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2005年8月の記事

2005.08.31

〔長嶋(ながしま)〕の久五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻7に収められている[盗賊婚礼]で、2代目〔鳴海(なるみ)〕の繁蔵の使いで、江戸の盗賊の首領〔傘山(かさやま)〕の弥太郎の番頭格の〔瓢箪屋(ひょうたんや)〕勘助のもとへやってきた〔長嶋(ながしま)〕の久五郎を見て、勘助は「広野の中の一本杉のような男(やつ)」と好印象をもつ。届けられた手紙の主旨は、、親同士の約束だからと、自分の妹(じつは情婦)を花嫁として押しつけようとするものであった。
(参照: 〔鳴海〕の繁蔵 ・2代目の項)
(参照: 〔瓢箪屋〕勘助の項)

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年齢・容姿:年齢の記述はないが、〔傘山(かさやま)〕の先代に恩を受けているというから、40台前半か。めったなことでは表情を変えない。
生国:紀伊(きい)国桑名郡(くわなこうり)長島(現・三重県桑名市長島町)
「長嶋」は『旧高旧領』にないので「長島」で検索した。美濃国本巣郡長島村も信濃国小県郡長島村 も〔鳴海〕に地縁がないとはいえないが、池波さんは、織田信長の長島攻めで覚えた地名であろうと推量して、三重の「長島」を採った。

探索の発端:生母の実家、巣鴨村の三沢家を訪ねた鬼平は、従兄弟の仙右衛門と、駒込片町の円通寺(文京区本駒込3丁目)への墓参りをすませ、岩ぶち街道に面した小料理屋〔瓢箪屋〕で午餐をとり、その料理のよさに満足した。
それから半月後。
5,000石の大身旗本で旧知の林内蔵助の駒込・動坂の下屋敷で、岸井左馬之助ともどもにご馳走になり、巣鴨村の三沢家に泊まるつもりで〔瓢箪屋〕の裏手にさしかかったとき、屋内で起きている騒ぎに気づいた。
2人で打ちこんでみると、〔傘山〕の弥太郎と〔鳴海〕の繁蔵の妹お糸(じつは繁蔵の情婦お梅)との婚礼中、繁蔵の配下の〔長嶋〕の久五郎が、偽の花嫁の正体を暴露したための混乱であった。

結末:かつて、先代〔傘山〕の弥兵衛に大きな恩をうけていた〔長嶋〕の久五郎は、偽りの婚儀の次第をぶちまけるとともに、〔鳴海〕の繁蔵を刺し、自らは用心棒の土山浪人に斬られた。

つぶやき:「恩は着せるものではなく、着るもの」は、池波さんが長谷川伸師からゆずられた処世訓である。久五郎は受けたのがどんなであったかはは、死にぎわにもあえて語らない。それが物語りにより深みを添えている。

2005年10月17日(火) 取材リポート

「広野の中の一本杉のような男(やつ)」と、勘助に好印象を与えた〔長嶋〕の久五郎を育んだ風土はどんなところなのか、この目で確かめたかった。
近鉄名古屋線が桑名駅を出るとすぐ、揖斐(いび)川と長良川をわたり、長島駅。
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永禄10年(1567)と元亀元年(1570)の2度、長島攻めに失敗した織田信長は、3度目の正直とばかりに天正2年(1574)、川からと陸からの数方向から攻めたて、一揆側を餓死寸前にまで追いこみ、男女2万近くを殺した。
司馬さんの『国盗り物語』(新潮文庫)はこの合戦を割愛している。門徒の末裔である司馬さんが、書くに耐えなかったとはおもいたくはないのだが。
ともかく、〔長嶋〕の久五郎のすがすがしさには、門徒の心情がひそんでいるようにおもえてならなかった。

駅前のタクシードライヴァー氏に、「一揆の遺跡へ見たい」と頼んだ。
「一揆が立てこもった願証寺はいまは長良川の川底に沈んでいます。再建された願証寺に、一揆の記念の石碑があります」
それでいい、と出発。
島中には温泉があったりして、けっこう、財政は豊かだったらしい。それに目をつけた桑名市が合併をのぞみ、この春、実現した、とは、長島育ちのドライヴァー氏の弁である。

新生願証寺は、水田の中に見えた。
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史実によると、元の願証寺が河川改修工事で川底へ沈んだのは明治27年(1894)とのこと。新しく建てられたのは、そのあとであろう。
〔長嶋〕の久五郎が生まれたのは、一揆後200年ほど経ってからだ。が、一揆についての話はずっと聞いて育ったろう。
境内に、一揆の記念碑があった。
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空は、いまにも雨を落としそうに、雨雲がうねっていた。

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2005.08.30

〔長虫(ながむし)〕の松五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻9に所載の[鯉肝の里]で、お里の義父にあたる〔長虫(ながむし)〕の松五郎は、、いまでこそ煙管師として、三つ橋に近い京橋・柳町の裏店で安穏に暮らしているが、20年前までは、独りばたらきでながれ盗めのすご腕の盗っ人であった。
(参照: 〔鯉肝〕のお里の項)
5年前に亡くなった息子の嫁だったお里も、盗みの世界へ入り、江戸で骨休めをするときは松五郎の家へころがりこんで、博打と男買いにはげんでいる。

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年齢・容姿:70すぎ。容姿の記述はない。歩きぶりはとぼとぼと。
生国:煙管づくり・合鍵づくりの修業は、若いころに江戸でしたとおもうが、正確を期して、不明としておく。

探索の発端:牛の草橋の上で腹をすかしきっている若者に一膳めし屋で食事をふるまっていたやったことから、おまさの注意を引き、松五郎の住まいが知れた。
(参照: 女密偵おまさの項)
密偵〔舟形(ふながた)〕の宗平が、おもいだしたのは、〔初鹿野(はじかの)〕の音松一味にいた27年ほど前、駿府の仏具問屋〔伊勢屋〕を襲ったときに助(す)けばたらきにきていた〔長虫〕松五郎と気があってたがいに身の上話をしたと。
(参照: 〔舟形〕の宗平の項)
(参照: 〔初鹿の〕の音松の項)
4年前にも、20数年ぶりに目黒の太鼓橋でばったり出会い、鰻を食べながら旧交をあたため、忘息の嫁が〔鯉肝のお里〕と打ち明けた。

結末:すっかり足をあらって、いい煙管をつくっているのだから、放っておけと、鬼平の粋な裁き。

つぶやき:〔長虫〕は、煙管の別称。
[穴] で、盗みの血のさわぎをどうすることもできなかった〔帯川(おびかわ)〕の源助のような、また、〔老盗の夢〕の〔蓑火〕の喜之助のようなも、生ぐさい欲情は再燃しないのだろうか。
〔参照: 〔帯川〕の源助の項〕
〔参照: 〔蓑火〕の喜之助の項〕

とすると、老後の過ごし方もいろいろなんだなあ。

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2005.08.29

〔鳥羽(とば)〕の彦蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻18に所載の[草雲雀]は、同心・細川峯太郎が、かつてなじんだことのある寡婦お長の熟(う)れた躰を忘れかね、墓参にことよせて権之助坂のあたりへ近寄った。そこで、人相書で見おぼえていた盗賊〔鳥羽(とば)〕の彦蔵に出会う。
彦蔵は、お長の茶店の北隣の雑貨を並べている〔かぎや〕の女主人おきぬと密通するために権之助坂へ現れたのである。

