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2005年7月の記事

2005.07.31

〔関沢(せきざわ)の乙吉

『鬼平犯科帳』文庫巻9に所載の[泥亀]で、〔泥亀(すっぽん)〕の七蔵へ、〔牛尾(うしお)〕の太兵衛一家のその後の窮状を伝える役で登場。
(参照: 〔泥亀〕の七蔵の項)
(参照: 〔牛尾〕の太兵衛の項)
七蔵が、痔の治療に行くため、等覚寺(港区高輪 1- 5-24)の前で杖にすがって一休みしていたときに、上方でひとばたらきして家族の待つ故郷(くに)へ帰る〔関沢(せきざわ)〕の乙吉が通りかかり、七蔵を目にとめた。
乙吉は独りばたらきの錠前はずしの名手だが、10年ほどまえに〔牛尾〕の太兵衛を助(す)けたとき、七蔵と妙に気があった。そのとき以来の再会であった。
乙吉は七蔵に、〔牛尾〕の太兵衛が中風で亡くなったこと、一味がきれいに姿を消したこと、残された女房の目が不自由な娘が生活に難渋していることを伝えた。

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年齢・容姿:中年。旅姿の商人風。力持ち。
生国:上野(こうづけ)国利根郡(とねこうり)下沼田村(現・群馬県沼田市下沼田村)。
「関沢村」でさがすと上州にはない。信濃国高井郡の関沢村か、越後国蒲原群郡関沢村の出生で、沼田に居をかまえたかともおもったが、「急いで故郷へ帰りてえのだ」とあるから、池波さんおなじみの沼田が、頭にあったと見た。それで、「下沼田村」とした。あるいは城下の鍛冶町あたりがふさわしかったかもしれない。

探索の発端:芝・新銭座の表御番医師・井上立泉邸へ、〔舟形(ふながた)の宗平爺つぁんの薬を貰いに行った帰り道の伊三次に会った乙吉は、誘われるままに〔小房〕の粂八が預かっている船宿〔鶴や〕に泊まることになった。
(参照: 伊三次の項)
(参照: 〔舟形の宗平の項)
(参照: 〔小房〕の粂八の項 )
結末:伊三次からの急報で、火盗改メが出張り、逮捕。
鬼平の心中では、島送りののち、密偵をすすめてみる気のよう。

つぶやき:乙吉を「見どころがある」と鬼平が認めたのは、第一に、家庭を大事にかんがえていること、第二に、義理がたいこと、第三に、3カ条を守っていること、あたりであろうか。


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2005.07.30

〔鷹田(たかんだ)〕の平十

『鬼平犯科帳』文庫巻14の[尻毛の長右衛門]にちらっと顔を見せ、次篇[殿さま栄五郎]で主役をはる〔口合人〕。
(参照: 〔尻毛〕の長右衛門の項)
初めて〔口合人〕という仕事師名で登場した〔鷹田(たかんだ)〕の平十の印象は強烈である。
〔火間虫(ひまむし)〕の虎次郎の使いの〔長沼(ながぬま)〕の房吉がやってきて、「急いで、腕っ節の強いのを一人、頼む」といわれたところから、〔口合人〕稼業15年にもおよんでいる平十の悩みがはじまる。なんとなれば、〔火間虫〕一味の盗めは荒っぽいからである。それが気にいらねえ、のだ。
(参照: 〔火間虫〕の虎次郎の項)
(参照: 〔長沼〕の房吉の項)

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年齢・容姿:57歳。容姿の記述はないが、年齢そうおうの老顔。
生国:江戸。
谷中・三崎坂下の法受寺門前の小さな花屋を捨てて、〔火間虫〕一味から身を隠したいとおもっても行き先がない。つまり、田舎に故郷がないということである。

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(三崎坂 法受寺 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

25年連れそっている53歳の古女房おりきは、品川の女郎あがりで、江戸のほかに住みたい土地はないといいきる。

探索の発端:悩みきって不忍池ばたを歩いているとき、知りあってこのかた気のあった付きあいをつづけてきた〔馬蕗(うまぶき)〕の利平治に声をかけられた。

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不忍池(『江戸名所図会』 塗り絵師:a(ちゅうきゅう)

(参照: 〔馬蕗〕の利平治の項)
困りはてている事情を打ち明けると、利平治に心あたりがあるというので、まかせた。
利平治が連れてきたのは、なんと、〔蓑火〕の喜之助の知恵袋だった浪人あがりの〔殿さま〕栄五郎ではないか。
(参照: 〔殿さま〕栄五郎の項)
〔蓑火〕の下で正統派のお盗めをしていた者までが、血を見る急ぎばたらきに手をそめる時勢になったかと、平十はやけ酒を重ねる。

結末:鬼平が化けた〔殿さま〕栄五郎がニセ者であることは、〔火間虫〕一味には知れており、なぜ、なんのためにニセの〔殿さま〕栄五郎を口合いしたか、〔鷹田〕の平十は痛めつけられるが、もちろん、彼にはなんのことかわかるはずがない。
芝・方丈河岸の盗人宿へ打ち込んだ火盗改メは、11名の一味を捕縛。平十は縄を解かれたのを機に、海へ身を投げた。

つぶやき:谷中・三崎坂下にあった法受寺は、元禄期に尾久から越してきた浄土宗の寺だが、檀家はもたず、徳川家の庇護で成り立っていた。
檀家のいない寺の門前で花屋を開いてもやっていけまいとおもうが、坂のとっかかりから上までずっと寺が並んでいるから、坂下で花を求める気ぜわしい人もいたろう。
が、そのことよりも、幕府崩壊後、庇護者を失った法受寺は荒れ放題で、円朝が『牡丹灯篭』の舞台に見立てた。池波さんはこの秘話を知っていて、〔鷹田〕の平十の花屋をこの寺の門前に置いたのだろう。
法受寺は、震災後の昭和初期、浅草の安養寺と合併し、足立区東伊興町狭間 4-14-8へ移転。

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2005.07.29

〔猿塚(さるづか)〕のお千代

『鬼平犯科帳』文庫巻5で、初めてつかわれた[女賊(おんなぞく)]という呼称がびたりとはまる、〔猿塚(さるづか)〕のお千代が登場。
牛天神前の菓子舗〔井筒屋〕のおかみにおさまって、女躰をもとに、20数人の配下を束ねている。
東海道は岡部宿の小間物屋〔川口屋〕に、引退して寄宿している〔瀬音(せのと)〕の小兵衛だが、通りがかりの〔福住(ふくずみ)〕の専蔵から、隠し子の幸太郎が〔猿塚〕のお千代のなぐさみものになつているときいて、矢もたてもたまらず、江戸へやってきた。
(参照: 〔瀬音〕の小兵衛の項)
(参照:〔福住〕の専蔵の項)
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年齢・容姿:40歳すぎ。見たところ28,9の若い女のような躰つき。小さな愛らしい白い手。かすれ気味の声。
生国:近江(おうみ)国犬上郡(いぬがみこうり)高宮(現・滋賀県彦根市高宮)。
10年前に逝ったとき、年齢が30歳近くも開いていたにもかかわらず夫といわれた男は、じつは〔猿塚(さるづか)の徳右衛門で、お千代の実父。お千代は2代目。
徳右衛門が牛天神前に菓子舗をかまえたのは15年前のことというから、お千代は近江の出生とみてもいいのではなかろうか。
ただし、猿塚の一つは、京都市伏見区竹田三ッ杭町の小学校のキャンパス内に建てられている。

探索の発端:浅草の浅草寺の境内で偶然に小兵衛と出会った密偵のおまさへ、小兵衛が〔猿塚(さるづか)〕のお千代と幸太郎の顛末を打ち明け、お千代の居所をつきとめてくれと頼んだことから、鬼平が動ききじめた。
(参照: 女密偵おまさの項)
おまさは鬼平の口ききで、お千代と幸太郎が逢引きをする池ノ端の出会茶屋〔ひしや〕に女中として住み込み、2人があらわれるのを待った。
4日後、帰っていくお千代の駕篭を尾行(つ)けたおまさは、お千代の〔ひしや〕を探りあてた。

結末:鬼平とおまさは、閉じこめられていた根岸の寮から幸太郎を救い出した。
火盗改メ19名が〔井筒屋〕へ打ち込んだとき、お千代はいさぎよく喉を突いて自裁していた。

つぶやき:〔猿塚(さるづか)〕のお千代にしても、〔掻掘(かいぼり)〕のおけいにしても、京都の女盗賊おたかにしても、40すぎでハイティーンか20代の男性を迷わせるだけの色香をただよわせている。
(参照: 〔掻掘〕のおけいの項)
(参照: 女盗おたかの項)
池波さんが、若い男性読者の憧憬を察してのことか。もしやして、世の年増女性の心の奥底に秘めたひそやかな願望のほうかも。

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2005.07.28

〔鏡(かがみ)〕の仙十郎

『鬼平犯科帳』文庫巻12に配され、高感度は全篇中でも五指に入る[密偵たちの宴(うたげ)]で、浅草・橋場の町医者で高利貸しもしている竹村玄洞邸に押し入った、浪人あがりの凶悪な盗賊。このたびの盗めには、かつて〔大滝〕の五郎蔵が助(す)けを断った〔草間(くさま)〕の貫蔵(50近い)も加わっていたために、はやばやと目星がついた。
(参照: 〔大滝〕の五郎像の項)
(参照: 〔草間〕の貫蔵の項)

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年齢・容姿:53歳。容姿の記述はない。奸智にたけた獰猛な奴と。
生国:近江(おうみ)国蒲生郡(がもうこうり)鏡村(現・滋賀県蒲生郡竜王町鏡)。
鏡という町名は、栃木県小山市、新潟県柏崎市、佐賀県唐津市などにもあるが、〔鏡(かがみ)〕の仙十郎について大坂の町奉行所や中国すじの各藩から江戸の町奉行所や盗賊改方へ照会がきているとあるから、本拠を上方とみて、滋賀県の竜王町とした。

探索の発端:〔大滝〕の五郎像が竹村玄洞邸を下見するために浅茅ヶ原から福寿院の横道へやってきたとき、〔草間(くさま)〕の貫蔵を見かけた。
貫蔵は、総泉寺の境内でお長(40女)とつなぎをつけていた。お長を尾行(つ)けると、竹村玄洞邸へ入っていった。
これで、どこかの盗賊一味が竹村邸の金蔵を狙っていることがはっきりした。各所へ見張り所が設けられ、押し入りの日を待った。

結末:竹村宅を襲ったのは〔鏡(かがみ)〕の仙十郎一味15名で、うち2名が雇われ用心棒の浪人に斬られ、5名が火盗改メに斬り殺され、8名はすべて捕縛。
〔鏡〕の仙十郎は、市中引き回しの上、磔刑。ほかは死罪。

