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2005年4月の記事

2005.04.30

〔布屋(ぬのや)〕の弥市

『鬼平犯科帳』文庫巻2に入っている[密偵(いぬ)]で、下谷・坂本町3丁目の一膳飯屋〔ぬのや〕の亭主ながら、火盗改メ方の密偵をやっている、元は〔荒金(あらがね)〕の仙右衛門の配下だった盗人。

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(参照: 〔荒金〕の仙右衛門の項)

年齢・容姿:30男。むっくりと肥えた躰。
生国:店名〔ぬのや〕が〔布屋〕とすると、摂津(せっつ)国東成郡(ひがしなりこうり)か、西成郡(にしなりこうり)、どちらかの布屋村(現・大阪市城東区か西淀川区の布屋)。〔ぬのや〕とかなで書けば、江戸では上方の村名とは気づかれはすまいとかんがえてつけたのかも。
盗人時代の異名〔青坊主〕は、剃りあげた頭についたもので、出生地とはかかわりがない。
現在の岐阜市にある布屋町は、『旧高旧領』に記載がない地名である(岐阜市に編入された経緯を地元の池波ファンからお教えいただけるとうれしい)。

探索の発端:突然、訪ねてきた〔乙坂(おとさか)〕の庄五郎が、〔縄ぬけ〕の源七が江戸へ入ってきて、弥市の命を狙っているから気をつけろ、といった。
〔乙坂〕の親分の〔夜兎(ようさぎ)の角右衛門と〔荒金〕の仙右衛門は親しく、子分の貸し借りをなどしていたので、弥市と庄五郎は子分同士顔見知りだったのである。
(参照: 〔夜兎〕の角右衛門の項)
弥市はすぐさま、事情を火盗改メの与力・佐嶋忠介へ報告しておいた。
と、〔乙坂〕の庄五郎が、一度だけでいいから、こんと゜の盗め先小網町3丁目の線香問屋〔恵比寿屋〕の金蔵の合鍵をつくるようにと強制してきた。

結末:合鍵を渡すと、〔乙坂〕の庄五郎の後ろから現われた〔縄ぬけ〕の源七ともども、〔荒金〕一味の盗人宿を白状した弥市を責めて撲殺。
〔乙坂〕の庄五郎一味12名は、源七ともども、召し捕らえられ、死罪。

つぶやき:盗賊たちが押し入る店を、問屋名鑑の『江戸買物独案内』から、池波さんが選出していたことは、いまや周知のこと。
この『江戸買物独案内』は、業種ごとに問屋の広告が列記されている。すべての広告をばらばらに切り離して町ごとに集めなおすと、1軒の問屋がいくつもの業種を扱っている例が少なくないことが見えてくる。
と同時に、線香問屋は薬種(くすりだね)問屋の兼業で、線香問屋だけでは成り立たなかったことも分かる。
〔乙坂〕一味が狙った〔恵比寿屋〕は、小網町ではなく尾張町にあって、呉服、太物(木綿と麻類)、繰綿など10以上の品目(業種)をあつかっていた大店問屋であった。
まあ、小説だから、そこのところは大目にみておくべきなんだろう。

付記:
密偵になる前、すなわち、現役(いまばたらき)時代の弥市の「通り名(呼び名)」は[青坊主〕だった。
弥市の容姿からきた〔青坊主〕という「通り名」だが、鳥山石燕『画図百鬼夜行』(国書刊行会 1992.12.21)から池波さんがヒントを得たとおもわれる「青坊主」の絵を引いておく。
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「一つ目」と弥市の関連はよくわからない。

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2005.04.29

〔江口(えぐち)〕の音吉

『鬼平犯科帳』文庫巻4に所載の[五年目の客]で、遠州の大盗賊(おおもの)〔羽佐間(はざま)〕の文蔵一味の引きこみ役として、東神田・下白壁町の旅籠〔丹波屋〕源兵衛方へ府中(静岡市)の小間物屋というふれこみで宿泊、源兵衛の女房のお吉とできてしまう。

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(参照: 〔羽佐間〕の文蔵の項)

年齢・容姿:40がらみ。小さいときに大坂へ出て役者をしていたから、なんにでも化けられた。
生国:遠江(とおとうみ)国豊田郡(とよだこおり)江口村(現・静岡県磐田市豊岡)。
首領の〔羽佐間〕の文蔵が現・静岡県岡部町羽佐間(はさま)の出であることは分かっていた。したがって音吉は駿河か遠江の出身であろうと推測したが、江戸期の江口村が明治8年に西堀村などと合併、豊岡村と名が変わっていたので、竜洋町豊岡へたどりつくのに苦労した。
美濃国厚見郡江口村(現・岐阜市江口)ほかへも寄り道したが、遠江国の江口村はその名のとおり、天竜川の河口にあった。

探索の発端:寛政5年(1793)の初秋。鬼平は剣友・岸井左馬之助と浅草・今戸橋に近い船宿〔嶋や〕で酒食をともにし、〔小房〕の粂八の舟で帰ろうとしていた。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
粂八が今戸橋をわたっている商人風に装った〔江口(えぐち)〕の音吉を認めた。10年ほど前に、粂八は〔羽佐間〕の文蔵一味にいたことがあり、見知っていたのである。
左馬之助が尾行すると、浅草橋近くの船宿〔近江屋〕で、〔丹波屋〕の女房お吉と密会していることがわかり、音吉の身辺に見張りがつけられた。

結末:5年j前、お吉は品川宿の〔百足屋〕で売れない女郎だった。盗めの分配金78l両を預けて酔いつぶれた音吉の胴巻きから50両を盗んで逃げ、それから運が向いてきて〔丹波屋〕の女将にまでなったが、現われた音吉へ躰で返金しているつもりが、絞殺する結末に。
いっぽう、火盗改メは、〔羽佐間〕の文蔵一味が〔丹波屋〕を襲うことを見越して網をはり、10名をことごとく召し取った。死罪であろう。

つぶやき:火盗改メの役宅の白州で、すべてを白状したお吉に、長谷川平蔵がいう。
「お前、夢を見ているのではないか---笹やでしめ殺されていたのは、羽佐間一味の盗賊で江口の音吉という悪党だぞ」
「そのような悪党と、丹波屋の女房が何らの関係(かかわり)のあるはずはない」
法も手さばき一つで、一人の女の人生を救うこともでき、逆に奈落へ落とすことも可能なのである。
ただ、温情がすぎると示しがつかなくなろう。

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2005.04.28

〔長久保(ながくぼ)〕の佐助

『鬼平犯科帳』文庫巻12に収録の[見張りの見張り]で、お頭の〔万福寺(まんぷくじ)〕の長右衛門が病死、一味は解散したのに、倅の佐太郎が帰ってこない。
東海道・島田宿で古女房で元女賊のお直に小間物屋をやらせていた佐助だったが、倅探索の旅へ出た。
日光街道・草加宿で、同じく〔万福寺〕一味にいた〔橋本(はしもと)〕の万造から、女出入りが原因で佐太郎を殺したのは、これも一味だった〔杉谷(すぎたに)〕の虎吉と告げられた。

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(参照: 〔万福寺〕の長右衛門の項)

年齢・容姿:60歳すぎか。上背はあるが、肉づきはたるんでいる。日に灼けた老顔に真っ白な眉毛。
生国:信濃(しなの)国小県郡(ちいさがたこうり)長久保村(現・長野県小県郡長門町長久保)
『大日本地名辞書』(冨山房)には、ほかに下野国塩谷郡長久保(現・茨城県塩谷郡氏家町長久保)が収録されているが、女房に東海道・島田宿で小間物屋をやらせているというから、信濃から大井川ぞいにくだってきて住み着いたと考えられる。
もちろん、下野国の長久保村も候補とはしたが、本拠が上方の〔万福寺〕の長右衛門へは遠すぎる。
『旧高旧領』に載っている美濃国海西郡長久保村(現・岐阜県海津郡海津町長久保)も検討したが、美濃から上方へはらきに出たものが、故郷をとおりすぎて島田宿へ居をかまえるのもいささか不自然だし、池波さんは『旧高旧領』を保有していなかったことも理由として排した。

探索の発端:〔長久保〕の佐助が、偶然にも、本所・相生町4丁目で小さな煙草店をやっている〔舟形(ふながた)〕の宗平の前に立った。煙草を切らしたのだ。
2人はかつて、〔蓑火〕の喜之助お頭の下でいっしょに盗めた仲だったのである。しかも宗平は、佐助の人柄に好意をもっのていた。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
いっぽう、〔大滝〕の五郎蔵は、かつて、〔杉谷(すぎたに)〕の虎吉を配下もしたことがあったが、その性質に嫌気がさして、一味から放出した。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項 )
(参照: 〔杉谷〕の虎吉の項)
五郎蔵は、寅吉の女房がやっている品川の蝋燭屋を訪ねて、寅吉との連絡を頼んだ。

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品川駅 (『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

結末:五郎蔵の策にひっかかって虎吉は捕らえられたが、佐太郎を殺したのは彼ではなく、〔橋本〕の万造だと分かった。
〔杉谷〕の虎吉は、本郷4丁目の紙問屋〔伊勢屋〕卯兵衛方へ押し入り、一家惨殺に近い殺戮をしたので、虎吉は磔刑。一味は死罪。
〔長久保〕の佐助は、伝馬町で牢死。

つぶやき:けっきょく、〔橋本〕の万造が捕まることなく物語は終わってしまう。
勧善懲悪を期待していた読み手には肩すかし。
「盗っ人として、佐太郎も万造も半人前で、〔万福寺〕のお頭ももてあましていた」という虎吉の言葉で、それだけの者たちに、紙面をさくこともない、と池波さんは考えたか。
池波小説にはめずらしく、万造は、その後の物語にも姿を見せない。

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2005.04.27

〔矢野口(やのぐち)〕の甚七

『鬼平犯科帳』文庫の特別長篇である巻22[迷路]で、浅草・新堀端の居酒屋[豆甚]の老亭主。首領〔猫間(ねこま)〕の重兵衛の配下だったが、老齢のために足を洗っている。

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(参照: 〔猫間〕の重兵衛の項)

年齢・容姿:70歳近く。小柄。タヌキのような顔。
生国:武蔵(むさし)国多摩郡(たまこおり)矢野口(やのぐち)村(現・東京都稲城市矢野口)。

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谷之口穴澤天神社(稲城市矢野口32892 『江戸名所図会』より』)
池波さんは、この絵から〔矢野口〕の「通り名」をおもいついたろう。
(塗り絵師:ちゅうすけ)

新田義貞の子・義興が鎌倉に対して軍を挙げ、敵方の策謀で矢口の渡しで自害して果てたが、その矢口がこことの説もある。別の説は荏原郡矢口(大田区)。

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矢口古事(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)
謀殺した新田義興の霊にたたられる畠山国清

ほかに「矢野口」は、下野国河内郡(現・茨城県今市市)、紀伊国牟婁郡(現・和歌山県西牟婁郡すさみ町)にもあるが、〔猫間〕一味のテリトリーが東海道筋であることを考慮したのと、『江戸名所図会』の谷之口(やのくち)穴澤天神社の絵により、稲城市を採った。

探索の発端:博打に手を染めた同心・細川峯太郎が、オムラにむしられてた帰宅の途路に立ち寄ったのが〔豆甚〕。
そこにいた25,6歳の年増にもてあそばれたものの、老爺と年増女お松の人相をた供述をした。
人相書を見た密偵おまさが、老爺を〔矢野口〕の甚七と断定したことから、〔豆甚〕が見張られることになった。
甚七は若いころから、ご家人くずれで盗みの世界に入った木村源太郎ことのちの〔猫間(ねこま)〕の重兵衛の下にい、おまさの父親〔鶴(たずがね)〕の忠助の店〔盗人酒屋〕にも出入りしていたのである。そして、〔久保島〕の吉蔵という盗賊を助(す)けるように忠助にいわれ、源太郎、銕三郎ともども加わった。