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年齢・容姿:37,8歳。身の丈、5尺3寸ほど(約160センチ)、中肉中背。色白く目の中細く、片方の耳たぶがない。
生国:近江(おうみ)国坂田郡(さかたこうり)鳥羽上(とばがみ)村(現・滋賀県長浜市上鳥羽町)
まっ先に三重県鳥羽市を想定するのがふつうだが、『旧高旧領』にはひっかからない。すなわち、鳥羽市に合併された「鳥羽」という村はなかったとみていい。
山城国紀伊郡上、下鳥羽村だが、「鳥羽・伏見」などといわれているように、いささか広範囲にすぎる。
信濃国安曇郡上、下鳥羽村だと、出雲国江島出身の由五郎とのつながりが判然としない。1昨秋、〔江嶋〕の由五郎とその一味が浅草・馬道の乾物問屋〔伊勢屋半兵衛〕方へ押しこんだところを火盗改メが捕縛にしたが、〔鳥羽〕の彦蔵のみ、巧みに逃げおうした。人相書が捕らえられた一味の口述からつくられていた。
(参照: 〔江嶋〕の由五郎の項)
しかも、次のお盗めは伊勢の桑名にゆかりのあるところというから、上方の出でと推量、長浜市の「鳥羽上」を採った。長浜あたりは、忍者ものや木下藤吉郎の取材で、池波さんは土地勘がある。

探索の発端:白金10丁目で、細川同心が彦蔵を見かけて尾行、〔かぎや〕へ入ったことから
火盗改メの出役となった。

結末:〔かぎや〕のおおきぬの亭主、〔瀬川(せがわ)〕の友次郎が、彦蔵に撲殺されたのをきっかけに、包囲してしていた火盗改メが踏みこみ、逮捕。
(参照: 〔瀬川〕の友次郎の項)

つぶやき:コメディ・リリーフの木村忠吾が齢をへるにつれてそれなりに成長してききたので、彼の代わりをつとめるキャラが必要となった。
それが細川峯太郎なのだろうが、忠吾の生得のものともいえる明るさが、峯太郎にはない。コメディ・リリーフ役はかなり無理。

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2005.08.28

〔名幡(なばた)〕の利兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻9の、名作との評価が多い[本門寺暮雪]に登場する、大坂の盛り場をとりしきる香具師の元締・〔名幡(なばた)〕の利兵衛。一旦は引き受けた仕掛けを断った、井関録之助の命をしつこく狙う刺客をさしむける。その刺客と、鬼平が本門寺表門の石段で対決することになる。

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年齢・容姿:老人。品のよい顔だち。小さく痩せこけている。口ききようもおだやか。
生国:越中(えっちゅう)国砺波郡(となみこうり)蟹谷(かんだ)郷名畑村(現・冨山県小矢部(おやべ)市名畑)
『旧高旧領』にも『大日本地名辞書』にも「名幡」はない。郵便番号簿を(ナバタ)で検索して「小矢部市」をえた.同市は、池波家の先祖の出身地・井波町から北へ20キロメートルしか離れていない。ここの「名畑」を「名幡」と変えたともおもえる。

探索と結末:ともにしるされていない。すべては闇から闇。

つぶやき:越中から大坂へ出て、香具師の元締までのしあがるには、それなりの智謀と姦計と暴力を用いたろう。想像するだけでも一篇のバイオレンス小説が誕生しそうだ。

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2005.08.27

〔轆轤首(ろくろくび)〕の藤七

『鬼平犯科帳』文庫巻14の[さむらい松五郎]は、『オール讀物』1976年6月号に発表された篇である。
わざわざ掲載号を記したのは、この前の号の[五月雨]で池波さんは、雰囲気を盛り上げるキャラの密偵・伊三次を刺殺で失った。
これからは木村忠吾の特異なキャラクターをしっかり役立てなければなるまい、とおもったのであろう、忠吾に2役をふった。
〔網掛(あみかけ)〕の松五郎のそっくりさんに仕立てて、コメディ・タッチの篇に。
(参照: 密偵・伊三次の項)
(参照: 〔網掛〕の松五郎の項)
念が入っているのは、忠吾を総髪にまでつくったこと。いくらなんでも、火盗改メの同心が総髪はおかしい。
もちろん、〔須坂(すさか)〕の峰蔵は忠吾の髪形にまでは気がまわらない。そこから、とんちんかんな会話が生まれる。
(参照: 〔須坂)の峰蔵の項)
錠前あけが得意な〔須坂〕の峰蔵は、高崎の口合人〔赤尾(あかお)〕の清兵衛の口ききで、いまは〔轆轤首〕の藤七一味を助(す)けることになっている。
〔轆轤首)という「通り名(呼び名)」からして、マンガチックな命名で、いつもの池波さんらしくなく、わざとふみはずしている。上州から常陸、会津から仙台あたりまで荒らしまわっている非道な盗賊である。
(参照: 〔赤尾〕の清兵衛の項)

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年齢・容姿:残忍な笑い顔のほかは、どちらも記述がない。もちろん、首の長さは並とおもえる。
生国:テリトリーと口合人・清兵衛との間柄からいって、高崎あたりの出とおもえるが、不明としておく。

探索の発端:目黒不動堂の門前の目黒飴の〔桐屋〕で、、〔須坂(すさか)〕の峰蔵が忠吾を〔さむらい〕松五郎と人違いして声をかけた。
7年前に峰蔵が〔湯屋谷(ゆやだに)〕の富右衛門の盗めを助(す)けたときに、〔湯屋谷〕の右腕といわれた松五郎をみかけていたのだ。
(参照: 〔湯屋谷〕の富右衛門の項)
さっそくに〔轆轤首〕一味が狙っている麹町7丁目の菓子舗〔菊屋〕へ見張りがついた。

結末:目黒の権之助坂の中ほどにある上覚寺の前の茶店〔日吉屋〕が〔轆轤首〕一味の盗人宿だか、火盗改メの打ち込みの時刻が迫ってきている。

つぶやき:上覚寺は尾張屋板の切絵図の誤刻。いつもは近江屋板をつかう池波さんだが、近江屋板の目黒地区の記載があまりにお粗末なので、このときにかぎって尾張屋板を参照し、浄覚寺を上覚寺としてしまった。
この筆のすべりを見つけたのは、学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラスの新兵衛さんであることを付記しておく。

〔轆轤首〕などというふざけた「通り名(呼び名)」を、池波さんは鳥山石燕『画図百鬼夜行』の「飛頭蛮(ろくろくび)」から採ったのだろうが、『画図』のそれは女性である。
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2005.08.26