つぶやき:この篇の見ものは、末尾のおまさの啖呵である。日ごろは冷静なおまさが、茶碗酒をあふってつねにない啖呵を切るが、女性も抑圧がとれると、一気に爆発するということのサンプルである。
(参照: 女密偵おまさの項)
芝居の打ち上げ会かなにかで、酔った女優さんがすごい啖呵をきった場面に遭遇した体験が、池波さんにあるのかもしれない。

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2005.07.27

〔和尚(おしょう)〕の半平

『鬼平犯科帳』文庫巻7に置かれている女賊の[掻掘のおけい]の篇で、おけい(40をこえている)と組んで、荒っぽい盗めもいとわない一味の首領が〔和尚(おしょう)〕の半平である。
(参照: 〔掻掘〕のおけいの項)
おけいの若いツバメ〔砂井(すない)〕の鶴吉(26,7歳)は、「和尚のお頭とだけは組まないでくれ」と頼むが、〔掻掘(かいほり)〕のおけいは、委細かまわず、日本橋・富沢町の紅・白粉問屋〔玉屋〕茂兵衛方への押しいりの計画を、〔和尚〕一味とすすめている。
(参照: 〔砂井〕の鶴吉の項)

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年齢・容姿:記述がない。
生国:常陸(ひたち)国多賀郡(たがこうり)関本村(現・茨城県北茨城市関本町小川)
関本町の北西に標高804メートルの和尚山(おしょうざん)がある。半平は自分を大きく見せるためにこの山名を「通り名(呼び名)」にいただいたとみた。
別に、僧籍から還俗したとの見方もできないではない。だとすると、貧ゆえに寺へやられたのであろう。

探索の発端:〔砂井(すない)〕の鶴吉が、かつてのお頭〔大滝〕の五郎蔵に声をかけたことから、五郎蔵が〔掻掘(すなぼり)〕のおけいを尾行(つ)けて、〔和尚〕一味の十万坪にある盗人宿を突きとめた。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)

結末:富沢町の〔玉屋〕方への押しいろうとしていた、〔和尚〕一味11名は、追跡していた火盗改メに捕縛された。〔和尚〕の半平は鬼平に斬られて死んだ。
〔掻掘(かいぼり)〕のおけいは、市中引きまわしの上、死罪。

つぶやき:。〔和尚〕の半平と〔掻掘(かいぼり)〕のおけいとのつながりが、も一つ、はっきりしない。男と女の関係があったともおもえない。
はっきりしないといえば、〔生駒(いこま)〕の仙右衛門とおけいのつながりもよくわからない。
(参照: 〔生駒〕の仙右衛門の項)
拷問にも、おけいは、〔生駒〕一味のことを吐かなかった。それほどに義理立てしなければならない理由があったのであろうか。小説はそのあたりをぼかしている。

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2005.07.26

〔鯉肝(こいぎも)〕のお里

『鬼平犯科帳』文庫巻9で、女賊ながら名前を[鯉肝のお里]と、タイトルにされている、したたかな女性。
常陸から上州へかけて跳梁している盗賊〔白根(しらね)〕の三右衛門の配下で、このたびは、上州・沼田の酒問屋〔丸屋〕方へ1年前から住みこみの女中として引き込みに入っていた。
(参照: 〔白根〕の三右衛門の項)
押し込みは1,050余両を奪って成功した。もらった分け前の50両をふところに、仕事にとりかかる半年後まで、お里は博打場への出入りと「男買い」に日を送っている。

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年齢・容姿:かなりの年増。怒り肩で、がっしりとした大柄な躰つき。
生国:不明。記述されていない。
信州・佐久郡で育った鯉を、松本市の桂亭あたりで食べたときの記憶で、池波さんは〔鯉肝〕とつけたかなともおもったが、確証がとれないので、新設した「不明」に分類した。

探索の発端:空腹で牛の草橋上でへばっているやぐら売りの若者(19歳)に、食事をおごってやったところ、誤解した一膳飯屋の女将が若者を裏から逃がしてしまった。

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三つ橋 手前:弾正橋 右手:牛の草端橋 左手:真福寺橋
(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

誤解されたことに腹を立てたお里が、女将に1両をなげつけたのを、店にいた密偵・おまさが見逃さなかった。
おまさが尾行(つ)けると、お里は弾正橋をわたった先の柳町の裏道にある煙管師・松五郎の家へ入った。松五郎は亡夫の父親で、かつては〔長虫(ながむし)〕と呼ばれた盗人だった。
(参照: 女密偵おまさの項)
松五郎の家と背中おわせの家が空いたので、〔大滝〕の五郎蔵とおまさが、夫婦というふれこみで見張りについたが、ひょんなことから2人ができてしまう。ま、この顛末はお里の本筋とは関係がないから、省略しよう。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)

結末:お里につなぎをつけにきた旅商人風の男が尾行(つ)けられて、宇都宮城下のはずれの木沢の〔白根(しらね)〕の三右衛門の盗人宿が露見、一味18名が逮捕された。

つぶやき:じつをいうと、〔鯉肝(こいぎも)〕のお里の生家を、いまは佐久市にくみこまれている「熊久保」としたい誘惑に幾度もかられた。
巣鴨の三沢仙右衛門の家の近くに「熊野窪」という地名がある。いや、なんの関連もないのだが、その地名に注意を集めてみたかったのである。「熊野窪」は文庫巻4[霧の七郎]p18 新装版p19に出ている。
余談だが、佐久市には「猿久保」という地名もある。

さらに、余談。〔お里〕という名は、「鯉」から「魚」と取り去って、つけられたか。

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2005.07.25

〔岩坂(いわさか)〕の茂太郎

『鬼平犯科帳』文庫巻1に入っている、シリーズ初期の秀作の一つ[老盗の夢]で、あと一トばたらきと願う元大盗〔蓑火(みのひ)〕の喜之助へ、〔前砂(まいすな)〕の捨蔵が紹介した、〔野槌(のづち)〕の弥平の配下だった3人の30男の1人。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
(参照: 〔前砂〕の捨蔵 の項)
(参照: 〔野槌〕の弥平の項 )

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年齢・容姿:30男。容姿の記述はないが、緊張すると顔色が青ざめ、眼の光りが異様になる。
生国:上総(かずさ)国天羽郡(あまはこうり)岩坂村(現・千葉県君津市岩坂)
滋賀県甲賀市水口町岩坂も、池波さんのなじみの地だが、江戸に住みなれていることから、君津市を採った。

探索の発端:というより、〔蓑火〕の喜之助を裏切り、〔小房〕の粂八を殺(や)りに鎌倉河岸へ出かける途中に立ち寄った九段先下の一杯飲み屋の屋台で、まず〔印代(いしろ)〕の庄助と〔火前坊(かぜんぼう)〕の権七が喜之助に刺される。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
(参照: 〔印代〕の庄助の項)
(参照: 〔火前坊〕の権七の項)
そのあと、喜之助と茂太郎が相討ち。

結末:相討ちで死ぬ。

つぶやき:本格派の巨盗で、帰り盗めを計画した〔蓑火〕の喜之助が、畳の上臨終が迎えられるはずなのに、大女の色香に迷った果てに、無慙な最後を遂げたのは、本格派の終焉ら暗示している。
と同時に、時代が鬼平の出番をうながしていることも告げている。
悪が強ければ強いほど、相手方・鬼平の強さも際立つ。


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2005.07.24

〔瀬川(せがわ)〕の友次郎

『鬼平犯科帳』文庫巻18に入っている[草雲雀]で、目黒・権之助坂の中ほど、上覚寺(現在はない?)の門前茶店ともいえる〔越後屋〕の隣の、煙草ほかのこまごました品を並べている〔かぎや〕は、女房のおきぬが店を仕切っており、亭主の友次郎は旅商いというふれこみで留守をしていることが多いが、じつは一人ばたらきの盗人で、仲間うちでは〔瀬川(せがわ)」の---と呼ばれている。

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年齢・容姿:42歳。引きしまった細身の躰。
生国:下野(しもつけ)国都賀郡(つがこうり)瀬川村(現・栃木県今市市瀬川)。
近くの今市村(現・今市市今市)からは、宇都宮を本拠とする盗賊の首領の〔今市(いまいち)〕の十右衛門が出ているが、〔瀬川〕の友次郎は3ヶ条の掟てを守りきっているので、つながりはない。
(参照: 〔今市〕の十右衛門の項)

探索の発端:[俄か雨]で、茶店〔越後屋〕の寡婦お長と乳繰りあった同心・細川峯太郎が、目黒村にある菩提寺・感得寺へ墓参した帰り、〔かぎや〕から出てきた友次郎と立ち話をしている男、片方の耳たぶのない〔鳥羽(とば)〕の彦蔵(37,8歳)、が、人相書にそっくりと気づいた。
彦蔵はお長の茶店の隣の〔かぎや〕へ入ってゆき、昼間なのに戸が締められた。「あやしい」と睨んだ、細川同心の監視がつづく。

一方、〔瀬川(せがわ)〕の友次郎が訪ねたのは、芝・三田2丁目で眼鏡師の看板を出している市兵衛(70に近い)の家であった。かつて本格派の〔蓑火(みのひ)〕の喜之助の下でともに盗(つと)めた仲である。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
その市兵衛に友次郎は、上方の盗賊〔西浜(にしはま)〕の甚右衛門一味を助(す)けて南堀江町5丁目の砂糖問屋〔和泉屋〕を襲ったとき、むしぶりついてきた手代をふりはらったら、倒れた拍子に大台所の石畳に頭をぶつけて死んでしまったので、それを悔いて悩んでいた。
(参照: 〔西浜〕の甚右衛門の項)

結末:市兵衛に慰められて帰宅した友次郎を待っていたのは、彦蔵の棍棒だった。その異常な様子を監視していた火盗改メが踏み込んで、彦蔵は逮捕。

つぶやき:久しぶりに、『鬼平犯科帳』の主旋律の一つともいえる、3カ条の掟てを守っている盗人が登場したが、時代にあわないか、撲殺されてしまう。どこかで、『鬼平犯科帳』は変質を始めているのかも。

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2005.07.23

〔鶍(かけす)〕の喜右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻1に、シリーズ中の1篇とみなされての収められている〔浅草・御厩河岸]のサイド・ストーリーとして、堀帯刀組に捉えられる、甲州・石和(いさわ)に本拠を置いて甲州一帯を稼ぎ場所にしていた首領。

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年齢・容姿:どちらの記載もない。
生国:甲斐(かい)国八代郡(やつしろこうり)河内村(山梨県東八代郡石和町河内)

