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2010.05.22

本丸・小姓組第6の組(2)

「いや、ご師範役どのに、いたく喜ばれた」
浅野大学長貞(ながさだ 29歳 500石)が、盟友同士なのに、頭をひくくさげげた。
4,5日前に茶寮〔貴志〕へ招待した本丸・小姓組第6の組の師範役・河野鉄三郎利通(としみち  41歳 職給300俵)が、女将・里貴(りき 31歳)のもてなしぶりに、もう、満足しきったらしい。

「よせ、(だい)らくしくもない」
たしなめたのは、礼をうけた平蔵(へいぞう 30歳)であった。

つづけての料理茶屋は、用人に渋い顔をされるのでな---ということで、市ヶ谷牛込の浅野邸へ招かれた。

「宅も、ご満足だったようで、帰ってきてからというもの、里貴と申されるのですか、女将どのの話しばかりで、手がつけられませぬ」
あいさつにでた内室の於四賀(しが 22歳)が、妬いたふりをする。

「おめでたは、いつごろで---」
里貴の話題からそらすために訊いた。

「来春の予定でございます」
「拙のところも、同じころかと---」
長谷川のところは、3人目だよ」
「おうらやましい」
「なに、一人目が通れば、あとは、つぎつぎですよ」

四賀が笑いながら引きさがると、大学が声をひそめ、
「於喜和((きわ 24歳)の隠棲どころ、かたじけない。お喜和から、くれぐれもお礼を、と頼まれておる」

母違いの妹・お喜和は、16歳で嫁(か)したが、夫がその年に病死したので、戻ってきていた。
そして、養子口が見つからない腹違いの兄・周五郎(しゅうごろう 25歳)と、ただならない関係をつくってしまった。

参照】2010年5月17日~[浅野大学長貞(ながさだ)の憂鬱] () () (

不祥事が目付などの耳にはいらないうちにということで、とりあえず、於喜和を妻恋(つまこい)稲荷社の横手の路地の奥の一軒家へ隔離した。
新しい女中も雇ってつけた。

自制では周五郎の躰から離れることができなかったおんなの深い欲心は、隔離という荒っぽい処置で、じょじょに沈静にむかっていた。

もちろん、上野一帯の香具師の元締・[般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(いへえ 28歳)の手の者が、しばらくは終日見張ってはいたが。

この家は、同じ盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 29歳)の情けをうけたお(ひで 享年18歳)を匿(かくま)うために、平蔵が手くばりしたものだが、おは死産で、自分も助からなかった。

参照】2010年5月13日[長野佐左衛門孝祖(たかのり)の悲嘆]

「ところで、日光ご社参組からはずされた組の、無念の声は耳にはいっておるか?」

日光社参とは、将軍・家治(いえはる)が、来年---安永5年(1776) 4月16日から行う、大行事である。
八代将軍・吉宗(よしむね)が行った享保13年(1728)以来、48年ぶりの祝事に選出される名誉もさることながら、大方は、久びさに遠出ができるという浮かれ気分のほうが強かったかもしれない。

大学が勤仕している本丸・小姓組第6から第10の組までが供奉(ぐぶ)から洩れた。

「わが組の悲歎は、先夕、ご師範どのがいわれたとおりだ。この機に、転職を画策なされた番頭・小堀式部政明(まさあきら 39歳 5000石)どのへ嗟嘆が集まっておる」
「先夕は、場が場がだけに、口にするのをはばかったが、そのような人事の秘密が洩れるというのは、いささか、解(げ)せぬ」

平蔵は、亡父・宣雄が京都西町奉行のときの山城代官が、小堀式部政明であり、そのように猟官せずとも、柳営内の諸方に 牽く手くばりがしてある仁にみえた、と告げた。
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その瞬間、躰をあわせた貞妙尼(じょみょうに)との出事(でごと 交合)の記憶がよみがえったが、なんと、里貴とのそれと重なり、おのそれは薄れつつあった。
(現世(うつせみ)とは、このことかもな)

「それもある。おれはまだ、出仕3ヶ月だからよくはわからないが、噂の火の元は、隣の第7の組の与(くみ 組)頭・能勢半左衛門頼喬(よりたか 54歳 700石)どのとの説も、ひそかにひろまっておる」
「なぜに、第7の与頭どのが---?」

大学の解説によると、4年前に本丸・小姓組の番頭となった中坊讃岐守秀亨(ひでみち 55歳 4000石)は、このところ体調がすぐれないので、幕府は日光参列は無理と判断、そうそうに選抜が除外した。
そのついでに、6番手以下をはずことにしたと読んだ能勢与頭は、非難がおのれの組にこないように、非が第6の組へ向くように筋書きを書いたのだと。

中坊どのお加減は、それほどにお悪いのか?」
「ほとんと登城されていないようだ」
「ふむ」

中坊讃岐守秀亨といえば、銕三郎時代の平蔵が、駿府奉行をしていたその継妻のところへ、当時6歳だった与詩(よし)を養女にもらいうけにいった、父親その人である。

与詩(18歳)は、離縁されて、納戸町の大叔母・於紀乃(きの 76歳)の介護をしている。
与詩をうけとりにいかされた道中に、阿記(あき 享年25歳)と出会い、お嘉根(11歳)をもうけた。

【参照】2007年12月21日~[与詩(よし)を迎えに] () () () () () () () ()  (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15)  (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)(26) (27) (28) (29)  (30) (31) (32) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41


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2_360
(中坊讃岐守秀亨の個人譜)


_360_2
(能勢半左衛門頼喬の個人譜)


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