結末:〔猫間〕一味は死罪。〔矢野口〕の甚七も同罪だったろう。

つぶやき:タイトルの[迷路]が暗示しているように、連続殺人のおきる謎解きミステリー風の作品にしたかったのだろうが、『鬼平犯科帳』の諸篇はたいてい倒叙スタイルで書かれている。そこで眼目は、動機と手段の探索となるが、意外に軽い感じ。
読みどころはもちろん、鬼平の苦悩ぶりと強い責任感である。

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2005.04.26

〔寝牛(ねうし)〕の鍋蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻5に載っている[乞食坊主]こと、剣友・井関録之助に、南品川の貴船明神社(現・荏原神社  品川区北品川3-30-28)境内で盗めの会話を聞かれてしまった、〔古河(こが)〕の富五郎一味の盗人。

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年齢・容姿:50すぎ。6尺ちかい肥体の大男。目が糸のように細い。動作ものっそり。
生国:下総(しもうさ)国岡田郡(おかだこおり)横曽根村(現・茨城県水海道市大生郷 おおのごう 町)。
「寝牛」といえば天満宮につきもの。さらに〔古河〕の一味ということで、学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラスの堀眞治郎さんが古河市近辺の天神社を探して、大生郷天満宮を見つけた。日本3大天神の一という。
それで、水街道市へでかけてみた。社域そのものはさして大きくはないが、なんでも菅原道真公が現われたとかいう伝説がのこっており、九州の大宰府、京都の北野に次いで3大天神に数えられている。

探索の発端:品川の貴船明神社の床下で昼寝をしていた井関録之助に、〔寝牛(ねうし)〕の鍋蔵と〔鹿川(しかがわ)〕の惣助がかわした極秘の会話を聞かれた。
(参照: 〔鹿川〕の惣助の項)

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貴船明神社 中央手前が旧東海道に架かる中ノ橋
(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

仕掛人を頼んで録之助を襲わせたが、なんと、その仕掛人が同門の菅野伊介だったことから、録之助は20年ぶりに長谷川平蔵を役宅へ訪ねることになった。
録之助の話から、火盗改メは、南品川2丁目に小さな小間物屋〔吉野屋〕をだしている〔寝牛〕の鍋蔵を見張りはじめた。

結末:賊たちが〔吉野屋〕の隣家の質店〔横倉屋」のくぐり戸前へ集結したところで一網打尽。

つぶやき:聖典には、高杉銀平道場の同門およびゆかりの人物が17人登場する。
高杉道場の同門者

[1-2 本所・桜屋敷]   岸井左馬之助
               谷五郎七
[3-6 むかしの男]    大橋与兵衛(久栄の父親)
[5-2 乞食坊主]     井関録之助
                菅野伊助
[7-5 泥鰌の和助始末] 松岡重兵衛(道場の食客)
[8-3 明神の次郎吉]   春慶寺の和尚=宗円
[8-6 あきらめきれずに] 小野田治平
                (多摩郡布田の郷士の三男。
[11-7 雨隠れの鶴吉]    妾の子:鶴吉
[12-2高杉道場三羽烏]  長沼又兵衛 盗賊の首領。
[14-1 あごひげの三十両] 先輩:野崎勘兵衛。
[14-4 浮世の顔]       小野田武吉
                 (鳥羽3万石の家臣)
                 御家人:八木勘左衛門(50石取り)
[15雲竜剣]           堀本伯道(師:高杉銀平の試合相手)
[16-6 霜夜]          池田又四郎
[18-5 おれの弟]        滝口丈助
[20-3 顔]            井上惣助
[20-6 助太刀]         横川甚助(浪人)

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2005.04.25

〔常念寺(じょうねんじ)〕の久兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻16に入っている[霜夜]で、〔須の浦(すのうら)〕の徳松一味として、鬼平のかつての同門の池田又四郎を脅す僧形の盗人。
(参照: 〔須の浦〕の徳松の項)

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年齢・容姿:40がらみ。僧形(そうぎょう)。
生国:伊勢(いせ)国飯南郡(はんなんこおり)松坂・常念寺小路(現・三重県松坂市中町)
池波さんが訪れたこともある山形県山形市三日町の常念寺も考えたが、〔須の浦〕一味のテリトリーが上方から北陸道へかけて、とあるので、松坂をとった。荒木又右衛門のことで取材した地でもある。

探索の発端:京橋・大根河岸の兎料理が名代の〔万七〕で、高杉道場でのかつての弟弟子・池田又四郎を見かけた鬼平は、南飯田町の船宿〔なだや〕まで後をつけた。
又四郎は、この船宿で、〔常念寺(じょうねんじ)〕の久兵衛と〔栗原(くりはら)〕の重吉から、義妹のお吉に引きこみをさせるようにせかされた。お吉は〔須の浦〕一味を勝手に抜け、本湊町の薬種問屋〔大和屋〕で女中をとして信頼を得ていたのである。又四郎の妻お米は、夫が妹のお吉とも通じていることを気に病みながら女賊として病死していた。
同じ夜、池田又四郎が役宅へ、「明日の午後2時に、砂村の元八幡の境内へ、一人で来てほしい」と置手紙していた。

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砂村元八幡宮(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

結末:池田又四郎は、きのうまで同類だった〔須の浦〕一味の者8名を斬り殺したが、自分も瀕死の重傷を負い、鬼平の手の中でこときれた。
江戸での盗めのために設けられた〔須の浦〕一味の盗人宿は、又四郎が打ち明けたので、残っていた者はことごとく逮捕。死罪であろう。

つぶやき:高杉道場から池田又四郎が消えたのは、銕三郎(長谷川平蔵の家督前の名)に冷たくされたからだという。又四郎は銕三郎の色子になりたかったのだ。ストレート派の銕三郎は、そのことに気づかない。
『鬼平犯科帳』にも『剣客商売』にもそのほかの短篇にも、池波作品には衆道をあつかった物語が意外な頻度で登場するのは、なぜなんだろう。それだけの比率で世に存在しているということの反映なのか。
又四郎は妻帯、さらに義妹とも関係したのは、衆道から立ち戻ったのか、それとも二刀流?

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2005.04.24

〔鴨田(かもだ)〕の善吉

『鬼平犯科帳』文庫巻2に収められている[お雪の乳房]で、浅草・田原町1丁目で足袋屋〔つちや善四郎〕の主人としておさまっているが、盗人時代は〔鴨田(かもだ)〕の善吉といい、かつて70余名の配下を束ねていた巨盗〔鈴鹿(すずか)〕の又兵衛の義弟。
(参照: 〔鈴鹿〕の又兵衛の項)

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年齢・容姿:40男。独り身。商店の主人風が似合う。
生国:三河(みかわ)国額田郡(ぬかたこうり)鴨田村(現・愛知県岡崎市鴨田町)。
義兄〔鈴鹿〕の又兵衛の亡妻およしの弟---ということから、〔鈴鹿〕一味のテリトリーを東海道筋が中心とみた。現に、又兵衛の亡妻およしは小田原に住んでいたこさともある。又兵衛が三河の岡崎宿ではたらいていたおよしに手をつけたのだろう。

探索の発端: 〔鈴鹿〕の又兵衛の18歳になるむすめのお雪が、火盗改メの同心・木村忠吾に見初められた。
お雪は、叔父の足袋屋〔つちや善四郎〕方に預けられている。
恋仲の2人のことで、又兵衛に相談にいった帰りの〔つちや善四郎〕こと〔鴨田〕の善吉を、芝浜の通りで〔小房〕の粂八が見かけたことから、火盗改メの見張りがついた。

結末:芝・松本町の明樽問屋〔大黒屋〕へ押し込んだ〔鈴鹿〕の又兵衛一味は、待ち伏せていた鬼平たちに逮捕された。
木村同心との仲を裂くべく、お雪を連れた〔つちや善四郎〕は、つつがなく京へ逃避できたよもう。

つぶやき:木村忠吾同心の、[谷中・いろは茶屋]につづく、はからざる2番手柄、となったが、明るい色恋がらみで火盗改メとしての手柄が立てられるのは、この若者だけであろう。
シリーズの得がたいコメディー・リリーフ・キャラクター。こういうキャラを盗賊側の首領が使いこなすとしたら、どのお頭だろう?

2005年12月5日(月) 三河の取材リポート

岡崎市のゆかりの地の取材は、「鴨田」から始めた。
名鉄バスを乗りまちがえたりしなから、足助(あすけ)への街道をたどって、やっと「大樹寺行」へたどりついた。
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足助への街道
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バス停「大樹寺」

バス停の近くの信号機の上に、「鴨田」の標識板があった。
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標識

土地の人に聞くと、あたり一帯が「鴨田」とのこと。〔鈴鹿〕の又兵衛の亡妻およしと弟の〔鴨田〕の善吉(世間への表向きの名は〔つちや善四郎)は、この土地の生まれだった。
大樹寺への道を西へ入ると、なんとなく古めかしい雰囲気がただよう。と、鴨田天満宮。
およし・善吉姉弟はこの境内でも遊んだろう。
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幼いころのおよし・善吉姉弟が境内で遊んだ鴨田天満宮

そのころは、のちのち、悪の道へ踏みいれるなどとは、ゆめ、おもわなかったろう。

さらに100メートルたらず行くと、安城松平家の菩提寺だった大樹寺の壮大な山門。
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小田原や江戸に住んでいた姉弟は、この山門をおもいだしたろうか。いや、それより、〔鈴鹿〕の又兵衛の娘お雪は、この山門を見たことがあったろうか。母親のおよしは、この山門のことをお雪に話して郷土自慢をしたろうか。
本堂へあげてもらい、ご本尊の阿弥陀如来像を拝しながら、夢想は果てしなくつづく。

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2005.04.23

〔鷹ノ巣(たかのす)〕の新五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻21に収録の[春の淡雪]に点景のように登場する首領。

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年齢・容姿:点景あつかいなので、どちらも記述されていない。
生国:]武蔵(むさし)国男衾郡(おぶすまこうり)鷹巣村(現・埼玉県大里郡寄居町鷹巣)。
聖典は「鷹ノ巣」と記しているから、最初に美濃国加茂郡鷹ノ巣村(現・岐阜県美濃加茂市鷹之巣)を考えた。
また、〔雪崩(なだれ)〕の清松と知り合いという線から、雪の多い土地の出身とふんで、秋田県北秋田郡鷹巣町鷹巣も考慮してみた。
が、あれこれの候補地の中から「寄居町」の文字が目に入った瞬間、ここに決めた。
池波さんに『よい匂いのする一夜』(講談社文庫 初出:『太陽』1979年7月号-56年5月号)という、宿についてのエッセイ集がある。中の1軒が寄居町の〔京亭〕である。池波さんは、『偲びの旗』の冒頭場面のロケーションを書くためのほか、よほど気にいったか、その後も幾度も宿泊している。

探索の発端: 〔鷹ノ巣〕の新五郎の押し込先の、麹町の薬種店〔小西〕方は、もともとは〔池田屋〕五平が立てた計画であった。それを〔雪崩(なだれ)〕の清松と〔日野(ひの)〕の銀太郎が〔鷹ノ巣〕へ売ったものだ。
同心・大島勇五郎の密偵でもある清松に疑いをかけていた火盗改メは、〔池田屋〕一味をさぐりだし、〔小西〕方へ網を張った。
(参照: 〔池田屋〕五平の項)

結末: 〔小西〕方へ押し込む寸前に、待ちかまえていた鬼平軍団に、全員、あっけなく逮捕され、伝馬町の大牢屋送り。たぶん、死罪。

つぶやき:この盗人の生国調べは、池波さんの取材先・訪問先リサーチでもある。と同時に、過去の旅行先をどのように思い出して活用するのか、作家の頭脳の働きをのぞくことにもつながる。創作の楽屋裏調べという品がないが、クリエイティヴ・プロセスの追跡というと、なにやら、ありがたく聞こえる。
今度の〔鷹ノ巣〕の寄居町のように、そけがズバリときまると、爽快ですらある。。

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2005.04.22

〔名瀬(なせ)〕の宇兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻13に収められている[墨つぼの孫八]で、タイトルにもなっている首領の〔墨斗(すみつぼ)〕とその一味13名が、2年前の寛政8年(1796)に上州・高崎城下の紙問屋〔関根円蔵〕方を襲って1200余両を奪い、2手に別れて逃走したとき、盗み金をもったほうの〔名瀬〕の宇兵衛たち8人が消えてしまった。

