牛久(うしく)藩用人・山口四兵衛(2)
「牛久(うしく)藩の用人どのに、ご領内の八坂(やさか)神社の由来でも訊いたのか?」
「八坂神社---?」
平蔵(へいぞう 31歳)は、怪訝な目つきで、佐野与八郎政親(まさちか 45歳 1100石)を瞶(みつめ)た。
「銕(てつ)どのは、京へ住んでいた時期があったな?」
「あ、祇園社さま!」
【参考】八坂神社
与八郎政親は笑い、牛久藩の祈願所は、京都の祇園社(八坂神社)から勧請した八坂なのだと説明した。
いわれて、平蔵がとっさに頭に描いたのは、祇園社の脇で茶店[千歳(せんざい)]のおんなあるじのお豊(とよ 25歳=当時)の、すらりと伸びてながらたっぶりした肉づきの姿態であった。
【参照】2009年7月20日~[〔千歳(せんざい)〕のお豊] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)
(里貴(りき 32歳)を偲んでいるときに、おれとしたことが、なんということ---貞妙尼(じょみょうに)をおもいだすならともかく、女賊ということがはっきりした、あのお豊がまっ先に浮かぶとは---よほどにおんな好きということか。いや、若い男なら、やはり、お豊のおんなとしての躰の魅力に、たいがい、勝てまい)
京都盆地は、その昔、広大な湿地であったという。
そこへ渡来して住みつき、米作と干拓に使う諸道具をつくる鍛冶の技術をもった秦氏(はたうじ)が拓き、一族のむすめが産んだ桓武天皇に都づくりの土地として進呈した。
その氏族の一つとおもわれる八坂造(やさかのみやつこ)が素戔嗚尊(すさのうのみこと)、櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)を八坂の郷に祭ったのが祇園社といわれている。
「備中(守 宣雄 のぶお 享年55歳)どのなら会得しておられたろうよ」
「いたりませぬでした」
「京には、技術と文化をつたえた渡来人の末裔が多かったはず---」
「そういわれてみると---」
゛おもいあたることが多いか?」
「はい」
(貞妙尼の肌のすきとおり加減もそうだ---いけない、またもおんなをだしにして納得しておる)
【参照】2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] (1) (2) (3) (4)(5) (6) (7)
気分を切りかえ、祇園一帯を仕切っていた元締・〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60歳すぎ=当時)のおだやかな丸みのある顔と、名前のとおり、その息で、下顎が少々角ばっていた角兵衛(かくべえ 40歳すぎ=当時)をおもいうかべてみた。
(円造元締が貞妙尼の肩入れしていたのは、慈悲ごころばかりでなく、同氏(うじ)のよしみもあったのかもしれない)
そういえば、牛久藩の江戸詰・用人の山口四兵衛弘世(ひろよ 42歳)の面ざしを、だれかに似ているとひっかかっていたのは、角兵衛であったか。
あれこれ思念していた平蔵を見守っていた与八郎政親が、
「銕どのの番頭(ばんかしら)の(水谷 みずのや)出羽(守)どののご尊父が、祇園社の別当・宝寿院の執行(しぎょう)であられたことは存じておろうな?」
「越前の酒井家からご養子にお入りになったお方と、亡父からかすかに---」
【参照】2006年4月28日~[水谷伊勢守が後ろ楯] (1) (2)
2008年12月3日~[水谷(みずのや)家] (1) (2)
2007年4月17日[寛政重修l諸家譜] (8)
2006年11月8日[宣雄の実父・実母]
「酒井家はご譜代の中でも、重臣中の重臣であるから、きちんとおぼえておくことだ。小浜藩の忠隆(ただたか)さまのご舎弟・忠稠(ただしげ)さまが、1万石を分与されてお立てになったのが敦賀(鞠山)藩である。その藩祖の四男が祇園・宝寿院の季麿執行さまということになる」
「ずいぶんと、まわりくどい---」
「そう、おもってはならぬ。つぎに用人どのに会ったとき、祇園社・八坂神社との因縁を語れば、いささかなりと威敬の目で見られよう」
「胆(きも)に銘じました」
2人とも、見合って高笑いした。
あわせたように、春一番が雨戸をたたいた。
゛
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