〔傘山(かさやま)〕の瀬兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻9に所載の[浅草・鳥越橋]は、シェイクスピア[マクベス]以来、「悪魔のささやき」ともいわれる妻の不逞の讒言が引きおこす悲劇である。
火種は、お頭〔傘山(かさやま)〕の瀬兵衛が、盗め金(つとめがね)の配分について、長年いっしょにやってきたのだからこっちの気持ちは分かっているはずと、〔押切(おしきり)]の定七(35歳)へ「今回はこれで我慢してくれ。つぎにはうんとはすせませてもらうから」と、つい、いいもらしたことだった。
定七は、〔風穴(かざあな)〕の仁助(35歳)を裏切りに引きこむために、お頭の瀬兵衛が、仁助の女房おひろ(30歳前後)と乳繰りあっていると、根も葉もないことを吹き込み、嫉妬の業火に火を点(Z)けたからたまらない。
(参照: 女賊おひろの項)

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年齢・容姿:50歳をこえた。背丈6尺(約1.8メートル)の大男。手も足も、目も鼻も口も造作がすべて大ぶり。
生国:越中(えっちゅう)国新川郡(しんかわこうり)上滝(かみたき)村(現・冨山県上新川郡大山町上滝)
大山町の南部に東笠山(1,687m)・西笠山(1,697m)がある。木樵(きこりあがりという瀬兵衛にとって、2山は自分の庭みたいなものだったろう。麓の有峰盆地から上滝村を採った。平凡社『日本歴史地名大系』は「西笠山には壮麗な傘形の残雪が現れ、富山平野からもよく見え、傘山ともよばれて親しまれた」とあると、教えてくださったのはハンドル名リイウファさん。

探索の端緒:[女賊おひろ]の項からのコピー---大横川ぞいの石島町、〔小房〕の粂八にまかされている船宿へ、客として現れた〔白駒(しろこま)〕の幸吉と〔押切(おしきり)〕の定七が尾行(つ)けられて、それぞれの住いが判明、見張られた。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
(参照: 〔白駒〕の幸吉の項)

結末:同心・沢田小平次たちが見張る中〔傘山(かさやま)〕の瀬兵衛は、浅草・鳥越橋上で、たまたま行きあった〔風穴(かざあな)〕の仁助の嫉妬の刃で刺殺。仁助はその場で同心・沢田小平次に捕縛された。

つぶやき:「わしが生き甲斐は、女だけじゃ」と、稼ぎのほとんどを行くさきざきに囲っている女に使い果たして悔いない〔傘山〕の瀬兵衛の生き方は、男としてうらやましいというより、「ご苦労さんです」だ。
その瀬兵衛が、4年前に抱いたおひろの「まるで、骨がねえような」「やわらかい、しなやかな女体」を、突然、おもいだして出かけなければ、悲劇は起きなかったのだが、女のために命を落としたのは、むしろ、背兵衛には本望だったかも。
この篇にも、池波流の、ひかえめの好色趣味が発揮されてい、読み手は男も女も「フーッ」と溜息を洩らしながら堪能するはずである。

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2005.08.25

〔淀(よど)〕の勘兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻7に収まっている[埋蔵金七百両]のサイド・ストーリーに登場するのがこの〔淀(よど)〕の勘兵衛である。上方から中国すじへかけてがテリトリーのために江戸の火盗改メにはデータがないはず。
ところが長谷川平蔵の父・宣雄が京都西町奉行時代からお盗めをしていた賊だから、父の日記に記録されていることを記憶していたのである。
日記を確かめに目白台の自邸へ帰り、ついでに雑司ヶ谷から戸塚へ出る夜道を歩いていて、事件に遭遇した。
息・辰蔵が岡惚れしている、雑司ヶ谷の鬼子母神の境内の茶店〔笹や〕のむすめ・お順が誘拐されたのである。お順の父親の次郎助(58歳)は、じつは長年、上方の盗賊〔白峰(しらみね)〕の太四郎(72歳)の配下だった男で、〔堀切(ほりきり)〕の通りり名で呼ばれていた。
(参照: 〔堀切〕の次郎助の項)
この篇の本筋は、長年の縁で、次郎助がお頭の隠居金を預かり、それを狙った者たちとの競り合いの物語である。

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年齢・容姿:どちらも記述されていないが、20数年も前から上方で盗みをしていたというから50歳はこえていようか。
生国:山城(やましろ)国久世郡(くぜこうり)淀町下津(現・京都府京都市伏見区下津)

探索の発端:両国の坂の場で、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が、〔淀〕の勘兵衛一味の〔井尻(いじり)〕の直七を見かけ、〔淀〕一味が江戸でのお盗みめを企んでいるようだと、鬼平に告げたことで、調査がはじまった。

結末:探索の甲斐もなく、〔井尻〕の直七は、その後、姿を見せなかった。

つぶやき:池波さんにとって、「淀」は、『丹波大介』以来、馴染みの甲斐土地である。それで、つい、気をゆるして、勘兵衛に〔淀〕といった広い範囲の地名を冠してしまったのであろう。
で、出生地を、『丹波大介』で家康が暗殺されかかる淀津に近い、下津と仮定しておいた。

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2005.08.24

〔山彦(やまびこ)〕の徳次郎

『鬼平犯科帳』文庫巻4に収録されている[おみね徳次郎]は、芝居の[お染久松][お初徳兵衛]など、女性のほうをあたまにおく習慣にしたがって、〔おみね〕が前におかれている。以後、〔お熊と茂平](笑)、[おかね新五郎]、[おしま金三郎]と同巧のものがある。
(参照: 女賊おみねの項)
おみねが巨盗 〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門の配下の女賊であることを知らないで、徳次郎はおみねとできてしまう。おみねの閨(ねや)での狂態にすっかり参っている。
一方、おみねは、まわり髪結いを表の仕事にしている徳次郎が、〔山彦(やまびこ)〕を「通り名(呼び名)」にした、兇賊〔網切(あみきり)〕の甚五郎一味の引きこみと錠前外しの腕ききと承知したうえでの同棲だった。
(参照: 〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門の項)
(参照: 〔網切(あみきり)〕の甚五郎の項 )

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年齢・容姿:年齢は書かれていないが、30歳前後か。色白の可愛い顔、小肥り。
生国:肥前(ひぜん)国松浦郡(まつらこうり)山彦(やまひこ)村(現・佐賀県東松浦郡北波多村大字山彦)
鎌倉岳と日岳にはさまれた谷間なので、山びこに由来する名と。聖典のルビは(やまびこ)。池波さんは平戸へ足をふみいれたことがある。

探索の発端:四谷の全勝寺の前で、おまさが幼馴染のおみねが出会ったことから、見張られて、〔法楽寺〕の直右衛門一味の、千駄ヶ谷の仙寿院前の茶店と、浅草新堀の浄念寺門前の盗っ人宿がつきとめられた。
(参照: 女密偵おまさの項)
(参照: 女賊おみねの項)

結末:浄念寺門前の茶屋〔ひしや〕を急襲した火盗改メ17名は、〔法楽寺〕一味の6名を捕らえたが、おまさとの約束により、鬼平はおみねを特別のはからいにした。

付記:鳥山石斉『画図百鬼夜行』に〔幽谷響(やまひこ)〕がある。池波さんが、同書から借りた〔通り名(呼び名)〕なのかもしれない。いかにも、可愛らしい。

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つぶやき:女の名が先---というが、[ロメオとジュリエット]は逆だね、という人もいよう。冗談と聞きながしてほしいのだが、陶磁器で、ブルー・アンド・ホワイトといったら「青と白」ではなく、染付(そめつけ)のこと。すなわち、白地に青の絵付けなのだ。プ゛ラック・アンド・ホワイトは、白地に黒の絵柄で、白黒写真。
アンドの後ろは台。
[ロメオ・アンド・ジュリエット]は、ジュリエットが台。その上で踊るロメオ。古今東西、女性が強い。