探索の発端:配下の頭株の〔真泥(まどろ)〕の伊之松が、単独で江戸へ出てきて盗みを働いて捕まって拷問にかけられ、〔鶍(かけす)〕一味の本拠を白状した。
(参照: 〔真泥〕の伊之松の項)

結末:堀組の佐嶋与力以下、同心5名、小者10名が石和に急行、甲府勤番の手も借りて、〔鶍〕の喜右衛門をふくむ一味12人を捕縛。
余談だが、その中に、のちに密偵となった、越中・伏木生まれの岩五郎と、その父で中風で伏せっていた宇三郎も入っていた。
(参照: 〔豆岩〕の岩五郎の項)

つぶやき:この篇は、『オール讀物』1967年12月号に、独立短篇として発表された。登場した長谷川平蔵を主人公にした連鎖短篇の企画が急に決まり、翌新年号からシリーズがはじまった。
その後、この篇に顔を見せた長谷川平蔵と筆頭与力・佐嶋忠介はレギュラー、剣友・岸井左馬之助は準レギュラーとなった。

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2005.07.22

〔掻掘(かいぼり)〕のおけい

『鬼平犯科帳』文庫巻7に配されて、[掻掘のおけい]とタイトルにもなっている、存在感のある女賊。なんといっても、その名前がタイトルに置かれている女賊は、全24冊中、わずかに9人だからね。
もっとも[艶婦の毒]のお豊のときには女賊をタイトルに据える発想は池波さんにまだなかったし、[女賊]の〔猿塚(さるづか)〕のお千代では、それまでの「女賊(にょぞく)」を「女賊(おんなぞく)」にあらためる最初の篇だったから、[猿塚のお千代]とはつけがたかったのであろう。
(参照: お豊、おたかの項)

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年齢・容姿:40をすぎている。よくみると美(い)い女でもないが、色気がある。
生国:不明。
〔生駒(いこま)〕の仙右衛門の庇護をうけているとあるから、「摂津」か「大和」にしてもよかったし、「川越城下の小間物屋の後家」といっているから「武蔵」ともおもったが、そのあたりはいい加減な女だから、「不明」のカテゴリーを新設して、その第1号に。
(参照: 〔生駒〕の仙右衛門の項)

探索の発端:〔大滝(〔おおたき)〕の五郎蔵が、かつて〔蓑火〕の喜之助のところにいたことのある〔砂井(すない)〕の鶴吉に声をかけられた。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
(参照: 〔砂井〕の鶴吉の項)
この1年、〔掻掘(かいぼり)〕のおけいにくわえこまれて精も根も吸いつくされているから、助けてほしい、と。
それでおけいを尾行した五郎蔵は、〔和尚(おしょう)〕の半平一味の〔黒灰(くろはい)〕の宗六の隠れ家を突きとめた。
(参照: 〔和尚〕の半平の項)
(参照: 〔黒灰〕の宗六の項)

結末:、〔掻掘〕のおけいがたらしこんだ日本橋・富沢町の紅・白粉問屋〔玉屋〕茂兵衛方へ押しいろうとした、〔和尚〕の半平一味11名のうち、2人は弓矢で射殺、あとは逮捕。畜生ばたらきが専門の半平とともにおけいも市中引きまわしの上、死罪。

つぶやき:おけいの魅力について、70歳をこえた〔舟形(ふなかた)〕の宗平爺つぁんが溜息まじりに、こう表現している。
「よく見ると別に美(い)い女でもねえのだが、なんともいえねえ色気があってね。ちょいとその、着物ごしにふれたことがあるが、ゆび先へぴりっときたよ。やわらけえのだ。もうまるで、骨がねえみたいだった。着物ごしなのに、生身の肌へふれたような貴がして、ぞっとしたよ」
(参照: 〔舟形〕の宗平の項)
若い〔砂井〕の鶴吉の告白。
「と、とても、四十をこえた女とはおもえません。そこは年相応に肥えてはいますが、なんともいえずにやわらかい肌身で、こっちの肌が吸いこまれそうなんで---」

池波さんの女性賛美もなかなかのもの。

それにしても、男の精と根を掻きだし掘りつくすような「通り名(呼び名)」には、恐れ入る。「掻く」の手へんはまあとうぜんとして、「掘る」も手へん。

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2005.07.21

〔壁川(かべかわ)〕の源内

『鬼平犯科帳』文庫巻21に収められている[討ち入り市兵衛]で、正統派〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛(70をすぎている)の片腕で、お頭の意うけてを交渉にあたった〔松戸(まつど)〕の繁蔵(50がらみ)に死にいたるほどの深傷(ふかで)を負わせた、浪人あがりの畜生働きが専門の首領。
(参照: 〔蓮沼〕の市兵衛の項)

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年齢・容姿:年齢は記されていない。大きな躰。
生国:紀伊(きい)国日高郡(ひたかこうり)壁川崎(かべござき)村(現・和歌山県御坊市名田町野島)。
「壁川」なる地名は、『大日本地名辞書』にも、『旧高旧領』にも、『郵便番号簿』にも記載がない。わずかに平凡社『日本歴史大系 和歌山県』に「壁川崎遺跡」が載っていた。呼称も(かべござき)で(かべかわ)ではない。「紀伊水道に面した海岸段丘上にある」先土器時代の遺跡と。
「不明」のカテゴリーに分類すべきかともおもったが、上方から中国筋へかけてを盗めの縄張りにしているということだから、とりあえず、ここを仮の生国とした。

探索の発端:南本所・二ッ目の通りに面した弥勒寺門前茶店[笹や]のお熊婆さんが、裏の植半の庭で、深傷(ふかで)を負ってうめいている〔松戸(まつど)〕の繁蔵を見つけた。駆けつけた〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が、〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛の片腕の繁蔵と認めた。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
彦十の爺つぁんが繁蔵の文をとどけた先、神田鍋町東横町の鞘師・長三郎(40歳)のところへ〔蓮沼(はすぬま)〕の市兵衛がいて、しつこく助力を求めてき、拒否されるや、口上を告げた繁蔵を殺傷した〔壁川(かべかわ〕の源内一味への討ち入りをきめた。

結末:深川三好町の〔壁川〕一味の盗人宿へ討ち入りをかけたのは、〔蓮沼〕の市兵衛とその配下5名、それに助っ人として木村忠右衛門(じつは鬼平)。相手方の7名は、すべて殺傷か捕縛。こちら側も市兵衛ほか3名が死ぬ壮絶な戦いであった。

つぶやき:古武士をおもわせるほどにいさぎよい〔蓮沼〕の市兵衛。対する〔壁川〕の源内方は手汚い謀ごとを平気で用いる。大衆小説の常道の対比とはいえ、あまりに際立ちすぎている。

mix(ミク)友というべきか、マイミクというべきか、そこでのハンドル・ネーム〔しんちゃん〕さんは、いまは福岡県にお住まいだが御坊のお生まれである。で、「壁川」のことをわがことのようにおおもいになったらしく、地元で教師をなさっている賢兄に史料をご依頼になった。送られてきた「壁川橋」の記述---「祓戸(はらいど)と本村の堺の往還にある土橋なり、土人或は囁(ささやき)の橋ともいふ」(『紀伊続風土記』)、「祓戸の南、小川に架す。土人(さとびと)或はささやきの橋ともいふ」(『紀伊国名所図会』)。
池波さんは、どうしてこのことを知っていたのだろう。

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2005.07.20

〔高窓(たかまど)〕の久兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻13の巻頭に据えられている[熱海みやげの宝物]は、〔甞帳(なめちょう)〕〔甞役(なめやく)〕といった、池波さん独特の用語が初登場する篇である。
『オール讀物』1975年7月号に発表されたが、その前の6カ月間は休載。
休載中の半年のあいだにも、『鬼平犯科帳』の想を練っていたことがこの〔甞帳〕〔甞役〕という池波用語からもうかがえる。
〔甞役〕は大坂の地蔵坂に本拠を置く〔高窓(たかまど)〕の久兵衛の配下、〔馬蕗(うまぶき)〕の利平治であることは、いうまでもない。
(参照: 〔馬蕗〕の利平治の項)

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年齢・容姿:70歳をこえて卒中で死亡。容姿の記述はない。
生国:大和(やまと)国平群郡(へぐりこうり)白毫寺(びゃくごうじ)村(現・奈良県奈良市白毫寺町)。
〔高窓〕という地名は江戸期にはない。それで、池波さんは、レイモンド・チャンドラーによる私立探偵フィリップ・マーロウものの『高い窓』に影響されてつけた「通り名(呼び名)」かな、と長いこと錯覚していた。
あるとき、〔高窓〕(たかまど)「高円(たかまど)」とヒラメイた。高円山(たかまどやま)は白毫寺町の東にあって432.2メートル、北の三笠山とつながる。
 高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人無しに 
                            (『万葉集』巻ニ)
池波さんは、〔高窓(たかまど)〕の久兵衛を、高円山のふもとの村の出生と仮定したのであろう。

探索の発端:彦十は、かつて見知っていた〔馬蕗〕の利平治が熱海の湯へつかりにきているのを見かけた。接触すると、お頭〔高窓(たかまど)〕の久兵衛が病死したので、消息が絶えている嫡男・〔布屋〕久太郎を探しているが、一味の後継をめぐっ争いが起きている、と訴えた。
(参照: 〔布屋〕久太郎の項)
後継騒ぎをおこしているのは、浪人あがりの高橋九十郎だった。

結末:〔高窓〕一味を乗っとった高橋一派は、鬼平の手配りで全員逮捕。〔馬蕗〕の利平治は無事に〔布屋〕久太郎に会たが、久太郎は盗人稼業から足をあらうという。
お頭を失った利平治は、命のつぎに大切な〔甞帳〕を鬼平へ差しだして、密偵となる。

つぶやき:この[熱海みやげの宝物]は、寛政7年(1795)1月の事件である。史実をいうと、この年の初夏、長谷川平蔵は床につき、旧暦5月10日に逝った。
小説のほうは、史実の平蔵の死後3年ほどもつづいている。もちろん、読者の要請による継続だったが、池波さんとしては、(こころならずも---)の気分だったのではなかろうか。

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2005.07.19

〔臼井(うすい)〕の鎌太郎

『鬼平犯科帳』文庫巻3に所載の[駿州・宇津谷峠]は、墓参した京都からの帰路の浜松で、剣友・岸井左馬之助tが別路をとって秋葉大権現社へ参拝、袋井宿へ下りて旅籠へ入った。
泊まりあわせていたのが、幼なじみの鎌太郎であった。30年ぶりの再会である。が、鎌太郎はそそくさと出立してしまった。

