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2005年5月の記事

2005.05.31

〔亀穴(かめあな)〕の政五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻1に収録されている[暗剣白梅香]の、本筋とは関係がないようなかたちで登場する人物。この篇の本筋は、敵持ちでいまは仕掛人となっている浪人・金子半四郎が、長谷川平蔵の暗殺を引き受けてさまざまに工夫を凝らすところにある。
(参照: 浪人・金子半四郎の項)
しかし、この篇から2話おいた、文庫巻2の巻頭[蛇(くちなわ)の眼]の主役は〔蛇(くちなわ)〕の平十郎だが、それを予告するように、平十郎の軍師役としてチラッと語られる。
(参照: 〔蛇〕の平十郎の項 )

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年齢・容姿:どちらも記述がない。それだけに不気味な予感を読み手に与える。
生国:三河(みかわ)国額田郡(ぬかたこうり)亀穴村(現・愛知県額田郡額田町宮崎)。
池波さんがつねに座右に置いていた『大日本知名辞書』は、「宮崎 今宮崎と云ふ、大平川の源にあり、本宮山を以て宝飯郡に堺し、雨山、亀穴などの大字あり」。
また『甲陽軍鑑』から「天正元年、信玄公三州宝来寺表へ御馬を移され、岡崎筋へ向かひ、上道四里こなた、宮崎に取出を被仰付」を引いている。
『角川地名大辞典』は、万足平に北辰妙見尊が亀に乗って降臨し、のち亀のみ留って石に化したという亀石伝説」による地名の由来を紹介している。

探索の発端:いまは密偵となって、鎌倉河岸に屋台店を出して噂を集めている〔小房(こぶさ)〕の粂八の耳に、「亀穴(かめあな)の人が、江戸へ入(へえ)ったそうな」との会話が流れこんだ。
粂八は、〔亀穴〕の政五郎が〔蛇〕一味の軍師であること、一味の江戸での盗めにが近いことを鬼平へ告げた。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)

結末:どうしたことか、文庫巻2[蛇(くちなわ)の眼]には、〔亀穴〕の政五郎は軍師役としては登場しない。

つぶやき:[蛇の眼]は、シリーズが始まってまだ8話目なのに、一味の軍師役が消えるというような手ぬかりが起きていることに、編集担当者は気づかなかったのだろうか。


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2005.05.30

〔川谷(かわたに)〕の庄吉

『鬼平犯科帳』文庫巻3に収容されている[麻布ねずみ坂]の主人公は、3年前に上方から江戸へ下ってきて麻布・飯倉片町に住みついた、中村宗仙(62歳)という指圧師である。
富裕な患者は、卓越した治療に巨金を惜しまないが、宗仙の住いは質素そのもの。というのも、宗仙は大坂の香具師の元締・〔白子(しらこ)〕の菊右衛門(50男)へ金を送りつづけていたからである。
3年前、宗仙は京都・東寺の境内の茶屋〔丹後や〕の女将・お八重とできてしまったが、26,7歳だった彼女は、なんと、〔白子〕の菊右衛門の妾だった。
菊右衛門は、500両でお八重を買え、といった。期限は寛政4年(1792)いっぱい。宗仙が送りつづていた金は、その500両の内金だった。
〔川谷〕の庄吉は、〔白子〕の手下である。

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年齢・容姿:いずれも記載がないが、30がらみと推察する。
生国:丹波(たんば)国桑田郡(くわだこうり)川谷(かわだに)村(現・京都府北桑田郡美山(みやま)町)
『旧高旧領』は、「川谷」は信濃国水内郡、越後国頚城郡、安房国朝夷郡、上総国望陀郡などにもあると記しているが、〔白子〕の手下ということで、丹波国を採った。

探索の発端:同心・山田市太郎(30代半ば)が、市中見廻りのついでに宗仙の家を眺めていて、訪ねてきた浪人を尾行すると、深川・富吉町の正徳寺裏の一戸建の平屋へ入った。
密偵〔小房(こぶさ)〕の粂八が近所で聞き込みをしたところ、その浪人は石島といい、両国一帯の香具師の元締・〔羽沢〕の嘉兵衛方へ出入りしているという。
(参照: 浪人・石島精之進の項)
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
さらにその〔剣術つかい〕の浪人を見張っていると、高崎で道場をかまえていることがわかった。〔白子〕へ送金する宗仙の金230両をねこババし、菊右衛門へは、宗仙には払う意志がないとウソの報告をしていたのである。

結末:宗仙が約束の500両のうち270両だけしか受け取らなかった〔白子〕の菊右衛門は、お八重を殺害した上で、〔川谷〕の庄吉と暗殺浪人を、宗仙のところへさしむけたが、山田同心によって捕縛。
白州ですべての事情を察した鬼平は、石島浪人の高崎の道場を教えて庄吉を大坂へ帰し、〔白子〕に「無頼浪人を信用し、宗仙ほどの立派な人をに、調べもしないで刺客を送るとは---」と報告させた。

つぶやき:池波さんは『仕掛人・藤枝梅安』でも、香具師の元締を何人となく登場させている---というより、善悪両面を備えたこの種の仁を小説へ採り入れた創始者ともいえる。


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2005.05.29

〔橋本(はしもと)〕の万造

『鬼平犯科帳』文庫巻12に収められている[見張りの見張り]で、息子・佐太郎の消息を探していた〔長久保(ながくぼ)〕の佐助へ、日光街道・草加宿の旅籠の風呂場でばったり出会ったとき、女出入りから佐太郎を殺したのは〔万福寺(まんふくじ)〕の長右衛門一味にいた〔杉谷(すぎたに)〕の虎吉だ、と嘘を告げた盗人。
(参照: 〔長久保〕の佐助の項)
(参照: 〔万福寺〕の長右衛門の項 )

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年齢・容姿:明記はされていないが、佐太郎より5つ6つ年長とあるから、32、3ってところか。容姿の記述はない。
生国:一味としていた」〔万福寺〕の長右衛門の生国を宇治、と推定したので、山城(やましろ)国綴喜郡(つづきこうり)橋本村(現・京都府八幡市橋本)。
男山南麓に位置する、淀川ぞいの渡船場。

探索の発端:〔長久保(ながくぼ)〕の佐助が、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助の下でいっしょだった〔舟形(ふながた)〕の宗平へ、〔橋本(はしもと)〕の万造から聞いた息子・佐太郎の殺害の顛末を打ち明けたことから、密偵〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵がうごきははじめた。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
[杉谷(すぎたに)〕の虎吉は、かつて〔大滝〕一味にいたことがあり、女房がやっている品川宿の小さな蝋燭屋を五郎蔵が知っていた。

結末:〔大滝〕の五郎蔵に捕縛された〔杉谷〕の虎吉は、火盗改メの白州で[長久保]の佐助と対決し、佐太郎殺しのほんとうの下手人は〔橋本(はしもと)〕の万造、と告げた。
もっとも万造は、シリーズ終焉までに捕まった形跡はない。不得要領といえないこともない扱いである。

つぶやき:武家社会では、親が子の仇を討つことは違法とされている。世間の裏で生きている違法の盗人世界では、違法の違法は正法になるのかな(冗談)。
子の敵討ちであめろうと、敵討ちは人情の根本みたいなものだから、話としてはおもしろい。

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2005.05.28

〔須坂(すざか)〕の峰蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収められている[さむらい松五郎]で、同心・木村忠吾を、さむらい松五郎こと〔網掛(あみかけ)〕の松五郎とまちがえて手下になりたがった、鍵開けが専門の盗人。
(参照: 〔網掛〕の松五郎の項)

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年齢・容姿:40がらみ。ずんぐりした躰つき。
生国:信濃(しなの)国高井郡(たかいこうり)須坂村(現・長野県須坂市須坂)。
『角川地名大辞典』によると、地名は古代の墨坂神に由来し、墨坂(すみさか)が転訛したものと。
池波さんは、〔須坂〕にきちんと(すざか)とルビをふっている。訪れた証拠とみたい。

探索の発端:[五月闇]で〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵に刺殺された密偵・伊三次の墓参に、威徳寺へ詣でたあと、帰りかけている同心・木村忠吾の肩をたたき、「網掛のお人」といった男がいた。〔湯屋谷(ゆやだに)〕の一味にいたときに見知ったのだといい、〔須坂(すさか)〕の峰蔵と名乗った。
(参照: 〔強矢〕の伊佐蔵の項)
(参照: 伊三次の項)
(参照: 〔湯屋谷〕の富右衛門の項)
この顛末を鬼平長官へ報告すると、すぐさま、峰蔵と、峰蔵が抜け出したがっている〔轆轤首(ろくろくび)〕の藤七一味に見張りの手がうたれた。
藤七一味への加担は、高崎に住む口会人の〔赤尾(あかお)〕の清兵衛の口ききだったという。
(参照: 〔赤尾〕の清兵衛の項)

結末:〔須坂〕の峰蔵が助(す)けることになっていた〔轆轤首(ろくろくび)〕の藤七一味は、断首。
小柳安五郎が捕らえたほんものの〔網掛〕の松五郎と、〔須坂〕の峰蔵の処置は書かれていない。

つぶやき:他人のそら似は、1人2役で演じる舞台の場合は早変わりの妙技が見どころになるが、小説の場合は嘘っぽさがいなめない。

しかし、前話が伊三次が刺殺される悲話だったので、ここは明るい物語で読み手の気分転換をはかろう、との、小説巧者・池波さんの配慮だったのだろう。

「須坂」出身の盗人には、もう一人---〔沼目(ぬまめ)〕の太四郎がいる。
(参照: 〔沼目〕の太四郎の項)

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2005.05.27

〔塚原(つかはら)〕の元右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻16に収められている[火つけ船頭]。思案橋たもとの船宿〔加賀や〕とくれば、〔鬼平〕ファンならたちまちにこの船宿で船頭をしている〔浜崎(はまざき)〕の友五郎を思いおもいうかべるはずだが、この篇の主人公は友五郎とは船頭仲間の常吉(29歳)のほう。女房おときを浪人・西村虎次郎(30がらみ)に寝取られた鬱憤ばらしに諸所へ火つけをしている。
(参照: 〔浜崎〕の友五郎の項)
(参照: 船頭・常吉の項)
(参照: 浪人盗賊・西村虎次郎の項)
西村浪人とつるんでいるのが口会人〔塚原(つかはら)〕の元右衛門である。

