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2010.01.05

妹・与詩(よし)の離婚

与詩(よし 16歳)が不縁になり、戻されます」
母・(たえ 48歳)が、つぶやくように告げた。

ちゅうすけ注】おおかたの読み手の方は、「与詩はいつ嫁入りしたのだ?」と不審がられるであろう。ちゅうすけ自身が首をかしげている。

とにかく、当時、駿府奉行であった朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)の次女・与詩(6歳=当時>を府中まで銕三郎(てつさぶろう 18歳)が迎えに行った顛末(てんまつ)は、以下に詳しく記している。

盗賊〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)とのかかわりも、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)という無二の盟友もこの旅でえた。

それよりなにより、『寛政譜』にも記載されていない銕三郎の婚外の子も、このときにつくった。
相手は、{芦の湯小町〕と呼ばれたこともある人妻・阿記(あき 21歳=当時)で、その経緯(ゆくたて)もたどっていて、たのしかった。

参照】2007年12月21日~[与詩(よし)を迎えに] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25) (26) (27) (28) (29) (30) (31) (32) (33) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41

長谷川家に引きとられてからの与詩は、さほど登場しない。

参照】2009年1月11日[銕三郎、三たび駿府] (
2009年6月18日[宣雄、火盗改メ拝命] (

寛政譜』の長谷川平蔵宣以(のぶため)の項には、3人の妹が記載されている。

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(『寛政譜』の長谷川家の部分)

寛政譜』が長幼の序のあやまることは、ほとんどない。
ということは、2人の養女は、年齢が宣以よりも下ということである。
当時は数え齢だから、正月に兄が生まれ、晦月に妹が生まれた場合、まれに同い齢で兄妹ということもありえるが。

銕三郎と最初の養女・多可(たか)は、同い齢ということにした。

参照】2007年10月27日~[多可が来た] () () () () () () (

次の養女が与詩である。
銕三郎とは12歳違いとした。
安永2年(1773)には、16歳のはず。

ところが、不縁で長谷川家にかえされたと、『寛政譜』にある。
嫁ぎ先は、三宅半左衛門徳屋(のりいえ 59歳 200俵)。
この年齢で初婚らしい。

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(三宅半左衛門徳屋の個人譜)

しかも、与詩を離縁したあとに、小浜家(200俵)から後妻を迎え、継嗣・貞之丞をえている。
この貞之丞は、宝暦6年の生まれだから、安永2年には19歳である。

ちゅうすけ注】余談ながら、後妻の出である小浜家は、『鬼平犯科帳』文庫巻7[寒月六間堀]で、二ッ目通りをやってくる老武士の息子の仇・金貸しになりさがっている山下藤四郎を、鬼平が身をひそめた塀の屋敷の主---小浜某(4000石)の分流である。

えっ? 先妻の与詩が16歳で、後妻が産んで子が19歳?
どういう計算なの?

だれだって、不思議におもう。
けれど、『寛政譜』は、そう記載している。

貞之丞が生まれる前に与詩が離縁されたし、「3年、子なきは去る」の諺どうりと考えると、16歳で嫁いで19歳で去ったとして、宝暦5年には婚家を出ていないといけないから、与詩は元文2年(1737)生まれで、銕三郎より9歳上、父・宣雄が18歳のときの養女ということになってしまう。

ということは、三宅家が幕府に呈上した[先祖書]がおかしいとしかいえない。

とにかく、この謎を解くには、時間がかかりそうだ。

それはともかく、与詩は、不縁になって以後、ずっと長谷川家にとどまり、宣以の厄介になっているはずだが、菩提寺の戒行寺の霊位簿にその名がみあたらないのも不思議である。

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