203

年齢・容姿:48歳。眼があるかないのかわからないほど小さい。
生国:下総(しもうさ)国印旛郡(いんばのこおり)臼井村(現・千葉県佐倉市臼井)。
臼井宿は印旛沼南岸の港として繁盛していた。岸井家は郷士で庄屋でもあったが、鎌太郎は百姓のせがれだった。

探索の発端:腹を下していた木村忠吾が、島田を出て阿知ヶ谷の林で尻をまくっていて、〔臼井(うすい)の鎌太郎が女をしめ殺す気配を察した。
その前の会話で、〔二股(ふたまた)〕の音二郎と、〔稲荷(いなり)〕の徳治は、盗賊の首領〔空骨(からほね)〕の六兵衛と妾おもんを殺し、盗人宿に隠してある金を、〔臼井〕の鎌太郎と3人で横取りしようということだったらしい。もっとも、鎌太郎はその〔二股〕の音二郎をも殺害していた。
鬼平が藤枝の〔本陣〕で女の死体を見せると、小間物屋・久蔵の女房と知れた。

結末:岡部の旅籠で、忠吾が鎌太郎の声を耳にし、出ていった2人を尾行すると、岡部川をわたり、朝比奈川を遡る。とある小屋で〔藤枝(ふじえだ)〕の久蔵たち3人が待ち伏せていて、〔稲荷〕の徳治と〔臼井〕の鎌太郎を切り殺したところを、鬼平が捕縛。
このことを鬼平は岸井左馬之助には話さず、肩を借りながら宇津谷峠を下るのだった。

つぶやき:岸井左馬之助が浜松から向かったという秋葉大権現社へ参拝してみた。
麓の別社は、昭和18年だかに建立されたものだから、左馬が詣でたものではない。
台風の翌日で、木の小枝などが散らかっている山道を死ぬほどのおもいで登ったが、あとで、自動車道路ができているときき、がつくり。
しかし、岸井左馬之助(すなわち池波さん)が山道の樹間からの見たと同じ眺めはいまだに忘れられない。
秋葉登山の記録は当サイトの[週刊掲示板]2003年06月03日を。

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2005.07.18

〔梶ヶ谷(かじがや)〕の三之助

『鬼平犯科帳』文庫巻9に所載の[泥亀(すっぽん)]で、〔泥亀〕の七蔵のかつてのお頭〔牛尾(うしお)〕の太兵衛一味の小頭の1人。もう1人は〔牛久保(うしくぼ)〕の幸兵衛。
(参照: 〔泥亀〕の七蔵の項 )
(参照: 〔牛尾〕の太兵衛の項)
(参照: 〔牛久保〕の幸兵衛の項)

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年齢・容姿:どちらも記述されていない。推定だと40後半。
生国:駿河(するが)国城東郡(じょうとうごうり)比木(ひき)村梶ヶ谷(現・静岡県御前崎市比木)。
「梶ヶ谷」は、現地名としてはのこっていない。比木の丘陵地帯の縄文遺跡の名称である。
〔牛尾〕の太兵衛の出身を、大井川西ぞいの旧・金谷町牛尾とみたので、駿河国で「梶ヶ谷」を探した。
ついでだが、比木が含まれていた浜岡町は2004年4月1日に御前崎町と合併して市制を敷いた。

探索の発端:〔泥亀(すっぽん)〕の七蔵へ、〔牛尾〕の妻娘の窮状をきかせた〔関沢(せきざわ)〕の乙吉から、ことの次第を聞きとった密偵・伊三次が、鬼平へ報告。
(参照: 伊三次の項)

結末:捕縛した〔関沢(せきざわ)〕の乙吉が持っていた50両を、〔泥亀〕の七蔵へ持たせて御油まで届けさせたが、〔梶ヶ谷(かじがや)〕の三之助と〔牛久保(うしくぼ)〕の幸兵衛たちの行方は、けっきょく、知れずじまい。

つぶやき:縄文遺跡の地名を「通り名(呼び名)」に? との疑問ももっともだが、遺跡があったところが「梶ヶ谷」だったからその名が冠されたのであろう。とすると、土地の人びとはその谷間を「梶ヶ谷」と呼んでいたはず。

旧・浜岡町地区には遠州灘に面して「浜岡砂丘」と呼ばれる美しい砂丘があり、漁舟が並んでいた。漁師たちは天候と風向き、海流には細心の注意をはらう。〔梶ヶ谷(かじがや)〕の三之助が〔牛尾(うしお)〕の太兵衛の小頭として企画面を担当したのも、漁師時代に身につけた細心の注意力のたまものだったろう。狙った商店の間取り、金蔵の位置と鍵、使用人の数、見張りをはりつける位置や退出口、木戸の位置、月の満ち欠け具合など、三之助の計画には疎漏がなかった。


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2005.07.17

〔朝熊(あさくま)〕の宗次

『鬼平犯科帳』文庫巻22は、長篇[迷路]である。〔猫間(ねこま)〕の重兵衛と鬼平との壮絶な対決の本筋に、脇役が何十人もからむ。その1人が、同心・細川峯太郎に博打の元手を貸す浅草・福井町の香具師(やし)の元締めの〔鎌屋(かまや)〕富蔵がそうで、乾分の〔朝熊(あさくま)〕の宗次が口をそえた。
(参照: 〔鎌屋(かまや)〕富蔵の項)

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年齢・容姿:どちらの記述もない。
生国:伊勢(いせ)国度会郡(わたらいごうり)朝熊(あさぐま)村(現・三重県伊勢市朝熊町)。
「朝熊」の村名は、空海が山中で修行していたとき、「朝熊獣出で、夕に虚空現ぜり」ゆえに名づけたと吉田東伍博士『大日本地名辞書』は記している。
町内の朝熊神社は、内宮摂二十四社の一とも。
『鬼平犯科帳』では、濁らないで(あさくま)とルビがふられている。

探索の発端:細川同心が博打をやめたので、探索されずにすんだ。

結末:上記に同じ。

つぶやき:この〔朝熊(あさくま)〕と濁らない「通り名(呼び名)〕は、密偵の伊三次が文庫巻9[泥亀(すっぽん)]で一度だけ使用したことがある。
(参照: 朝熊の伊三次の項)
再び登場したのは、池波さんが忘却したのか、あるいは、伊三次が使ったのは、推定どおり、〔泥亀〕の七蔵を安心させるためだったか。
朝熊神社の地図---
http://map.livedoor.com/map/?MAP=E136.45.20.0N34.29.1.2&ZM=8&SZ=850%2C600&OPT=e0000011&KN=1&COL=1&x=433&y=299

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2005.07.16

〔今市(いまいち)〕の十右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻10の巻末を飾っている[お熊と茂平]は、彦十とともにたくまざるユーモアをもたらすお婆さんが事件のとっかかりをつかみ、進行役をつとめながら鬼平を助(す)ける一編。


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南本所 弥勒寺 お熊婆さんの茶店は正門前の板屋根
(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

盗人役で登場するのは千住大橋の手前の小塚っ原町で畳屋をやっている〔荒尾(あらお)〕の庄八と、つなぎ役の〔猿野(さるの)〕の仙次だが、この線から糸がたぐられたのが、宇都宮に本拠をおいている首領〔今市(いまいち)〕の十右衛門
(参照: 〔荒尾〕の庄八の項)

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千住大橋 小塚っ原町は左端(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

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年齢・容姿:どちらも記載されていない。
生国:下野(しもつけ)国都賀郡(つがごうり)今市(いまいち)村(現・栃木県今市市今市)。

探索の発端:笑いをまきちらすお婆さんのボーイフレンド、南本所の真言新義の名刹・弥勒寺の寺男の茂平の遺言で、お熊はその死を、南千住の畳屋〔荒尾〕の庄八のへ伝える。
事情を聞いた鬼平は、茂平が引き込みではないかと疑い、庄八に見張りをつけた。
庄八の動きがあやしくなった。幡ヶ谷の旅籠〔入升屋〕から、宇都宮の〔今市〕の十右衛門へとつながって行ったのである。

結末:まず、つなぎにあらわれた〔猿野〕の仙次が吐き、つづいて〔荒尾〕夫妻も落ちた。幡ヶ谷の旅籠〔入升屋〕が手入れされた4日後には筆頭与力・佐嶋忠介が15名を率いて宇都宮へ出張り、〔今市(いまいち)〕の十右衛門以下4名を捕まえて、江戸へ護送。あわせて21名が死罪。

つぶやき:あたかも幕間劇のように、『鬼平犯科帳』で笑いを誘うのは、同心・木村忠吾、彦十とお熊のかけあいである。1話きりだと、盗人も仲間入りする。〔伊砂(いすが)〕の善八、〔尻毛(しりげ)〕の長右衛門、〔帯川(おびかわ)〕の源助たちである。
こういうコメディ役を巧みに配するのも、劇作から出た池波さんの強みである。
(参照: 〔伊砂〕の善八の項 )
(参照: 〔尻毛〕の長右衛門の項)
(参照: 〔帯川〕の源助の項 )

ついでだが、池さんに[釣天井事件 本多正純](初出『歴史読本』1961年11月号 のち『霧に消えた影』PHP文庫)という短篇がある。秀忠の2代目将軍の家督継承をめぐって、本多正純と土井利勝の暗闘を描いたものだが、まだ駆けだしだった池波さんは、宇都宮や今市を現地取材したとおもわれる。
日光参詣の秀忠の予定では、元和8年4月14日に宇都宮城へ入り、翌15日と帰路の19日に今市で宿泊している。

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2005.07.15

〔杉谷(すぎたに)〕の虎吉

『鬼平犯科帳』文庫巻12に収められている[見張りの見張り]は、行方知れずになった息子・佐太郎を殺した男に仇討ちをしようと旅をしている〔長久保(ながくぼ)〕の佐助(60すぎ)が、偶然に昔なじみの〔舟形(ふながた)〕の宗平と出あった。
(参照: 〔長久保〕の佐助の項)
(参照: 〔舟形〕の宗平の項)
宗平がここは〔大滝〕の五郎蔵の盗人宿だというと、佐助は、五郎蔵をつけまわしはじめる。かつて五郎蔵の配下だった〔杉谷(すぎたに)〕の虎吉こそ、佐太郎を殺した敵と、〔橋本(はしもと)〕の万造(32,3歳)にいわれたからである。
(参照: 〔橋本〕の万造の項)

