寺内武兵衛の項)

211

年齢・容姿:まったく記載がない。
生国:近江(おうみ)国神崎郡(かんざきごおり)妙法寺(現・滋賀県東近江市妙法寺町)
妙法寺という地名や寺は、福島県北会津郡、東京都杉並区、神奈川県鎌倉市、三重県安芸郡、同度会郡、奈良県橿原市、兵庫県神戸市、福井県武生市、新潟県刈羽郡などにものこっているが、上方が地盤ということで、池波さんが採ったのは、忍者ものの取材でしばしば訪れた滋賀県からと推測。
神戸市須磨区の妙法寺川も捨てがたいが。

探索の発端:妙法寺の丑松そのものは、寺内武兵衛と、いまはその老僕となっている吉六との出会いの経緯を説明するために引き合いにだされたにすぎない。
が、ただ、それだけのために、わざわざ丑松に〔妙法寺〕という〔通り名(呼び名)〕をあたえたのは、近江のあのあたりの取材の副産物であり、かつ、物語にリアリティをつけるためでもあったろう。

結末:〔法妙寺〕の牛松がお盗めをしていたのは上方だし、長谷川平蔵が火盗改メの任につく前のことなので、追捕にはかかわっていない。

つぶやき:池波さんが座右から放さなかったリファレンス・ブックのひとつが、吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治33年-)であったことは、エッセイにもしばしば書いてい、周知のことである。
しかし、池波小説を論ずるのに、同辞書を確かめた人を知らない。「神は細部に宿りたまう」は小説評価法の一手でもあるのだが。

2006.08.18追記
SNSのミク友で、新潟県三條市居住のレンさん(に、「越後の七不思議」についてご教示をいただいた。
鈴木牧之『北越雪譜』の[雪中の火]と題する項に、「越後の七不思議」の一つとして、蒲原郡妙法寺村の農家の炉の隅の石臼が発する火のことが書かれている。
この「七不思議」に目をとめた池波さんが、〔妙法寺〕の「通り名(呼び名)」をとったとの考え方もできることを付加しておこう。

さっそくにレンさんからレス。
『北越雪譜』の鈴木牧之は勘違いをよくする人で、「蒲原郡妙法寺」もそうだと。正しくは「如法寺(じょほう寺)」だと。

こういうやりとりがいかにも、インターネット的。

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2005.03.03

テレビ化で生まれておまさと密偵

[12-4 密偵たちの宴]という痛快篇。

密偵レギュラー陣の〔大滝〕の五郎蔵(50代)、〔小房〕の粂八(41)、伊三次(36)、彦十(62)、〔舟形〕の宗平(70代)、紅一点----おまさ(37)が酒盛りをする。
(参照:〔大滝〕の五郎蔵の項)
(参照:〔小房〕の粂八の項)
(参照:伊三次の項 )
(参照: 〔舟形〕の宗平の項)

Photo_207いずれも元正統派ということになっているだけに、当節の盗人たちの畜生ばたきをののしり、酔うほどに奴らに模範演技を示してやろう、となる。

物語の経緯と結末は小説にまかせるとして、鬼平における密偵の存在は、史実にものこっている。

政敵の森山源五郎孝盛などは、長谷川平蔵の密偵使いを鬼の首でもとったみたいに非難する。

この仁は死の床にあった平蔵に代わり臨時の火盗改メに任じられ、前官冷遇(?)を地でいった。

家禄は平蔵と大差のない中の下あたりだが、冷泉家の門人で短歌を詠んだから、和歌好きの老中首座:松平越中守定信に気に入られた。
いまならさしあたり大学の弁論部の先輩後輩で閣僚入り----いや、芸は身を助けるのほうがあたっている。

森源の平蔵批判はこうだ。平蔵はたしかに泥棒をつかまえる天才だが、公儀が禁止している密偵をしこたま働かせてのこと。泥棒が発生しないようにするのが肝心で、それには聖人の道を講義したらいいと。

いやはや、孔子孟子をきかせて泥棒を減らそうというのは、泥棒を見てから縄をなうはなしよりも迂遠だ。

密偵をつかった盗人逮捕がいけないのは、公儀が禁止しているからの一点ばり。
密偵にもよい密偵とけしからぬ密偵がいるはず。
幕府が禁じたのは、町奉行所や火盗改メの権威をカサに悪をはたらく岡っ引きのはずだ。