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(参照: 〔墨斗〕の孫八の項)

年齢・容姿:中年。容姿の記述はない。
生国:相模(さがみ)国鎌倉郡(かまくらこうり)名瀬村(現・神奈川県横浜市戸塚区名瀬)

探索の発端:本所・二ッ目の橋の近くで〔墨斗〕の孫八が密偵おまさを見かけ、夫の〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵とともに、孫八の盗めを手伝うことになった。
(参照: 女密偵おまさの項)
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
その打ち合わせ場所しゃも鍋屋〔五鉄〕へ行くために、今戸の料亭〔三好屋〕で酒を飲んでいた孫八が、舟で今戸橋をくぐるのを、〔名瀬(なせ)〕の宇兵衛と3人の盗賊浪人が見つけた。
〔五鉄〕から竪川の北河岸道づたいに亀戸へ帰る孫八へ斬ってかかった浪人2人は、これも浪人姿の鬼平に追っ払われたが、逃げ帰る浪人たちの後を、〔相模〕の彦十と伊三次が尾行、竜泉寺町の隠れ家をつきとめた。
(参照: 〔朝熊〕の伊三次の項)

結末:三ノ輪・竜泉寺町の隠れ家に討ち入った火盗改メは、〔名瀬〕の宇兵衛、その妾おせきと浪人者たちを捕まえ、孫八から横取りした盗み金の使い残り500余両も発見した。盗人たちは死罪であろう。

つぶやき:〔墨斗〕の孫八は、彼の下で15年も働いていた〔名瀬〕の宇兵衛を信頼しきっていた。それなのに、宇兵衛が孫八を裏切ったのは、独立してもやっていける自信がついたからだろう。
孫八にしても18歳のとき、8年間も世話になった大工の棟梁〔大喜〕のもとを逃げだして関東諸方をさすらい、20歳のときに八王子で盗賊の首領〔影信(かげのぶ)〕の伝吉に拾われ、8年後に伝吉が病死したら、その後釜にすわって一味を束ねてきた。
宇兵衛が「そろそろ」とおもうのは、むしろ当然だったかもしれない。宇兵衛の独立願望を見抜けなかった孫八が甘かったかも。
しかし、大工にしろ、盗賊にしろ、一種の技術職であるが、技術を習得したからといって、人の上に立てるものではない。頭になるには、人使いの要諦と器量が必要。孫八でいうと、配下を信じきる度量である。それには、鬼平も魅せられていた。

『鬼平犯科帳』は、人の上に立つ者の、要諦と器量の教科書として読むこともできる。

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2005.04.21

〔薮原(やぶはら)の伊助〕

『鬼平犯科帳』文庫巻8の所載の[流星]で、〔鹿山(かやま)〕の市之助一味の者として、いまは足を洗って舟宿の船頭をして落ち着いていた友五郎を強請、盗めを手伝わせた男、と書けば、「ああ、あ奴(やつ)」と合点する読み手も多いはず。

208
(参照: 鹿山〕の市之助の項)
(参照: 〔浜崎〕の友蔵の項)

年齢・容姿:40男。小肥り。
生国:信濃(しなの)国筑摩郡(ちくまこうり)薮原村(現・長野県木曾郡木祖村薮原)
昔は「やごはら」とも呼ばれたと。旧中山道ぞい、山間(あい)の小さな宿場村。

35360
『木曾路六十九次の内・藪原 鳥居峠硯ノ清水』(英泉)
奈良井宿から九十九折(つづらおり)の鳥居峠を2kmほど上ると[硯の清水]。峠をくだりきると薮原宿。お六の櫛伝説で知られる。

探索の発端:友五郎が〔飯富(いいとみ)〕の勘八(62歳で畳の上で大往生した本格派)一味の小頭役をしていたときの縁をいいたて、勘八の遺児を人質にとっていることをほのめかされると、友五郎としても、、〔鹿山(かやま)〕の市之助のたくらみを手伝わざるをえなくなった。
で、友五郎が日本橋川にかかる思案橋たもとの舟宿〔加賀屋〕から消えたことから、探索の手がのびた。
友五郎の盗人時代の「通り名(呼び名)」が武州・新河岸川ぞいの〔浜崎(はまざき)〕であったこと、若いときに新河岸川の川越船頭をしていたことなどから、探索の範囲がしぼられた。

結末:福岡村の新河岸川ぞいの廃寺が浮かびあがり、川越藩の手助けもあって一斉逮捕。、〔鹿山(かやま)〕の市之助、〔薮原(やぶはら)〕の伊助ほか、死罪。友之助はとりあえず遠島。

つぶやき:〔飯富(いいとみ)〕の勘八は物語上の登場てしかないが、〔浜崎(はまざき)〕の友之助は文庫巻6[大川の隠居]で忘れがたいキャラクターぶりを発揮しているので、あれきり出番がないではもったいないおもっている読み手のこころを察した池波さんは、1年置いて、〔薮原(やぶはら)〕の伊助を伴って再登場。
たぶん、「友之助にもういちど会いたい」いった読者からの手紙が編集部へ何通もとどいたのだろう。

〔薮原〕の伊助がふられた、いわゆる交渉役は、最初はやさしく出て、それでダメなら、有無をいわせないだけの押しの強さが必要で、しかも相手を逃がしてはいけないから、容易そうだが、かなり技術を要する役柄である。伊助はよくやっている---というより、池波さんはたくみに描いている。

蛇足だが、〔梅安最中傘〕に中仙道の「薮原宿」が登場する。梅安が5人の侍に囲まれて、あわや---となる。結果は原作でお確かめを。


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2005.04.20

〔氷室(ひむろ)〕の庄七

『鬼平犯科帳』文庫巻3に入っている[艶婦の毒]で、亡父の墓参のために京都・白川三条の旅亭〔津国屋〕へ鬼平は滞在中。その長官を見張っているところを逮捕され、拷問のすえ、〔虫栗(むしくり)〕の権十郎一味であることを白状におよぷ。

203
(参照: 〔虫栗〕の権十郎の項)

年齢・容姿:30男。がっしりした躰つき。
生国:尾張(おわり)国愛知郡(あいちこおり)氷室村(現・愛知県名古屋市南区氷室町)
〔氷室〕という「通り名(呼び名)」からデータベース『旧高旧領』で検索すると、
・下野国芳賀郡氷室村(現・栃木県宇都宮市氷室町)
・尾張国中島郡氷室村(現・愛知県稲沢町氷室町)
・信濃国安曇郡氷室村(現・長野県松本市桂川地区氷室)
・出雲国出雲郡氷室村(現・島根県簸川郡斐川町神氷(かんぴ))

『郵便番号簿』で検索すると、
・栃木県宇都宮市氷室町
・愛知県名古屋市南区氷室町
・愛知県稲沢町氷室町
・大阪府高槻市氷室町
・兵庫県神戸市兵庫区氷室町

頭の、〔虫栗〕の権十郎(2代目)の生国は、尾張国知多郡岩滑(やなべ)村(現・愛知県半田市岩滑地区のどこか)だった。地縁という点では、県の西北部の稲沢町よりも、名古屋市南区のほうがより近い。
江戸期の人たちは「尾張国」というだけで、遠近をとわず、同郷意識をもったものかどうか。国の北、南、あるいは西、東、もしくは分拠している藩ごとに、気質をいいたて、たがいにけなしあうことはなかったか。

探索の発端:木村忠吾と情事を終えた艶婦お豊を尾行、住いを確認して旅籠〔津国屋〕へもどってきた鬼平をうかがっていてところを、捕まった。
拷問の末、一味のことを自白。

1011
旅籠〔津国屋〕(『商人買物独案内』)
(参照: 女盗おたか(お豊)の項)

結末:庄七の自白で〔虫栗〕一味の盗人宿へ京都西町奉行所の一団が逮捕に向かい、あわせて絵の具屋の女房におさまっていたお豊もお縄になったが、庄七は、自白に免じて死罪をまぬがれ、遠島か。

つぶやき:血縁、地縁を最優先して探索している。出会いが容易に想像つくからである。しかし、庄七の〔氷室〕のように、同国内に同じ村名が2カ所あるときは、なやむ。
『旧高旧領』には記載のなかった愛知郡氷室は、安政年間(1854-59)に、名古屋若宮八幡社の神主・氷室長冬が尾張藩に願いで、赤塚町の商人・嘉兵衛が開発した氷室新田による地名と。道理で『旧高旧領』には載っていなかたわけだ。このことを、池波さんは知っていたろうか。

追記:奈良公園の北辺に氷室神社をみつけた。この地の出身だと京都に近い。
天理市にも同じ社号の社があるらしい。

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2005.04.19

〔牧原(まきはら)〕の富治

『鬼平犯科帳』文庫巻4に収録されている[敵(かたき)]の〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が片腕と頼りにしている男。

204
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)

年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国:甲斐(かい)国巨摩郡(こまこおり)牧原村(現・山梨県北巨摩郡武川村牧原)。
「牧原」なんて地名はどこにでもころがっていそうなものだが、データベース「旧高旧領」を検索すると、江戸期には上記の甲斐と豊後国大野郡牧原(まきばる)村の2カ所しかなかった。豊後は遠すぎるし、読み方も異なるから甲斐を採った。

探索の発端:鬼平の剣友の岸井左馬之助が三国峠をとおりかかると、2人の男が斬り合いをしてい、若い方が殺され、残ったほう(五郎蔵)のあとをつけたことから、その盗人宿、一味の存在、そして富治の存在が知れた。

結末:〔小妻(こづま)〕の伝八にそそのかされた〔大滝〕一味の者たちは、五郎蔵の計画と資金を盗んだ上で、五郎蔵の殺害をしようとしたが、鬼平と岸井左馬之助にさまたげられ、捕縛された。死刑であろう。
(参照: 〔小妻〕の伝八の項)

つぶやき:〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵ほどの男でも、配下の裏切りが読めない。欲がからむと、どんなことでもやってのける。金銭欲だけにかぎらない、名声欲、自己保身欲、愛欲---この世に裏切りのタネはつきない。

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2005.04.18

〔四ッ屋(よつや)〕の島五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収まっている諸篇の中でも[五月闇]は、その悲劇を予感させるタイトルとともに、起きた事件が読み手に、もっとも忘れがたい印象を残しているといっていい。

214

密偵の伊三次が〔強矢(すねや)]の伊佐蔵に刺殺された。
(参照:〔強矢〕の伊佐蔵の項)
鮮烈な印象を受けた事件にもかかわらず、つぎの一節を記憶している読み手はそれほど多くはなさそうである。

伊三次は、盗賊改方の御縄(おなわ)にかかったとき、四ッ屋の島五郎という盗賊の下(もと)でいそぎばたらきをしていた。

〔四ッ屋(よつや)〕の島五郎が顔を見せるのはこの1行きりで、年齢・容姿、探索の発端、結末など、いずれにも筆が及んでいない。
ただ、〔四ッ屋〕という「通り名(呼び名)」は、生国推定の手がかりにはなしえる。データベース『旧高旧領』からリストをつくってみる。

・陸奥国津軽郡四ッ屋村(現・青森県南津軽郡平賀町四ツ屋)
・羽後国仙北郡四ッ屋村(現・秋田県大曲市四ツ屋)
・越後国頚城郡四ッ屋古新田(現・新潟県?)
・     頚城郡四ッ屋村(現・新潟県糸魚川市四ツ屋)
・     古志郡四ッ屋村(現・新潟県長岡市四ツ屋)
・     蒲原郡四ッ屋村(現・新潟県燕市四ツ屋)
・信濃国水内郡四ッ屋村(現・長野県長野市川中島町四ツ屋)
・     更科郡四ッ屋村(現・長野県小諸市?)