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年齢・容姿:中年。ずんぐりした躰つき、角ばっていて脂ぎった顔だち、張りだした額の下の大きな眼玉。
生国:近江(おうみ)国甲賀郡(こうかごおり)杉谷村(現・滋賀県甲賀(こうか)市杉谷)
「杉谷」村は、上総国周淮郡、越前国丹生郡、同足羽郡、遠江国佐野郡、大和国吉野郡、伊勢国朝明郡にもあるが、池波さんの頭に浮かんでいたのは、甲賀五十一家のうち、『蝶の戦記』(文春文庫)のヒロイン於蝶のお頭・杉谷与右衛門信正ではなかったか。
杉谷郷について同作品は、京都から鈍行で一時間半、「貴生川から南へ一里。そこが、杉谷の里であった」と記して、池波さんが取材で訪れたことを暗示している。

探索の発端:五郎蔵が南品川で〔杉谷(すぎたに)〕の虎吉の女房がやっている蝋燭屋を訪れ、密偵の伊三次をみかけた。
(参照: 伊三次の項)
五郎蔵が鬼平に事情を告白すると、蝋燭屋の女房が毎日のように買物をしている近所の八百屋のむすめが下女として奉公をしていたのは本郷4丁目の紙問屋〔伊勢屋〕だが、先日、一家店員ともども惨殺されたため、その聞き込みに伊三次が行っていたのだと聞かされた。

結末:五郎蔵が〔杉谷〕の虎吉を罠にかけて捕縛。死罪を前にして虎吉がいうには、〔長久保〕の息子を殺してはいないと。

つぶやき:池波さんの創作法は、あらかじめ筋書きを考えないで書き出し、あとは成り行きまかせだというのだが、それにしては、この篇などは起承転結がうまくいっている。

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2005.07.14

〔布屋(ぬのや)〕久太郎

『鬼平犯科帳』文庫巻13の巻頭に据えられている[熱海みやげの宝物]で、〔馬蕗(うまぶき)〕の利平治が連絡(つなぎ)をつけようとしている〔高窓(たかまど)〕の久兵衛の嫡男。すなわち、〔高窓〕一味の2代目を継ぐべき立場なのだが、大坂の足袋屋〔布屋久太郎〕を名乗って江戸へ出てしまっている。
(参照: (馬蕗〕の利平治の項)
〔高窓〕を乗っとろうとしている越前・福井の浪人あがりの高橋九十郎に組みする連中が、利平治にくっついて離れないのは、一つには久太郎を殺(や)ってしまいたいため、一つには利平治がつくっている〔甞帳〕をうばうため。
そのことを、鬼平夫妻とともに熱海の湯につかりにきていた彦十が聞いてしまった。

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年齢・容姿:27歳。容姿の記述はない。
生国:摂津(せっつ)国東成郡(ひがしなりごうり)か、西成郡(にしなりごうり)のどちらかの布屋村(現・大阪市城東区か西淀川区の布屋)。

探索の発端:探索といっても、探しているのは、〔高窓〕一味の甞役の利平治である。
数年前、〔馬蕗(うまぶき)〕の利平治は、日本橋石町(こくちょう)の小さな旅籠〔扇屋〕へ半月ほど宿泊したとき、寡婦になったばかりの女将のお峰とできた。翌年、利平治と久太郎が〔扇屋〕へ泊まると、お峰はむすめのお幸とともに歓待したので、久太郎は「大坂の家より、〔扇屋〕のほうが我家のようにおもえてきた」と洩らした。それが手がかりだった。

結末:果たして久太郎は〔扇屋〕におり、お幸とできていて、盗みの世界へ戻る気はないという。そこで、利平治は自首して出、いのちより大切な〔甞帳〕を差し出す代わりに、久太郎の目こぼしを願った。

つぶやき:熱海の湯から小田原、六郷の渡し(川崎=六郷)と、物語は道中ものの形をとりながら展開する。
道中ものは、時代もの作家にとっては、書いてみたいものであり、また、アイデアにつまると書いてもしまう。この篇は、熱海の「今井半太夫」を出したかったとみる。雁皮紙で有名だった。

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2005.07.13

〔墓火(はかび)〕の秀五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻2に所載されている[谷中・いろは茶屋]は、寛政3年(1791)晩夏、シリーズきっての愛すべきコメディー・リリーフ兎忠こと同心・木村忠吾(24歳)が1番手柄を立てる篇である。共演者は、谷中の遊所・いろは茶屋〔菱屋〕の娼妓お松と、兇盗〔墓火(はかび)〕の秀五郎である。

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年齢・容姿:50男。でっぷりとした、大様な風貌、どこにあるかわからないほどの細い眼。
生国:武蔵(むさし)国埼玉郡(さきたまごおり)粕壁宿(現・埼玉県春日部市粕壁)。
いろは茶屋〔菱屋〕では「川越の大きな問屋の主」を自称しているので、最初は川越市(埼玉県)の生まれかとおもっていたが、まさかのときの手配をミス・リードするための、手のこんだ韜晦と判断した。

探索の発端: 20年前、〔墓火〕の秀五郎は〔血頭(ちがしら)〕の丹兵衛の上方での盗めを助(す)けたことがあった。そのときに伏見の娼家でなじんだお松に、〔菱屋〕のお松が似ていた。それだけではなく、店の者やお松が家庭の雰囲気で迎えてくれるのが嬉しかった。

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谷中の〔いろは茶屋〕(『歳点譜』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

(参照: 〔血頭〕の丹兵衛の項)
それで、お松が熱をあげている信州・上田の若い浪人(じつは木村忠吾の偽称)へ、揚げ代として10両(いまなら100万円相当)もの金をお松へ渡してやった。それず命とりになるとも知らずに。

書類づくりに部署替えになった忠吾は、辛抱たまらず、夜分に役宅の長屋を抜け出して谷中へ走ったが、一乗寺(台東区谷中1丁目)の脇で、盗み装束の一団を発見、彼らが引き上げていった家の前の上聖寺(台東区谷中1丁目)の塀に梯子をかけて監視するとともに、寺の者を役宅へ走らせた。

結末:捕らえた老人と下ッ端の男の自白から、〔墓火(はかび)〕の秀五郎の本拠、日光街道の武州・粕壁の旅籠〔小川屋〕がわかり、鬼平みずから14名をしたがえて出張り、仙台での大仕事をたくらんでいた一味の12名を逮捕。死罪であろう。

つぶやき:寛政3年(1791)より20年前といえば、明和8年(1771)で、この秋、平蔵の父・宣雄が火盗改メ・助役(すけやく)を命じられた。〔小房〕の粂八は17歳で、丹兵衛の破門されたのはこの2年後。すでに〔血頭〕一味にいたのだろうか。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
それにしても、2年後に押し入り先の下女に手をだした粂八を追放するほど本格派だった丹兵衛が、そのころから恐ろしげな〔血頭〕を名乗っていたとは---。

〔墓火〕の秀五郎がお松に語ったという「人間という生きものは、悪いことをしながら善(よ)いこともするし、人にきらわれながら、いつもいつも人に好かれたいとおもっている---」の至言は、池波さんが長谷川伸師から受けついだものである。

付記:鳥山石燕『画図百鬼夜行』に、[墓の火]と名づけられた化け物が描かれている。池波さんは、〔墓火(はかび)〕の秀五郎の「通り名(呼び名)〕を、この化け物から借りたのであろう。
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絵に添えられている文は、
「去るものは日々にうとく出るものは日々にしたし。古きつかはく犁(すか)れて田となり、しるしの松も薪となりても、五輪のかたちありありと陰火(いんくわ)のもゆる事あるは、いかなる執着の心ならんかし」

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2005.07.12

〔諏訪(すわ)〕の文蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻8に収録されて、主人公としてタイトル名にもなっている、[明神の次郎吉]の父親で、盗人。息子の次郎吉(30男)が「生まれた下(しも)の諏訪(すわ)にある諏訪大明神から採(と)ってつけた〔明神(みょうじん)〕を「通り名(呼び名)」としているのに、文蔵が〔諏訪(すわ)〕を名乗っているのは、たぶん、盗め金を稼いでから下諏訪の大明神の近くに家を買ったからであろう。それまでは小百姓だった生家は諏訪湖の近くにあったとおもえる。
(参照: 〔明神〕の次郎吉の項)

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年齢・容姿:記述はないが、寛政5年(1793)盛夏の事件である[明神の次郎吉]の篇から5年前に病死したというから、職業柄、晩婚で、次郎吉が35,6歳のときの子とすると、享年は60歳前後。
生国:信濃(しなの)国諏訪郡(すわごおり)大和(おおわ)村あたり(現・長野県諏訪市大和)

探索の発端・結末:本格派の大泥棒〔櫛山(くしやま)〕の武兵衛の配下として盗みの3ヶ条を守りぬいて、関東一帯から奥羽へかけての遠国で盗めてき、諏訪には骨休めに戻っていたために、畳の上でやすらかに死を迎えた。一度として捕縛されたことはない。

つぶやき:息子の次郎吉は、鬼平の剣友・岸井左馬之助が惚れこんだほど気性のいい男である。こういう男に育てあげるには、たまさかに家へ戻ってきたときの薫陶がよほどちゃんとしていたのであろうし、女房に対するしつけも行きとどいていたとおもえる。
ところでその女房だが、亭主が盗人だとわかっていないと、次郎吉がその世界に入るのを見すごはずがなかろう。
盗人業といえども、亭主の職業を女房が理解・尊敬していないと、家庭はうまくいかない。

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2005.07.11

〔稲沢(いなさわ)〕の倉吉

『鬼平犯科帳』文庫巻19の巻頭におかれている[霧の朝]で、深川・万年町の〔桶富〕の一人息子の幸太郎(4歳)を拐わかした女・お安の相棒。お安は死罪になった凶悪強盗犯・〔蜂須賀(はちすが)〕の為五郎の品川女郎あがりの情婦で、為五郎をお縄にかけた〔桶富〕の富蔵を恨んでいた。
〔稲沢(いなさわ)〕の倉吉は、〔蜂須賀〕の為五郎の弟分だった。

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年齢・容姿:このような出番をつくってもらった悪にしては、珍しくどちらも記述がない。
生国:尾張(おわり)国中島郡(なかじまごうり)稲葉村(現・愛知県稲沢市稲沢町)。
〔蜂須賀(はちすが)〕の為五郎の弟分というので、地縁をたどって稲沢市稲沢町とした。ただし江戸時代には存在しなかった地名で、明治20~22年に稲葉(いなば)村と小沢(おざわ)村が合併して稲沢(いなざわ)村に。明治22年に稲沢町の大字に。市制は昭和33年。
池波さんは(いなさわ)と濁らないルビをふっているが、岩代国安達郡、武蔵国児玉郡、下野国那須郡、いずれの「稲沢村」も(いなざわ)と濁る。