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年齢・容姿:50がらみ。商人風。
生国:常陸(ひたち)国鹿嶋郡(かしまこうり)塚原村(現・茨城県鹿嶋市)。
塚原は、長野県茅野市、福島県相馬郡、静岡県御殿場市、千葉県君津市のほか諸所にあるが、吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房)で、以下の文章を目にして、瞬時に鹿嶋市に決めた。
「塚原 沼尾と須賀の間を、塚原という。是れは、近古天正中の剣客、鹿嶋新当流の祖、塚原卜伝の苗字の地とぞ」
池波さんに[塚原卜伝最後の旅]という短篇がある。「塚原村」を取材したにちがいない。

探索の発端:深川・黒江町の裏長屋を見張っていた密偵〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が、浪人・西村虎次郎のもとを訪ねてきた顔見知りの口会人〔塚原(つかはら)〕の元右衛門を見かけたので、おまさと彦十が尾行して、橋場の真崎稲荷裏の隠れ家をつきとめ、ひとりばたらきの盗人たちの所在がつぎからつぎへと明らかになっていった。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
(参照: 女密偵おまさの項)

結末:女房を寝取られた恨みをはたすべく、常吉は西村虎次郎が盗賊であることを火盗改メへ投書。それにつづいて〔塚原〕の元右衛門も逮捕された。
常吉は死罪。西村虎次郎の悪業を知っていた女房おときは、島送り。

つぶやき:[塚原卜伝最後の旅]は、『鬼平犯科帳』シリーズの始まる7年前、1961年の『別冊小説新潮』1月号(のち、新潮文庫『上意討ち』に収録)に発表された。
73歳のト伝が、師岡一羽、松岡則方、斉藤主馬之助の高弟3人を伴って武田信玄を再訪し、下総の剣客・梶原長門を真剣による試合で殪す。
(ついでだが、『菅政友雑稿』ほかの諸書は梶原長門との果し合いの場所を武州・川越城下の松原としている)。

ト伝は、武田信玄と上杉謙信の川中島の決戦を見学。、謙信が信玄の本陣へ乗り入れて斬りつけたとき、かたわらにいて、咄嗟に謙信の馬の尻を槍で突いて危急を救った。
信玄へ別離の辞をのべたあと、ト伝は京に将軍・義輝を訪ねる。義輝は皆伝を与えた教え子であった。
「ト伝が数多く知己を得ている名流の中にあって、人間的に心をひかれるのは、武田信玄と足利将軍義輝であった」とあるのを、「信玄」を「池波」と置き換えてもいいようにおもうのは、ぼくだけだろうか。

なお、同篇は「鹿島神宮から約一里を離れた塚原村の領主、塚原土佐守にのぞまれ、ト伝がその養子になったのは、文亀ニ年(1502)の秋」と書いて、「塚原」の位置を明らかにしている。

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2005.05.26

〔布引(ぬのびき)〕の九右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻1に収められている[浅草・御厩河岸]で、密偵〔豆岩〕の岩五郎の手引きによって捕縛された一味の首領。
(参照: 〔豆岩〕の岩五郎の項)

201

年齢・容姿:どちらも記述されていない。
生国:〔布引〕一味のだれかを見知っていた〔豆岩〕が、つながっている与力・佐嶋忠介へ指したとすると、2通りの類推ができる。
1は、〔豆岩〕の父親・卯三郎が加わっていた〔中尾〕の治兵衛は近江から上方がテリトリーだったという。親子して盗めをしたとすると、卯三郎に土地勘のある近江でもやったろう。そのときに助(す)けた男が〔布引〕一味に加わっていたとすると、九右衛門は滋賀県八日市市の布引丘陵から「通り名(呼び名)」をとったと。
(参照: 〔中尾〕の治兵衛の項)
1は、逮捕されたのが江戸のようだから、江戸に近い土地の出身とみると、信濃(しなの)国佐久郡(さくこうり)布引山(現・長野県小諸市近郊)。布引山について『大日本地名辞書』は「今北御牧(きたみまき 現・北佐久郡北御牧村)、川辺村(未詳)の管内にして、千曲川の崖山とす。観音堂あり。水石の奇勝を占めて、地方の名所とす」と。
「布引」とは、「布を引いたように絶え間なく引き続いていること」(小学館『古語大辞典』)

探索の発端:記されていない。

結末:佐嶋与力が「この春(寛政元年 1789)には大手柄(おおてがら)をたてたそうだな。布引(ぬのびき)の九右衛門一味をことごとく御縄(おなわ)にすることができたのも、お前の、かげながらのはたらきが大きかっさたと、先日、長谷川様も大層におよろこびだあったぞ」と、〔豆岩〕に告げている。

つぶやき:「---忠介で保(も)つ堀の帯刀」といわれていた佐嶋忠介が、長谷川組(先手・弓第2組)の前に火盗改メを勤めていた堀組(先手・弓第1組)から、長谷川組へ借りられたのは、交渉に手間どったかして、長谷川平蔵が火盗改メ・本役を拝命した天明8年(1788)10月2日から半年以上もすぎた、寛政元年初夏のことであったらしい。
もっともこの篇は、、〔中尾(なかお)〕の治兵衛の項でも記したように、文庫には収められてはいるが、『鬼平犯科帳』シリーズとして書かれたものではない。したがって上記のようなこまごましたことまでは、池波さんはまだ設計していなかったはすず。
そういう視点をもちながらこの篇を読むと、面白みが一段と深まる。


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2005.05.25

〔砂蟹(すながに)のおけい

『鬼平犯科帳』文庫巻12に収録されている[高杉道場・三羽烏]に、名古屋の役者くずれの盗人〔笠倉(かさくら)〕の太平を誘い込んで、浪人盗賊・長沼又兵衛一味の大仕事を助(す)けさせる女盗賊。自分でも手下5,6人の小さな組織をもっている。
(参照: 〔笠倉〕の太平の項)
(参照: 剣友・長沼又兵衛の項)

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年齢・容姿:40がらみ。でっぷりとした躰つきで、町女房風のこしらえ。
生国:まったくの類推だが、備中(びっちゅう)国哲多郡(てつたごおり)石蟹(いしが)村(現・岡山県新見市石蟹)
おけいの「通り名(呼び名)」の「砂蟹」は『大日本地名辞書』にも『旧高旧領』にも『郵便番号簿』にも記載されていない。池波さんがどこから連想したかを推理して、「蟹」に注目した。「石蟹(いしが)村」(上記)、「蟹穴(かにあな)村」(肥後国菊池郡)「蟹沢(かにさわ)」(信濃国水内郡)、「蟹江(かにえ)」(尾張国海東郡)など。
うち、「蟹江」は、粂八役を演じている蟹江敬三さんのこともあるが、かつては牟田悌三さん、寺尾聰さん、藤巻潤さんなどが演じてい、〔砂蟹〕の「通り名」は松本白鴎丈の第1次テレビ化からつけられていた。
上記のうち、「石蟹」がもっとも安易だと観じた。「石」に「少」をつけたせば「砂」になる。付会は承知のうえだが、浪人盗賊の長沼一味が中国筋をテリトリーとしていたこととも関係がつく。

探索の発端:船宿〔鶴や〕をまかされている〔小房(こぶさ)〕の粂八は、かつて兇盗〔野槌(のづち)〕の弥平の下にいたとき、引き込みをしていた〔砂蟹(すながに)〕のおけいを見知っていた。
(参照: 〔小房〕の粂八の項 )
その女賊おけい(40がらみ)が、〔笠倉(かさくら)〕の太平と〔鶴や〕で打ち合わせを兼ねて逢引きをしているのを、粂八は隠し穴から聞き取った。

結末:襲った巣鴨の徳善寺(架空)で、長沼又兵衛は道場仲間だった鬼平蔵に斬り殺され、一味と〔笠倉〕の太平は捕縛された。
おけいは、日本橋・住吉町の竃(へっつい)河岸の奥の隠れ家で捕まった。

つぶやき:この篇は、おけいと太平が演じる軽妙な濡れ場は読者サービス。
主題は、高杉銀平が皆伝を与えてくれなかったのを根にもった長沼又兵衛が、皆伝書を盗んで逐電したところにある。銀平師ががえんじなかったのは、又兵衛の資質に難を見たからである。
同巧の短篇が[剣法一羽流](初出『小説倶楽部』1962年11月号。のち『剣法一羽流』講談社文庫)である。

備中・石蟹村の命名のゆえんは、上古、吉備津彦命が蟹桘師を退治したとの伝承によると。

石蟹村を出たおけいは、やがて〔野槌(のづち)〕一味に加わり、江戸で引き込みをつとめるが、備中訛りをどこで矯正したものか。また、江戸住まいの人びととあるていどの会話が通じるようになるまでに何年かかったろう。

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2005.05.24

〔日野(ひの)〕の銀太郎

『鬼平犯科帳』文庫巻21に収められている[春の淡雪]で、〔雪崩(なだれ)〕の清松と組んで、盗賊の首領〔池田屋〕五平のひとりむすめ・おうめを拐(わどわか)して強請(ゆす)った、畜生ばたらきの盗人。
(参照: 〔池田屋〕五平の項)

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年齢・容姿:40歳前後。容姿の記載はない。
生国:山城(やましろ)国宇治郡(うじこうり)日野村(現・京都府京都市伏見区日野*)。
『旧高旧領』はほかに、武蔵国秩父郡日野村(現・東京都日野市日野本町)、伊勢国三重郡(東、西)日野村(現・三重県四日市市東日野町)、甲斐国巨摩郡日野村(現・山梨県北巨摩郡長坂町日野)、美濃国厚見郡日野村(現・岐阜県岐阜市日野(北、南、東、西))をあげている。
上のどこでもいいのだが、いまは京扇の〔平野屋〕の店主におさまっているが、京都を本拠にしていた〔帯川(おびかわ)〕の源助のところへ働きたいと売り込んできて断られた経緯があるから、宇治の日野村を採った。
「*(アスタリスク)」は、日野の下にいろんな字(あざ)がつくというというしるし。
(参照: 〔帯川〕の源助の項)