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2005.08.23

〔駒野(こまの)〕の伝吉

『鬼平犯科帳』文庫巻18に収録の[草雲雀]に、ほんの半行だけ語られる盗賊のお頭である。それだけに、いろいろと想像がふくらむ。
同心・細川峯太郎がかつてその躰になじんだことのある寡婦お長は、権之助坂中ほど、上覚寺(尾張屋板の切絵図の誤植。浄覚寺が正しい)北の茶店〔越後屋〕の女主人だが、その北隣の雑貨やたばこなどを商っているのが、ここも女手・おきぬの店〔かぎや〕である。
そのおきぬと、彼女の亭主・友次郎(じつは盗っ人の〔瀬川(せがわ)〕の友次郎))が上方へお盗めに行っているすきに出来たのが〔鳥羽(とば)〕の彦蔵(37,8歳)である。
(参照: 〔瀬川〕の友次郎の項)
ある日、友次郎と彦蔵が白金10丁目の妙円寺の前でばったり出会い、彦蔵がいった。
「江島のお頭をはじめ、仲間の連中が盗賊改メに引っ括られてしまい、いまはおれも、お前さんと同じ一人はずけたらきだ。そこで友次郎鈍。実は半年ほどのうちに、おれは伊勢の桑名へ行き、お前も耳にしたことがあるだろうが、駒野の伝吉お頭の盗めを手伝うことになっているのだ---」
(参照: 〔江島〕の由蔵の項)

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年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国: 美濃(みの)国多芸郡(たぎこうり)駒野新田村(現・岐阜県海津郡南濃町駒野新田)。

探索の発端と結末:〔鳥羽(とば)〕の彦蔵の口から語られただけの、名古屋、伊勢あたりがてテリトリーなので、探索は及んでいない。

つぶやき:mixiというインターネットの親睦機関が運営しているぼくの日記欄で、長野県下伊那郡阿智村駒場の読み方について(こまんば)説と(こまば)説をしょうかいしたとき、keiさんとおっしゃる学究の徒から、

高麗(こま)という地名の場所には渡来人が多く住み、古代の牧(牧場・馬関連)を管理していたのではないかという説を大学の授業か何かで聞いた覚えがあります。

という書き込みをいただき、 知識の泉の主のようなアルムオンジさんからも同じご意見を承った。
南濃町の駒場新田について、角川の『地名大事典』は、「地名の由来は駒野村の草場を新田に開発したことによる。河川にはさまれた低地であるため、氾濫に絶えず悩まされた」。それで、〔駒場〕の伝吉の出身を、駒場村でなく、河川の氾濫に荒らされる新田のほうを採った。
天保3年の戸数57戸、人口278人。

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2005.08.22

〔砂井(すない)〕の鶴吉

『鬼平犯科帳』文庫巻7に収録されてタイトルを飾っているヒロイン---[掻掘のおけい]は、ツバメになっている〔砂井(すない))〕の鶴吉の悲鳴まじりの告白によると、じつに、その、存在感たっぷりの女賊であるらしい。女好きの---女が好きでない男はいないのだが---とりわけ好きな、同心・木村忠吾が「抱かれてみたい」とうめくほど。
〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が〔蓑火(みのひ)〕の喜之助の配下だったころ、仲のよかった〔蛙(かわず〕)の市兵衛の一人息子で、少年のころから五郎蔵のの下でこの道の修業していたが、高崎在でのお盗めのときに押し込み先の下女に手をだしたので放逐された。
そのあと、駿河の〔黒坂(くろさか)〕の伝右衛門、〔生駒(いこま)〕の仙右衛門のところでつとめていた。
(参照: 〔掻掘〕のおけいの項)
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
(参照: 〔黒坂〕の仙右衛門の項)
(参照: 〔生駒〕の仙右衛門の項)

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年齢・容姿:25,6か。色白で、下ぶくれの可愛らしい顔だち。
生国:下総(しもうさ)国猿島郡(さしまこうり)上砂井村(現・茨城県古河市上砂井)。

探索の発端: 〔砂井」の鶴吉のほうから〔大滝〕の五郎蔵へ声をかけてきて、この1年、〔掻掘(かいぼり)〕のおけいのくわえこまれて精も根も吸いつくされているから、助けてほしい、と。
それで、おけいに見張りがつき、 おけいが組んでいる〔和尚(おしょう)〕の半平一味の存在もつかめた。
(参照: 〔和尚〕の半平の項)

結末:〔掻掘〕のおけいがたらしこんた日本橋・富沢町の紅・白粉問屋〔玉屋〕茂兵衛方へ押しいろうとした、〔和尚〕の半平一味は射殺と逮捕。鶴吉は逃げようと誘うおけいをふりきって投降。身柄は五郎蔵にお預けの形となった。おけいは半平とともに、市中引き回しの上、死罪。

つぶやき:読者サーヴィスとこころえてはいても、40歳をこえている〔掻掘〕のおけいの量感の描写はすごい。もっとも、いまの日本女性は精神的も躰も若返っており、40歳代は花の盛りともいえるから、おけいの性的アピールには驚かないかもしれない。

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2005.08.21

〔尾川(おがわ)〕の長次

『鬼平犯科帳』文庫巻18に収録の[一寸の虫]で、火盗改メ方でも一癖のある同心・山崎庄五郎に弱みをにぎられたために、無頼どもや小泥棒の情報を密告している、当人自身も小泥棒の〔尾川(おがわ)〕の長次。
〔不動(ふどう)〕の勘右衛門の配下だった仁三郎は、処刑をまぬがれていまは火盗改メの密偵となっている。その仁三郎が〔鹿谷(しかだに)〕の伴助とであったところを、〔尾川〕の長次に見られてしまった。山崎同心は、手柄を独占しようとして、仁三郎にゆさぶりをかけてきた。
(参照: 〔鹿谷〕の伴助の項)

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年齢・容姿:どちらも記述はないが、女房子どもがいるというから、35,6歳か。
生国:駿河(するが)国志太郡(しだごこうり)尾川(現・静岡県島田市尾川)。
紀伊国牟婁(むろ)郡尾川(現・和歌山県熊野市尾川)も考えたが、この地の人の気質に、江戸での小泥棒はにあわない。郷党意識が強いからすぐに徒党を組むはずだ。
ひきかえ、大井川下流左岸の尾川村の出なら人ずれしていようから、つい、追いはぎなどにも手をそめよう。さらに、池波さんはしばしば藤枝市や島田市を取材している。

探索の発端:半年ほど前に、長次が追いはぎをしているところを山崎同心に現行犯逮捕され、密告者となることを条件に釈放された。
他方、仁三郎と〔鹿谷(しかだに)〕の伴助が密議は、かつて属していた〔船影(ふなかげ)〕の忠兵衛への報復だった。
(参照: 〔船影〕の忠兵衛の項)

