長(おとな)・千田聡兵衛からの封翰(2)
「お久しゅう---」
火盗改メ・横田組の役宅で、与力jの門田紋三郎(もんざぶろう 55歳)が迎えた。
20年ぶりの再会であった。
知りあった時の組頭は、平蔵(へいぞう 40歳)の本家・太郎兵衛正直(まさなお 55歳=当時)であった。
【参照】2008331~[初鹿野(はじかの)〕の音松] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9)
互いに久闊を叙しあい、すぐに本題へはいった。
「お染(そめ 26歳)と申すおんなをご存じでしょうか?」
笑顔をたやさないで訊いてはいるが、目は笑っていなかった。
どんな表情の嘘も見逃さない吟味与力の目であった。
「1人だけ---お染がどうかしましたかな?」
逆に問いかけた。
多摩郡(たまごおり)落水(おちみず)村の長(おさ)・(千田聡兵衛 そうべえ 60がらみ)からの書簡をもらっていなかったら、こうは切りかえせなかったであろう。
門田与力はくだけ、行く方(かた)知れずになったわが子のことを、祇園さんに祈ったところ、江戸で橋場というところの石浜の明神さんで21日間水ごりをすればお告げがあろうといわれ、江戸へくだり、21日間の宿泊・食事代として石浜明神へ5両(万円)さしだしたと説明した。
たしかに、朝と夕方、薄い白襦袢と湯文字姿で水をかぶっているのだが、濡れそぼるせいで躰のすべて、乳首や股の黒みまで透けてみえるのを見せつけるように歩きまわるので、目ざわりであるばかりか若い禰宜(ねぎ)や主典(さかん)あたりが劣情をそそられるらしい。
ということで、訊問をしてみたところ、京都西町奉行の長谷川さまのご嫡男と10年ほど前に知りあっているから確かめてほしいと申しでたので、
「ご対面をお願いしたしだい」
(ははん、梅若丸の故事を竺川(ちくせん)大和尚に聞かされたな)
奥州の子さらいにかどわかされた梅若丸をたずねてきた母親・妙亀尼の痛恨の昔噺は、浅茅ヶ原に伝わっていた。
梅若丸は隅田川の対岸・木母寺あたりで病いで果てたことになっていた。
(梅若丸故事 『江戸名所図会』 塗り絵師;ちゅうすけ)
仮牢の格子ごしに会い、
「お染どの、しばらくであった」
平蔵がいいはなった。
「祇園のお豊(とよ 25歳=当時)さんの茶店では世話になりっぱなしで---」
祇園の脇の茶店〔千歳(ちとせ)〕のおんな主(あるじ)の名が口をついて出たのは、お染の;齢かっこうが似ていたからもあるが、お豊は盗賊に囲われていたおんなであり、お染もいまは〔四方津(しほづ)〕の勘八(かんぱち 33歳)の妾(めかけ)としらされていたせいもあった。
【参照】2009年7月21日~[〔千歳(せんざい)〕のお豊] (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11)
お染もしたたかで、祇園とか茶店などの断片をつなぎあわせ、
「うち、お豊はんのお世話で祝言あけたんどすが、死別してもうて---6つになる児(こ)を見つけるために江戸へきましたん---そしたら、なんやしらん、疑い、かけられてもうて---」
「21日間の願かけを終えるまで、石浜明神に預かってもらえるように、こちらのお頭に頼んでみよう」
「おおきに。頼りにしてます」
釈放されたお染と連れだち、明石橋のたもとで舟を雇って大川を遡りながら、
「21日目までの水ごりをきちんとすますことだ。こんど引っ張られたら救いようがない」
ささやくと、お染は船頭の目を盗みつつ平蔵の太腿(もも)をもみながら、
「先(せん)の時のお礼がのこっててや。今夜は---?」
艶(えん)な流し目で誘った。
「満願の夜は、いつだ?」
「11日先---」
「その日の夕方に、な」
「待ちどおしおす」
お染の満願の深夜、石浜明神の一帯は、火盗改メ・横田組がひそかに固めており、〔四方津〕の勘八一味は、難なく捕縛された。
そのころ、お染は平蔵と権七(ごんしち 53歳)に両側から看視されながら、一味が盗人宿にしていた源森川べり中ノ郷瓦町の一軒家へ黒舟でむかっていた。
勘八が天井裏へ隠していた180両(2880万円)を取りもどすためであった。
「長谷川のお頭はん。金は戻ってきィよりましたけど、うちの火ィのついた躰の芯は鎮まってェしまへんえ。どないかしてェ---」
「権さん」
「お艶(つや 35歳)とお琴(きん 41歳)の2人さえもてあましております」
2人とも、船宿〔黒舟〕の根宿と枝宿の女将で、権七のおんなであった。
「色の道は、相手変われば--というぞ」
「こっちの齢をお考えください」
「お染。卯作(ぼうさく 6歳)を大事に育てよ。母親は子種をくれる男を選べるが、子は親を選べない」
お染が不承ぶしょう、こっくりした。
【参照】2010年10月9日~[日野宿への旅] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12)
「権さん。真宗のお寺さん、深川にあったかな?」
真宗は黄檗宗とちがい、妻帯が許されていた。
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コメント
平蔵さんもお染も即興の芝居が巧みです。これくらい機転がきかないと与力の目はごまかせませんね。
しかし、平蔵さんの情報網の広さもなかなかのもの。
この情報網の構築があればこそ、ドヂをふまないですんでいるのですね。
投稿: mine | 2011.10.26 05:46
横田源太郎松房って、たしか、堺奉行に栄転した贄 壱岐守正寿の後任の先手2の組頭からすぐに7の組へ転じた人でしたよね。
やはり、平蔵にはゆかりが深い。
もっともちゅうすけさんが、わざわざ、そういう人を配しているともいえますな。
投稿: 文くばりの丈太 | 2011.10.26 08:42