探索の発端:京扇店〔平野屋〕の番頭・茂兵衛は、かつては〔馬伏(jぶせ)〕の茂兵衛といい、〔帯川(おびかわ))の源助の右腕だった。引退後、ひょんなことから火盗改メと関係ができた。
(参照: 〔馬伏〕の茂兵衛の項)
茂兵衛が見かけたのは、〔雪崩(なだれ)〕の清松と〔日野(ひの)〕の銀太郎という流れづとめの盗人たちだった。
2人は、現役のころの〔帯川〕の源助に、使ってほしいといったが、銀太郎に血の匂いをかいだ源助が断った。
茂兵衛が尾行すると、2人は荏原郡・中延にある千束池畔の茶店の裏手の茅ぶきの小屋へ入った。

結末:〔池田屋〕五平の幼娘をかどわかした〔雪崩(なだれ)〕の清松と銀太郎は、1,000両の身代金を要求。引渡しにあらわれたところを鬼平に捕らえられた。その前夜、五平一味16名は捕縛されていたのである。五平にしたがって千両箱を担いでいた小者は、鬼平だった。

つぶやき:史実の長谷川平蔵は、盗みなどの罪を犯した者のうち、半分は更生できるが、あとの半分は根っからの犯罪者で、更生は不可能である、と断じている。
さしずめ、この〔日野(ひの)〕の銀太郎などは、平気で〔池田屋〕五平を裏切りったり、幼女を誘拐したりしているし、〔帯川〕の源助も「畜生ばたらきがすきそうな」残忍な奴と見抜いているところからいっても、平蔵が「更生不可能」とサジを投げている後者の男であろう。

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2005.05.23

〔草間(くさま)〕の貫蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻12に所載の好篇[密偵たちの宴(うたげ)]に登場して、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵に見破られる、流れづとめの荒っぽい盗賊。
(参照: 〔大滝)〕の五郎蔵の項)
かつて〔大滝〕一味が駿府(静岡市)で盗めをしたとき、手が足りなくて、当時は配下になっていた〔岡ノ井(おかのい)〕の弁五郎の紹介で貫蔵がやってきたが、畜生ばたらき専門の男と見た五郎蔵は、ただちに断った。
(参照: 〔岡ノ井〕の弁五郎の項)

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年齢・容姿:50近く。低い背丈、ほっそりした躰つき。右足首が歩くとき不自由。
生国:三河(みかわ)国渥美郡(あつみごうり)草間村(現・愛知県豊橋市草間町)。
『旧高旧領』はほかに、信濃(しなの)国高井郡草間村(現・長野県中野市草間)と備中(びっちゅう)国阿賀郡草間村東組・西組(現・岡山県新見市草間)をあげている。
『大日本地名辞書』(冨山房)もこの2村。
駿府での盗めでの助(す)けばたらきということで、同じ東海道筋生まれなら土地勘があるだろうと推測し、豊橋市の草間を採った。

探索の発端:畜生ばたらきの盗めばかりが横行するご時世に、憤(いきどう)りを覚えていた密偵の中核メンバーたち---〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵、〔小房(こぶさ)〕の粂八、伊三次、〔相模(さがみ)〕の彦十、〔舟形(ふながた)〕の宗平らが、本格の盗みの手本を示してやろうと、浅草・橋場(はしば)の町医者・竹村玄洞(げんどう)宅へ目ぼしをつけた。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
(参照: 伊三次の項)

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橋場の渡し・思い川(『江戸名所図会』 塗り絵師:西尾 忠久)

で、〔大滝〕の五郎蔵が竹村宅の下見に、浅草・山谷(さんや)の浅茅ヶ原(あさじがはら)を歩いていて、35,6の女とつなぎをつけている貫蔵をみかけた。
女は、竹村家に住みこんで引き込みをしている。竹村宅と貫蔵には火盗改メの見張りがついた。

結末:竹村宅を襲ったのは〔鏡(かがみ)〕の仙十郎一味15名で、うち2名が雇われ用心棒の浪人に斬られ、5名が火盗改メに斬り殺され、8名はすべて捕縛。
(参照: 〔鏡〕の仙十郎の項)
〔鏡〕の仙十郎は、市中引き回しの上、磔刑。ほかは死罪。

つぶやき:密偵の中核として鬼平の信任のあつい五郎蔵や粂八たちが、世の盗賊たちに手本を示してやろうと盛り上がったとき、たしなめ役にまわったのがおまさだった。
(参照: 女密偵おまさの項)
さて、中核密偵たちの半分いたずら気分、半分は本気の模範演技は、〔鏡〕一味の逮捕劇のあと、警戒の薄くなった竹村宅で実行され、その盗め金はきちんと返却された。

この篇の読みどころは、模範演技を見破った鬼平が、おまさに五郎蔵へ伝えておけと、
「もしも万一のことあって、わがわがふところに抱きぬくめている者の失敗(しくじり)があるときは、主人(あるじ)たる者が腹を切って申しわけをせねばならぬ、と----」
さあ、それを告げたあとのおまさのセリフが見もの、いや、聞きものである。

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2005.05.22

〔中尾(なかお)〕の治兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻1に収録されている[浅草・御厩河岸]の主人公は、〔海老坂(えびさか)〕の与兵衛と密偵・豆岩である。
(参照: 〔海老坂〕の与兵衛 の項)
(参照: 〔豆岩〕の岩五郎の項)
豆岩には、中風で寝ついている父親(75,6歳)がい、御厩河岸の居酒屋の住いとは別のところに隠棲しているが、越中(冨山県)伏木生まれのこの父親・卯三郎がかつて配下だったお頭。一味の規模は中の下ほどであったらしい。

201

年齢・容姿:どちらも記されていない。
生国:越中(えっちゅう)国射水郡(いみずこうり)氷見町(現・冨山県氷見市)。
地縁を最優先して考察した。伏木のすぐ北が氷見である。氷見はかつて蝦夷防備のための烽火(のろし)を監視するために火見と書いたと。
『旧高旧領』は甲斐国八代郡、飛騨国吉城郡、上総国望陀郡、武蔵国比企郡などの「中尾」もあげている。

探索の発端:[浅草・御厩河岸]は、〔海老坂〕の与兵衛と密偵・豆岩の物語で、〔中尾〕の治兵衛の探索ものではないから、記されていない。
卯三郎が独立した、との記述があるから、親分子分の縁も早ばやと切れたものと類推する。

結末:記述がない。

つぶやき:ほんの2,3行しか触れられていない〔中尾(なかお)〕の治兵衛を採りあげたのは、盗人仲間の地縁の強さ---というより、池波さんの地縁に対する考え方を見るためである。

この篇は、『オール讀物』1967年12月号に独立短篇として発表され、鬼平シリーズ連載の実現のきっかけとなった。。
この年、池波さんは、同誌へ4篇、寄稿している---というか、大衆小説の檜舞台であるこの雑誌から執筆依頼を受けた、といったほうが正しかろうか。
2月号 [正月四日の客]
4月号 [坊主雨]
9月号 [ごめんよ]
12月号 [浅草・御厩河岸]

[浅草・御厩河岸]を受けとりに行った、当時はまだかけだし編集者だった花田紀凱さんの思い出によると、池波さんが「長谷川平蔵というおもしろい男がいてね。人足寄場なんかを造ってね」とコナをかけたという。
コナをかけた、というのは、その4年ほど前から、長谷川平蔵ものともいえる[江戸怪盗伝][白浪看板]を発表して、長谷川平蔵に意を寄せていることを暗示したが、どの編集部からも名ざしの依頼が来なかったのにシビレをきらした果ての謎かけと見られるからである。

社へ戻った花田編集部員が、杉村友一編集長へ池波さんの言葉を報告するや、ただちに「その、火盗改メの長官・長谷川平蔵もの」での連載が依頼された。
池波さんは、(待ってました)とばかりに、まさに間髪をいれずに、なんと、新年号からの連載を提案したのである。それが[唖の十蔵]。

そして、シリーズ・タイトル案がいろいろ出されたが、最終的に、誰かが4年前に出た岩波新書の長崎奉行所の記録---『犯科帳』をおもいだして提案し、『鬼平犯科帳』と決まった。


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2005.05.21

〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収められ、[尻毛の長右衛門]とその篇のタイトルにもなっている盗人一味の首領。元は本格派の〔蓑火〕の喜之助の下で修行しているので、筋の通った盗めをする。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
片腕は〔藤坂(ふじさか)〕の重兵衛。
(参照: 〔藤坂〕の重兵衛の項)

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年齢・容姿:50をこえたばかり。手足も躰も毛むくじゃらで、耳の穴からも長い毛がはみだしている。
生国:美濃(みの)国方県郡(かたがたこうり)尻毛(しっけ)村(現・岐阜県岐阜市尻毛)。
岐阜市の西域、伊自良川下流の右岸。岐阜駅からは「尻毛(しっけ)橋をわたって町並みへ入る。
池波さんは、斉藤道三か織田信長、あるいは長久手の合戦時の羽柴秀吉を調べていて、この地名に達したか。
ついでに記すと、(しっけ)のいわれには、アイヌ語説と、湿気の多い土地説がある。

探索の発端:〔布目(ぬのめ)〕の半太郎の項に記したが、長右衛門が、妾だったお新のむすめ・おすみ(19歳)を、本所・吉田町2丁目の薬種問屋〔橋本屋〕へ引き込みに入れた。つなぎ役は半太郎(28歳)。
(参照: 引き込み女おすみの項)
(参照: 〔布目〕の半太郎の項)
そのおすみと半太郎ができてしまったはいいが、おすみが密偵おまさに見つかり、見張りがついた。
(参照: 密偵おまさの項)

いっぽう、〔尻毛(しりげ)〕一味の側では、長右衛門が父娘ほども年齢がへだたっているおすみを後妻にしたいと半太郎に告げていた。
聞いて半太郎は、一味を出て行く決心をする。