ひきかえ、『鬼平犯科帳』のおまさ伊三次は颯爽としているし、畜生ばたらきを心から憎んでもいる。

ところで[密偵たちの宴]に出席の密偵レギュラーは、彦十粂八をのぞくと、おまさ以後に登場した面々。つまりはテレビ向きの善玉密偵。

先代・松本幸四郎丈(のち白鸚)を平蔵役としてテレビ化が決まったとき、圧倒的な女性視聴者を考慮した制作側が池波さんへ熱望したのが、画面にいつも顔を出しているヒロインだった。

主婦のパートづとめがはじまっていた時期だった。キャリアウーマン(?)で、平蔵に淡い恋ごころを抱いているおまさを、池波さんは創造した。
初代は富士真奈美さん、中村吉右衛門丈=鬼平では梶芽衣子さんが演じた。「おまさ以後」とはこのこと。

妻君には感謝はしているがときに鼻にもつくこともある中年男性とすれば、恋ごころにも似た好感をずっと持ってくれている女性が社内にいると思うだけで、出勤する意欲も出るというもの。

かつて俳優:長塚京三さんがサントリーのウイスキーのCMで、女性の部下から慕われる管理職役を演じたが、その幾篇かは『犯科帳』の鬼平おまさからアイデアを借りたフシがある。
現実にみのらせると始末に困る、中間管理職の希望的幻想にすぎないのだが。

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女密偵おまさ

『鬼平犯科帳』を通してのマドンナ・おまさの初登場は文庫巻4の[血闘]

204

その後は93話に顔と名をだしている。
聖典は長編の各章も1話として計算すると164話。
おまさの出現は、長谷川平蔵が火盗改メの本役についた天明8年(1788)10月2日から数日後。平蔵本役中の事件としては、[〔血頭〕の丹兵衛]以降から。
さらに〔狐火〕の2代目と京で暮らしていた期間の事件である6話も差し引くと、155話中94話に顔見せ、登場率61パーセント。これは、筆頭与力・佐嶋忠介、同心・木村忠吾と並ぶ頻度で、それほど重要な役どころということ。

年齢・容姿:宝暦8年(1758)生まれ。[血闘]の事件のときは31歳。〔大滝〕の五郎蔵と結ばれたのが36歳。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
銕三郎(平蔵の若いときの名)に淡い恋ごころを抱いていた少女時代は小肥りだったが、すっきりと〔年増痩せ〕している。肌は江戸の女の常で浅ぐろいがあれてはいない。黒くてぱっちりした双眸(りょうめ)とおちょぼ口。
生国:江戸(東京都)。父親は〔鶴(たずがね)〕の忠助。母親は不明。

参照:[おまさの年譜(ねんぷ)]
[おまさの少女時代] () () (
[おまさの手紙(てがみ)]
[テレビ化でうまれたおまさと密偵]

〔鶴(たずがね)〕の忠助の項)


探索の発端:おまさがらみの探索の発端(事件の年代順)---
[4-6 おみね徳次郎](参照: 女賊おみねの項)
[5-3 女賊](参照:〔瀬音〕の小兵衛の項)
(参照: 〔福住〕の千蔵の項 )
[4-4 血闘](参照:〔吉間〕の仁三郎の項)
[6-4 狐火] (参照: 〔狐火〕の勇次郎 2代目)
(参照: 〔瀬戸川〕の源七の項)
[8-3 明神の次郎吉](参照: 〔明神〕の次郎吉の項)
[9-2 鯉肝のお里](参照: 〔鯉肝〕のお里の項)
[10-1 犬神の権三](参照: 〔犬神〕の権三郎の項)
[13-4 墨つぼの孫八]](参照: 〔墨斗〕の孫八の項)
[14-2 尻毛の長右衛門](参照: 〔尻毛〕の長右衛門の項 )
[19-6 引きこみ女]](参照: 〔駒止〕の喜太郎の項)
(参照: 〔磯部〕の万吉の項)
[23 炎の色]](参照: 〔荒神〕のお夏の項 )
[24 女密偵女賊](参照: 女賊お糸の項)
[24  誘拐](参照: 〔男川〕の久六の項)
---と、鬼平がらみの発端につづいて聖典中、2番目の多さ。