探索の発端:たまたま、鬼平が〔桶富〕に来合わせていたとは、幸太郎の誘拐が知れた。幸太郎はもらい子で、元の親の瓦焼職人夫婦が引きとりたいといってきていた。

606
本所・中ノ郷の瓦師(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

瓦焼職人は乞食(おこも)になって井関録之助の以前の小屋へ住みこんでいた。品川宿の天妙国寺の門前に座って喜捨をうけている女房が、幸太郎をみかけた。

結末:元瓦焼職人の乞食夫婦が幸太郎をと取りもどしに行ったところ、〔稲沢(いやさわ)〕の倉吉とお安が乱暴をはたらきかけたとき、井関録之助が居合わせて、2人を捕らえた。
その隙に、乞食夫婦が幸太郎をつれて逃げてしまったが、ある霧の朝、返してよこす。

つぶやき:このような人情劇に、偶然が重なりすぎる、などといいたててみてもしかたがない。感情が先にたっているから、読み手は見逃す。それよりも、涙を誘うテクニックのほうを見てあげよう。

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2005.07.10

〔牛久保(うしくぼ)〕の幸兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻9に所載の[泥亀(すっぽん)]の主人公は、いまは足を洗って、芝・三田寺町の魚籃観音堂・境内で茶店をやつている七蔵である。店はお頭だった〔牛尾(うしお)〕の太兵衛に、3年前に買い与えられた。
(参照: 〔泥亀〕の七蔵の項 )
(参照: 〔牛尾〕の太兵衛の項)
その〔牛尾〕一味には2人の小頭がいた。〔梶ヶ谷(かじがや)〕の三之助と、この項の当人〔牛久保(うしくぼ)〕の幸兵衛である。2人は、首領の太兵衛が中風で倒れると、残り金をかっさらい、一味を引きつれて去っていったのである。
落ちぶれたお頭の寡婦と目の見えない娘を助けるぺく、七蔵の痔疾をかかえての奮闘がはじまる。

209

年齢・容姿:どちらも記述されていない。推定だと40男。
生国:三河(みかわ)国宝飯郡(ほいごうり)牛久保村(現・愛知県豊川市牛久保町)
〔牛尾(うしお)〕の太兵衛の生国を、大井川の西岸、遠江(とおとうみ)国山名郡(やまなこおり)金谷宿牛尾郷(現・静岡県島田市牛尾)とみた。その地縁で、三河の牛久保村とした。
武蔵国都筑郡(現・横浜市港北区)の牛久保を外した。
長野県下伊那郡阿南町で「帯川」「門原」を現地取材したとき、遠州街道ぞいに「牛久保」をみかけたが、『旧高旧領』には載っていないから、外した。このほかに「牛久保」があっても、やはり、『旧高旧領』には記載されていないから、除外することになる。

池波さんとの関連でいうと、武田信玄に仕えて川中島の合戦で戦死した軍師・山本勘助が当地の出身である。(参照: 『夜の戦士 上』角川文庫)
当地の浄土宗鎮西派の長谷寺(ちょうこくじ)が勘助の墓所といわれている。


補記すると、江戸期の牛久保村は石高1,567石、寛政期の戸数258と、かなり大きな村で、「周辺の村々が農業を主体とする村であったのに対して、当村は生活必需品を調達する在郷町としての性格を見せていった」(角川『地名大辞典』)と。
上記のような環境で育った〔牛久保〕の幸兵衛は、商才というか、経済的な経営感覚がすぐれていて、その面で〔牛尾〕の太兵衛のよき左腕だったろうが、金銭面を重視するあまりに裏切ったのであろう。

江戸期前から馬市で栄えたという。それでも村名が「牛久保」なのは、もっと前に、金色の清水の湧く窪溜りに牛が臥居していたためと。

探索の発端:〔泥亀(すっぽん)〕の七蔵へ、〔牛尾〕の妻娘の窮状をきかせた〔関沢(せきざわ)〕の乙吉から、ことの次第を聞きとった密偵・伊三次が、鬼平へ報告。

結末:捕縛した〔関沢(せきざわ)〕の乙吉が持っていた50両を、〔泥亀〕の七蔵へ持たせて御油まで届けさせたが、〔梶ヶ谷(かじがや)〕の三之助と〔牛久保(うしくぼ)〕の幸兵衛たちの行方は、けっきょく、わからずじまい。

つぶやき:江戸時代前期、裁きは一事両様---すなわち、仕置きする側の情状酌量で裁決は、きびしくも、やさしくもなしえた。
それが、吉宗のときに、「公事方御定書(くじがたおさだめがき)百箇条」が制定され、裁きは一事一様になり、情状酌量の余地はほとんどなくなった。
鬼平の温情は、一事一様を逸脱しがちである。上からの勤務評定はかなりきびしものであったろう。
ついでにいうと、一事一様の対極にあるのが一事両様。綱吉のころの人情味を生かした裁きがこれだった。

2005年12月5日の取材リポート

豊川から豊橋へいたる飯田線は、昼時は30分間隔というので、名鉄豊川線で豊川稲荷駅に着いたとき、時間節約のために駅前からタクシーで次駅・牛久保へとんだ。したがって、長谷寺への参詣は省略。
駅の周辺は、新興住宅地然としており、単身者用の1DKアパートが3棟建っている。タクシードライヴァー氏の言では、昼間は乗降客がきわめて少ないから、本数も間遠いのだと。
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たしかに、電車は1両だけ。これで豊橋へむかった。

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2005.07.09

〔田辺(たなべ)〕の十松

『鬼平犯科帳』文庫巻10の巻頭におかれている[犬神の権三]は、〔雨引(あまびき)〕の文五郎と、〔犬神(いぬがみ)〕の権三郎との、命をかけた怨念の勝負である。
(参照: 〔雨引〕の文五郎の項)
(参照: 〔犬神〕の権三郎の項〕
〔落針(おちばり)〕の彦蔵をある因縁から殺害した文五郎は、いまは火盗改メの密偵になって、尻尾をつかみにくく凶悪な〔独りばたらき〕の盗賊を、見つけては指している。そのうちの1人が〔田辺(たなべ)〕の十松であった。
(参照: 〔落針〕の彦蔵の項)

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年齢・容姿:どちらも記述されていない。
生国:「田辺」という地名も、少なくはない。田が拓かれていれば、辺はつきものだ。京にも大坂にもある。
伊勢(いせ)国員弁郡(いなべごうり)田辺村(現・三重県員弁郡北勢町田辺)を採ったのは、かつて〔雨引〕の文五郎が属していたお頭〔西尾〕の長兵衛の本拠が伊勢だったから、とうぜん、組織はことなっていても、顔見知りか、あるいは手を借りたこともあったろうと推測したから。盗人集団同士での助っ人の貸し借りはないことではない。

探索の発端::記述はないが、だいたいの想像はつく。伊勢から名古屋へかけてが盗め場所の〔田辺(たなべ)〕の十松が、〔尾羽根(おばね)〕の留吉と連れ立って、骨休めに江戸へやってきて、深川の富岡八幡宮から洲崎の弁財天へまわり、門前の茶店の縁台にすわって素顔をさらしていて、宿をつきとめられたのであろう。

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洲崎弁財天(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

結末:江戸を出ようと、朝発ちしたそのときに逮捕。死罪。

つぶやき:凶悪な心根の〔田辺(たなべ)〕の十松といえども、神域にいるというだけで、さして信じてもいないのに功徳を求めたりしたくなるときもあるのだろう。十松と留吉があげた賽銭は1分(約2万5000円)。人間のこころは、自分で信じているほど強靭ではない。

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2005.07.08

〔竹森(たけもり)〕の彦造

『鬼平犯科帳』文庫巻6に収録されている[狐火]に登場。〔狐火(きつねび)〕の2代目を勝手に自称する文吉が、腹ちがいの兄・又太郎と別れて去ったとき、文吉にしたがって一味を抜けていった盗人。若いころ、仙台藩の中間部屋へいたこともあり、剣術が多少はでき、先代〔狐火〕の勇五郎の左腕といわれていた。
(参照: 〔狐火〕の勇五郎 2代目の項)

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年齢・容姿:39歳。容姿の記述はない。
生国:備後(びんご)国奴可郡(ぬかごうり)竹森村(現・広島県比婆(ひば)郡東城町竹森)
甲斐国山梨郡、羽前国置賜郡、越後国三島郡にも竹森村があるが、鳥取県に近い中国山脈の中の広島県のここを採ったのは、京都に本拠を置いていた〔狐火(きつねび)〕へなら、羽前や越後よりも近いとみたことと、広島県出身者がこれまで1人もいなかったので、つい、選んでしまった。

探索の発端:親類の法事に佐倉へ出向いた帰り、松戸に一泊して中川の新宿の渡し場へやってきた密偵おまさが、茶店の亭主におさまっている、かつての〔〔狐火〕一味の右腕だった〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七を見かけた。
(参照: 女密偵おまさの項 )
(参照: 〔瀬戸川〕の源七の項)
一家皆殺しの凶行のあと、〔狐火〕の札を残していく賊が上方に出たことで、〔狐火〕の2代目を継いだ又太郎が〔瀬戸川〕の源七のところへやってき、先代が死ぬ前に〔竹森〕の彦造に命じたこともないがしろにしていること、文吉を殺して〔狐火〕を名のろうとしていることも判明した。

結末:文吉を殺して自分が〔狐火〕を名のろうとしていることを悟った文吉が、先に彦造を殺害。

つぶやき:広島県の鬼平ファンは、〔竹森〕の彦造のように没義道な盗人でなく、もうすこしましな盗人の出身県にしてくれ、とおっしゃるかもしれない。
また、彦造が仙台藩の中間をやっていたこともあるというなら、羽前国置賜郡竹森村の出身と見たほうが理にかなっていないか、という方もいよう。
ま、今回は、目をつむっていただきたい。