結末:出て行った半太郎のことで、長右衛門は〔橋本屋〕への押し込み計画を中止し、小舟で江戸から出ようとしたところを、鬼平に捕まった。

つぶやき:「尻毛(しっけ)」を訪ねるべく、岐阜の友人に電話を入れ、「遅すぎたようだよ。尻毛への電車線は、この4月1日で廃線になったよ」といわれた。
1時間に1本のバスをたよりに岐阜駅へ降り立った。あちこちバス停を尋ねまわって、ようやく1本/時間のバスに乗り込んだら、乗客はしばらく女子高校生と2人きり。これでは廃線になるのも無理はなかろうとおもった。
その代わりに、尻毛町へ入る「尻毛橋」は車の長蛇の列。

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伊自良(いじら)川に架かる尻毛橋

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かつての尻毛駅脇の閉鎖された踏み切り

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廃線で錆びた線路と標識もはずされたホーム

〔尻毛〕の長右衛門をめぐっては、『鬼平犯科帳』におけるコメディ役の意味について書きたかったのだが、廃線ショックに勝てなかった。

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2005.05.20

〔乙坂(おとさか)〕の庄五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻2に収録の[密偵(いぬ)]で、主人公〔ぬのや〕の弥市を、〔荒金(あらがね)〕の仙右衛門一味を裏切った者として、残党の〔縄ぬけ〕の源七のもとへ、巧みに誘導する。
元は〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門一味にいた男。

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(参照: 〔荒金〕の仙右衛門の項)
(参照: 〔夜兎〕の角右衛門の項)

年齢・容姿:30男。痩せた小柄な躰。
生国:strong>越前(えちぜん)国丹生郡(にゅうこうり)乙坂(おつさか)村(現・福井県丹生郡朝日町乙坂)。
『旧高旧領』はほかに、越前国 今立郡乙坂今北村(現・福井県鯖江市乙坂今北町)と、美濃国石津郡乙坂村(現・岐阜県養老郡上石津町乙坂)を記している。どちらも(おつさか)と読む。
〔夜兎〕の角右衛門一味にいたことから、美濃かともおもったが、浜松で捨て子された〔夜兎〕に江戸で育てられて名跡を継いだ角右衛門と、因幡出身の〔荒金〕の仙右衛門のつなぎ役というふうに考え、日本海側の越前説を採りたくなった。
また、池波さんは福井県を旅行しており、そのときに乙坂山を目にして記憶にとどめたろう、とも推測。

探索の発端:5年前の天明6年(1786)、弥市はそのときの火盗改メ・堀帯刀組(先手・弓の第1組)の手に捕まり、拷問の末に〔荒金〕一味の盗人宿を自白し、一味11名が捕縛された。そのとき〔縄ぬけ〕の異名をもつ源七が縄ぬけして逃亡した。
〔乙坂(おとさか)〕の庄五郎が弥市に告げたのは、源七が江戸へ戻ってきて弥市の命を狙っているということだった。
密偵になっている弥市は、そのことを与力・佐嶋忠介へ報告し、庄五郎の強請のまま、合鍵づくりを引きうけた。
その弥市には、佐嶋の手配で見張りがついていた。

結末:弥市が合鍵を、竃(へっつい)河岸の奈良茶漬屋〔巴〕で待っていた〔乙坂(おとさか)〕の庄五郎へとどけると、そこには〔縄ぬけ〕の源七が隠れていて、弥市を刺殺。
庄五郎と源七をはじめ、集まってきた〔乙坂〕一味は捕縛。寛政3年(1791)初冬の事件である。

つぶやき:密告したとか密偵(いぬ)になったとかで、仲間を裏切った者への制裁のきびしさは、さもあろうと、うなずける。
しかし、密偵は鬼平身内の者でもある。彼らが盗賊たちから制裁を受けるのを読むのは、耐えがたい。弥市はその第1号。
伊三次や〔馬蕗(うまぶき)〕の利平治がつづいて、読み手の胸をゆさぶる。
(参照: 伊三次の項)
(参照: 〔馬蕗〕の利平治の項)


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2005.05.19

〔笠倉(かさくら)〕の太平

『鬼平犯科帳』文庫巻12に所載の[高杉道場・三羽烏]で、剣友盗賊・長沼又兵衛一味を助(す)ける、役者くずれなだけに化けのうまい独りばたらきの盗人。
(参照: 剣友・長沼又兵衛の項)

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年齢・容姿:44,5歳。一癖もニ癖もある面がまえだが、どこにでもある顔。
生国:信濃(しなの)国水内郡(みのちこおり)笠倉村(現・長野県下水内郡豊田村豊津)。
笠倉村はかつて、香桜(かざくら)村と呼ばれた。村に1本のみごとな桜の木があったからである。千曲川の氾濫で村が流され、台地に移住したときに笠倉(かざくら)村と改名した。
真田一族の取材もあり、池波さんは信濃路をよく渉猟しているが、(かざくら)と濁るとは気づかなかったのだろう。
太平は、早くから名古屋へ出て役者となり、その演技力を生かして、のち、化けの巧みな盗人となった。

探索の発端:船宿〔鶴や〕をまかされている〔小房(こぶさ)〕の粂八が、かつて兇盗〔野槌(のづち)〕の弥平の下にいたとき、〔砂蟹(すながに)〕のおけいも一味にいた。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
(参照: 〔砂蟹〕のおけいの項)
その女賊おけい(40がらみ)が〔鶴や〕で逢引きをした相手が、〔笠倉(かさくら)〕の太平であった。
隠し穴から2人の会話を盗みきくと、長沼又兵衛一味が狙っているのは、巣鴨の徳善寺と。
鬼平が、身分をかくして徳善寺へ潜んだ。

結末:同門だった長沼又兵衛は鬼平に斬られたが、家督している兄のために、名前は大島平之進としてと処理された。太平もおけいも逮捕。

つぶやき:梅原猛さんの「国民文学の4条件」の一つに、「抑制のきいたエロス」があげられている。
柱を背に、あぐらをかいた〔笠倉〕の太平の上に腰をおろし、着物も乱さずにゆったりと揺れるおけいとの情事には、覗き見している粂八もさすがにしどろもどろ。

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2005.05.18

〔穴原(あなはら)〕の与助

『鬼平犯科帳』文庫巻20に収録の篇で、タイトルとなっている口会人の[寺尾の治兵衛]がことは、すでに紹介している。
この〔寺尾(てらお)〕の治兵衛とともに、かつては〔蓑火(みのひ)〕の喜之助の下で薫陶をうけていたが、一味が解散したときに貰った引退金(ひきがね)で、品川の先の海辺に近い大井村に小さな家を買ってひっそりと暮らしていた。が、治兵衛が最後の盗めをするというと、自分の家を盗人宿として利用することをすすんで承諾した。

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(参照: 〔寺尾〕の治兵衛の項)
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)

年齢・容姿:60をこえている。容姿の記述はない。
生国:岩代(いわしろ)国会津郡(あいづこうり)穴原(現:福島県南会津郡舘岩(たていわ)町穴原)。
上野(こうづけ)国利根郡(とねこうり)穴原村(現:群馬県利根郡利根村穴原)も候補地の1つだが、会津の穴原は、化政期(19世紀初頭)に家数15軒という記録と冬期の積雪をかんがえると、病気持ちの与助としては故郷へ帰ることをためらったであろうと推察して、会津の方をえらんだ。
ついでだが、会津も利根も(あなばら)と濁って発音する。

探索の発端: 〔寺尾〕の治兵衛のほうから〔大滝〕の五郎蔵に声をかけ、それから探索がはじまった経緯は治兵衛の項に記しているので省略。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)

結末:〔穴原〕の与助も捕まり、治兵衛から預かっていた170余両は、お上が没収。それにしても、〔蓑火〕一味が解散してからかなり日がたっている。時効というのはなかったのだろうか。あるいは、鬼平は、与助の病躯を気づかってやらなかったか。

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2005.05.17

〔灰谷(はいだに)〕の菊松

『鬼平犯科帳』文庫巻16に収録されていて、篇のタイトルにもなっている巨盗[白根の万左衛門]の配下。
一味の一人・菊之助は、7年前に京から江戸へ下ってき、麹町で筆師として仕事場をかまえながら、数寄屋橋門外・弥左衛門町の文房具舗〔玉栄堂・大和屋〕に製品をおさめることをえ、金蔵そのほかの情報を万左衛門へ送っていた。
それなら---というので、老巧な〔灰谷(はいだに)〕の菊松とむすめ婿〔沼田(ぬまた)〕の鶴吉が下向してきた。
万左衛門も江戸へやってき、引き込みには、女賊お芳が〔玉栄堂・大和屋〕へまんまと入り込んだ。
しかし、江戸で発病した万左衛門の病状は重かった。小頭の〔雨彦(あまびこ)の長兵衛も名古屋から呼ばれた。
(参照: 〔白根〕の万左衛門の項)

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年齢・容姿:どちらも記述がないが、老巧とあるから、年齢は40歳代か。
生国:山城(やましろ)国乙訓郡(おとくにこおり)灰谷村(現・京都府京都市西京区大原野石作町)。

探索の発端:鬼平が、亡父を引き立ててくれた小出内蔵助を麹町2丁目に見舞い、帰路、平河天神へ詣でようとした。


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平河天満宮(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

そこへ、密偵〔馬蕗(うまぶき)の利平治が、大鳥居の前からこっちへやってくる男女の、男は巨盗〔白根(しらね)の万左衛門一味の〔沼田(ぬまた)の鶴吉で、女は万左衛門のむすめ---と告げた。
(参照: 〔馬蕗〕の利平治の項)
後をつけた同心・木村忠吾と利平治は、2人が麹町6丁目裏の筆師・梅之助の家へ入っていったのを確かめた。
すぐさま、向いの鰻屋〔伊勢屋〕に見張り所が設けられた。

結末:万左衛門が隠匿している1,500余両をめぐって、小頭〔雨彦(あまびこ)〕の長兵衛と〔沼田(ぬまた)〕の鶴吉・おせき夫妻の駆け引きがあり、おせきは夫・鶴吉に絞殺され、鶴吉は〔灰谷〕の菊松も含む長兵衛たちに惨殺された。その現場へ火盗改メが出張ってきていた。

つぶやき:篇中ではまるで役目のない〔灰谷〕の菊松を、なぜ、池波さんは登場させたか。
灰谷村は、近くの現・灰方(はいかた)町、出灰(いずはい)町と同じく、かつて石灰を産したためにつけられた地名という。京都の古い家屋の土間の懐かしい三和土(たたき)の連想から、池波さんは灰谷村をえらんだのかもしれない。