結末:山崎同心と鬼平との板ばさみに悩んだ仁三郎は、押し込みの現場で、〔鹿谷〕の伴助を刺殺して自刃。

つぶやき:〔尾川(おがわ)〕の長次は、取るにたりないような小者である。そういうほんの端役にまで、女房子どものために生き延のびなければいけないという状況設定をほどこすから、物語が真実味を益す。
生国の項で思案させられたのも、池波さんのそうした配慮をおもえばこそ。

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2005.08.20

〔稲荷(とうが)〕の百蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻11に収められている[雨隠れの鶴吉]で、鶴吉の実家---日本橋・室町2丁目の茶問屋〔万屋〕源右衛門方に狙いをつけた盗賊の首魁〔稲荷(とうが)〕の百蔵は、配下の〔貝月(かいづき)〕の音五郎を飯炊き男として引き込みに入れた。
(参照: 〔雨隠れ〕の鶴吉の項)
(参照: 〔貝月〕の音五郎の項)

211

年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国:下総(しもうさ)国香取郡(かとりこうり)稲荷山(とうかやま)村(現・千葉県香取郡大栄町稲荷山)。
ちゃんとした稲荷社だけでも全国に約12万社あるといわれている。だから、〔稲荷〕なんて「通り名(呼び名)」は、「追分(おいわけ)」と同じで、生国隠しに使われる。しかし、百蔵のばあいは、(とうが)とルビがふられているので、(いなり)を除けた。もっとも、あったのは(とうかやま)である。
テリトリーが上州と武州とあるから、香取郡の稲荷山村に落ちつけた。
ここの稲荷はかつて久井崎城内にあったので 、多古町東松崎と佐原市佐原字岩ヶ崎の稲荷神社とあわせて香取郡三崎稲荷と親しまれたという。
江戸の小網町の裏の稲荷堀は(とうかんぼり)と読む。小網町は池波さんが丁稚として勤めた兜町に近い。

探索の発端:鶴吉の年上女房・お民が〔野槌(のづち)〕の弥平の下にいたとき、〔貝月〕の音五郎もいっしょだった。それで見つけて鶴吉に話し、鶴吉少年時代に可愛がってくれた井関録之助へ打ち明け、録之助から鬼平へ話が通じ、火盗改メの監視がはじまった。
(参照: 女賊お民の項)
(参照: 〔野槌〕の弥平の項)
音五郎を尾行(つ)けて、2軒の盗人宿もつきとめられた。

結末:一味24名が〔万屋〕へ押しこんできたところを全員逮捕。

つぶやき:日本橋・室町2丁目の茶問屋〔万屋〕源右衛門だが、いまでも室町のあのあたりには茶問屋の老舗がのこっている。江戸時代、茶問屋は呉服・太物問屋、薬種問屋についで格式が高かったようだ。

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2005.08.19

〔牛久保(うしくぼ)〕の甚蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収録されている[浮世の顔]で、板橋の上宿のほうからやってきて、ちらっと姿を見せたところを、いまは密偵になっている〔大滝〕の五郎蔵に見かけられる。
五郎蔵の鬼平への甚臓評。「むかし、二度ばかり、私の盗めに使ったことがございます。はい、一人ばたらきのしっかりした男で、ずいぶんと役には立ちましたが、どうもその、肚(はら)の底が知れねえような気がいたしまたので----それっきりになったのでございます」
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)

214

年齢・容姿:50を越えている。容姿は記述されていない。
生国:武蔵(むさし)国都筑郡(つづきこうり)牛久保村(現・埼玉県坂戸市善無能寺)
江戸時代の牛久保村は、善能寺村の北東にくっつくようにしてあった小村という。戸数5軒、田21石余、畑7石というから、ほんとうに小さな貧しい村だったにちがいない。いつのまにか善能寺村にのみこまれてしまっていた。
そんな土地で育った甚蔵が、めったに腹の底を他人には見せない男に育ったのもなんとなくわかるような気がする。
それよりも気にかかるのは、小さくて村名名も消えてしまったような村を、池波さんはどうやって知ったかである。

探索の発端:石神井川に架かる板橋をわたった甚蔵が川ぞいに右へ折れて、突当りの旅籠〔上州屋〕へ入っていったことから、そこが5年ほど前から〔神取(じんとり)〕の為右衛門の盗人宿に変っていたのである。
(参照: 〔神取〕の為右衛門の項)

結末:[神取(じんとり)〕の為右衛門の項に記したとおり、一味18名が、深川の上大島町の釘鉄銅物問屋〔釜屋〕へ押し入ろうとしたところを、40人を動員して網をはっていた火盗改メが捕らえた。うち、抵抗した5名は斬殺。

つぶやき:〔帯川(おびかわ)〕の源助と、〔門f原(もんばら)〕の重兵衛の現地取材で、長野県下伊那郡阿南町を訪れたとき、「牛久保」という地名銘板をみかけた。しかし、『旧高旧領』にも載っていない地名なので、逡巡のすえ、坂戸市をとった。
(参照: 〔帯川〕の源助の項)
(参照: 〔門原〕の重兵衛の項)
 

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2005.08.18

〔長尻(ながしり)〕のお兼

『鬼平犯科帳』巻24に収められている[二人五郎蔵]で、〔暮坪(くれつぼ)〕の新五郎へ、女中として入りこんでいる神田・旅籠町の菓子舗〔桔梗屋〕の情報を売り込んだのは、〔長尻(ながしり)〕のお兼だった。
〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵のお兼についての評。「あの女は、ひとりばたらきで、これぞとおもうところへ奉公をして、二年、三年も腰を据(す)え、すっかり、中の様子を探(さぐ)り取ってから、口合人(くちあいにん)を通じて、盗(つと)めの頭へ売り込むのでございます」
(参照: 〔暮坪〕の新五郎の項)
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)

224

年齢・容姿:中年。肥っている。
生国:不明。

探索の発端:火盗改メの役宅へ出入りするようになった廻り髪結いの五郎蔵に不審の点が生じ、彼がまわっている本所・花町の蝋燭問屋〔伊豆屋〕と神田・旅籠町の菓子舗〔桔梗屋〕への見張り所が設けられた。
〔大滝〕の五郎蔵がかつて使ったことのある〔長尻(ながしり)〕のお兼が、〔桔梗屋〕の勝手口からあらわれて、男と言葉をかわしているのを見かけた。

結末:〔暮坪(くれつぼ)の新五郎一味が〔桔梗屋〕へ押し入ろうとしてとき、待っていた鬼平に捕縛された。手引きしたお兼も同然。
同時に役宅を襲った浪人たちも、待ちかまえていた辰蔵や酒井祐助、沢田小平次、松永弥四郎などの腕利きの面々に斬りまくられた。

つぶやき:この篇で、池波さんは、ひとりばたらきの〔引き込み〕という新手を考案した。なるほど、その手があったかと感心するとともに、口合人の仕事がまた一つひろがった。盗賊世界も、池波さんの筆にかかって、いよいよ巧緻をきわめる。いそがしいことである。

