〔長嶋(ながしま)〕の久五郎
『鬼平犯科帳』文庫巻7に収められている[盗賊婚礼]で、2代目〔鳴海(なるみ)〕の繁蔵の使いで、江戸の盗賊の首領〔傘山(かさやま)〕の弥太郎の番頭格の〔瓢箪屋(ひょうたんや)〕勘助のもとへやってきた〔長嶋(ながしま)〕の久五郎を見て、勘助は「広野の中の一本杉のような男(やつ)」と好印象をもつ。届けられた手紙の主旨は、、親同士の約束だからと、自分の妹(じつは情婦)を花嫁として押しつけようとするものであった。
(参照: 〔鳴海〕の繁蔵 ・2代目の項)
(参照: 〔瓢箪屋〕勘助の項)
年齢・容姿:年齢の記述はないが、〔傘山(かさやま)〕の先代に恩を受けているというから、40台前半か。めったなことでは表情を変えない。
生国:紀伊(きい)国桑名郡(くわなこうり)長島(現・三重県桑名市長島町)
「長嶋」は『旧高旧領』にないので「長島」で検索した。美濃国本巣郡長島村も信濃国小県郡長島村 も〔鳴海〕に地縁がないとはいえないが、池波さんは、織田信長の長島攻めで覚えた地名であろうと推量して、三重の「長島」を採った。
探索の発端:生母の実家、巣鴨村の三沢家を訪ねた鬼平は、従兄弟の仙右衛門と、駒込片町の円通寺(文京区本駒込3丁目)への墓参りをすませ、岩ぶち街道に面した小料理屋〔瓢箪屋〕で午餐をとり、その料理のよさに満足した。
それから半月後。
5,000石の大身旗本で旧知の林内蔵助の駒込・動坂の下屋敷で、岸井左馬之助ともどもにご馳走になり、巣鴨村の三沢家に泊まるつもりで〔瓢箪屋〕の裏手にさしかかったとき、屋内で起きている騒ぎに気づいた。
2人で打ちこんでみると、〔傘山〕の弥太郎と〔鳴海〕の繁蔵の妹お糸(じつは繁蔵の情婦お梅)との婚礼中、繁蔵の配下の〔長嶋〕の久五郎が、偽の花嫁の正体を暴露したための混乱であった。
結末:かつて、先代〔傘山〕の弥兵衛に大きな恩をうけていた〔長嶋〕の久五郎は、偽りの婚儀の次第をぶちまけるとともに、〔鳴海〕の繁蔵を刺し、自らは用心棒の土山浪人に斬られた。
つぶやき:「恩は着せるものではなく、着るもの」は、池波さんが長谷川伸師からゆずられた処世訓である。久五郎は受けたのがどんなであったかはは、死にぎわにもあえて語らない。それが物語りにより深みを添えている。
2005年10月17日(火) 取材リポート
「広野の中の一本杉のような男(やつ)」と、勘助に好印象を与えた〔長嶋〕の久五郎を育んだ風土はどんなところなのか、この目で確かめたかった。
近鉄名古屋線が桑名駅を出るとすぐ、揖斐(いび)川と長良川をわたり、長島駅。
永禄10年(1567)と元亀元年(1570)の2度、長島攻めに失敗した織田信長は、3度目の正直とばかりに天正2年(1574)、川からと陸からの数方向から攻めたて、一揆側を餓死寸前にまで追いこみ、男女2万近くを殺した。
司馬さんの『国盗り物語』(新潮文庫)はこの合戦を割愛している。門徒の末裔である司馬さんが、書くに耐えなかったとはおもいたくはないのだが。
ともかく、〔長嶋〕の久五郎のすがすがしさには、門徒の心情がひそんでいるようにおもえてならなかった。
駅前のタクシードライヴァー氏に、「一揆の遺跡へ見たい」と頼んだ。
「一揆が立てこもった願証寺はいまは長良川の川底に沈んでいます。再建された願証寺に、一揆の記念の石碑があります」
それでいい、と出発。
島中には温泉があったりして、けっこう、財政は豊かだったらしい。それに目をつけた桑名市が合併をのぞみ、この春、実現した、とは、長島育ちのドライヴァー氏の弁である。
史実によると、元の願証寺が河川改修工事で川底へ沈んだのは明治27年(1894)とのこと。新しく建てられたのは、そのあとであろう。
〔長嶋〕の久五郎が生まれたのは、一揆後200年ほど経ってからだ。が、一揆についての話はずっと聞いて育ったろう。
境内に、一揆の記念碑があった。
空は、いまにも雨を落としそうに、雨雲がうねっていた。
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