建部甚右衛門、禁裏付に
「若君は、鷹狩りはさほどにお好きではないようだ」
天明5年4月11日の亀戸村はずれで狩猟のあと、西丸ではお供をした近習の者たちからそんな噂がそれとなく洩れてきたが、道々、辻々の警備に専念していた平蔵(へいぞう 40歳)は、雨もよいの天候のせいであろうぐらいにしか受けとらなかった。
【ちゅうすけ注】『徳川実紀』をたしかめたところ、この年、秋から冬へかけての狩猟期に、家斉(いえなり 13歳)が鷹狩りに出かけた記録はない。将軍・家治(いえはる 46歳)はこの秋に3度ほど催している。
じつはこの11日、平蔵にかかわりのある仁の人事異動があった。
先手・鉄砲(つつ)の12の組頭の建部甚右衛門広殷(ひろかず 58歳 1000石)に禁裏付(きんりづき)が命じられたのである。
禁裏付は1500石格だから格高は先手組頭と変わらないが、爵位として従五位下が授けられ位階は一段すすんだといえようら
建部広殷と平蔵との交流についいては、これまでにしばしば触れてきたが主なものは次のとおり。
【参照】2011年4月6日~[火盗改メ・堀 帯刀秀隆] (1) (2) (3)
2011年4月18日~[火盗改メ増役・建部甚右衛門] (1) (2) (3)
2011年6月1日~[建部甚右衛門の免任] (1) (2) (3)
2011年6月14日~[建部甚右衛門と里貴] (1) (2) (3)
建部家へ都合を問いあわせ、一夕、祝辞を述べに訪(おとの)うた。
玄関で祝意と角樽をわたしてすますつもりであったが、客間へ招じ入れられてしまった。
「〔季四〕の女将が亡じたそうだの。惜しいことをした」
「お悔やみ、恐れいります」
「肌が抜けるほど白く、雪国育ちかとおもうたら、なんと紀州と聴き、存外であった」
800年ほど昔に百済から渡来し、血を混じえずに生きてきた村の生まれと聴いていたとぼかすと、
「20年前に出おうていたら、ただではすまさなかったろう、は、ははは」
笑いおさめると、ぎょろりと平蔵を見すえ、
「長谷川うじは果報者よのう」
とうの昔に見ぬいていたがさすがに、深く知りあっておくといい仁は---と転じてくれた。
存命かどうかわからないが、御所の新在家門(しんざいけもん 通称·蛤門)前の、粽司(ちまきつかさ)の〔道喜(どうき)〕を紹介した。
【参照】2009年7月31日[〔川端道喜〕]
「それはよいご仁をお引きあわせくだされた。われが入る禁裏付の上(かみ)の役宅の相国寺門前町からも近いから、かならず訪ねてみよう」
さすがに、〔千載(せんざい)〕のお豊(とよ 25歳=当時)とのことは口にできなかった。
【参照】2009年7月21日~[〔千載(せんざい)〕のお豊](2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)
あれは、若気のあやまりであった。
あやまりといえば、建部組の仕事で東海道・島田宿の本陣・〔中尾(置塩)〕のお三津(みつ 23歳=当時)との一件もそうであった。
| 固定リンク
「018先手組頭」カテゴリの記事
- 佐野与八郎政親(2007.06.05)
- 鎮圧出動令の解除の怪(2012.05.18)
- 佐野大学為成(2007.06.07)
- 先手・弓の6番手と革たんぽ棒(2012.04.27)
- 先手・弓の6番手と革たんぽ棒(5)(2012.05.01)
コメント
感じですが、幕府もの、盗賊もの、色艶ものが、ほどよく、交互に創作されているようにおもいますが---。素人のカンですから、あまりあてにはなりませんが。
それで、つづけてアクセスしても飽きないのでしょうか。
投稿: 三次郎 | 2011.11.17 05:49
>三次郎 さん
意識的に区分けしているわけではありませんが、三次郎さんにいわれ、改めて目次の記録を眺めてみると、結果的におっしゃるようになってい、びっくりしました。
ご教示、ありがとうございました。
投稿: ちゅうすけ | 2011.11.17 15:34