つぶやき:リストを見ての第1候補は、長野市川中島町四ツ屋と気づく。
『よい匂いのする一夜』(講談社文庫)の長野の旅亭〔五明舘〕の項に、

以前は、一年のうちに何度も何度も信州へ出かけて行った。
何度も出かけた土地へ旅行するのは、私の癖なのだが、数えきれぬほどに足を運んだ京都に次いで、信州への旅が最も多かったろう。

武田信玄の近くに潜入した忍者・丸子笹之助を描いた『夜の戦士』(角川文庫 初出:1962.01.16-63.01.29 宮崎日日新聞ほか)の前半部は「川中島の巻」とサブタイトルされている。
伊三次のことのほかには気をちらせたくない[五月闇]での池波さんとすれば、伊三次のかつてのお頭には、自分の中ではとっくになじみになっている地名を冠してすませてしまいたかったろう。

〔強矢(すねや)〕---「矢」---「や」---「屋」---〔四ツ屋〕と連想が走ったのかも。

もちろん、新潟県や青森県の鬼平ファンの方々のご意見もいただきたいが。

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2005.04.17

〔横川(よこかわ)〕の庄八

『鬼平犯科帳』文庫巻13に所載の[熱海みやげの宝物]に登場する盗人。大坂が本拠の〔高窓(たかまど)の久兵衛が卒中で死んだ。その〔甞役(なめやく)〕をつとめていた〔馬蕗(うまぶき)〕の利平治につきまとって〔甞帳(なめちょう)〕の所在をさぐりとろうとしている、高橋九十郎配下の者。

213
(参照: 〔馬蕗〕の利平治の項)

年齢・容姿:30男。色白。でっぷり肥えている。
生国:遠江(とおとうみ)国豊田郡(とよたこおり)横川(現・静岡県浜松市横川)。
ただ、〔高窓〕一味のテリトリーが上方であることを考慮に入れると、庄八は上方へくだるよりも、知り合いの多い江戸へ伝手を求めそうな気もする。
とすると、加賀(かが)国石川郡(いしかわこおり)横川(現・石川県金沢市横川)の線もすてがたい。金沢と京都経済圏とは遠いようで近い。

探索の発端:熱海へ湯治に来ていた鬼平夫妻、密偵おまさと彦十の宿へ、〔馬蕗〕の利平治が〔横川(よこかわ)〕の庄八とともに現われた。
むかしなじみの彦十へ利平治が打ち明けた。
庄八はじつは、〔高窓〕一味を乗っとった盗人浪人・高橋九十郎の配下で、オレにおため顔をしているのだと。
〔小沼(こぬま)〕の富造というのがひそかに、庄八に連絡(つなぎ)をつけているのがその証拠だとも。
高橋一味のねらいは、〔高窓〕の2代目の久太郎の居所をつきとめて殺すこと、利平治が隠している〔甞帳〕を取り上げること。
鬼平は、江戸へ行くという利平治の身の安全を請け負った。

結末:程ケ谷宿の手前の権太坂で、刺客が現われたが刺客は鬼平に斬って捨てられ、庄八は彦十たちに捕まった。

つぶやき:盗賊一味の内実も、ふつうの組織となんら違わず、権力あらそいの巣みたいなもの。欲が強ければ強いほど、勢力と金をにぎろうと画策する。そこをいかにも現実的な味つけで描くのが、池波さんの腕のふるいどころ。

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〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(その4)

郵便番号簿(左欄)で「大滝村」を検索すると、18町村と、『大日本地名辞書』(中欄)の11、『旧高旧領』(右欄)の12より5割かた多く、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵の生国探索は、より難度が増す。

郵便番号簿          地名辞書 旧高旧領
山形県西村山郡朝日町大滝       村山郡
山形県西置賜郡小国町大滝       置賜郡
山形県最上郡真室川町大滝  羽前  最上郡
                    羽後
宮城県気仙沼市赤岩大滝
神奈川県横須賀市大滝町
埼玉県秩父市大滝        武蔵  秩父郡
                   上総
神奈川県横須賀市大滝町
                   信濃  水内郡   
                        高井郡(信濃)
                        頚城郡(越後)
冨山県西礪波郡福岡町大滝  越中
石川県鳳至郡門前町大滝
岐阜県不破郡垂井町大滝    美濃  不破郡   
福井県今立郡今立町大滝    越前  今立郡
                    近江
三重県上野市大滝
三重県尾鷲市大滝町
奈良県吉野郡川上村大滝   大和   吉野郡
和歌山県伊都郡高野町大   紀伊   伊都郡
鳥取県日野郡溝口町大滝         日野郡
高知県長岡郡大豊町大滝
長崎県下高井郡野沢温泉村東大滝

池波さんが、地方出身の盗人・密偵たちの中で、いくぶんたりとも地方なまりで話しをさせるのは、〔相模(さがみ)〕の彦十だけである。
もし、〔〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が地方なまりの片鱗を残していたら、生国のおおよそがわかろうというもの。
これは、ほかの盗人たちも同じである。
池波さんが方言を書くのは、京都弁と大坂弁だけではなかろうか(『西郷隆盛』は未読)。

そういえば、『鬼平犯科帳』では、地方なまりで出国を推理する場面はない。生国を推測するより、現実の犯罪を防ぐことのほうを優先させているからであろうか。

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2005.04.16

〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(その3)

池波さんは手持ちしていなかった史料と推量するが、参考までにあげると、『旧高旧領』の「大滝村」は---

・武蔵国秩父郡古大滝村
・同       新大滝村
・信濃国水内郡西大滝村
・同   高井郡東大滝村
・越前国今立郡大滝
・越後国頚城郡大滝新田
・羽前国村上郡大滝村
・同   最上郡大滝村
・同   置賜郡大滝村
・美濃国不破郡大滝村
・越中国砺波郡大滝村
・大和国志野郡大滝村
・同   吉野郡大滝村
・紀伊国伊都郡大滝村
・伯耆国日野郡大滝村

滋賀県多賀町の大滝神社に伝わる伝説。

かつて猟師と犬が仲よく暮らしていた。
猟へ出たある日、川のほとりで犬がどうしても吼えやまない。怒った猟師が犬の首を斬ったところ、大樹の上から大蛇が猟師を狙っていた。
猟師は、犬の首を祀った。それで犬神(上)の社といい、大滝神社がその後裔にあたるとも。

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〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(その2)

〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵は、鬼平直属の密偵群のなかでも、キー・メンバーの一人である。
この人の生国の推理にあたり、まず、池波さんが座右に置いてつねに開いていた恩恵の書---吉田東伍博士『大日本地名辞書』(明治33-)を参照にした。

「大滝」という村名は、
 ・大和(現・奈良県吉野郡川上村)
 ・近江(現・滋賀県犬上郡多賀町)
 ・紀伊(現・和歌山県伊都郡高野町)
 ・越前(現・福井県今立郡今立町)
 ・越中(現・富山県西砺波郡福岡町)
 ・美濃(現・岐阜県不破郡垂井町)
 ・信濃(現・長野県下高井郡野沢温泉村)
 ・武蔵(現・埼玉県秩父郡大滝村)
 ・上総
 ・羽前(現・山形県最上郡小国町)
 ・羽後(現・秋田県大館市)
---の11カ所あった。

うち、『新記』を引用したものを、自分で勝手に現代文に直して読んだ、武蔵国秩父郡大滝村の文章につよく魅かれた。

秩父郡の山奥は、山々の峰が四方八方に聳えて平地はなく、耕しているのはすべて火耕(焼畑)の畑である。
栽培がいかに困難かは、種蒔きの春期から初冬のころまでは、山をへだて谷をこえたそれぞれの畑へ掘立小屋を結び、夫妻母子がばらばらにはなれて移り住み、実が熟す時期になると、昼は猿を防ぎ、夜は猪や鹿を逐って声をあげ、板木を鳴らさなければならないので、朝まで眠ることができない。
野生の獣のなかでも、猪と鹿の害がもっとも多いため、各家に四季、鉄砲や猟師筒を備えている。
それでも、収穫は半年分ほどしかまかなえない。橡(とち)の実や栗でおぎなっているありさまだ。
住民の姿態をみるに、ほとんどの者が髪はそのまま伸ばし、髭などものびるにまかせており、裾のみじかい単衣で、冬はそれを重ね着してすごしている。(後略)

読んだ池波さんの頭にも即座に、口べらしのために村を出て、盗賊団に身を投じた五郎蔵の姿が思い浮かんだろう、と推測した。

(その1)に記した、滋賀県多賀町の富之尾の記述のことを聞くまで、ぼくは目を、ずっと、秩父の大滝村にそそぎつづけており、大滝村長にいくたびか問い合わせたが、返事はなかった。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)

多賀町の大滝神社を先に取材したので、4月に入ってついに腰をあげた。西武池袋線の特急(1時間ごと)で[西武秩父]駅まで約1時間半。飯能からは単線で谷間を縫う。幾重もの谷間ごとに小川があり、鉄橋をわたる。
杉林が車窓へ迫ってくる印象は、会津若松への行程に似ていた。

秩父鉄道[御花畑]駅へ移り、1時間に1本の電車で[三峰口]へは25分ほど。

これまた1時間に1本きりの西武バスで、[大滝総合支所]へ。
荒川べり沿いに造られた道を上流へ遡行。両岸は道はともかく、ぎりぎりまで山がせまっている。
奇岩巨石を洗う水流は、ここで瀬となり、かしこでぼくが小学(国民学校)1年生のときに泳ぎをおぼえたような淵をつくる。

「奥秩父」とはよくぞ名づけた。

バスの運転士に「村役場で降りたい」とつげると、「大滝総合支所で下車です」との答え。「?」と思ったが、下車すると、庁舎の前に「閉村の碑」が。

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村役場前だったバス停も名前が変わった

968
閉村の碑におもわず「ギョッ」

967
大滝村時代のなごり。花はシャクナゲ、木は橡(トチ)、鳥はコマドリ

大滝村は、この4月1日に、埼玉県秩父市大滝に変わっていたのである。
http://www.city.chichibu.saitama.jp/
五郎蔵のころは、武蔵国秩父郡大滝村で、東西に15キロものびた平地のない寒村だつた。

970
中学校へ通じる大中橋から荒川下流をのぞむ

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〔大滝〕の五郎蔵が見かけた

◎〔大滝〕の五郎蔵が見かけたのが発端

[7-4 掻堀のおけい]  〔砂井〕の鶴吉  p112 新p117
[12-4密偵たちの宴]  〔草間〕の貫蔵  p179 新p189
[14-4浮世の顔]    〔藪塚〕の権太郎 p154 新p158

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〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵(その1)

『鬼平犯科帳』文庫巻4に収められている[敵(かたき)]で初登場した正統派の盗賊団の首魁。のち、鬼平直属の密偵となってかずかずの篇で活躍。巻9の[鯉肝のお里]で、いっしょに見張り役をつとめていた女密偵おまさと結ばれる。

204
(参照: 女密偵おまさの項)

年齢・容姿:[敵](寛政元年 1789)のとき50男。6尺(約1.8メートル)ゆたかな巨漢。ひげあとが濃い。
生国:近江(おうみ)国犬上郡(いぬがみこおり)大滝地区(現・滋賀県犬上郡多賀町大滝)
ここが有力候補地として急浮上してきたのは、朝日カルチャーセンター(新宿)の鬼平クラスでともに学んでいる堀之内勝一さんが、『侠客』の中のつぎの一節を見つけたことによる。

近江の国・犬上郡・富之尾は、彦根城下から南へ三里。
琵琶の湖の東岸、二里半のところにある。
このあたりは、近江と伊勢の両国にまたがる山塊の、その山ひだにかこまれた山村で、総称を〔大滝〕とよぶ。
江戸からここまで、中山道を約百二十里。 (新潮文庫 1969.03.26) p215

1010
明治19年の彦根・富之尾地図

鬼平シリーズに先立つ忍者ものの取材で、織田信長軍と浅井長政勢の戦いの現場や、六角家の観音寺城から甲賀への逃避の経路などふんだり、好きな彦根を幾度も訪ねている池波さんのこと、彦根市のすぐ隣j町の多賀大社や大滝神社へも詣でたか。

965
多賀大社拝殿

探索の発端:三国峠を通りかかった剣友・岸井左馬之助が、斬りあいをしている2人の男を見かけ、残ったほうの男(五郎蔵)のあとをつけたことから、その盗人宿、一味の存在が知れた。