結末: [24 誘拐]で誘拐されるが、未完のまま、池波さんが逝ったので、まだ救出されていない。

つぶやき:天明元年(1780)に女児を出産。その子は、父親の縁で佐倉(千葉県)に預けてあり、初登場のときは7歳。

キー・キャラクターの一人であるおまさの登場が、第25話とあまりにも遅すぎるので、あれこれ考慮した末、テレビ化に関係がありそうと気づいた。連続テレビドラマには、男性にも女性にも好感をもって受け入れられる女性キー・キャラが必須である。
で、テレビ化をすすめた故・市川久夫プロデューサーに聞いた。
「池波さんへ、おまさの必要を説いたのはあなたでしょう?」
「ご明察のとおり」
しかし、銕三郎への片思いを30すぎても抱きつづけているという、切なくはあるが、男にとってはうれしいような女性キー・キャラの設定は、大衆文学の常道とはいえ、おまさはみごとな人物造形であった。

おまさが、仕えたり、助(す)けたりしたお頭は----、
〔法楽寺〕の直右衛門(参照: 〔法楽寺〕の直右衛門の項)
〔乙畑〕の源八(参照: 〔乙畑〕の源八の項)
〔荒神〕の助太郎(参照: 〔荒神〕の助太郎の項)
〔狐火〕の勇五郎(参照:〔狐火〕の勇五郎の項)
〔墨つぼ〕の孫八(参照: 〔墨つぼ〕の孫八の項)
〔櫛山〕の武兵衛(参照: 〔櫛山〕の武兵衛の項)
〔熊倉〕の惣十(参照: 〔熊倉〕の惣十の項)
〔峰山〕の初蔵(参照: 〔峰山〕の初蔵の項)
〔苅野〕の九平(参照: 〔苅野〕の九平の項 )
〔野見〕の勝平(参照: 〔野見〕の勝平の項)
-----と、おまさがいかにすぐれた頭脳と技量をもったキャリア・ウーマンだったかをしのばせる、錚々たる首領たち。

母親は、おまさが10歳にならないうちに病死したらしい。おまさの肌は「江戸の女の常で浅ぐろい」との記述から推理すると、母親は江戸生まれということになる。父親の〔鶴(たずがね)〕の忠助は佐倉の在の生まれだからである。
どういういきさつでおまさが生まれたものか。
(参照: 〔鶴(たずがね)〕の忠助の項)

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女密偵おまさの年譜

おまさの記事に付加されるべき年譜を掲げます。
(参照: 女密偵おまさの項)
(罫を入れてないのでスペースがうまくそろうか心配)。

密偵おまさの年譜


宝暦7年
(1757) 1歳 父親:〔鶴〕の忠助、酒々井(しすい)村出身。
      母親・お美津(みつ)も同村(ただし原作では不明)。
      酒々井=現・千葉県印旛郡酒々井町


宝暦9年 3歳 忠助が〔盗人酒屋〕を開店。
         店は〔法楽寺〕の直右衛門の盗人宿をを兼ねる。

宝暦11年
(1761) 5歳 母親・お美津病死 

明和4年
(1767)11歳 銕三郎(23歳)にひそかに恋ごころを抱く
[4-4  血闘]p137 新p145

安永2年
(1773)17歳 父親死去。〔法楽寺〕の下に。
       平蔵は父について京都にいた。
[4-4  血闘]p139 新p142
      〔乙畑〕の源八配下に。

安永5年
(1776)20歳 〔荒神〕の助太郎に可愛がられる。
この時〔夜鴉〕の仙之助がレイプ。
       [2-3 炎の色]p88 新p87

安永7年
(1778)22歳 〔狐火〕の妾の子:又太郎(21歳)
       を初めて男にしてやる。
       そのため〔狐火〕一家を追放。
       [6-4 狐火]p118 新p125

天明元年
(1781)25歳女児分娩。父親の里の佐倉へ預ける
      〔野見〕の勝平の引きこみ。
       [4-4  血闘]

天明2年
(1782)26歳 〔墨つぼ〕の孫八のために江戸で
       引ききこみをつとめる
       [13-4  墨つぼの孫八]

天明3年
(1783)27歳 女児の父親が死去
[4-4  血闘]

天明5年
(1785)29歳 ながれ盗め。
      〔櫛山〕の武兵衛を手伝う。
      [8-3 明神の次郎吉]p107 新p113

〔熊倉〕の惣十の引き込み。
      このとき〔吉間〕の仁三郎と出会う。
      [4-4  血闘]p149 新p156

       〔峰山〕の初蔵のために二度ほど
      (小田原城下と越後)助ける。
[23-1  夜鷹の声]p58 新p54
〔苅野〕の九平を二度ほど助けた。
[16-2  網虫のお吉]p62 新p65


天明8年
(1788)32歳 平蔵のもとへ現れて密偵となる。
〔乙畑〕の源八の配下だった
[4-4  血闘]
12月 おまさの指しで〔乙畑〕一味捕縛
[5-3  女賊]