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2005.08.17

〔猿皮(さるかわ)〕の小兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻7に収められている[はさみ撃ち]の主人公は、本郷1丁目の薬種店〔万屋〕の主人・小兵衛こと、元は〔猿皮(さるかわ)〕の「通り名(呼び名)」で、芸州・広島に本拠を置き、中国すじから九州の博多、長崎まで荒らした2代目。7年前に引退し、配下の1人---弥治郎を番頭にすえて〔万屋〕を開いた名代は、せき、たんの妙薬〔黒竜丸〕。

207

年齢・容姿:70をこえている。小柄。才槌あたまにちょこんと白い髷。柔和な細い眼。歯もほとんど抜けている。卵の黄身をまぶした御飯を日に2度。1合の酒が食生活。
生国:「通り名」の〔猿皮〕は、「猿川」を小粋にいい変えたものとすると、広島の対岸、伊予(いよ)国風早郡(かざはやこうり)猿川村(現・愛媛県北条市猿川)。
立岩川中流の左岸。近くに国津比古命(くにつひこのみこと)神社(八反地)と櫛玉比売命(くしたまひめのみこと)神社がある。後者は物部、風速、越智氏の氏神。

探索の発端:小兵衛とは40歳も年齢が離れているおもんを、貸本屋をよそおっている〔針ヶ谷〕の友蔵(32歳)がたらしこんだ。相棒の〔大亀(おおがめ)〕の七之助(30がらみ)が、〔舟形(ふながた)〕の宗平に助っ人探しを頼んだことから、探索がはじまった。
(参照: 〔大亀〕の七之助の項)
(参照: 〔舟形〕の宗平の項)

結末:おもんの寝間へ忍んで行った友蔵が、内側から戸締りをはずすと、唐辛子入りの目潰しが飛んでき、つづいて薪が。表には、助っ人に化けた鬼平と同心・山田市太郎たちが逃げ道を固めていた。

つぶやき:〔猿皮(さるかわ)〕の小兵衛も、池波さんが創作した個性的な盗人の1人といえる。なにしろ、お盗めにかかるときの興奮にくらべると、「女の躰をいじることなぞ、ばかばかしくて---」と、不倫をしている女房のあのときの声をふすま越しにきいておもしろがっているのだから、枯淡というか、洒脱というか。

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2005.08.16

〔岩屋(いわや)〕の大六

『鬼平犯科帳』文庫巻9の巻頭におかれている[雨引の文五郎]は、盗人の美学を体得している〔雨引(あまびき)〕の文五郎の物語である。
(参照: 〔雨引〕の文五郎の項)
属していた巨頭〔西尾(にしお)〕の長兵衛が逝き、残された一味25名の者たちは、とうぜん、文五郎が跡目をついでくれるとおもっていたのに、「跡目をつぐつもりはねえ。なぜといいねえ、おれは雨引の文五郎で西尾の長兵衛お頭ではねえからだ」といって、さっさと〔単独(ひとり)ばたらき〕の盗賊になってしまったものである。
このいきさつを〔舟形(ふながた)〕の宗平に告げたのが、〔西尾〕の一味の解散後、〔初鹿野(はじかの)〕の音松の配下となった〔岩屋(いわや)〕の大六であった。
(参照: 〔舟形〕の宗平の項 )
(参照: 〔初鹿野〕の音松の項 )

209

年齢・容姿:どちらも記述されていない。
生国:越中(えっちゅう)国砺波郡(となみこうり)井波村字岩屋(現・冨山県東砺波郡井波町岩屋)。
〔西尾〕の長兵衛のテリトリーは、甲信2州から美濃へかけてである。とすると、美濃国郡上郡岩屋村をまっさきにあげるべきであろう。しかし、この盗人は、捕縛された前歴がない。しかも、〔西尾〕の長兵衛も〔初鹿野〕の音松も本格派である。
ということで、池波さんは、あえて、池波家の先祖が宮大工をしていた、井波の出身としたのであろう。ここで、大六の名(だいろく)から(ろ)を引くと(だいく)---ほら、「だいく 大工」なんてことまでバラすと、池波さんは天上でくしゃみするかも。

探索の発端、結末:上のようなわけだから、どちらも記述されていない。

つぶやき:「岩屋」は、越前国大野郡、陸奥国二十郡と北郡、若狭国三方郡、大和国山辺郡、摂津国兎原郡と川辺郡にもあった。
しかし、なにもいわないで、井波町にゆずろうではないか。池波さん、安らかにお休みください。

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2005.08.15

剣客・松岡重兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻7に収められている[泥鰌の和助始末]で、実の息子・磯太郎(23歳)を自殺に追いこんだ南新堀(中央区)の紙問屋〔小津屋〕へ、仇討ちのつもりで盗みにはいろうとしている〔泥鰌(どじょう)〕の和助(60がらみ)を、手助する剣客・松岡重兵衛である。
高杉道場の食客をしていたときの松岡重兵衛は、若き日の長谷川銕三郎(のちの平蔵)や岸井左馬之助に稽古をつけてくれた。そして、小遣いに困った銕三郎が、彦十の口ききで左馬之助とともに盗みの手伝いをしようとしたとき、事前に引き止めたこともあった。

207

年齢・容姿:50前後。痩身。怒り肩。白いものがまじった髪。居眠りでもしているようなおだやかな顔。
生国:信濃(しなの)国更級郡(さらしなこうり)大豆島(まめじま)村(現・長野県長野市小豆島)
善光寺の坊の和尚が妾に産ませた子。p181 新装版p189 仏門の庶子がどのような経緯で一流の剣客となったか、想像するだけでもわくわくするではないか。
明治30年に市制を敷いたとき、古里(ふるさと)、柳原、淺川などの村が『旧高旧領』で検索にひっかからなかったので、つぎにヒットした小豆島村を採った。

探索の発端:息・辰蔵(20歳)が通っている市ヶ谷・左内坂上(新宿区)の坪井道場へあらわわれた松田十五郎と名乗った剣術遣いの剣筋を聞いた鬼平は、それが松岡重兵衛の変名と悟り、辰蔵に住いを突きとめるようにいいつけた途端、さっと消えられてしまった。
重兵衛が立ち寄った市ヶ谷田町1丁目の鰻屋[喜田川]も店を閉めて逐電していた。が、辰蔵の悪友・阿部弥太郎が鰻屋の女房が天現時寺(港区南麻布4丁目)の門前で茶店をだしているのを見つけてから、見張りがつけられた。

218

広尾毘沙門堂 天現寺(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

結末:紙問屋〔小津屋〕の盗みは、〔泥鰌(どじょう)〕の和助がほどこしておいた仕掛けで上々にはこんだが、仲間に入れた〔不破(ふわ)〕の惣七の裏切りで、引き上げてきた亀戸村(江東区)の百姓家に、盗めき金を横取りしようと不逞浪人たちが待ちかまえていた。
(参照: 〔不破〕の惣七の項)
、〔泥鰌〕の和助は斬られて死んだし、松岡重兵衛も鬼平に看取られながら「退屈は死ぬよりつらかった」といいのこした。