結末: 小梅村の盗人宿で、〔小妻(こづま)〕の伝八の姦計で寝返っていた配下たちが、五郎蔵へ斬ってかかったが、鬼平と左馬之助の出現で救われ、密偵となる。
(参照: 〔小妻〕の伝八の項)

つぶやき:多賀町の大滝を、この目で確かめるために、出向いた。彦根からバスで多賀大社へ。参詣後、近江鉄道多賀線[多賀神社前]駅でタクシーを待つ。
犬上川ぞいに遡行して山間(やまあい)に入っていくこと15分(約6キロ)、大滝神社に達した。北の山側が人家が少ない「富之尾」である。

962
神社前のバス停

961
大滝神社参道

963
境内の崖下の犬上川上流の滝(?) いま、落差が50センチほどなのは、上流に犬上ダムができたから。かつては堂々たる瀑布であったらしい。

大滝郷の経緯について、多賀町役場からの返信---。

お問い合わせの件につきまして、お答えします。
1.大滝村が多賀町に編入された経緯
明治22年(1889)4月1日に町村制が施行されて、多賀、久徳、芹谷、脇ヶ畑、大滝村として五つの行政単位となった。
昭和16年(1941)11月3日、多賀、久徳、芹谷の3か村が合併して旧多賀町となった。
昭和30年(1955)4月1日、脇ヶ畑、大滝村が多賀町に合併された。このときの旧多賀町の人口 6,765人、大滝村 3,685人、脇ヶ畑村 264人。
2.江戸時代の大滝村の人口・戸数など
明治22年に大滝村となったわけで、江戸時代には同村名はなかったので、計算不可能。、

『鬼平犯科帳』文庫巻4の[敵(かたき)]で、〔大滝〕の五郎蔵に密偵になることを鬼平がすすめたとき、池波さんは五郎蔵のどこに魅力を見出していたのであろうか。
生国が近江国であれそのほかのどこであれ、この男は、鬼平が長谷川平蔵の陽の姿とすると、陰の部分を生きてきているとおもったのではなかろうか。
文庫巻7の[泥鰌の和助始末]で、若い銕三郎と岸井左馬之助はあやうく盗みという泥水をかぶりそうになった。
松岡重兵衛の一喝でおもいとどまったが、もし、あのまま泥水に足をつけていたら、銕三郎は五郎蔵になっていたろう。

その五郎蔵、10年前の配下は一人も残っていないことが[敵]で明かされる。「当時のものたちは、死んだり、捕えられたり、他の親分の下へついたりもしていた」。
つまり、一枚岩の組織を率いてきたのではなかった。そこに鬼平にはない、この男の陰の部分を読み取る。
その分、五郎蔵に男としての幅と、一重ではない性格が付加された。

 

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〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵の年譜

〔大滝〕の五郎蔵の年譜

6尺余の大男           [4-7敵]p239 新p251

元文3年(1738)
生?      秩父郡最奥の大滝村の出?
         東近江の犬上川上流の大滝
         初登場[4-7敵]のときに52歳として。

安永3年(1774) 〔簑火(みのひ)〕の喜之助一味から
(37歳)       〔五井(ごい)〕の亀吉ととともに独立
                     [4-7敵]p241新p253

安永8年(1779)秋 駿府城下の笠問屋〔川端屋〕彦兵衛方へ
(42歳)     押込んだあと、〔ならび頭〕の〔五井〕が
         行方知れずに。 [4-7敵]p242新p254

天明元年(1781)  手ぐせの悪い遠州無宿の熊治郎を追放
(44歳)        [6-6 盗賊人相書]p222 新p233

         上州高崎の薬種問屋〔近江屋〕へ〔長尻〕
         のお兼を引き込みに
              [24 二人五郎蔵]p88 新p84
        〔杉谷(すぎたに)〕の虎吉が〔万福寺(
         んぷくじ
)〕の長右衛門の下から五郎蔵の
         配下 のち一人ばたらき
          [12-3見張りの見張り]p123 新p130
         〔岡ノ井(おかのい)の弁五郎〕
           [12-4 密偵たちの宴]p179 新p189
天明8年(1788)春  上州沼田城下の材木商〔須田屋〕伊左衛門
      方へ押込み 200両余盗む。
(51歳)          [4-7敵]p244 新p256
          高崎在、大庄屋:萩原忠兵衛方へ忍び入
          った時、〔砂井(すない)〕の鶴吉が下
          女を冒したので、追放。
           [7-4 掻掘のおけい]p113 新p119
          平塚の宿場はずれの隠れ家にいたとき、
         〔和尚(おしょう〕の半平の使いの〔黒
          灰(くろはい)〕の宗六が訪ねてきた。
           [7-4 掻掘のおけい]p128 新p134
寛政元年(1789)晩夏 (50男)   [4-7敵]p239 新p251
          〔坊主〕の湯の番人 嘉六
                 [4-7敵]p243 新p256
           富治、千次郎など〔坊主〕の湯へ
                 [4-7敵]p243 新p255
           右腕〔牧原(まきはら)〕の富治
                 [4-7敵]p243新p255
           福太郎   [4-7敵]p255 新p268
          〔小妻(こづま)〕の伝八
                 [4-7敵]p247 新p259
           密偵となる [4-7敵]p271 新p285
       師走    [5-1深川・千鳥橋]p21 新p21
寛政2年(1790)秋   日本橋南 1丁目の呉服屋〔茶屋〕新四
           郎方へ押込む予定。              
            [4-7敵]p243 新p255
寛政3年(1791)盛夏  五郎蔵が 6尺余の巨体を、粂八と共に役
           宅へあらわす。
           めっきり増えた白いもの。
            [6-6 盗賊人相書]p222 新p233
寛政4年(1792)正月  両国橋で〔井尻(いじり)〕の直七を
           見かける
            [7-2 隠居金七百両]p62 新p65
       初春  〔大亀(おおがめ)〕の七之助を見か
           けて宗平とともに役宅へ
             [7-3 はさみ撃ち]p84 新p89
       晩夏  50をこえた
           [7-4 掻掘のおけい]p111 新p116
           平蔵から〔砂井〕の鶴吉を密偵に仕込む
           ように、と。
           [7-4 掻掘のおけい]p143 新p150
寛政5年(1793)夏  〔櫛山(くしやま)〕の武兵衛逮捕に
           [8-3 明神の次郎吉]p116 新p122
       晩夏  もんどり(もんどり)の亀太郎逮捕
              [8-5 白と黒]p221 新p233
       晩秋 〔雨引(あまびき)〕の文五郎の手札を
            [9-1 雨引の文五郎]p12 新p13
       10月  30をこえたおまさと結ばれる。
             [9-2 鯉肝のお里]p71 新p75
       12月  相生町の家へも帰らず
                [9-3 泥亀]p95 新p99
寛政6年(1793)1月  三好屋幸吉の面体を、じつは
              〔白駒(しろこま)〕と見破る           
           [9-5 浅草・鳥越橋]p187新p195
              [9-6 白い粉]p208 新p217
    夏の終わり  弥勒橋上で虚無僧姿で彦十を打つ。
           [10-5 むかしなじみ]p198 新p219
寛政7年(1794)    [12-4 密偵たちの宴]
春から10月

寛政10年(1798)残暑  (40をこえ)きりっとした顔立ち
           [20-7 寺尾の治兵衛]p262 新p262

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2005.04.15

〔暮坪(くれつぼ)〕の新五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻24に所載の[二人五郎蔵]で、まわり髪結いの五郎蔵の女房おみよを拐かして、火盗改メ役宅や大店に出入りしている亭主の五郎蔵を脅迫する盗賊。さきに密偵・伊三次を刺殺して処刑された〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵の実弟。

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(参照: 〔強矢〕の伊佐蔵の項)

年齢・容姿:41歳。おだやかそう。へちま顔。女のような声。
生国:越後(えちご)国蒲原郡(かんばらこおり)暮坪(現・新潟県五泉市暮坪)

探索の発端:上記したとおり、〔暮坪(くれつぼ)〕の新五郎が、まわり髪結いの女房おみよを誘拐して亭主をおどし、意のままにあやつろうとした。その五郎蔵の所作に不審を抱いた鬼平が、身辺を探らせて、〔暮坪〕の千駄ヶ谷の仙寿院脇の盗人宿で〔強矢〕の下にいた〔戸祭〕の九助と、引きこみの〔長尻〕のお兼がつなぎをつけた神田・旅篭町の菓子舗〔桔梗屋〕に見張りがついた。

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仙寿院庭中(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)
(参照: 〔戸祭〕の九助の項)

結末:〔桔梗屋〕に押し入ろうとした〔暮坪〕一味15名は、待ち伏せていた火盗改メに全員捕縛。役宅を襲ってきた盗賊浪人8名も酒井、沢田、松永同心たちと辰蔵によって斬り伏せられた。
暮坪(くれつぼ)〕の新五郎は火刑。

つぶやき:新潟県の「暮坪」は簡単に割り出せたが、迷ったのは、ネット検索で知った、〔暮坪蕪(かぶ)〕とも呼ばれる岩手県の花巻産のかぶ、それを摩り下ろして〔つゆ〕へ入れてたぐる遠野そば---別名〔暮坪そば〕の存在であった。
この2品については、地元の鬼平ファンの方の郷土自慢のコメントがいただけるとうれしい。
で、けっきょく、実兄〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵と生国をそろえることで決着させた。

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2005.04.14

〔小妻(こづま)〕の伝八

『鬼平犯科帳』文庫巻4に収められている[敵(かたき)〕で、10年前に、父親〔五井(ごい)〕の亀吉を殺害して盗めの分け前を奪ったのは、ならび頭(がしら)だった〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵と、せがれの与吉をそそのかし、〔大滝〕の一味の乗っ取りを策した邪悪な盗人。錠前外しがうまい。
(参照: 〔五井〕の亀吉の項)
(参照: 〔大滝〕)の五郎蔵の項

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年齢・容姿:中年。細っりとした躰つき。精悍だが陰気な顔貌。
生国:常陸(ひたち)国多賀郡(たがこおり)小妻村(現・茨城県常陸太田市小妻)
豊富な薪炭を利用して銑鉄を移入し、鍬先をつくる鍬鍛冶がさかんな土地、とものの本にある。

探索の発端:三国峠にさしかかった鬼平の剣友・岸井左馬之助が、敵討ちといって切り結んでいる2人の男を見かけた。若い方(与吉)は死んだ。
残った50男(五郎蔵)を尾行して住いをつきとめた左馬之助は、経緯を鬼平に報告、火盗改メによって五郎蔵の身辺が見張られた。

結末:本所の如意輪寺門前の花屋は〔大滝〕の五郎蔵の盗人宿の一つだが、番人の利兵衛が殺された。さらに、小梅村の盗人宿で待っていたのは、〔小妻(こづま)〕の伝八と五郎蔵を裏切った配下の者たちだった。亀吉を殺害したのは、盗め先の女を犯すくせを叱られた伝八だった。
配下にあわや殺されそうになったところへ、五郎蔵を尾行していた鬼平と岸井左馬之助が現われた。

つぶやき:池波さんとしては、密偵たちを束ねていく頭級が欲しかった。そこで、〔大滝〕の五郎蔵に白羽の矢が立った。
おまけに、〔初鹿野(はじかの)]一味の盗人宿の番をしているが、かつては〔蓑火〕の喜之助の下でいっしょだった〔舟形(ふなかた)〕の宗平まで加わったので、鬼平直属の密偵陣の層が一気に厚くなり、物語の展開の前途iに明るさが増し、連載長期化の足固めができた。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
(参照: 〔初鹿野〕の音松の項)


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2005.04.13

〔三雲(みくも)〕の利八

『鬼平犯科帳』文庫巻20に入っている[二度あることは]に顔を見せる一人ばたらきの盗人。渋谷の氷川明神社(現・氷川神社 渋谷区東町2丁目)の近くに構えた盗人宿で鬼平に逮捕される。

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年齢・容姿: 40前だが、3つ4つは若く見える。背すじ鼻すじのとおったいい男ぶり。
生国:近江(おうみ)国甲賀郡(こうかこおり)三雲(みくも)村(現・滋賀県甲賀郡甲西(こうせい)町三雲)