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2005.07.07

〔駒場(こまんば)〕の宗六

『鬼平犯科帳』文庫巻2の所載の[蛇(くちなわ)の眼]で、頭の平十郎配下の1人。合鍵づくりの達人。
(参照: 〔蛇〕の平十郎の項)
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年齢・容姿:30歳。容姿の記述はないが、蝋型がとれなかったためにかなりの重さになる蔵破りの諸道具を運ぶから、筋骨はたくましいはず。
生国:池波さんは、〔蛇〕の平十郎の配下として4人を列記している。
 志度呂(しどろ)の金助(35歳)
 片波の伊平次(40歳)
 (参照: 〔片波〕の伊平次の項)
 駒場の宗六(30歳)
 鶉(うずら)の福太郎(25歳)
(参照: 〔鶉〕の福太郎の項)
4人のうち、〔片波〕と〔駒場〕にルビがふられていないのはなぜなのかを、かんがえてみた。たぶん、(かたなみ)(こまば)は、ほかに読みようがない、と編集部が判断したか。
しかし、馬を移動用・戦闘用にたくさん使っていた戦国から江戸時代へかけて、放牧したり飼育したりするための「駒場」は、それこそいたるところにあって、たいてい地名になっていたはずである。
考えていたら、鬼平熱愛倶楽部のメンバーである〔みやこ〕のお豊さんから、武田信玄がみまかった信州・下伊那の駒場(こまんば)ではないかとのご教示をうけた。
信濃(しなの)国伊那郡(いなごうり)駒場(こまんば)村(現・長野県下伊那郡阿智町駒場)。
池波さん愛用の吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房 明治33~)には、「駒場(こまんば) 今会地村とあらたむ」とある。
さらには、近年は(こまば)と呼ぶむように法制できまっていると、町役場で教わった。

探索の発端:〔蛇〕の平十郎の項に記したので、その一部を再録。
鬼平と平十郎が出会ったのは寛政3年(1791)初夏で、本所・源兵衛橋ぎわの蕎麦屋〔さなだや〕において。
そこで冒頭に記したような視線を交わしあい、鬼平のほうは(油断のならぬ怪しい奴)としかおもわなかったが、平十郎は相手を鬼の平蔵と察知した。
日本橋・高砂町で〔印判師・井口与兵衛〕の看板をあげている〔蛇〕の平十郎は、浜町堀をはさんで斜向(はすむか)いの道有屋敷の金蔵を狙っていた。

〔駒場〕の宗六は、蔵破りの諸道具の手当てと手入れにかかりきっていた。

これより前の事件---文庫巻1に所載の[座頭と猿]で逃げ隠れていた座頭・彦の市が女に会いに現われて逮捕され、〔蛇(くちなわ)〕一味の盗人宿が相州・小田原宿の北の部落・上之尾にあることを白状した。

結末:上之尾へ馬で急行、待ち構えていた鬼平以下の火盗改メに、全員逮捕、死罪。
平十郎だけは過去の残虐な所業もふくめて、市中引き回しのうえ火刑。

つぶやき:(こまば)を採るか、(こまんば)にするかで、ずいぶん迷った。
で、(こまば)の宗六、(こまんば)の宗六---と、何回も口に出してみた。そのうちに(こまんば)の宗六のほうが、語感がよくなってきた。舞台のせりふまわしは語感だから。
あとになってだが、口合人の〔鷹田〕に平十に、(たかんだ)とルビをふった例もあることだし、とも牽強付会。

明治座の舞台で、〔蛇(くちなわ)〕の平十郎が、
「〔こまんば〕の、逃げろ!」
と叫んでいる場面も目に浮かんでき、ぜったいに、(こまんば)だと確信できた。

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2005.07.06

〔牛子(うしこ)〕の久八

『鬼平犯科帳』文庫巻23は長篇[炎の色]で、密偵おまさと〔荒神(こうじん)〕の2代目を継いだ女賊お夏が出会う。これに、〔峰山(みねやま)〕の初蔵一味がからむ。
(参照: 女密偵おまさの項 )
(参照: 〔荒神〕のお夏の項)
(参照: 〔峰山」〕の初蔵の項)
〔牛子(うしこ)〕の久八は、〔峰山〕一味。

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年齢・容姿:中年。おだやかな口調。
生国:武蔵(むさし)国入間郡(いるまこうり)牛子村(埼玉県川越市牛子)
頭の〔峰山(みねやま)〕の初蔵が丹後(たんご)国の生まれなので、上方かとおもったが、どこにでもありそうな地名なのに、近畿・西国にはなかった。
宮城県伊具郡丸森町にあったが、おまさがつれていかれた盗人宿が千住大橋より上流ということで、川越近辺の出身とみた。

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千住大橋 宮城村は川上(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

探索の発端:〔峰山〕の初蔵から、、〔荒神〕一味と組んでやるお盗めを手伝うように声をかけられた密偵おまさを、送り迎えの舟で目隠しをしたのが〔牛子〕の久八であった。

結末:荷舟で箱崎町2丁目の醤油酢問屋〔野田屋〕のかたわらへ乗りつけてきた〔峰山〕一味は〔牛子〕の久八も、〔荒神〕一味とともに、待ち構えていた火盗改メと船手方・向井将監の手の者たちに逮捕されたが、〔峰山〕の初蔵は鬼平に斬って捨てられた。

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新大橋と三ッ又 富士の方角の川筋に箱崎町2丁目
(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

つぶやき:〔峰山(みねやま)〕の初蔵は、〔荒神(こうじん)〕一味の幹部級〔天徳寺〕の茂平を調略して、寝返らせていた。もし、逮捕がなければ、〔荒神」のお夏は、もっと痛いおもいをしていたのではなかろうか。池波さんによる、盗人仲間の調略の結末を見たかった。

埼玉県川越市 市役所観光課 渡辺 さんからのリポート

「牛子村」は、明治22年(1889)4月1日、同村を含む8ヶ村が合併して、南古谷村となりました。
昭和30年4月1日、南古谷村を含む9ヶ村が川越市に合併、現在の市域となりました。牛子は当市の南東に位置しています。
なお、上記は川越市立博物館で確認したものです。

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2005.07.05

〔市野(いちの)〕の馬七

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収録されている諸篇の中で、読み手が強い衝撃を受け、いつまでも記憶にのこしつづけているのが、密偵・伊三次(37歳)が、梅雨の雨が降りしきる摩利支天横丁で刺される、この[五月雨]である。
(参照: 伊三次の項)
兇刃をふるったのは、かつては仲間だった越後生まれの〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵(37,8歳)。〔市野(いちの)〕の馬七と骨休めに江戸へき、下谷の提灯店で遊んだときに、伊三次との切れていた糸がつながった。
(参照: 〔強矢〕の伊佐蔵の項)

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年齢・容姿:中年。
生国:遠江(とおとうみ)国長上郡(ながかみごうり)市野村(現・静岡県浜松市市野町)
「市野」という地名は、市が開かれる野という説もあるから、日本中のいたるところに点在した。〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵は越後国蒲原郡(かんばらごおり)暮坪(くれつぼ)の出身ということで、地縁をかんがえ、南魚沼(みなみさかな)郡大和町の甲・乙・丙がうしろにつく市野江も候補にあげてみたが、馬七は〔ひとりばたらき〕とあり、1,2度の盗めのつながりかと推理、浜松市の天竜川の安間川の上流右岸の市野を採った。

探索の端緒:。〔強矢(すねや)〕の伊佐蔵と〔市野(いちの)〕の馬七が、五条天神裏の提灯店の〔みよしや〕で遊んだことを、なじみのおよねが伊三次へ告げたことから、〔大滝〕の五郎蔵が張り込んだ。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)

結末:伊佐蔵と馬七があらわれたとき、店主・卯兵衛が顔色を変えたため、罠に気づいた2人は逃げたが、五郎蔵と鬼平によって捕縛された。死罪は間違いない。

つぶやき:〔みよしや〕のような私娼の店のある下谷2丁目が「提灯店(ちょうちんだな)」とよばれているのは「生池院店(しょうちいんだな)」がなまったもので、かつての生池院の跡だから。

この篇は、ストーリーの展開より、死の床にある伊三次の鬼平のこころの通いあいに注目しよう。
伊三次が、10年前に伊佐蔵の女房おうのを寝取って逃げたあと、殺してしまったことを告白すると、

「長谷川平蔵、たしかに、聞きとどけた。なれど忘れるなよ」
「へ---?」
「お前は、わしの子分だということを、な---」

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2005.07.04

〔江嶋(えじま)〕の由五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻18に入っている[草雲雀]で、目黒の小間物屋〔かぎや〕の亭主・友次郎と、権之助坂上、白金10丁目で行きあったのが〔鳥羽(とば)〕の彦蔵(37,8歳)で、この男が属していたのが〔江島(えじま)〕の由五郎一味。

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年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国:出雲(いずも)国意宇郡(いうごうり)江島(えしま)村(現・島根県松江市八束町)。
〔鳥羽〕の彦蔵の地縁で、三重県鈴鹿と愛知県宝飯(ほい)郡一宮町の江島(えじま)も考慮に入れた。池波さんはとりわけ、鈴鹿市へ足を運んでいる。
が、松江市八束町の地図をみて、咄嗟に、迷いを一掃した。中海(なかのうみ)に浮かんでいる江島のすぐ東に鳥取県の西端の境港(さかいみなと)市が接していた。池波さんはここの美保(みほ)海軍飛行場に終戦まで駐屯していたのである。夕陽が江島の向こうの中海を染めながら落ちるのを眺めていたはず、と決めこんだ。
辛気くさい生国調べをしていて、胸のつかえがパッと晴れる瞬間である。地元の読みは(えしま)と濁らない。江島小麦が有名と資料にあった。

探索の発端:記述されていない。
試算では、この篇は寛政10年(1798)の事件になる。しかし、長谷川平蔵は寛政7年(1795)5月10日薨じてしまっている。それでも読者の熱望で連載はつづけられた。
〔江島(えじま)〕の由五郎とその一味8名の逮捕は一昨年とある。

つぶやき:池波さんが23歳、美保海軍航空隊での句。
 青麦の畑のそよぎに分け入りぬ
 砂浜の海の極(きわ)まで麦実り
(『完本池波正太郎大成』 別巻 講談社 「泥麦集」より)

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2005.07.03

〔稲谷(いなたに)〕の仙右衛門

『鬼平犯科帳』文庫20に収められている[顔]は、かつての同門で、評定所の裁きにより切腹して果てた井上惣助に瓜二つの泥棒---〔嶋田(しまだ)〕の惣七を品川宿で捕らえてみると、父親は同じ旗本・井上惣左衛門であったという筋書き。
〔嶋田〕の惣七は、上方の首魁〔稲谷(いなたに)〕の仙右衛門の片腕とも軍師ともいわれていた男だが、頭の仙右衛門と仲たがいをし、仙右衛門の盗人宿から500両余をかすめて姿をくらまし、東海道すじ・南品川宿の品川(ほんせん)寺の脇へ潜んでいた。
(参照: 〔嶋田〕の惣七の項)

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品川駅(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

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年齢・容姿:どちらも記載されていないが、年齢は惣七が50歳代のようだから、60前後であろうか。
生国:越後(えちご)国頸城郡(くびきごうり)稲谷(いなだに)村(現・新潟県上越市稲谷)
池波さんは(いなたに)と濁らないでルビをふっているが、地元では(いなだに)とにごる。稲ができる谷なんて、西日本ならどこにでもありそうな村名だが、ここしか残っていない。まあ、日本海側と上方は海運でつながっていたから、江戸へ出るのと同じぐらい便がよかったし、池波さんは上杉謙信の史料集めに、しばしば越後を訪れてもいる。