つぶやき:この篇の主題は松岡重兵衛のいまわの言葉「退屈は死ぬよりつらかった」である。これをどう受けとめるかで、読み手の生き方が問われる。
目標をかかげて精進している読み手は歯牙にもかけまい。
定年生活に入り、しなければならないこともなく日をおくっている人には、『鬼平犯科帳』の再読をおすすめする。

なお、この篇は、寛政4年(1792)の暮から翌5年正月へかけての事件である。史実の辰蔵は23歳。正月には24歳となってい、この年、永井亀次郎安清の養女を娶っている。

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2005.08.14

〔神取(じんとり)〕の為右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収められている[浮世の顔]で、兇盗の首魁として顔を見せるのが[神取(じんとり)〕の為右衛門である。本拠は上州・高崎に置いている。
この篇では、口合人の〔鷹田(たかんだ)〕の平十の手をとおして、流れづとめの〔藪塚(やぶづか)〕の権太郎(30がらみ)と〔三沢(みさわ)〕の磯七(40すぎ)を一味に加えたために、火盗改メが動くことになった。
(参照: 〔鷹田〕の平十の項)
(参照: 〔藪塚〕の権太郎の項 )

214

年齢・容姿:年齢の記述はない。見るからにふいぶてしい容貌。
生国:甲斐(かい)国巨摩郡(こまこうり)上神取(かみじんとり)村(現・山梨県北巨摩郡明野村上神取)
陸前(りくぜん)国桃生郡(ものうこうり)神取村もあるが、こちらは(かみとり)と読む。池波さんは(じんとり)とルビをふっている。

探索の発端:江戸の西北はずれの滝野川で、武士と商人風の死体が見つかった。うち、商人風の男が血をみることもいとわない急ぎばたらきの〔藪塚〕の権太郎であることを、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が気づいた。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
権太郎の人相書を、いまは亡き〔鷹田(たかんだ)〕の平十の古女房に見せると、権十郎の雇い主とつなぎをつけるために出かけた平十が、陽が暮れてから帰宅したことを思いだしたので、探索は滝野川と土地つづきの板橋宿にしぼられた。

411
板橋の駅(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

石神井川(しゃくじいがわ)にかかる板橋をわたったたもとの茶店で休んでいた五郎蔵が、通りかかった盗人〔牛久保(うしくぼ)〕の甚蔵(50すぎ)を見かけ、尾行(つ)けていくと、小さな旅籠〔上州屋〕へ入った。
〔上州屋〕を見張り、ほかの2軒の盗人宿も知れた。

結末:[神取(じんとり)〕の為右衛門一味18名が、深川の上大島町の釘鉄銅物問屋〔釜屋〕へ押し入ろうとしたところを、40人を動員して網をはっていた火盗改メが捕らえた。うち、抵抗した5名は斬殺。

つぶやき:石神井川ぞいの旅籠〔上州屋〕が盗人宿であることは、5年前に代替わりしたことと、牛久保の甚蔵が宿泊していることでわかったが、その持ち主が[神取(じんとり)〕の為右衛門であることは、どうやって探索できたのだろう?
捕縛後に判明したのなら、納得がいくが---。

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2005.08.13

〔稲荷(いなり)〕の金太郎

『鬼平犯科帳』文庫巻16にはいっている[見張りの糸]は、品川の旧友宅へ一泊した〔相模(さがみ)〕の彦十が、〔狢(むじな)〕の豊蔵の弟の〔稲荷(いなり)〕の金太郎を見かけて尾行(つ)け、三田八幡宮(御田八幡神社 港区三田3丁目)門前の茶店〔大黒や〕へはいっていったのを突きとめた。

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三田八幡宮(『江戸名所図会」 塗り絵師:ちゅうすけ)

さっそくに、〔大黒や〕の向いの、〔京 御仏像厨子・御位牌 和泉屋〕忠兵衛方に二階に見張り所が設けられた。

216

年齢・容姿:50がらみ。身なりはさっぱりした商人風。
生国:武蔵(むさし)国比企郡(ひきこうり)上狢(かみむじな)村(埼玉県比木企郡川島町上狢(かみむじな))。
生国調べで苦労する「通り名(呼び名)」が、どこにでもある「追分」「落合」「押切」「神明」「下山」などである。〔稲荷」にいたっては、ちゃんとしてたものだけでも全国に12万社あるといわれている。
しかし、〔稲荷〕の金太郎の場合は、兄が〔狢(むじな)〕を名乗っている。それで埼玉県の川島町(かわじわまち)が候補にのぼった。
地図を見ると、町の北端に「稲荷塚古墳」があり、角川『日本地名大事典』の近世の項に、上狢の稲荷社は「上・下狢村、下新堀村の鎮守」とある。

探索の発端:先記したように、彦十が北品川の手前の歩行(かち)新宿2丁目の飯盛旅籠からでてきた金太郎を尾行して住いを突きとめた。

結末: 2件の結末がある。1は、見張り所として借りている仏具屋〔和泉屋〕忠兵衛方を襲った賊を、鬼平と沢田小平次が処置したの。
2は、〔稲荷〕の金太郎一味17名が押し入ろうとしていた赤坂・伝馬町の乾物問屋〔丸屋〕で捕縛されたの。

つぶやき:「狢(むじな)」を探していて、「稲荷塚古墳」にあたったのは幸運であった。こうなったら、上狢の稲荷社へお礼詣でをしなくては、な。

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2005.08.12

〔貝月(かいづき)〕の音五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻11に収められている[雨隠れの鶴吉]で、鶴吉の実家である日本橋・室町2丁目の茶問屋〔万屋〕源右衛門方へ、飯炊き男として引き込みにはいっている、〔稲荷(とうが)〕の百蔵配下の男。
(参照: 〔雨隠れ〕の鶴吉の項)
(参照: 〔稲荷〕の百蔵の項)
かつて〔野槌(のづち)〕の弥平の下にいたが、一味が火盗改メに捕縛されたときにうまく逃げおうした3,4人のうちの1人。もう1人が鶴吉の女房になっているお民。
(参照: 〔野槌〕の弥平の項)
(参照: 女賊お民の項)

211

年齢・容姿:40がらみ。ずんぐりと大きな躰。金壺眼(きんつぼまなこ)。
生国:美濃(みの)国揖斐郡(いびこうり)貝月山麓・久瀬(くぜ)村(現・岐阜県揖斐郡久瀬村)
貝月山(1,234.3m)は、久瀬、春日、坂内の3ヶ村にまたがっているから、あとの2村の出である可能性もある。

探索の発端:お民が見つけて鶴吉に話し、鶴吉が使用年時代に可愛がってくれた井関録之助へ打ち明け、録之助から鬼平へ話が通じ、火盗改メの監視がはじまった。

結末:上州・武州をまたにかけて荒らしまわっている〔稲荷(とうが)〕の百蔵一味24名が〔万屋〕へ押しこんできたところを全員逮捕。

つぶやき:基本的には、火盗改メと盗賊グループとの対決物語である『鬼平犯科帳』の読みどころの一つは、探索の発端のヴァラエティにある。鬼平が「がん」をつける話がもっとも多いが、与力・同心、密偵がらみを表とすると、この篇のように盗人同士というきわめて珍しい裏ケースもある。
隣あった篇には異なった発端を置くのが、池波さんの苦心の一つでもある。