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2005.05.16

〔蛇(くちなわ)〕の平十郎

『鬼平犯科帳』文庫巻2に収録の[蛇の眼]のタイトルは、互いに素性を知らないで出会った時の、互いの視線で相手を互いに察知しあったことを暗示している。
もっとも、タイトルの[蛇(くちなわ)]は、大盗・平十郎の〔通り名(呼び名)〕。したがって、タイトル全体から伝わってくるのは、蛇の眼のように冷たく残忍さをたたえた眼をもった男---の挙措である。

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年齢・容姿:40がらみ。5尺(150センチ)にも足りない小男。才槌頭(さいづちあたま)。眼は細いが、上記したごとく、視線が一瞬、白く冷たく光ることがある。
生国:摂津(せっつ)国・大坂の西横堀本町の印判師の一人っ子。本名・与兵衛。
両親の愛を一身に受けて育ったために、「他人をゆるすことを知らず、他人を容(い)れることを知らず」で、負けること、ゆずることの嫌いな性格のまま大人になった。
父がの病死のあと、母親がほかの男と情を通じているのをゆるすことができなかった与兵衛は、鉈で2人を殺して逃げ、盗みの世界へ入り、盗人としては平十郎を名乗った。

探索の発端:鬼平と平十郎が出会ったのは寛政3年(1791)初夏で、本所・源兵衛橋ぎわの蕎麦屋〔さなだや〕において。
そこで冒頭に記したような視線を交わしあい、鬼平のほうは(油断のならぬ怪しい奴)としかおもわなかったが、平十郎は相手を鬼の平蔵と察知した。
日本橋・高砂町で〔印判師・井口与兵衛〕の看板をあげている〔蛇〕の平十郎は、浜町堀をはさんで斜向(はすむか)いの道有屋敷の金蔵を狙っていた。
配下は、、本所・成願寺裏の百姓家に住む、以前は飯倉の唐物屋〔白玉堂(はくぎょくどう)〕の主人だった紋蔵。
(参照: 〔白玉堂〕紋蔵の項)
志度呂(しどろ)の金助(35歳)
片波(かたなみ)の伊平次(40歳)
(参照: 〔片波〕の伊平次の項)
駒場(こんまば)の宗六(30歳)
(参照: 〔駒場)の宗六の項
鶉(うずら)の福太郎(25歳)
(参照: 〔鶉〕の福太郎の項)
それと、農夫のふりをしている本所の百姓家の主。
これより前の事件---文庫巻1に所載の[座頭と猿]で逃げ隠れていた座頭・彦の市が女に会いに現われて逮捕され、〔蛇(くちなわ)〕一味の盗人宿が相州・小田原宿の北の部落・上之尾にあることを白状した。

結末:上之尾へ馬で急行、待ち構えていた鬼平以下の火盗改メに、全員逮捕、死罪。
平十郎だけは過去の残虐な所業もふくめて、市中引き回しのうえ火刑。

つぶやき:30歳代の池波さんが、長谷川平蔵という幕臣に興味をもち、長谷川伸師の書庫などで資料をあれこれ探していることを知った長谷川伸師が、のちにテレビ版『鬼平犯科帳』や舞台・映画をプロデュースした故・市川久夫さんに、「池波が長谷川平蔵のことを調べているよ」と告げたと、市川さんのエッセイにある。

資料調べは難航していたようで、明治22年の『江戸会誌』6月号で「長谷川平蔵の逸事」に書かれた「幹事の才あり」で、人物像の具体化の端緒をやっとつかみえたようである。
幹事とは、人びとの「長」の意である。

『鬼平犯科帳』の構想としてはそれでも、巻1[唖の十蔵]のように同心・与力を主人公に据えるか、同[血頭の丹兵衛][老盗の夢][座等と猿]や、巻2のこの篇[蛇(くちなわ)の眼]のように盗人を主人公にして物語を構成するつもりだったと見る。

「幹事の才あり」を換骨奪胎して池波流の長谷川平蔵を造形・主人公に据えるようになったのは、、『鬼平犯科帳』のテレビ化の話が具体化してきていた、巻3[盗法秘伝]あたりからと推察する。

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2005.05.15

〔下津川(しもつがわ)〕の万蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻13に載っている[殺しの波紋]に登場して、火盗改メ方与力・富田達三郎を強請(ゆす)る〔犬神(いぬがみ)〕の竹松が、属していた、〔下津川(しもつがわ)〕一味の首領で名は万蔵。

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年齢・容姿:どちらも記載がない。
生国:紀伊(きい)国日高郡(ひだかこうり)下津川村(現・和歌山県日高郡印南(いなみ)町美里)
下津川から廻船が出ていた印南港まで約5キロ(1里強)だから、村を捨てて海路で紀伊藩の城下町や大坂へ出ていきやすい。〔下津川〕の万蔵が捕らえられて100年後の明治6年(1873)の戸数24、人口112。
『旧高旧領』には、美作(みまさか)国北条郡下津川村(津山藩領)も載っているが、中国山脈の山中の交通不便な村のようである。これが現在の岡山県勝田郡勝北町下津川にあたるのか、同県苫田(とまた)郡加茂町下津川なのか未調査。地元の鬼平ファンからのご教示をまつ。

探索の発端:寛政7年(1795)初冬の事件である[殺しの波紋]の3年前---とあるから、寛政4年(1792)、「火盗改メ方は、下津川(しもつがわ)の万蔵(まんぞう)という凶悪な盗賊一味の盗人宿を包囲し、万蔵以下一味六名を捕えた」「この捕物は、与力・富田達三郎の探索が実ったもので---」とあるだけで、探索の経緯や盗人宿の所在地の記述はない。

結末:捕縛時にはげしく抵抗した〔下津川」一味は、5名が斬って殪されたが、万蔵の片腕といわれていた〔犬神(いぬがみ)〕の竹松ほか3名が捕物陣を切って破り、逃走した。
万蔵が切って殪された側にいたのか、捕縛されたほうだったのかも記されていない。捕えられていたのなら、押し入った先々での殺戮のかずかずにより、獄門はまぬがれなかったろう。

つぶやき:こうして書き出してみると、池波さんはじつに巧みに省略技法を使っていることがわかる。この篇のばあい、〔犬神〕の竹松と、富田達三郎に斬り殪された弟・長吉にライトがあたれば物語は進展するわけで、〔下津川〕の万蔵がことは詳述を要しない。
人物造形で、この人物は淡彩で塗る、この女は濃く描く---を選ぶのは、池波さんの頭の中で一瞬にして決まるのであろう。そうして決るめた彩色を、読み返し時に、色重ね・加筆することもあるのだろうか。

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2005.05.14

〔花輪(はなわ)〕の万蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻9の[白い粉]で、本郷の湯島天満宮・門前の料理屋〔丸竹〕の2階座敷で相談している3人の盗賊の首領たちの1人。
ほかは、武州・上州から信州へかけてをテリトリーとしている、〔駒羽(こまばね)〕の七之助と、「江戸の他では盗めはしねえ」と自慢している〔霰(あられ)〕の小助。
組織(しくみ)はいずれも小規模である。
(参照: 〔駒羽〕の七之助の項)
(参照: 〔霰)〕の小助の項)

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湯島天満宮(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

年齢・容姿:35歳で駒羽〕の七之助と同じ。容姿の記述はない。
生国:甲斐(かい)国巨摩郡(こまこおり)東花輪村か西花輪村(現・山梨県中巨摩郡田富(たとみ)町東花輪か西花輪)。
『大日本地名辞書』には、ほかに、栃木県勢多郡東(あずま)村の花輪と、秋田県鹿角(かづの)市花輪、岩手県宮古市花輪があげられているが、テリトリーに信州が入っているので、山梨県を採った。
甲府盆地中央東部にある東・西を冠した花輪村の東側を笛吹川が南流れている。同川が山にあたって曲折している姿から、江戸期以前には「鼻輪」と呼ばれていたと。

事件の発端と結末:駒羽(こまばね)〕の七之助の項に同じ。

つぶやき:中小組織の盗賊たちが、盗めの規模に応じて人手の貸し借りをするのも、芝居での俳優や裏方の貸し借りをヒントにした、池波さんの考案だろう。
芝居は、俳優にとどまらず、いろんな職種の裏方を必要とする。それが盗賊一味の盗めでの分担に擬せられている。

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2005.05.13

〔駒羽(こまばね)の七之助

『鬼平犯科帳』文庫巻9の[白い粉]で、本郷の湯島天満宮・門前の料理屋〔丸竹〕の2階座敷で相談している3人の盗賊の首領たちの1人。
ほかの2人は、
〔花輪(はなわ)〕の万蔵---盗めのテリトリーは、〔駒羽(こまばね)〕の七之助と同じで、武州・上州から信州へかけて。
(参照: 〔花輪〕の万蔵の項)
〔霰(あられ)〕の小助。「江戸の他では盗めはしねえ」が自慢。
(参照: 〔霰〕の小助の項)
首領たちとはいえ、組織(しくみ)はいずれも小規模---と、小助のところで書いておいた。

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(参照: 〔霰〕の小助の項)

年齢・容姿:35歳。容姿の記述はない。
生国:下総(しもうさ)国葛飾郡(かつしかこうり)駒羽根村(現・茨城県猿島郡総和町駒羽根)。

探索の発端:半年前に〔五鉄〕の三次郎が寄越した料理人・勘助(31歳)がつくる料理の味付に乱れがあることに、鬼平が気づき、ひそかに勘助を見張らせたところ、湯島の〔丸竹〕へ連れ込まれたことから、警戒がはじまり、料理はすべて鼠に与えられた。
勘助は博打にふたたび手をだしてい、博打場でから借金を重ねており、女房おたみを人質にとられ、その代償として鬼平の食べ物に毒を盛ることを強要されていた。

