〔中畑(なかばたけ)〕のお竜(7)
「軒猿(のきざる)と---?」
訊き返す銕三郎(てつさぶろう 23歳 のちの鬼平)に、
「はい。世間では、忍びの者とか、乱波(らっぱ)とかと呼んでいますな」
甲府勤番士・本多作四郎玄刻(はるとき 37歳 200俵)は答えた。
柳町の旅籠〔佐渡屋〕の、銕三郎が宿している部屋である。
作四郎は、勤番士の子として甲府城廓外裏佐渡町の組屋敷で生まれ育っているので、武田方の旧部下たちのことにも耳馴れ親しんでいて、軒猿なども、あたりまえに受けとめている。
「武田信玄公の許(もと)に、軒猿はどれほどおりましたでしょうか?」
「さあ。信濃の真田郷から出て、信玄に仕えた真田幸隆(ゆきたか)が支配していたと聞いておりますがの」
信長が京の本能寺で果ててから、900家からなる武田の遺臣を家康は招いているが、その中には、軒猿を従卒としていたものもいたかもしれない---と銕三郎は推察した。
いや、家康には、伊賀・服部家一統という忍びの一団がいて、諸国・諸侯の情勢をあつめていた。
その後、家康の伊賀越えを助けた者たちも召し抱えられている。
【参照】2007年6月13日~[本多平八郎忠勝の機転] (1) (2) (3) (4) (5) (6)
とすると、武田の軒猿たちは、徳川家の傘下に入ったとしても、伊賀組一統の手前、小さくなっていたろうか。
そこで考えられるのは、紀州侯となった頼宣である。
紀州へ封じられる前の頼宣は、駿府を領していた。
甲州と駿州は近い。
多くの軒猿が、頼宣に雇われたとしても、おかしくない。
その者たちは、頼宣について紀州へ移り、薬込め衆となり、吉宗に従って江戸城へ呼ばれ、お庭番衆となったとみても、筋がとおる。
(こういうときに、書物奉行だった中根伝左衛門正雅(まさちか 享年79歳)どのがご生存であったら---)
銕三郎は、もどかしくおもい、心中ひそかに唇をかんだ。
【参照】中根伝左衛門正雅は、2007年10月15日~[養女のすすめ] (2) (3)
2008年7月21日[明和4年(1767)の銕三郎] (5)
翌日は、春をおもわせる青空であった。
本多作四郎の案内で、中道往還を下向山村、上向山と2里(ほぼ8km)を経て、中畑村の村長(むらおさ)・庄左衛門(しょうざえもん 55歳)宅の冠木門の前で、
「では、この先の右左口(うばぐち)村の庄屋の家でお待ちしています」
と言う作四郎と別れた。
村長だから、冠木門がゆるされているのであろう。
(甲州-駿州を結ぶ中道往還の中畑村 明治20年前後)
庄左衛門は、はじめ、警戒の目つきで銕三郎をみていた。
「『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)』に、[伊那の〔透波(すっぱ)〕]とあるのは、〔軒猿〕のことでしょうか?」
銕三郎がそう訊くと、(ほう!)といった顔つきに変わり、
「『軍鑑』をお読みかな?」
と逆に訊いてきた。
「読むというほどではありませぬ。たまたま『孫子』を習っておりました折り、『軍鑑』の用兵がそれにかなっておると教わりました。上兵(じょうへい)は謀(ぼう)を伐(う)つ。その次(つぐ)は交(こう)を伐つ。その次は兵を伐つ」
(戦争のもっとも上の策は、相手の謀略を未然に察知しその裏をかくことである。次策は、敵が同盟を結んでいる手を断つことである。さらに次の策は、敵の兵力を敲(たたく)くことである)
庄左衛門がつづけた。
「その下(げ)は、城を攻(せ)む。はっ、ははは」
笑った口の前歯が3本、欠けていた。
「ふ、ふふふ」
銕三郎も、笑った。
それで、打ち解けた。
庄左衛門の家も、かつては武田の家臣で、長柄50人を預かっていたという。
『孫子』を学ぶことが、家訓のひとつであったらしい。
「甲斐では、〔軒猿〕と呼んでおりましたが、諏訪方では〔透波〕とか〔乱波〕でした。で、木こり・猪兵衛のなにがお知りになりたい?」
「むすめごのお竜(りょう 29歳)どのの生い立ちと、いまの居どころです」
庄左衛門は、しばらくかんがえていたが、
「あれは、手前の習い子のひとりでしたが---、あることから、村を出ていきましての」(絵は歌麿『婦人相学十躰』部分)
習い子というのは、『甲陽軍鑑』を読む集まりであったと。
あることとは、村のあるむすめが美しいお竜のことが好きになり、親密な関係になったとの評判が、村人のあいでひろまったために、居づらくなったのだと。
とくに、お竜の美貌ぶりに岡惚れしていた青年たちが嫉妬から、口汚くののしった。
「飲みこみの速い、頭のいい娘(こ)でしたがな---」
「いまの居どころは?」
「さて。あるときは江戸の旅籠、あるときは高崎の商人(あきんど)宿、またあるときは下の諏訪の安旅籠と---寄越した便りの居どころは、定まってはおりませなんだ」
「旅籠から---?」
「さよう」
「お竜どのに妹ごは?」
「おりません」
「お竜どの好きあったというむすめごは?」
「お勝(かつ)です。お勝も村を出てゆき、いまはおりません」
(お勝---お仲が言っいてた、女男(おんなおとこ)もお勝だった---)
【参照】お勝は、2008年9月4日~[〔蓑火(みのひ)〕の喜之助] (7) (8)
【参照】[〔中畑(なかばたけ)〕のお竜〕 (1) (2) (3) (4) (5) (6) (8)
【ちゅうすけからのお願い】甲府近在にお住まいの鬼平ファンの方、中畑村の村長(むらおさ)・庄左衛門の甲府弁をチェック。ご教示ください。
できれば、この稿の書き込み欄へコメントして教えていただければありがたいです。
【ちゅうすけのつぶやき】上田秀人さん『国禁 奥祐筆秘帳』(講談社文庫 2008.5.15)は、シリーズ第2話で、津軽藩のロシアど密貿易をからませた、奥祐筆組頭・立花併右衛門と、その護衛剣客・柊衛悟、併右衛門を消しにかかる老中・太田備中守資愛(すけよし)と伊賀者、幕閣から外れた松平定信とお庭番、一ッ橋治済(はるさだ)と甲賀忍者などが卍になって争う構想の大きな物語りだが、田沼意次までお庭番あがりというのは、あまりにも荒唐無稽。
ちゅうすけは、江戸ものは、田沼意次と松平定信をどう描いているかで評価している(もちろん、田沼びいき、定信は教条主義者と)のだが、これはどうも。余計なつぶやきでした。
【参照】2008年6月15日~[平蔵宣雄の後ろ楯] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9 ) (10) (11)) (12) (13) (14) (15) (16)
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