探索の発端:非番の同心・細川峯太郎は、母親の命日に感得寺に墓参した帰り、権之助坂の茶店の寡婦お長の躰と情事での狂態が忘れられず、ひそかにうかがったが、隣の小間物屋を訪れた眼鏡師の市兵衛を見かけて尾行、三田の店をつきとめた。

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この行人坂を下りてきて目黒川をわたり、右端を右折で威徳寺(感得寺)(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

翌日、見張っていた市兵衛の店から三雲の利八が出てきた。今度の両国・吉川町の鼈甲細工屋〔上総屋(かずさや)を襲う盗めに、市兵衛の鍵づくりの腕を借りにきたのだった。2人は、〔蓑火〕の喜之助の許で盗めをともにした仲だった。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
利八を尾行している細川峯太郎を馬上から認めた鬼平は、対象が〔三雲(みくも)〕の利八だとすぐに分かった。
〔甞役(なめやく)〕から密偵となった〔馬蕗(まぶき)〕の利平治の口述で、利八の人相書もつくられていたからである。
(参照: 〔馬蕗〕の利平治の項 )

結末:渋谷・宮益坂上の黒鍬組(工兵隊)の屋敷から手を借りた鬼平は、氷川明神社に近い利八の盗人宿を包囲し、利八をはじめ一味をすべて捕縛。死罪であろう。

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渋谷・氷川明神社(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

つぶやき:130余話あるこのシリーズの後半諸篇は、鬼平の手配よろしきもあり、盗賊たちの盗めはほとんど未遂におわる。その分、緊迫感が薄れるのは否めない。そこで別の要素をつけくわえて盛り上がりや、サスペンス味を濃くするための工夫が必要。
この篇では、細川同心の好色ぶりが、それかも。あるいは眼鏡師という江戸後期の職業か。
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眼鏡師のヒントとなった『江戸買物独案内』の眼鏡所。

ほころびを目にした。逮捕した〔三雲〕一味を連れもどった鬼平を、役宅の門へ走り出て迎えたのが酒井・沢田・小柳とある。小柳安五郎同心はこの前の[おしま金三郎]事件で無頼浪人たちの刃(やいば)を受け、長屋で傷の治療中、と冒頭に置かれている。左腕と背中の傷だから走るのには差しつかえない、といえばいえるのだが。

滋賀県の「甲賀」は(こうか)と濁らないことを、甲賀市のURLで知った。伊賀・甲賀(いが・こうが)とばかりおもってきたのに。
www.ctiy.koka.shiga.jp/

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2005.04.12

〔津川(つがわ)〕の弁吉

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収録の[五月闇]で、〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵が命をねらっていることを、京の四条河原で出会ったときに伊三次につげた、ひとりばたらきの盗人。

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(参照: 〔強矢)の伊佐蔵の項)
(参照: 〔朝熊〕の伊三次の項)

年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国:越後(えちご)国蒲原郡(かんばらこおり)津川村(現・新潟県東蒲原郡津川町津川)。
〔強矢〕の伊佐蔵の盗めの区域は、上信2国から越後・越中へかけて---とある。弁吉が出会ったすると、そのあたりであろう。
池波さんの土地勘は、[五月闇]に先立つ13年前に発表した独立短篇[金太郎蕎麦](『小説現代』1963年5月号 角川文庫『にっぽん怪盗伝』に所載。テレビでは『鬼平犯科帳』の1篇として放映)の、肌が抜けるように白いヒロインお竹(テレビ・池波志乃)の出生地を、「越後の津川」としていることからもうかがえる。
池波さんは、町制を昭和30年(1955)に敷いて津川町となった津川を訪れ、肌のきれいな女性を目にしたか、あるいは津川郷出身のそういう人を知ったか。

探索の発端:〔強矢〕の伊佐蔵が「今度、どこぞで見つけたら、なぶり殺しにしてくれるといっていたぜ。おれはな、伊三さん、お前さんとは盗めの義理があるし、向うの伊佐蔵どんとは別にどうということもねえ(中略)。ともかく、このことをお前さんにつたえることができて、おれはうれしい。ま、くれぐれも気をつけておくれよ。じゃあこれで、おさらばだ」といって去っただけなので、探索も処刑もない。

結末:〔津川(つがわ)〕の弁吉から伊佐蔵の復讐心を聞いた伊三次は、助(す)るときめていた〔須賀(すが)の笠右衛門との盗めの約束も反故にして、上方から逃げ出す始末。

つぶやき:伊三次の死にまつわって、いろいろつたわっている読者の反応のエピソードとはまるで関係のないことを。
池波さんと親しかった司馬さんのエッセイ集『司馬遼太郎が考えたこと 1』(新潮文庫 2005.01.01)の[大阪的警句家]に、こんな一節がある。

 滝ノヨウニナガレデタパチンコダマ
といったような、手あかのついた形容は、大阪の庶民はつかわない。

「パチンコ台が、消化不良になりよったみたいに玉がむさんこ(とめどなく)出てきたがな」
とかいう。(1961.07.01 『松竹新喜劇』パンフレット)

司馬さんから似たような話を聞いたことが頭の片隅に海苔(のり)の芽のようにこびりついていたか、[五月闇]で鬼平が伊三次に〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵の盗めぶりを、こう、たとえる----

「血なまぐさいまねを、まるで自分(おの)が洟(はな)を擤(か)むようにしてのける奴なのだな?」

こういう比喩は、池波さんはふつうは、書かないのだが。


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2005.04.11

〔名草(なぐさ)〕の綱六

独立短篇[白浪看板]は、 『別冊小説新潮』1965年夏号に発表された、長谷川平蔵をあしらって『鬼平犯科帳』の先駆をなす2篇目の作品である(角川文庫『にっぽん怪盗伝』1972.12.20に収録。のち新潮文庫『谷中・首ふり坂』1990.02.25では[看板]と改題)。

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7年前、〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門一味が駿府(静岡市)城下の紙問屋〔大和屋〕へ押し入ったとき、配下となった 〔名草(なぐさ)〕の綱六は、塀外の見張りをしてい、逃げ出してきた飯炊き女の右腕を切り落とした。
(参照: 〔夜兎〕の角右衛門の項)

年齢・容姿:ともに書かれていない。むごいところのある男だったが、お頭・角右衛門の綱六評。
生国:丹波(たんば)国氷上郡(ひかみこおり)大名草村(現・兵庫県養父郡八鹿町石原)。吉田東伍博士『大日本地名辞書』には名草神社が収録されている。
ひそんいる備前(びぜん)国児島郡(こじまごおり)下津井(しもつい)村(現・岡山県倉敷市下津井)から、それほど遠くはない八鹿町推定した。
下津井村は前掲『大日本地名辞書』に記述があるが、池波さんがこの項に目をとめたわけは未詳。

探索の発端:下谷・広徳寺前で拾った財布を落とし主へわたしてやった女乞食の誠意を誉めて、〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門は、彼女をともなってうなぎを馳走してやり、右腕をなくしたわけを聞かされて愕然とした。
7年前、駿府の紙問屋で盗めをしたときの、塀外の見張りにつけた〔名草(なぐさ)〕の綱八の所業だったからだ。
守ってきた「犯さず、傷つけず、貧しきからは盗まず」の3カ条が破られたことを悟った。綱六は、〔蛇(くちなわ)] の平十郎にたのまれて使ってみただけの男だったのだが。

結末:3カ条が破られていたことを恥じた〔夜兎〕の角右衛門は、一味を解散、右腕だった〔前砂(まいすな)〕の捨蔵に、備前国下津井にそひんでいる綱六の始末をまかせた。
(参照: 〔前砂〕の捨蔵の項)
〔前砂〕は、角右衛門の留守宅へ首尾の報告に来た。

つぶやき:[白浪看板]に先立つ2年前、『週刊新潮』(1964.01.06号)に[江戸怪盗記]が掲載された。火盗改メ・長谷川平蔵が初めて池波作品にあらわれたわけだが、鬼平でシリーズをつくりうる機がすぐそばまで来ていることに、編集者たちは思いがおよばなかった。
[白浪看板]が発表されても、まだ、気づかなかった。
あしかけ2年後、『オール讀物』のために[浅草・御厩河岸]を書いた池波さんは、たまりかねて、原稿を受け取りにきたた若い編集部員・花田紀凱氏へ、「この篇の長谷川平蔵というのはおもしろい仁だ」と謎をかけた。
これをきっかけに、『鬼平犯科帳』のいう大連作がはじまった。

〔名草〕を「通り名(呼び名)」にしている盗賊は、『鬼平犯科帳』にも登場する。足利の〔法楽寺〕の直右衛門配下の嘉兵衛がそう。
(参照: 〔法楽寺〕の直右衛門の項)。

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2005.04.10

〔滝尻(たきじり)〕の定七

『鬼平犯科帳』文庫巻6に入っている[剣客]に登場。東海道筋・大井川近辺が縄張りの〔野見(のみ)〕の勝平一味で、先発人として、南千住の足袋職人・留吉の甥というふれこみで居ついている。
(参照: 〔野見〕の勝平の項)

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年齢・容姿:30がらみ。容姿の記述はない。
生国:三河(みかわ)国額田郡(ぬかたこおり)滝尻村(現・愛知県額田郡額田町滝尻)
磬城国菊多郡滝尻村もあるが、首領の〔野見〕の勝平が豊田の産で、駿河や遠江が縄張りなので、額田町を採った。

探索の発端:女密偵おまさが、老剣客・松尾喜兵衛の弔いの雑事をすませて万年橋をわたりかたとき、(野見)の勝平を助(す)けたときに見知った〔滝尻(たきじり)〕の定七に気づいた。
(参照:女密偵おまさの項)
定七は、深川・清澄町の藍玉問屋〔大坂屋〕の飯炊き男〔殿貝(とのがい)の市兵衛と連絡(つなぎ)をつけに行っていたのである。
(参照: 〔殿貝〕の市兵衛の項)
帰る定七を尾行した彦十が、南千住の留吉の家をつきとめた。

結末:留吉と定七を捕獲した火盗改メは、同心を南千住の家へ張りこませ、訪れる〔野見〕一味をつぎつぎと捕縛していった。

つぶやき:この〔滝尻(たきじり)〕の定七のように、三河の出か磬城の産かと迷ったときは、首領や右腕の出身地が決め手となることが多い。それゆえ、データのファイリングは、一味ごとにくくっておいたほうがいい。

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〔彦島(ひこじま)〕の仙右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻12に入っている[二人女房]で、深川の大島町の飛び地におときと妾宅をかまえている首魁。上方から尾張、駿河のあたりをテリトリーとしている。

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年齢・容姿:55,6歳。でっぷりと肥えた「蟇(がま)が相撲取りになったような」大男。鼻のまわりや額にいぼが10個ほど。醜怪だがなんとも憎めないのは、人のよさゆえか。
生国:遠江(とおとうみ)国山名郡(やまなごおり)彦島村(現・静岡県袋井市彦島)

探索の発端:[〔加賀屋(かがや)〕の佐吉]のところでも書いたが、酢醤油問屋〔佐野倉〕の用心棒をしている高木軍兵衛を誘いこんだ佐吉が、〔彦島(ひこじま)〕の仙右衛門の殺害を企てる。佐吉は大坂にいる仙右衛門の本妻おますとできていた。
(参照: 〔加賀屋〕の佐吉の項)
佐吉のそのたくらみは、軍兵衛によって逐一、鬼平の耳へ入れられていた。

結末:佐吉は、このが首尾よく運んだあと、報酬を払わなくてもいいように軍兵衛の殺害を不逞浪人たちに請け負わせたが、鬼平によって逮捕された。

つぶやき:地名の「彦島」は、吉田東伍博士『大日本知名辞書』には収録されていない。池波さんは、どこで磐田市と接しているここをを知ったかだが、徳川軍と武田軍がしばしば矛をまじえた地区でもある。「忍者もの」の現地取材をしたときに見覚えたのであろう。
JR東海道線・袋井駅を出た下りの電車が、ほんの1,2分で原野谷川(はらのやがわ)をわたってすぐに通過する町が「彦島」である。