寛政元年
(1789)33歳 全勝寺の門前で幼友だちで
〔法楽寺〕一味のおみねと出会い
逮捕につなげる。
       [4-6 おみね徳次郎]p214 新p225

〔瀬音〕の小兵衛を助け〔猿塚〕のお千代
一味を逮捕のきっかけをつくる。
       [5-3 女賊]
小兵衛はおまさがまだ〔乙畑〕の源八の
配下と思いこんでいる。


寛政3年
(1791)35歳 下総・佐倉の在にいた叔母が病死。
       帰路、松戸の遠縁の家に一泊。
       [6-4  狐火]p111 新p118
軍鶏鍋屋〔五鉄〕二階奥の部屋に寝泊り。
[6-4  狐火]p116 新p123
二代目〔狐火〕の勇五郎と再会、結婚。
[6-4  狐火]p112 新p119


寛政4年
(1792)36歳 二代目勇五郎が病死。再び密偵に。
       [6-4  狐火]

寛政6年
(1794)38歳 〔大滝〕の五郎蔵と結ばれる。
       [9-2  鯉肝のお里]

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密偵おまさが事件の発端

◎おまさが見たのが事件の発端

[4-6 おみね徳次郎] 〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門
               p208 新装p218おみね(みね
[5-3 女賊]     〔瀬音(せのと)〕の小兵衛
               p85 新装p89
[4-4 血闘]     〔吉間(よしま)〕の仁三郎
               p149 新装p156
[6-4 狐火]     〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七
          p114 新装p121 勇五郎(ゆうごろう
[8-3 明神の次郎吉] 〔櫛山(くしやま)〕の武兵衛
               p93 新装p98
[9-2 鯉肝のお里]  〔白根(しらね)〕の三右衛門
               p50 新装p52
[10-1犬神の権三]  〔犬神(いぬがみ)〕の権三郎
               p28 新装p29 おしげ
[13-4墨つぼの孫八] 〔墨つぼ(すみつぼ)〕の孫八
               p147 新装p153
[14-2尻毛の長右衛門 〔尻毛(しりげ〕の長右衛門
               p60 新装p62 おすみ(すみ
[19-6引き込み女]  〔駒止(こまどめ)〕の喜太郎
               p267 新装p277 お元
[23 炎の色]    〔峰山(みねやま)〕の初蔵
               p55 新装p53
[24 女密偵女賊]  〔鳥浜(とりはま)〕の岩吉
               p16 新装p15 お糸(いと
[24 誘拐]      相川(あいかわ)虎次郎
          p147 新装p139


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2005.03.02

浪人・寺内武兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻11の冒頭の[男色一本饂飩]事件の主人公。

211

年齢・容姿:中年とのみ。堂々たる体躯の大男。濃い眉毛、隆(たか)くふとやかな鼻、厚い唇、やさしげな細い眼、総髪。たくましい筋骨、ひろく厚い胸。、血色がみなぎり、肉が厚く、甲にまで体毛が密生している掌。太いがやわらかな声。
生国:加賀とのみ。

探索の発端:食い意地のはっている同心・木村忠吾は、深川・蛤町、海福寺門前の茶店〔豊島屋〕の一本饂飩が好物だった。
見廻りの途次、立ち寄ったが、そのとき、同席を乞うた侍・寺内武兵衛に、男色の対象として誘拐・密閉された。
火盗改メは、役宅の長屋へ帰ってこない忠吾を、全力をあげて捜索をはじめた。と、〔豊島屋〕の女中お静が、その日のことをよく覚えていて鬼平へ告げた。さらにお静は、三ッ橋のかかる楓川岸を歩いている寺内武兵衛を偶然にみかけて後をつけ、因幡町2丁目あたりに住んでいることをつきとめた。

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お静が武兵衛をみかけた三ツ橋(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

結末:「算者指南」の看板をかかげて大商店の経営コンサルタントのようなことをしながら、得意先の内実を看取って押し入る寺内武兵衛は、押し入り当日の昼過ぎ、お静を追って築地川にかかる軽子橋上で、鬼平の剣に倒れた。

つぶやき:中村吉右衛門丈=鬼平のテレビ放送は、子どもたちがまだテレビを見られる時間帯の午後8時から始まるために、夜9時からだった幸四郎(白鴎)丈=鬼平のときよりも、濡れ場はあっさりしている、といわれている。
男色もののこの篇には、撮影をためらったフシさえある。
おなじくレスビアンもの[炎の色]でもヒロインの年齢などが適当に変えられていた。