結末:勘助を絞殺して証拠の隠滅をはかった〔霰〕の小助一味は、鬼平に斬り殺された。
〔丸竹〕にいた〔駒羽〕の七助も〔花輪〕の万蔵も捕縛。
勘助は遠島。

つぶやき:池波さんは(こまばね)と濁らせているが、「駒羽根」は江戸時代から(こまはね)と濁らない。

悪事が博打の借金からはじまる例は、この篇だけにとどまらない。
火盗改メの同心で博打に手を染めるものもいる。
「飲む、打つ、買う」はいつの時代でも、男を誘っているのだ。

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2005.05.12

〔片波(かたなみ)〕の伊平次

『鬼平犯科帳』文庫巻2の巻頭に据えられている[蛇(くちなわ)の眼]の主役は、道有屋敷の大金を狙う〔蛇〕の平十郎で、配下の6人のうちの1人が、この〔片波(かたなみ)〕の伊平次。
(参照: 〔蛇〕の平十郎の項)

202

年齢・容姿:40歳。容姿の記述はない。
生国:丹波(たんば)国桑田郡(くわたこおり)片波村(現・京都府北桑田郡京北町大字片波)。
『角川地名大辞典』が、江戸期後期の戸数は12戸で石高は23石と記しているから、家数も収穫も少なく林業に頼る村洛だったようである。それで、大坂出身の平十郎と結びついたか。

探索の発端:惨劇が行われた。寛政3年(1791)6月20日夜。〔蛇〕一味は予定どおりに、浜町河岸ぞい・橘町に近い道有屋敷を襲ったが、金蔵は空だった。その日の昼間、6,000余両をそっくり幕府へ献上してしまっていたのだ。怒った平十郎は当主・千賀道栄をはじめ家の者を惨殺したが、道栄は虫の息のもとで血で「くちなわ」と書きのこした。
これより前の事件---文庫巻1に所載の[座頭と猿]で逃げ隠れていた座頭・彦の市が女に会いに現われて逮捕され、〔蛇(くちなわ)〕一味の盗人宿が相州・小田原宿の北の山中の部落・上之尾にあることを白状した。

結末:上之尾で全員逮捕。死罪。平十郎だけは引き回しのうえ火刑と。

つぶやき:『鬼平犯科帳』の後半の事件は、鬼平の手配よろしきをえて、ほとんどが未遂におわるようになってしまっている。それでよし、とする読み手もいようが、これは物語なのだからと割りきって、賊側の智謀も見たいとおもっている読み手には、なんとなく物足りない。
それには、この篇の筋立てと筋運びが充分に応えてくれる。

史実をいいたてるのは野暮だが、切絵図でみると、道有屋敷は橘町のもっともっと北西寄り---大和町の西にあった。

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2005.05.11

〔平瀬(ひらせ)〕の音吉

『鬼平犯科帳』文庫巻21の掲載の[春の淡雪]で、神楽坂・毘沙門横町に薬種店を構えている〔池田屋〕五平は、じつは正統派の首領である。その五平の参謀役---とはいえ、端役のあつかい。

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(参照: 〔池田屋〕五平の項)

年齢・容姿:60歳前後。容姿の記述はない。
生国:飛騨(ひだ)国大野郡(おおのこうり)平瀬村(現:岐阜県大野郡白川村平瀬)。
『旧高旧領』にはほかに、三河国加茂郡平瀬村(現・愛知県東加茂郡平瀬村)と甲斐国山梨郡平瀬村、信濃(しなの)国安曇郡平瀬村(現・長野県松本市北部、梓川と奈良井川の合流点あたり)もあるが、近江国甲賀(滋賀県甲賀市)の出身である〔池田屋〕五平との地縁から推定すると、飛騨の平瀬村がもっとも濃いと見る。

探索の発端:〔池田屋〕が火盗改メの見張り下に入った経緯は、2005.04.08の〔池田屋〕五平の項に記したので、省略。

結末:〔池田屋〕にいた5名は、神妙に逮捕された。

つぶやき:〔池田屋〕が薬種店を装っているところが、まず、おもしろい。甲賀は、〔忍者丸〕とか〔乳のたる薬〕〔首から上の薬〕などの家庭薬の産地であった。
この〔池田屋〕のロケーションについて、聖典は、

毘沙門横町は突き当って、左へ折れている。その角地に池田屋があった。
突き当りが川口志摩守とていう大身旗本の屋敷で、そこの門長屋の窓から、池田屋の表口がすっかり見わたせた。

川口志摩守の家禄は300俵で、「大身旗本」などとは呼べない。池波さんは「志摩守」の爵位にだまされたのだろう。

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2005.05.10

〔飯坂(いいさか)〕の音八

『鬼平犯科帳』文庫巻13に所載の[殺しの波紋]で、辻褄あわせのような形でつくりだされ、殺される盗人。
辻褄あわせといったのは、本筋の事件---火盗改メの与力・富田達五郎の2件の殺人を目撃させるために、〔犬神(いぬがみ)〕の竹松が現場に居合わせた状況づくりのために、音八が竹松に殺されることになっているから。
殺しの動機は、〔犬神〕の竹松一味の音八が、分配金について不満をいいたてていたため。

213

年齢・容姿:どちらも記述されていない。
生国:岩代(いわしろ)国伊達郡(だてこおり)飯坂(現・福島県伊達郡川俣町飯坂)。
福島市に温泉で知られる飯坂町があるが、この男の性格から推測して、そういう賑やかしい土地の出身ではないと見たい。
ほかにも越中国新川郡飯坂新村(現・冨山県中新川郡上市町飯坂)もある。が、脇役も脇役、とるにたらないほどの端役なので、深追いするのもどうかとおもう。

探索の発端:大川(隅田川)ぞい、浅草・今戸に3体の死体が流れついた。その中の一体が〔飯坂(いいさか)〕の音八だったが、調べはすすまなかった。つまり、殺しではあったが身元不明者ということで捜査が打ち切られたのである。

結末:富田与力の殺人現場を目撃した〔犬神〕の竹松は、富田を強請っており、配下の者が富田を尾行しているところを逆に〔平野屋〕の番頭・茂兵衛が尾行、浅草・阿倍川町の盗人宿を見つけ、竹松とその情婦お吉など4名を逮捕。これで全員というほど小さな盗人集団だった。

つぶやき:富田与力は、1年前の行きがかりの殺人を隠しとおしたために、その目撃者をつぎつぎ消していかねばならなくなり、けっきょく、自滅する。
一つのウソを口に、そのウソを糊塗するために次のウソを考え出し、ウソが雪だるま式iふくらんでいく話はよくある。
殺人では、10年ほど前、スコット・スミスという新人作家が、一つの殺人をかくそうとして連鎖殺人をおかしていく心理劇に近い『シンプル・プラン』(扶桑社ミステリー 近藤純夫訳)を発表、大喝采を得たことがある。もっとも、10年も経つとミステリー小説は読者層が新陳代謝するためか、はたまた短命はエンターテインメント作品の宿命なのか、いまでは『シンプル・プラン』が話題にのぼることは稀である。ほんとうは、世界のミステリー・ベスト100に入ってもおかしくない秀作だったのだが。
ひきかえ、池波作品の息の長さはどうだ!

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2005.05.09

〔鹿川(しかがわ)〕の惣助

『鬼平犯科帳』文庫巻5に載っている[乞食坊主]こと、剣友・井関録之助に、南品川の貴船明神社(現・荏原神社  品川区北品川3-30-28)境内で盗めの会話を聞かれてしまった、〔古河(こが)〕の富五郎一味の盗人。2005.04.26にアップした〔寝牛(ねうし)〕の鍋蔵の相棒。
(参照: 〔寝牛〕の鍋蔵の項)

205

年齢・容姿:30男。痩せぎす。
生国:一応、上野(こうずけ)国新田郡(にったこうり)鹿川村(現・群馬県新田郡笠懸村鹿)としておく。
仮定としたのは、ここは(かのかわ)と読むからである。ちなみに、地名の由来は鹿の皮を製したことによると『角川地名大辞典』が記している。
ほかに、三河国幡豆郡(はずこうり)鹿川(ししかわ)村(現・愛知県幡豆郡鹿川)と安芸国佐伯郡(さえきこうり)鹿川(かのかわ)村(現・広島県佐伯郡能美町鹿川)があるが、いずれも池波さんのルビ(しかがわ)ではない。
で、〔古河(こが)〕の富五郎の「古河」にもっとも近いこと、若いころの池波さんがしばしば上野国を訪れていたことから、笠懸村の鹿川を採った。

探索の発端:、(〔寝牛〕の鍋蔵のものをコピー)。
品川の貴船明神社の床下で昼寝をしていた井関録之助に、〔寝牛(ねうし)〕の鍋蔵と〔鹿川(しかがわ)〕の惣助がかわした極秘の会話を聞かれた。
仕掛人を頼んで録之助を襲わせたが、なんと、その仕掛人が同門の菅野伊介だったことから、録之助は20年ぶりに長谷川平蔵を役宅へ訪ねることになった。
録之助の話から、火盗改メは、南品川2丁目に小さな小間物屋〔吉野屋〕をだしている〔寝牛〕の鍋蔵を見張りはじめた。

連絡(つなぎ)に現われる〔鹿川〕の惣助も見張られることとなった。

結末:襲った質店〔横倉屋〕で一網打尽。死罪であろう。

つぶやき:聖典で、質店が盗賊たちに狙われるのはこの篇だけだったようにおもう。もっとも多く襲われているのは薬種問屋だが、この業種の利益が大きいからではなく、池波さん愛用の『江戸買物独案内』にもっとも多くページをとって広告しているのが、家庭薬の広告なので、目にとまりやすかったのであろう。
ついでにいうと、質店は同書に1軒も広告を掲出していない。

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2005.05.08

〔高山(たかやま)〕の治兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻20の巻頭へ置かれている[おしま金三郎]で、〔牛尾(うしお)〕の又平一味が手入れされたとき、逮捕をまぬがれた2人のうちの1人が、この〔高山(たかやま)〕の治兵衛。もう1人は女賊おしま。

220

年齢・容姿:50がらみ。小肥り。両眼は瞳が見えないほどに細い。おだやかな口のききよう。
生国:近江(おうみ)国浅井郡(あさいごうり)高山村(現・滋賀県東浅井郡浅井町高山)。
「高山」といえば、飛騨・高山をはじめ全国に10カ所以上もあるのに、「姉川支源草野川の源」(『大日本地名辞書』)にある谷奥のここを選んだのは、『蝶の戦記』など、姉川の合戦のロケーション取材の予習で、池波さんが同辞書に目をとおしたときに記憶したとは推量したからである。もちろん、〔牛尾〕の又平、〔瀬田〕の虎蔵を近江出身と見ての地縁なのだが。