見附(みつけ)の合戦、〔馬伏(まむし)塚城〕の攻防、高天神城の戦い---若大将だった家康は、このあたりを軍馬でいくたび踏んだことか。
(参照: 〔馬伏〕の茂兵衛の項)


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2005.04.09

〔高萩(たかはぎ)〕の捨五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻20に収められている[高萩の捨五郎]のタイトルにもなっている、一人ばたらきの盗人〔高萩(たかはぎ)〕の捨五郎。

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年齢・容姿:54,5歳。へちまのように長い顔。長身。背筋ものびている。
生国: 甲斐(かい)国八代郡(やつしろごおり)高萩村(現・山梨県西八代郡三珠町高萩)。
高萩という地名は、武蔵国(埼玉県日高市)、下総国(千葉県香取郡)、常陸国(茨城県高萩市)、下野国(栃木県佐野市)などにもある。高い萩がしげっていた土地だ。
当初、高萩市高萩に目をつけて市役所へ問い合わせてみたが、盗人にまつわる話には乗れないと考えたか、忙しすぎたかして、返事が来なかった。
聖典を読み返した。17歳の時に気が触れた実の兄を殺して故郷を捨てた(捨五郎という名のゆえん?)。
けっきょく、盗人で身すぎをすることになった。3カ条は守っているが、畏れおおいといって江戸ではお盗めをしていない。とすると、絹市などでうるおっている高崎、結城、館林などが仕事場だったろう。近い甲斐国を採った。

探索の発端:向島の秋葉大権現の近くで鯉料理を摂った鬼平と彦十は、寺島村で、子どもとその父親の百姓を斬ろうとした侍に体当たりの抗議、で、脚を切斬られた捨て五郎を介抱することになった。

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秋葉大権現の秋(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

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秋葉社門前(庵崎いおざき)。生簀をしつらえた鯉料理店。(同上)

捨五郎は、畜生ばたらきが専門の〔籠滝(かごたき)〕の太次郎からの助(す)けの依頼を断る手紙を、彦十に託した。

結末:それで〔籠滝〕一味の盗人宿が知れ、筆頭与力・佐嶋忠介の指揮で全員逮捕。死罪だろう。
火盗改メの役宅の一と間で養生し、鬼平手づからのびわの木の杖を贈られた〔高萩〕の捨五郎は、密偵に。

つぶやき:〔高萩〕の捨五郎という、30年間も本格派のお盗めをしてきた盗人と、鬼平とのあいだには、気脈の通じるものがある。不埒な行為は、身をは張ってでもゆるさない、という純粋さだろうか。

当初、捨五郎の前に生まれていた兄・姉が病気か事故で早くに逝ったので、「この子は捨てますから、病魔、厄魔の神々、ともに見すごしてくだされ」と逆張りした名かとおもったが、狂って周囲に迷惑をかけていた実兄を17歳のときに殺したとあったので、この説を捨てた。

〔相模〕の彦十がかつての仕事仲間の〔高萩〕の捨五郎を見かけた、秋葉大権現・千代世稲荷の境内はずれの鯉料理茶屋〔万常〕を、池波さんが創作したのは、掲示した、境内につらなる「庵崎」の絵からだ。
「庵崎」の料理茶屋は、いずこも生簀を構えて鯉を泳がせていたとある。
同じく生簀を構えていたのは、亀戸天神社の表門、裏門の料亭群と、『江戸名所図会』は記す。こちらは、天神表門脇の席亭『玉屋』として聖典に登場するが、広重の『江戸高名会亭尽』には〔玉屋〕は「裏門前」とある。

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2005.04.08

〔池田屋(いけだや)〕五平

『鬼平犯科帳』文庫巻21の掲載の[春の淡雪]で、神楽坂・毘沙門横町に薬種店〔池田屋〕を構えている正統派の首領。

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年齢・容姿:53歳だが、髪も黒々としていて、4つ,5つは若く見える。小肥り。血色のよい顔。
生国:近江(おうみ)国甲賀郡(こうかごおり)池田村(現・滋賀県甲賀市池田)。
池田という地名は全国に、それこそ、書ききれないほどあるが、江戸でのお盗めは10年ぶりとあるし、業種が薬種店ということ、〔帯川(おびかわ)〕の源助一味のテリトリーが上方中心であったことなどから、甲賀を選んだ。
〔忍者丸〕とか〔首より上の薬〕など、いまでも甲賀は家庭薬の製造地である。
「日本の伝統的ななパッケージ・デザイン展」を、プッシュピン・スタジオのシーモア・クワストと共同で、ニューヨークをはじめ米国各地で開いたのは20年も前のことである。
(参照: 〔帯川〕の源助の項)

探索の発端:京扇店〔平野屋〕の番頭・茂兵衛は、かつては〔馬伏(jぶせ)〕の茂兵衛といって、〔帯川(おびかわ))の源助の右腕だった。引退後、ひょんなことから火盗改メと関係ができた。
(参照: 〔馬伏〕の茂兵衛の項)
茂兵衛が見かけたのは、〔雪崩(なだれ)〕の清松と〔日野(ひの)〕の銀太郎という流れづとめの盗人だった。
2人は、現役のころの〔帯川〕の源助に、使ってほしいといったが、銀太郎に血の匂いをかいだ源助は断った。
茂兵衛が尾行すると、2人は荏原郡・中延にある千束池畔の茶店の裏手の茅ぶきの小屋へ入った。

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千束池畔の茶店(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

火盗改メが小屋を見張っていると、銀太郎は、神楽坂・毘沙門横町の〔池田屋〕を訪れた。この店の番頭が〔平瀬(ひらせ)〕の音吉(60歳前後)であることを、密偵〔大滝〕の五郎蔵が見破った。これで、〔池田屋〕が盗人宿ときまった。

結末:、〔池田屋〕五平の幼娘をかどわかした〔雪崩(なだれ)〕の清松と〔日野(ひの)〕の銀太郎は、1,000両の身代金を要求。引渡しにあらわれたところを鬼平に捕らえられた。その前夜、五平一味16名は捕縛されていたのである。五平にしたがって千両箱を担いでいた小者は、鬼平だった。

つぶやき:20年近くも書きつづけられると、 さすがの名シリーズも、ムリが見えないでもない。〔雪崩)〕の清松と、同心・大島勇五郎の関係、しかも大島同心の博打による借財、〔日野〕の銀太郎と〔雪崩)〕の清松を見つけた茂兵衛、〔平瀬〕の音吉を見破った〔大滝〕の五郎蔵、鬼平が耳を切り落とした不逞浪人の強請り役など、偶然が重なりすぎるとおもうのは、管理者だけだろうか。

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2005.04.07

〔天神谷(てんじんだに)〕の喜佐松

『鬼平犯科帳』文庫巻5に収まっている[おしゃべり源八]で、同心・久保田源八を痛めつけて記憶喪失させ一味の首領。畜生ばたらきが専門で、江戸市中だけでも40人も殺している。川崎宿はずれの旅籠[大崎屋〕の主人が隠れ蓑。

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年齢・容姿:どちらも記述されていない。
生国:能登(のと)国鳳至郡(ふげしこおり)天神谷村(現・石川県鳳至郡穴水町天神谷)。
別に、播磨(はりま)国加東郡(かとうごおり)天神谷村の線もある(もっとも、いまはこの地名は消えている)。が、ここの産だと大坂・京などの上方をテリトリーとするだろう。
旅籠の屋号の〔大崎〕は「仙台市」の旧称だから、そっちかとも推量してみたが、「仙台」には「天神谷」の地名はなかった。

探索の発端:〔天神谷〕一味を追っていて記憶喪失させられた同心・久保田源八が身につけていた菅笠の刻印が手がかりとなり、その笠を貸した藤枝の茶店〔とみや〕がわかった。
さらに〔小房〕の粂八がかつて〔海老坂(えびさか)〕の与兵衛一味にいたときの〔日妻(ひづま)〕の文造を尾行して旅籠〔大崎屋〕が見つかった。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
(参照: 〔海老坂〕の与兵衛の項)

結末:捕縛された者たちは、死罪。ただし、〔日妻〕の文造は見どころがあるというので処刑をまぬがれたが、その後、密偵としては登場してこない。

つぶやき:ミステリー仕立てになっているが、それほど複雑な組み立てではない。あらかじめ筋立てを決めない池波さんの書き方では、込み入った構成を期待するほうがムリというもの。
面白く読めれば、それでいい。

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2005.04.06

〔西浜にしはま)〕の甚右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻18に入っている[草雲雀(くさひばり)]に、〔須川(すがわ)〕の友次郎に手助けをたのんだ首領として、名前だけチラッと登場。

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年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国:近江(おうみ)国高島郡(たかしまこうり)西浜村(現・滋賀県高島郡マキノ町西浜)。
別の線---『おれの足音 上、下』(文春文庫)の取材に訪れたとの推測から、播磨(はりま)国印南郡(いんなみごおり)の西浜村(現・兵庫県高砂市北浜)も考慮にいれたが、未刊エッセイ集5冊目『わたくしの旅』(講談社 2003.03.15)に収録されている[道楽の旅]で、室津へわたるのに赤穂で小舟を雇ったとあったので、外した。

探索の発端:同心・細川峯太郎の家の菩提寺は、木村忠吾の家と同じく、目黒の感得寺である。寺は行人坂を下りきって太鼓橋をわたり、その先を左折したところにあった。

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目黒の太鼓橋(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

行人坂と平行ぎみに西行しているのが権之助坂で、その中腹にある茶店〔越後屋〕の寡婦お長と、細川はかつてねんごろになったことがある。
茶店〔越後屋〕の隣が、〔須川)〕の友次郎の女房おきぬがやっている煙草・小間物店〔かぎや〕で、おきぬは亭主が旅行商にでているとき、〔鳥羽(とば)〕の彦蔵という盗人と浮気をしていた。
権助坂上で友次郎と話している男が、きのう確かめた人相書の〔鳥羽〕の彦蔵と見た細川は、男が〔かぎや」へ入るところまで確かめ、役宅の筆頭与力・佐嶋忠介へ連絡したのち、見張った。

結末:〔蓑火〕の喜之助の下で修行、3カ条を守ってきた須川(すがわ)〕の友次郎だったが、〔西浜(にしはま)〕の甚右衛門一味が、大坂西横堀5丁目の砂糖問屋〔和泉屋〕への押し込みを助(す)けたとき、組みついてきた手代を突き飛ばすと、倒れた手代は運悪く頭を石に打ちつけて死亡。
〔蓑火〕の言いつけをやぶったと悩みに悩み、〔蓑火〕一味だった時代の先輩、いまは芝の三田3丁目で眼鏡師をやっている市兵衛へ悩みを訴えた。市兵衛に慰められて帰宅したところを、待ち構えていた〔鳥羽〕の彦蔵に一撃をくらって即死。
彦蔵は見張っていた火盗改メにそのまま捕縛された。

つぶやき:首領でありながら、物語中では端役も端役のこんな盗人まで拾うと、『鬼平犯科帳』だけみても、生国が特定できる盗人は300人を超える。つまり、1日11盗人のペースでアップしていっても、1年はたっぷり保ちそう。

木村忠吾や細川峯太郎の家の菩提寺が「威徳寺」から「感得寺」へ変わった経緯は、[〔朝熊(あさくま)〕の伊三次の項に記述していた。
(参照: 〔朝熊〕の伊三次の項)

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2005.04.05

〔白根(しらね)〕の万左衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻16の一篇[白根の万左衛門]と、タイトルになっている首領。死にぎわに、ふざけた遺言をいい残す。

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年齢・容姿:72歳。重い病床にあり、体中に痛みが走る。
生国:信濃(しなの)国上高井郡(かみたかいこおり)白根山麓(現・長野県上高井郡白根山の西麓。ただし白根山・標高2160の山頂は群馬県吾妻郡側)
吉田東伍『大日本地名辞書』には「白根(しらね)」が横浜市旭区、福島県伊達郡梁川町白根もあげらりれている。名古屋が本拠で、京都にも盗人宿がおかれてい、大坂にも隠し子がいるという広域移動の性癖から、白根山麓の出身説を採った。