池波さんの男色ものには、独立短篇[元禄色子](『小説新潮』1969年2月号。のち『あほうがらす』新潮文庫)などのほかにも、鬼平シリーズにも[寒月六間堀]などがある。

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2005.03.01

〔玉村(たまむら)〕の弥吉

『鬼平犯科帳』文庫巻21の[男の隠れ家]で、芝・宇田川町の袋物・小間物問屋〔吉野屋〕の入り婿・清兵衛と「賭け碁」で知りあって気があい、家付きむすめの女房にないがしろにされている清兵衛に、侍姿に扮して町を歩いて鬱憤を晴らす知恵をつけたり、強気女房の頭を丸めるのに手を貸したりした、ひとり働きの酔狂な盗人。

221

年齢・容姿:38,9歳か。というのは、寛政5年(1793)師走の事件[泥亀(すっぽん)の七蔵]から6,7年前、七蔵が〔牛尾(うしお)〕のお頭の下にいたときに24,5歳、それから10年以上の歳月が経っているから。
いわゆる馬面だが、目鼻口がたがいに距離をとってついている。
(参照: 〔泥亀〕の七蔵の項〕
生国:上野(こうずけ)国佐波(さわ)郡玉村(現・群馬県佐波郡玉村町)。

探索の発端:密偵〔泥亀(すっぽん)〕の七蔵は、もとは〔牛尾(うしお)〕の太兵衛一味にいた。その後、芝・三田寺町の魚籃観音堂境内の茶店を買ってもらって引退したのだが、〔牛尾(うしお)〕のお頭の遺族の窮状を見かねて、むかしのお盗めをおもいたちはしたが、七蔵ごときの力ではうまくいくはずがない。そのときの鬼平のあしらいに感激して密偵を志願したのだ。
(参照: 〔牛尾〕の太兵衛の項)
その七蔵が、かつて牛尾一味にいた〔玉村(たまむら)〕の弥吉を見かけた。「あの奇妙な顔立ちを見まちがうはずがない」と強調した。
〔玉村〕の弥吉は、芝の聖坂(ひじりざか)中途から北へわかれた汐見坂の奥、功運寺の手前の一軒家へ住んでいた。その家から、50歳前後の侍が出てきた。

086
汐見坂。この手前に功運寺があった(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

結末: 〔玉村〕の弥吉が単身、忍びこんだ先は、芝・宇田川町の袋物・小間物問屋〔吉野屋〕だった。出てきた弥吉を、待ち構えていた火盗改メが捕らえたものの、弥吉はなにひとつ盗んではいなかった。
入り婿・清兵衛の鬱憤ばらしに、清兵衛の女房の黒髪をばっさりやっただけであった。
その酔狂なやり口と、拷問に耐え抜いた強情さを買った鬼平が、密偵にならないかとすすめたが、「狗(いぬ)になるぐらいなら、躰を八つ裂きにしてくれ」と応じなかった。
それで鬼平は、なにもいわないで弥吉を釈放したが、1か月後、弥吉は役宅に現れ、密偵となった。

つぶやき:密偵となった弥吉は、巻22[迷路]では、〔大滝〕の五郎蔵・おまさ夫婦の家に間借りしているが、文庫巻22[迷路]での仕事ぶりに、鬼平は「何ものか」を持っている彼を見直した。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
(参照: 女密偵おまさの項)
その働きぶり一つが、〔法妙寺〕の九十郎のために働いている座頭・徳の市を見つけたことである。
(参照: 〔法妙寺〕の九十郎の項)
(参照: 座頭・徳の市の項)

というのも、かつて名古屋城下で〔赤堀(あかぼり)〕の嘉兵衛のお盗めを助(す)けたときに、〔嘗(なめ)役]と〔連絡(つなぎ)役〕を兼ねていた座頭の〔徳の市〕を見知っていたため、築地・船松町の薬種屋〔笹田屋〕から彼が出てきたのを、咄嗟に見のすことなくすんだのである。経験の勝利といえよう。
(参照: 〔赤堀〕の嘉兵衛の項)

052_360
〔笹田屋〕のある船松町から佃島を望む(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

そのことを鬼平に知らせるために、深夜、警戒厳重な役宅の鬼平の寝間の外まで、やすやすと忍びこんできたからである。

汐見坂奥にあった功運寺は、戦災で、中野区上高田4丁目へ移転している。

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