探索の発端:女賊おしま(この篇では27,8歳)が、〔牛尾〕一味の探索にかかわる不祥事で火盗改メの同心をお役追放になり、麻布・田島町の鷺森明神社(氷川神社 港区白金2丁目へ合祀)傍らで〔豆腐酒屋]の亭主になっている松浪金三郎のところへやってきて、〔牛尾〕の又平の実弟〔瀬戸(せと)〕の虎蔵が、又平の逮捕に功績のあった小柳安五郎の命を狙っていると告げた。
じつは、〔牛尾〕の又平の右腕といわれた〔高山〕の治平が、仕掛けを大きくみせるために、おしまに吹き込んだこしらえごとだった。

結末:〔高山〕の治兵衛に金で雇われた浪人者たちは、松浪金三郎を襲った者も、小柳安五郎に切りかかった者たちも、鬼平にあっさり斬られたのみならず、後者の場合には、居合わせた治兵衛も捕縛され、死罪。

つぶやき:事件の現場にかならず来あわせる鬼平の勘ばたらきのみごとさに感嘆すべきか、話がうますぎることに眉をひそめるべきか。ファンとしては躊躇することなく前者を取るだろう。
居酒屋をたたんで上方へ流れた金三郎が、仕入れに京へのぼった南鍋町2丁目の〔玉章堂〕の番頭に、女といっしょにいるところを見かけられる結末は、あざやか。女は、なんとしても金三郎に添いとげたかったおしまである。

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2005.05.07

〔鷺田(さぎた)〕の半兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻7の巻頭に置かれている[雨乞い庄右衛門]で、首領・庄右衛門が〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門のところから独立するとき、右腕としてつけられたほどの仁。
庄右衛門が駿州の山奥の温泉場・梅ヶ島で療養しているあいだ、深川・小松町で眼鏡師の看板をあげながら一味を束ねている。

207
(参照: 〔雨乞い〕庄右衛門の項)
(参照: 〔夜兎〕の角右衛門の項)

年齢・容姿:60歳に近い。痩せた小さな顔、躰、細い眼。血色はいい。
生国:美濃(みの)国本巣郡(もとすこうり)鷺田村(現・岐阜県本巣郡巣南町呂久)
『大日本地名辞書』は「呂久(ろく)」の項に、「宝江(ハウエ)、古橋(フルハシ)等と合併し、郷名鷺田(サギタ)を採りて村名を改む」とある。「鷺田」なる地名は東日本にはほかにないから、この1行に、池波さんは目をとめたにちがいない。

探索の発端:小田原の剣客・鳥飼喜十郎の道場で旧交をあたためた岸井左馬之助は、江戸への帰路、平塚宿の旅籠〔大和屋〕で、配下の〔勧行(かんぎょう)〕の定七と〔駒沢(こまざわ)〕の市之助に絞殺されそうになっていた〔雨乞(あまご)い〕庄右衛門を助けて道連れとなった。
しかし庄右衛門は、六郷の渡しで心ノ臓の発作が再発、息絶えたが、いまわのきわに、妾のお照へ金をとどけてほしいと頼んだことから、阿部川町・称念寺(台東区元浅草3丁目)の裏の盗人宿がわれた。
と同時に称右衛門は、左馬之助が鬼平の剣友と知るや、自分を殺そうとした配下に半兵衛も与(く)みしていると疑い、小松町の住いを告げてしまったたのである。

結末:半兵衛は、一味の若い男・伊太郎と乳繰りあっていた庄右衛門の妾のお照を、仲間の掟どおりに殺害。
しかし、彼自身も、〔雨乞い〕一味を見限った〔勧行〕の定七や〔駒沢〕の市之助たちに殺された。

つぶやき:配下たちが造反を決めたのは、半兵衛が1年前に市之助を伴って梅ヶ島へ庄右衛門を見舞ったとき、庄右衛門に付き添っていた定七に、「お頭は、もう長くはねえぞ。見ねえ、小鼻の肉がげっそりと落ちている」と、いわでもがなのことをいったのが遠因となっているようにおもう。定七たちにしてみれば、半兵衛を庄右衛門側の人物と見ていたのだ。

お照の情事だが、庄右衛門とすれば、最後の盗めをやりとげた後は、「もう、女の肌身はいらねえ」とお照を自由にしてやり、自分は一人きりで死を待つつもりだった。昔気質の半兵衛が掟に忠実すぎた処分だったともいえる。

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2005.05.06

〔珊瑚(さんご)玉〕のお百

『鬼平犯科帳』文庫巻11に収められている[密告]の女賊。深川・陽岳寺門前の丸太橋ぎわの茶店〔車屋〕で店員をしていた16歳のとき、百俵取りのご家人の長男・横山小平次の子を身ごもった。小平次は石段の上から突き落として流させようと、お百を聖天宮へ連れていった。が、腹の子は流れず、お百は左脚を骨折。
事情を聞いた銕三郎(鬼平の家督前の名)は、小平次にかけあって23両を出させ、自分の餞別の5両を添えて、赤子を抱いて下総(しもうさ)・周淮郡飯野の笠屋の後妻になっていくお百へ、珊瑚玉の簪とともに持たした。
その後お百は、息子・紋蔵(もんぞう)をつれ、下総・木更津(きさらづ)が本拠の盗賊〔笹子(ささご)〕の長兵衛の女房に。

211

年齢・容姿:41歳。色白、細おもて。左足をひきづる。
生国:下総国市原郡(いちはらこおり)姉ヶ崎(あねさき)村(現・千葉県市原市姉崎)

探索の発端:火盗改メの役宅の近く、九段坂下で葭簀張りの居酒屋の亭主・久兵衛(55,6歳)が、女から預かったという手紙を届けてきた。

019
飯田町九段坂(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゃうすけ)

今夜、深川・仙台堀の足袋問屋〔鎌倉屋〕を15人の賊が襲う、とあった。

結末:賊は、〔伏屋(ふせや)〕の紋蔵一味で、逃げた見張り1名のほかは全員逮捕。死罪。
(参照: 〔伏屋〕の紋蔵の項)
逃げた見張りは、浅草・今戸のはずれ長昌寺わきの盗人宿にいるお百を刺すために走ったが、待っていたお百と相討ちになって死んだ。

つぶやき:人の情けということを、しみじみと語った佳篇。少女時代に銕三郎からもらった珊瑚玉の簪を25年以上も大切に抱いて死んでいったお百の心情もあわれだが、処刑の前夜、鬼平にふるまわれたしゃも鍋の礼をきちんと述べた紋蔵の心根も胸をうつ。
紋蔵へ、珊瑚玉のその簪をわたし、
「明日は、この簪を抱いて行け」

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2005.05.05

〔井尻(いじり)〕の直七

『鬼平犯科帳』文庫巻7に入っている[隠居金七百両]の主役は、大盗賊〔白峰(しらみね)〕の太四郎(72歳)の隠居金(いんきょがね)を京都から〔薬師(やくし)〕の半平(中年男)が運んできて預けた、4年前から雑司ヶ谷の鬼子母神境内茶店の〔笹や〕の亭主で元盗人の〔堀切〕の次郎助(56,7歳)の3人。
(参照:〔白峰〕の太四郎の項)
(参照:〔薬師〕の半平の項)
(参照: 〔堀切〕の次郎助の項)
それと、次郎助のむすめのお順(16,7歳)、〔白峰」のめかけのおせい(28,9歳)、兄〔奈良山〕の与市(30歳)の3人。
(参照:〔奈良山〕の与市の項)
お順に惚れた鬼平の息・辰蔵と悪友・阿部弥太郎の2人が関係する事件である。
しかるに、ひょんなことから、〔井尻(いじり)〕の直七がからんでしまった。脇役の名にも値いしない、点景のような盗人。

207

年齢・容姿:記載されていない。
生国:摂津(せっつ)国島上郡(しまがみこうり)井尻村(現・大阪府高槻市井尻)
井尻村は大坂に近いところで、丹波国船井郡、美濃国可児郡、伊勢国鈴鹿郡などにもあるが、点景なので、〔淀(よど)〕の勘兵衛配下ということで、あっさりと高槻市を採った。
(参照:〔淀〕の勘兵衛の項)

探索の発端:密偵〔大滝〕の五郎蔵が、両国の盛り場で、かつて顔見知りだった〔淀〕の勘兵衛配下の〔井尻(いじり)〕の直七を見かけた。それまでは京坂から中国筋がテリトリーの〔淀〕一味が江戸で盗めをするのかと、鬼平は、亡父が京都西町奉行時代に記録した〔淀〕の勘兵衛の記録を調べる。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)

結末:本筋の〔堀切〕の次郎助は病気で急死、〔奈良山〕の与市は捕縛。〔白峰〕一味は京都奉行所が捕り逃がした。
『鬼平犯科帳』では稀有のことだが、〔淀〕の勘兵衛と〔井尻〕の直七の始末については触れられていない。
忙しさのゆえに池波さんが失念したものか、上方の盗賊を深追いするほどの興味はもてなかったか。

つぶやき:この稀有のことを指摘するだけでも、当ブログに取りあげる意味があるとおもった。

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2005.05.04

引き込み女お元

『鬼平犯科帳』文庫巻19に収録されている[引き込み女]のヒロイン。〔乙畑(おつはた)〕の源八一味にいたとき、いまは密偵のおまさが同僚であった。

219
(参照: 〔乙畑〕の源八の項)
(参照: 女密偵おまさの項)

年齢・容姿:順当に推移すれば、寛政10年(1798)春の事件となるから、おまさより2つか3つ年下のお元は37,8のはず。池波さんのイメージでは、34,5歳の感じ。
肉置(ししお)きゆたかで愛嬌があったが、いまはほっそりと痩せている。
生国:江戸・浅草阿部川町(現・東京都台東区元浅草)