探索の発端:平河天神へ参詣がてらに境内の蕎麦店〔栄松庵〕へ名物蕎麦をたぐりにきた鬼平と同心・木村忠後へ、偶然にいあわせた密偵〔馬蕗〕の利平治が、大鳥居のところに立っている男女は、〔白根〕の万左衛門のむすめとその婿の〔沼田〕の鶴吉だと告げた。
(参照: 〔馬蕗〕の利平治の項)
利平治はかつて、上方が縄張りの〔高窓(たかまど)〕の久兵衛お頭の使いで、これも3カ条の掟てを固くまも守っていた〔白根(しらね)〕のお頭の許へよく行っていたので、顔見知りが多いのである。
忠吾と利平治が尾行していくと、2人は麹町6丁目裏の筆師・梅之助方へ入ったままでてこない。近所をひそかに策探ってみると、2階に病人がいるらしいという。病人は、名古屋から江戸へお盗めにきて病んだ万左衛門らしかった。

結末:万左衛門が隠匿している1,500余両をめぐって、小頭〔雨彦(あまびこ)〕の長兵衛と〔沼田(ぬまた)〕の鶴吉・おせき夫妻の駆け引きがあり、おせきは夫・鶴吉に絞殺され、鶴吉は長兵衛一味に惨殺された。その現場へ火盗改メが出張ってきていた。

つぶやき:おせきの金欲のつよさは、母親ゆずり。母のお富も、その欲深さゆえに、15年前に万左衛門が殺されていた。
金欲であれ、性欲であれ、権力欲であれ、人間の行動力の源泉にちがいないが、それも度がすぎると顰蹙を買い、おもわぬしっぺ返しにあう。

白根山を、先記『大日本地名辞書』(冨山房)は記していう。「草津の西嶺にして、本州郡(上野・吾妻郡)と信州高井郡との界にあたり、万座山(高井山)の東に連なり、標高凡ニ千百余米突、一座の活火山。其大白根を或は奥白根と呼び、小白根を前白根と呼べり、草津より一里にして小白根、更に三里にして奥白根とぞ(後略)」
『大日本地名辞書』は池波さんがその編著の労を感謝してやまない書であり、かつ、座右から離さず熟読した辞書である。

『大日本地名辞書』は、『塵塚物語』を引いてさらに記す。夜には白根山の山頂あたりかから噴煙が赤くのぼっているのがみえ、それを古僧が「焼上る山はみな地ごくなり、この国むかしより人情強硬にして、邪欲無道なり、道を説きすすめがたし、うんぬん」
欲深かったお富・おせきの欲深の性質は、池波さんが〔白根〕の万左衛門を書くとき、この箇所に目をとめておもいついたかも。


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2005.04.02

〔馬蕗(うまぶき)〕の利平治

『鬼平犯科帳』文庫巻13に収録の[熱海みやげの宝物]で登場し、鬼平の人柄に心酔、のちに密偵となる。もともとは上方の盗賊〔高窓(たかまど)〕の久兵衛一味にいて、〔甞役(なめやく)〕として押し入るのに適当な商家や豪農の候補先を調べて、九州から北海道まで歩いていた。
〔甞役〕という職分は、池波さんによって、この篇の直前にあたる文庫巻12[二人女房]から創始された。いってみれば、盗賊グループの市場調査部長か。
(参照: 〔加賀屋〕佐吉の項)

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年齢・容姿:この篇への登場時は55,6歳。〔馬蕗(うまぶき)〕は容貌からきた異名。すなわち、牛蒡(ごぼう)の古称どおりに、顔も躰も細くて長い。
生国:江戸のどこか(現・東京23区内のどこか)。

探索の発端:妻女・久栄、おまさ、彦十らと熱海へ湯治にきていた宿〔次郎兵衛の湯〕の耳へ、〔高窓〕の久兵衛一味の2人が同宿したと彦十がささやいた。彦十が〔高窓〕のところで世話になつた15,6年前、有馬の湯で病後を癒している利平治へ、久兵衛からの見舞金50両をとどけたことがあった。
その利平治が彦十へ相談を持ちかけたのは、ぴったりくっついている肥体の〔横川〕の庄八(30男)が、じつは亡くなった〔高窓〕の久兵衛にわたすはずだった〔甞帳(なめちょう)〕の隠し場所をさぐりだすためためなのだと。(〔甞帳〕は、この篇で初めて使われた造語)
(参照: 〔横川〕の庄八の項)
利平治とすれば、〔甞帳〕は、行方不明の2代目、〔布屋〕久太郎へ手渡したい。聞いた鬼平は、一味の後窯に居すわった浪人・高橋九十郎一派から、利平治を、久太郎が隠れているはずの江戸まで護衛してやろうと提案した。

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(六郷の渡し 『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

結末:案の定、程ケ谷宿の権太坂で襲ってきた高橋一味を始末した鬼平は、六郷の渡しを渡ったところで、利平治を開放したが、翌朝、役宅へ訪ねてきた利平治が、宝物の〔甞帳〕をさしだし、いまは旅籠の婿におさまっている久太郎の助命を乞うのだった。
こうして、密偵〔馬蕗〕の利平治が誕生したが---。

つぶやき:利平治はこの篇以後、文庫巻19[妙義の団右衛]で団右衛門に殺害されるまで、〔小房〕の粂八の舟宿〔鶴や〕に寄宿したりしながら、文庫巻14[殿さま栄五郎]、巻16[白根の万左衛門]などで密偵として、前歴を生かした独自の活躍する。
(参照: 〔白根〕の万左衛門の項)

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〔加賀屋(かがや)〕佐吉

『鬼平犯科帳』文庫巻12におさめられている[二人女房]で、初めて〔甞役(なめやく)〕という盗賊組織の中の特殊な役柄で登場(池波さんは、たぶん、この篇の執筆中にこの〔甞役}という役柄をおもいついたのであろう。次の[熱海みやげの宝物]でも、〔甞役・馬蕗]の佐平治を創造している) 。
佐吉は、首領〔彦島(ひこじま)〕の仙右衛門のために、あちこちの資産家の家々を〔甞〕めながら掏摸をはたらき、道中師---胡麻(ごま)の灰も兼ねている。

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年齢・容姿:35,6歳。小さく、ほっそりした躰つき。あごと鼻がとがった小顔。まなじりが深く切れこんだ両眼。大きな耳たぶ。
生国:三河(みかわ)国碧海郡(あおみこおり)今岡村(現・愛知県刈谷市今岡町)。父親は博労で〔彦島(ひこじま)〕の仙右衛門の盗人宿を兼ねていたこともあったので、佐吉も自然に〔彦島〕一味に加わった。

探索の発端: 酢醤油問屋〔佐野倉〕の用心棒をしている高木軍兵衛を、本所ニッ目・弥勒寺の楼門下から手招きしたのが〔加賀屋〕佐吉だった。人殺しの仕事があるという。
二人は、1年半前まで、恐喝でいっしょに稼いでいた仲だったが、佐吉の得体の知れなさに、軍兵衛は別れたのだった。
佐吉のたくらみは、軍兵衛から、即座に鬼平の身へ入れられた。

結末:いつわりの殺しを演じた軍兵衛を、あろうことか、佐吉は不逞浪人たちに襲わせる手配をしていた。しかし、見抜いた鬼平に、浪人たちは斬られ、佐吉と仙右衛門は捕縛された。
白州で対決した仙右衛門は、自分を殺そうとしたのが、大坂にいる女房お増で、仙右衛門が江戸で囲ったおときを嫉妬してのたくらみだったと知る。おときのことをお増に告げ口したのは佐吉で、しかも佐吉とお増はできていた。

つぶやき:不倫の告げ口は、『オセロ』の昔からとんでもない決着を招く。だから不倫小説は、つぎからつぎへと書かれる。

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2005.04.01

〔倉ケ野(くらがの)〕の徳兵衛

『乳房』(文春文庫)は、 『鬼平犯科帳』の番外編といえよう。 『週刊文春』1984年1月5日号から7月26日号に連載された。

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カヴァー絵は、池波さん

『鬼平犯科帳』シリーズが始まったのは1968年新年号『オール讀物』からだから、17年遅れである。この歳月は大きい。
『乳房』のヒロインお松は、「女は、男しだい」という池波さんの人生哲学---というよりも女性観をなぞるような人物だが、じつはもつと大切なこと---自己欲のない女性として生きている。
お松のその生き方を最初に認めたのは〔阿呆烏〕の長次郎(4O歳)、つづいて〔倉ケ野くらがの)〕の旦那がほれ込んで伴って京へ上った。
〔倉ケ野〕の旦那、じつは、上方から中国筋、ときに越中、美濃あたりを縄張りにしている泥棒の首魁、〔倉ケ野〕の徳兵衛である。

年齢・容姿:登場時は51,2歳。小肥りで、白いものがまじった髪。太い眉毛。細いがやさしげな両眼。
生国:上野(こうずけ)国群馬郡(ぐんまこおり)柴崎(しばさき)村(現・群馬県高崎市柴崎)。
〔通り名(呼び名)〕は〔倉ケ野(くらがの)〕と〔柴崎(しばさき)〕の徳蔵の2つをもつ。
いまは密偵になっている〔豆岩〕(35歳)が〔倉ケ野〕の徳兵衛の右腕〔赤堀(あかぼり)〕の芳之助(40代)に、〔倉ケ野〕の生国を「倉ケ野か?」と訊き、「倉ケ野の近く」と答えられている。
(参照: 〔豆岩〕の項)
「柴崎」は「倉ケ野宿」から北へ2キロたらずの郷である。

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明治20年陸地測量部製作の倉賀野と柴崎近辺地図

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幕府道中奉行製作の『中山道分間延絵図 倉賀野宿』

探索の発端:〔豆岩〕の父親〔伏木〕の卯三郎の手伝いをしたこともある〔赤堀〕の芳之助が三好町の〔豆岩〕の店へ訪ねてきて、〔倉ケ野〕一味の引退盗(ひきづと)めを手伝わないかといった。
与力・佐嶋忠介へことが告げられ、佐嶋の手配で探索が始まった。

結末:芝口2丁目の菓子舗〔海老屋〕へ押し入ろうとした〔倉ケ野〕一味15名は、全員逮捕。
で、〔豆岩〕と佐嶋与力との密約、〔赤堀〕の芳之助だけは見逃す---はどうなったろう?

つぶやき:「女は、男しだい」という女性観を、『鬼平犯科帳』で最初に口に出したのは、文庫巻3[むかしの男]で、鬼平の奥方・久栄である(それ以前に書かれた作品もあるかも知れない)。
お松が女性には珍しく無欲なのは、最初の男に寝間で「不作の生大根をかじっているような」といわれたからであるらしい。それが人生をいいほうへ転がした。この「不作の生大根」がじつは、どんでんがえしのタネになっているのだ(笑い)。

さて、池波さんの「倉賀野」へのこだわりについて。
多くの資料は「倉賀野」と記しているのに、池波さんは『乳房』でも『鬼平犯科帳』文庫巻2[埋蔵金千両]でも、『剣客商売』の道場主・牛堀九万之助(41歳)の出身地でも「倉ケ野」と表記ているのは、岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房)に拠ったからと見る(ただし、文庫巻4[霧の十郎]での道場主・坪井主水は「倉賀野」の浪人の生まれ)。
[埋蔵金千両]では、〔小金井(こがねい)の万五郎〕の妾兼女中のおけいが、上田へ人を迎えに行くのに中山道の新町から倉ケ野のあいだを横切る烏川の柳瀬の渡しで、埋蔵金を独り占めにするために引き返す決心をする。
(参照: 〔小金井〕の万五郎の項)
若いころの池波さんは、このあたりを旅して土地勘を身につけたものか。

冒頭に、『鬼平犯科帳』と『乳房』のあいだには17年の歳月が横たわっていると書いた。そのあいだで『剣客商売』が始まっている。『剣客商売』で池波さんは田沼意次の評価を変えたかに見えた。ところが『乳房』では、その評価が消えている。どうしたことか。「ひょっとして、代作?」とすら疑った。

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