探索の経緯:
〔稲谷(いなたに)〕の仙右衛門は、持ち逃げされた500両余を取りもどすために派遣した3人が、鬼平の眼の前で〔嶋田(しまだ)〕の惣七を襲ったものだから、仙右衛門の存在がバレ、大坂や京都の奉行所へ連絡がとられた。

つぶやき:〔嶋田(しまだ)〕の惣七が500両余を持ち逃げしたのは、2年前のこととある。3人の追手のために費やした2年間の捜査費用はいかほどであったか。旅籠代や酒手・娼妓など年間1人50両では足るまい。2年で120両ほどか。3人で360両。このほかに飛脚代やらなにやらで---収支決算とんとんといったところか。
放置しておいたら、自分の存在を隠しとうせたかも知れないのにねえ、〔稲谷〕の仙右衛門どん。

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2005.07.02

〔舟形(ふながた)〕の宗平

『鬼平犯科帳』文庫巻4の所載の、寛政元年(1789)夏から晩秋へかけての事件である[敵]に登場したときは、〔初鹿野(はじかの)〕の音松一味の盗人宿---目黒にある百姓家を預かっていた。
(参照: 〔初鹿野〕の音松の項)
かつて〔蓑火(みのひ)〕の喜之助一味にいた〔大滝〕の五郎蔵がらみの件で火盗改メに保護され、密偵となり、五郎蔵と義理の親子のちぎりを結び、本所・相生町で小さな煙草屋を開く。
参照〔蓑火〕の喜之助の項)
参照〔大滝〕の五郎蔵の項)
以後、長年つちかった盗賊界での顔のひろさを活かして、盗人の正体を告げて逮捕にかかわった。『鬼平犯科帳』164話中の30話に登場。

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年齢・容姿:年齢がむずかしい。寛政元年(1789)には70歳をこえているはず、とある。
それから4年後(寛政4年)の文庫巻7[泥鰌の和助始末]Iは、60をこえたとある(p195 新装版p202)。まあ、70いくつも「60をこえた」範疇に入ることとは入るが---)
翌寛政5年(1793)晩秋の事件を描いた文庫巻9[雨引の文五郎]ではふたたび「70をこえた」(p21 新装版p22)。
(参照: 〔雨引〕の文五郎の項)
生国:これも、特定が容易ではない。まず、表記の〔舟形〕。
〔船形〕なら千葉県の館山市船形(ふなかた)、同・成田市船形(ふながた)が吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房)に収録されている。
そして、〔蓑火〕の喜之助のところにいた千葉県出身の者というと、〔五井(ごい)〕の亀吉がいる。独立して〔大滝〕の五郎蔵と〔並び頭〕を務めた仁だ。
参照〔五井〕の亀吉の項)
しかし、池波さんはわざさわざ〔舟形〕としている。
とすると、先記の『地名辞書』にあるのは、羽前(うぜん)国最上郡(もがみごうり)舟形(ふなかた)(現・山県県最上郡舟形町舟形)。ただし、池波さんがふっているルビ(ふながた)のようには濁らない。
小国川(別名・船形(ふなかた)川、またの名・瀬見川)が北を流れている。

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(緑○=舟形 紅〇=新庄 水色=最上川 明治22年製地図)

宮城谷昌光さん『風は山河より 第1巻』(新潮社)に、三河と遠江の境に舟形(ふながた)山があることを教えられた。
これも頭にとめて、『鬼平犯科帳』以前の諸作品と、池波さんの旅行記録を反趨してみたい。

〔舟形〕の宗平の発見が発端となった篇---
・文庫巻 7[はさみ撃ち]  〔大亀(おおがめ)〕の七之助
・文庫巻10[蛙の長助]  〔蛙(かえる)の長助〕

記憶に残る活躍:文庫巻9、鬼平の計略で〔落針(おちばり)]の彦蔵を破牢させる[雨引の文五郎]で、〔西尾(にしお)〕の長兵衛一味の主導権争いによる文五郎彦蔵の確執のことを、義理の息子の〔大滝〕の五郎蔵にも話していないことを鬼平にとがめられ、
(参照: 〔落針〕の彦蔵の項)

「へい、へい---まことにもって、申しわけもねえことで---」
「何故、だまっていた?」
「それは、長谷川さま---」
いいさして、また、うつむいてしまった舟形の宗平へ、
「爺つぁんは、文五めをかばっていたのかえ?」
「へ---まことに、その---」
「いえ、いってみよ」
「へ、それが---雨引の文五郎ほど芸がある盗人に、御縄を頂戴させるのが---ちょいと、その、惜しい気もいたしまして---わざと、知らん顔をしておりましたのでございます」
穴でもあれば入りたい風情の宗平へ、平蔵は、
「こやつめ---」
なんともいえぬ微妙な笑顔になって、ただ一言、
「あきれた爺つぁんだわ」
と、つぶやき、傍らの煙草盆を引き寄せた。

つぶやき:密偵が見かけたのが端緒になった篇---
◎おまさがらみ 14編
[4―6 おみね徳次郎  〔法楽寺〕の直右衛門 p208 新p218
[5―3 女賊]        〔瀬音〕の小兵衛    p85 新p89
[4-4 血闘]       〔吉間〕の仁三     p149 新p156
[6-4 狐火]       〔瀬戸川〕の源     p114 新p121
[8-3 明神の次郎    〔櫛山〕の武兵     p93 新p98
[9-2 鯉肝のお     〔白根〕の三右      p50 新p52
[10-1 犬神の権     〔犬神〕の権       p28 新p29
[13-4 墨つぼの孫八  〔墨つぼ〕の      p147 新p153
[14-2 尻毛の長右衛  〔尻毛〕の長右衛    p60 新p62
[19-6 引き込み女    〔駒止〕の喜太     p267 新p277
[23 炎の色]         〔峰山〕の初蔵     p55 新p53
[24 女密偵女賊]     〔鳥浜〕の岩吉     p16 新p15
[24 誘拐]         相川虎次郎      p147 新p139

◎伊三次がらみ 4編
[6-2 猫じゃらしの女] 〔伊勢野〕の甚右衛  p69 新p74
[9-3 泥亀]       〔関沢〕の乙吉      p95
[12-3 見張りの見   〔長久保〕の佐吉    p115 新p121
[14-5 五月闇]     〔強矢〕の伊佐蔵    p195 新p201

◎彦十が見かけた 4編
[10-5 むかしなじみ]  〔網虫〕の久六     p177 新p186
[12-1 いろおとこ]    〔鹿熊〕の音蔵     p27 新p28
[13-1 熱海みやげの宝物〔馬蕗〕の利平治   p13 新p13
[16-5 見張りの糸]    〔狢〕の豊蔵      p203 新p210


◎〔小房〕の粂八が見かけた 3編
[4―2 五年目の客]    〔江口〕の音吉    p49 新p51
[12-2 高杉道場・三羽烏]長沼又兵衛     p60 新p64
[18-2 馴馬の三蔵]   〔瀬田〕の万右衛門  p75 新p77


◎〔馬蕗〕の利平治がらみ 3編
[14―3 殿さま栄五郎]  〔鷹田〕の平十    p98 新p
[16―3 白根の万左衛門 〔沼田〕の鶴吉    p112 新p117
[19―2 妙義の団右衛門 〔妙義〕の団右衛門 p55 新p58

◎〔大滝〕の五郎蔵がらみ 2編
[7-4 掻堀のおけい]   〔砂井〕の鶴吉   p112 新p117
[14-4 浮世の顔]     〔藪塚〕の権太郎  p154 新p158

◎仁三郎がらみ 1篇
[18―4 一寸の虫]     〔鹿谷〕の伴助   p129 新p113

追記:文芸評論家の池上冬樹さんから、コメントをいただいた。
「池波さんは「舟形」を使い、“ふながた”とルビをふっているが、「地名辞典」では濁らない・・という記述がありますが、実際は濁ります。というか、濁るのが正しい。
http://www.town.funagata.yamagata.jp/
もともと濁らないのに、慣習で濁るようになり、それで“ふながた”となったのかもしれませんが・・・と地元なのに、曖昧でごめんなさい。
ただ、池波さんが愛した、山形のそばがあり(逢坂剛さんを山形におよびしたときにお土産として進呈しました)、山形の地名に関してはそれなりの知識があると思います。

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2005.07.01

〔入間(いるま)〕の又吉

『鬼平犯科帳』文庫巻19に収められている[逃げた妻]は、下谷・坂本裏町に住む浪人・藤田彦七(34,5歳)とその妻りつ(28歳)の物語である。
りつは、家に碁をうちにきていた同じ浪人・竹内重蔵に誘惑され、夫とむすめ(7歳)を捨てて出奔した。
藤田彦七と同心・木村忠吾は酒友だちである。湯島天満宮裏門前の酒場〔次郎八〕で知り合った。
そして藤田の妻から「助けてほしい、許してほしい」との手紙がきていることを知らされた。
竹内重蔵と〔入間(いるま)〕の又吉とのつながりは、藤田も忠吾もまったく知らない。

219

年齢・容姿:年齢の記載はないが、30代とおもわれる。色白で鼻がつんと高い。背丈は尋常。細竹のよう引きしまった躰。身が軽い。
生国:武蔵(むさし)国入間郡(いるまごうり)入間(いるま)村(現・埼玉県狭山市入間町)
(いりま)と読むと、調布市入間町だが、(いるま)とルビがふられているので、狭山市を採った。

探索の発端:木村忠吾から藤田浪人の妻りつの一件の報告を受けた鬼平は、手紙が指定している大塚の波切不動の門前茶店を下見していた。と、西から富士見坂をのぼってくる〔燕小僧〕こと〔入間〕の又吉を見かける。

393
大塚・波切不動堂(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

尾行すると、小石川の氷川神社前の農家に入った。そこには、藤田の逃げた妻・りつのほか、竹内重蔵もいたではないか。

384
小石川・金剛寺 氷川明神社(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

結末:両国の軽業師あがりで急ぎばたらき専門の〔入間〕の又吉は、釘抜きを鼻へくらって昏倒、竹内浪人は頬を切られ、腹に峰撃ちをうけた失神。2人とも捕縛。

つぶやき:〔入間〕の又吉を尾行の途中、鬼平は古ぼけた釘抜きを拾い、あとで又吉の身動きを封じてしまうが、長谷川家の替紋が「釘貫(くぎぬき)」であったことを、池波さんはこの篇のどのあたりを執筆していておもいだしたか。

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