探索の発端:築地川に架かる万年橋から川面を見つめているお元を、密偵のおまさが見かけ、あとをつけると、南鍋町2丁目(現・中央区銀座5丁目)の袋物問屋〔菱屋〕の通用口へ消えた。さっそくに〔菱屋〕を見張る見張り所が設置された。
上野・池之端仲町へ買物に行くお元をつけたおまさは、不忍池端の茶店で、さも偶然に出会ったように装って声をかけ、お元がいま、〔駒止(こまどめ)〕の喜太郎(45歳)の女となり、〔菱屋〕へ引き込みに入っているが、養子店主・彦兵衛(30歳)に駆け落ちをもちかけられて悩んでいると打ち明けた。

結末:引き込みをするはずのお元がひとりで逃げ出しているのも知らずに押し入ろうとした〔駒止〕一味は、待ち構えていた火盗改メに逮捕。死罪であろう。
ただ一人、捕り方の網をくぐり抜けて逃げおうせた助(す)けばたらきの〔磯部(いそべ)〕の万吉は、のちに、江戸へ立ち戻ったお元を刺殺し、三十間堀へ捨てた。

つぶやき:養子店主の彦兵衛だが、いじめがひどいとはいえ、お元を連れて駆け落ちした先に、どんな窮乏生活が待っているか、予想もできないようでは、こころもとない。

それはそれとして----。
文庫巻4[血闘]ほかで、おまさは密偵になるとき〔乙畑〕一味を鬼平へ売り、一味は処刑されたように書かれている。
ところがこの篇では、お元は〔乙畑〕の源八が病死(p269 新装版p278)し、一味が解散したために〔駒止〕一味へ加わったようになっている。
おまさにしても、父親の〔鶴(たずがね)]の忠助が亡くなったとき、〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門との話し合いで〔乙畑〕一味に入れられたが、その後、幾人もの首領の下で引き込みなどをし、長谷川平蔵が火盗改メの本役をい命じられた天明8年(1788)10月には、ふたたび〔乙畑〕一味にいて、先述のように、一味の情報を火盗改メに売っている。
(参照: 〔鶴〕の忠助の項)
(参照: 〔法楽寺)の直右衛門の項

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2005.05.03

〔霰(あられ)〕の小助

『鬼平犯科帳』文庫巻9の[白い粉]で、本郷の湯島天満宮・門前の料理屋〔丸竹〕の2階座敷で相談している3人の盗賊の首領たちの1人。
〔花輪(はなわ)〕の万蔵
〔駒羽(こまはね)〕の七之助
2人のテリトリーは武州・上州から信州へかけて。
残るのは、「江戸の他では盗めはしねえ」が自慢の、
〔霰(あられ)〕の小助。
首領たちとはいえ、組織(しくみ)はいずれも小規模だった。

209

年齢・容姿:42歳。矮躯。13,4の子どものように小さい。
生国:大阪市住之江区安立町の安立小学校の前に霰松原の碑が立っていると『角川地名大辞典』はいう。『万葉集』の「霰打つ安良礼(あられ)松原住吉の弟日娘と見れど飽かぬかも」を記念したものであると。
あらあら松原(疎々松原)の意とも。
ほかに、霰を地名としているところは見当たらない。

探索の発端:鬼平は好物の鮎並(あいなめ)を一片、つづいて鯨骨(かぶらぼね)の吸い物を口にするや「妙な---」と箸をとめた。半年前に〔五鉄〕の三次郎が寄越した料理人・勘助(31歳)の手になるものだ。
勘助の身辺が見張られはじめた。勘助は博打にふたたび手をだしていた。

結末:さらわれた女房を返してもらおうと一ッ橋の火除地へ出かけた勘助を待っていたのは、〔霰〕の小助一味だったが、鬼平をはじめ手配りの沢田小平次と木村忠吾によって逮捕。死罪であろう。

つぶやき:女房を誘拐しておいて脅迫する筋書きは、このほか[二人五郎蔵]でも使われている。
が、読み手が共感するのは、女房をかどわかされたときの亭主の苦悩ぶりであろう。


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2005.05.02

〔印代(いしろ)〕の庄助

『鬼平犯科帳』文庫巻1に収められている[老盗の夢]は、本格派の盗賊が滅びゆく時代を象徴しているかのように、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助が畜生ばたらきの盗人たちに殺されてしまう物語。〔野槌(のづち)〕の弥平一味の残党の一人で、没義道(もぎどう)な臨時ばたらきの盗人。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
(参照: 〔野槌〕の弥平の項)

201

年齢・容姿:屈強な30男。
生国:伊賀(いが)国阿拝郡(あえこうり)印代(いじろ)村(現・三重県上野市印代)
『旧高旧領』『角川地名大辞典』のルビは(いじろ)。『大日本地名辞書』(冨山房)は(いしろ)。
池波さんは、荒木又右衛門の取材で上野市を取材したはずだが、同市の北部のここまで足をのばしたろうか。

探索の発端:この盗人仲間同士の決闘物語には、火盗改メは直接にはからんでいない。
引退先の京都郊外の山端(やまはな)の飯屋の座敷で給仕をしている大女おとよの躰に、久しぶりに男性としてのきさぜしが蘇った〔蓑火〕の喜之助は、おとよとの生活資金をつくるぺく江戸へ下り、〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門の盗人宿の番人〔前砂(まいすな)〕の捨蔵に、臨時の助っ人の世話を頼んだ。
(参照: 〔夜兎〕の角右衛門の項)
(参照: 〔前砂〕の捨蔵の項)
その口ききでやってきたのが、すでに逮捕・処刑された〔野槌〕一味で生き残りの、
〔印代(いしろ)〕の庄助
〔火前坊(かぜんぼう)〕権七
(参照: 〔火前坊〕の権七の項)
〔岩坂(いわさか)〕の茂太郎
(参照: 〔岩坂〕の茂太郎の項)
表面は〔蓑火〕のいいつけを聞いているふうを装いながら、いざ決行という段になると、〔蓑火〕の喜之助を縛り上げて、計画の横取りをもくろんだ。

結末:〔縄抜け〕の異名をもつ喜之助は、うまく縄から抜け出て、九段下の屋台にいた3人を襲い、2人を刺殺、あとの1人と相打ちの形で斃れた。

つぶやき:最初に記したように、これは、正統派の盗賊への挽歌である。
と同時に、男がもっている業(ごう)の賛歌である。賛歌(?)、そう、喜之助は、何年ぶりかで男性を蘇らてくれた女性のために命を落としたのだから、畳の上での往生でなくても満足であったろう。

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2005.05.01

〔犬神(いぬがみ)〕の権三

『鬼平犯科帳』文庫巻10の巻頭に[犬神の権三]と、タイトルにもなって収まっているひとりばたらきの主人公〔犬神(いぬがみ)〕の権三郎。

210

年齢・容姿:42,3歳。ぎょろりとした眼だま、大ぶりな口と鼻、濃い眉毛の役者面のいい男。肥えている。
生国:佐渡(さど)国羽茂郡(はもちこうり)犬神平(現・新潟県佐渡郡小木町犬神平)とすれば収まりがいい。
しかし、池波さんが佐渡へ足を踏み入れた記録は目にしていない。
字は違うが音はおなじ、近江(おうみ)国犬上郡(いぬがみこうり)の犬上川ぞいのどこか---たぶん、かつての大滝村、現在の犬上郡多賀町藤瀬の犬上川ぞいとみたい。
池波さんが座右からはなさなかった吉田東伍『大日本地名辞書』(冨山房)は、犬神の社にまつわる伝承---木樵(きこり)を飼い犬が大蛇から救った古伝を、日本中いたるところにある故事としている。
犬神を祀ったとされる多賀町の大滝神社の「大蛇ヶ淵」の銘板を掲げておく。

1012
[銘板の文章」
旧跡 大蛇ヶ淵
大滝神社境内の御神木杉の辺より見降すあたりの岩瀬は「大蛇ケ淵」と呼ばれる。
上流に犬上ダムが建設されるまでは「大滝」の名に恥じない堂々たる瀑布であった。
滝淵には神代の昔、大蛇が棲んでいたと言われる。近辺の住民に仇なす祟り神であった。
大蛇は、犬上建部君稲依別命と忠犬小石丸によってこの淵に鎮められる。
(詳細は参道上の犬胴松の由緒をご覧ください)
ここより目を対岸に向けると小さな祠が見えるが、この祠が犬上神社の元社稲依別命が小石丸の首を鎮めたと言われるところで眼下の大蛇ヶ淵と時に大奔流と化す川面を見守り鎮めているかのようである。
平成13年(2000年)7月

1013
大蛇に見えないこともない大滝神社下の犬上川

犬の首奇談は西国のものらしいし、横溝正史『犬神家の一族』も中国地方が舞台だったように記憶する。

鳥山石燕『画図百鬼夜行』(国書刊行会 複写刊行)から、「犬神・白児(しろちご)」の絵を引いておく。
0328

探索の発端:密偵となった〔雨引(あまびき)〕の文五郎が、〔犬神(いぬがみ)〕の権三郎を破牢させた。8年前に、病妻を看取ってもらったことの恩返しのつもりだった。
(参照: 〔雨引〕の文五郎の項)
しかし、権三郎はそのことを忘れてしまってい、文五郎とともに大坂・心斎橋筋の唐物屋〔加賀屋〕へ押し入り、600余両を奪ったのに、300余両しかなかったといつわり、猫ばばした300両の報復のために破牢させたと誤解していた。

女密偵おまさは、権三郎の情人で女賊おしげと上野広小路で出会い、男のことをのろけられた。おまさすかさず
尾行、おしげの家は見張られることになった。
(参照: 女密偵おまさの項)

結末:南千住の文五郎の隠れ家を襲う権三郎を尾行、事前に捕らえた火盗改メだったが、隠れ家で文五郎は自裁するとまではおもいがおよばなかった。

つぶやき:「恩は着せるものではなく、きるもの」との人生訓を、池波さんは長谷川伸師から受けついでいることは、『完本 池波正太郎大成』(講談社)の別巻に収録の[二十六日会聞書]に銘記のとおりである。
鬼平は権三郎を「唾棄すべき男」と極めつける。
「犬神の権三郎という奴は、恩をほどこしたことも、ほどこされたことも、すぐに忘れてしまう奴よ----」

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