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2005.08.11

〔湯屋谷(ゆやだに)〕の富右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻14に所載の[さむらい松五郎]で、同心・木村忠吾が盗人の〔網掛(あみかけ)〕の松五郎に間違えられて、〔轆轤首(ろくろくび)〕の藤七一味の逮捕につなげた。
(参照: 〔網掛〕の松五郎の項)
見間違えたのは〔須坂(すざか)〕の峰蔵で、荒っぽいお盗めをする〔轆轤首〕へ口合いをしたのは、高崎の口合人〔赤尾〕の清兵衛だった。
(参照: 〔須坂〕の峰蔵の項)
(参照: 〔赤尾〕の清兵衛の項)
〔さむらい〕松五郎こと〔網掛〕の松五郎は、上方から中国すじを荒らしていた〔湯屋谷(ゆやだに)〕の富右衛門の右腕とか左腕とかいわれていた。

214

年齢・容姿:どちらも記載がない。
生国:近江(おうみ)国甲賀郡(こうかこうり)信楽村湯屋谷(現・滋賀県甲賀市下朝宮)
三重県上野市にも、京都府綴喜郡宇治田原町にも湯屋谷があり、上方と中国筋がテリトリーという〔湯屋谷〕の富右衛門の出生地としてはすてがたいが、甲賀忍者の取材で数多く訪れたという観点から、かつての信楽村の下朝宮にある谷---湯屋谷を採った。

探索の発端:密偵・伊三次を目黒の威徳寺の木村家の墓域へ葬った同心・忠吾は、墓参の帰り道、門前の〔桐屋〕で名物の目黒飴を買っていて、〔須坂(すざか)〕の峰蔵に肩をたたかれた。
(参照: 伊三次の項)
峰蔵の人違いに乗じてさくりをいれると、いま助(す)けている〔轆轤首〕のところから抜けたいのという。それから〔轆轤首〕一味の盗人宿---目黒の権之助坂・上覚寺の前の茶店〔日吉屋〕の見張りがはじまった。

結末:本物の〔網掛(あみかけ)〕の松五郎は小柳安五郎の手で捕まった。〔轆轤首(ろくろくび)〕の藤七は〔日吉屋〕で捕まった。〔須坂(すざか)〕の峰蔵は鬼平が捕まえた。

つぶやき:ホームページ[『鬼平犯科帳』の彩色『江戸名所図会』]の2005年8月の項、
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/board/index35.html
に学習院〔鬼平〕クラスの新兵衛さんが指摘されているが、目黒の権之助坂の中ほどの寺を、「上覚寺」としている切絵図は尾張屋板、池波さんがいつもかたわらに置いていた近江屋板は「浄覚寺」で、こっちのほうが正しい(もっとも、浄覚寺は、明治期に白金台3丁目の瑞聖寺へ合祀された。ついでにいうと、木村忠吾の菩提寺・威徳寺が合祀されたのも瑞聖寺である)。

池波さんは、なぜ、このときにかぎって執筆時に尾張屋板のほうをひろげたか。近江屋板の目黒地区の絵図が粗略だったからと推察する。寺号を参照する時間もないほど忙しかったのだろうが、気のきいた秘書がいれば防げはず。


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2005.08.10

〔雨隠(あまがく)れ〕の鶴吉

『鬼平犯科帳』文庫巻11に、[雨隠れの鶴吉]の題名としてあげられている盗人(29歳)。中国筋から上方へかけてがテリトリーの〔釜抜(かまぬ)き〕の清兵衛の子飼いの配下。女房のお民(31歳)も女賊。
(参照: 〔釜抜き〕の清兵衛の項)
(参照: 女賊お民の項)
もともとは日本橋・室町2丁目の茶問屋〔万屋〕の当主・源右衛門の子ではあるが、源右衛門は家付きむすめ・お才の婿養子の身で、女中・おみつに生ませたため、本所・小梅村の寮で乳母のお元に育てられた。
17歳のときに〔万屋〕へ放火して逐電したが、火はボヤで消され、家名を気にしたお才があちこちに手と金をまわして事件をもみ消した。
逐電した鶴吉は、東海道をのぼる途中で財布をすられて立ち往生しているところを、〔釜抜き〕の清兵衛に拾われ、わが子同様に仕込まれた。清兵衛は、大坂の伏見町で唐物屋〔坪井屋〕を表看板にしている。
京都・綾小路西入ルの金箔押所〔吉文字屋〕へ押し入ったときの引き込みの分け前80両をもらった鶴吉夫婦は、12年ぶりに江戸見物としゃれて下ってきた。

211

探索の発端:小梅の寮で鶴吉を母代わり育てた乳母のお元が、永代橋東詰でだしている茶店へ、深川八幡へ参詣した帰りの鶴吉夫婦が立ち寄った。
お元は源右衛門へ急報し、夫婦は、お才も病死していなくなっていた〔万屋〕迎えられた。
が、そこには、〔野槌(のづち)〕の弥平一味の生き残りの〔貝月(かいづき)〕の音五郎が下男として引き込みにはいっていることを、もと一味だったお民が見破った。
(参照: 〔野槌〕の弥平の項)
(参照: 〔貝月〕の音五郎の項)
鶴吉は、八つ山の井関録之助にすべてを打ち明け、江戸を去る。それを見とどけた録之助は、火盗改メの役宅へ鬼平を訪ねた。

結末:〔貝月(かいづき)〕の音五郎に見張りをつけた火盗改メは、上州・武州をまたにかけて荒らしまわっている〔稲荷(とうが)〕の百蔵一味24名が〔万屋〕へ押しこんできたところを全員逮捕。
(参照: 〔稲荷〕の百蔵の項)
鶴吉夫妻は、2度と江戸へ下ってはこないということで見のがされた。

つぶやき:〔釜抜き〕の清兵衛の「通り名(呼び名)」について、「月夜に釜を抜かれる」---つまり、油断がすぎる、から採っていると教えてくださったのは、メル友〔むこん〕さんである。
〔雨隠れ〕は「雨宿り」の意味で、引き込み上手の盗人にふさわしいネーミングと、池波さんが自賛している。p266 新装版p278

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2005.08.09

〔法妙寺(ほうみょうじ)〕の九十郎

『鬼平犯科帳』文庫巻22は、長篇[迷路]である。主人公の〔猫間(ねこま)〕の重兵衛(50代半ば)のむすめ・お松(27,8歳)が父親・重兵衛へ話しかける。
上方で〔法妙寺(ほうみょうじ)〕の九十郎の手伝いにいっていたからよかったものの、叔父にあたる〔池尻(いけじり)〕の辰五郎のお盗めを助(す)けていたら「いまのごろは、地獄の針の山をわたっていた」ところだと。〔池尻〕一味は、火盗改メに捕まって処刑されていた。
(参照: 〔猫間〕の重兵衛の項)
(参照: 〔池尻〕の辰五郎の項)
〔法妙寺(ほうみょうじ)〕の出番は、上記きりとおもっていたら、物語の半ば、向島の三囲(みめぐり)稲荷社の境内で、密偵〔玉村(たまむら)〕の弥吉の肩をぽんとたたいた九十郎が、江戸での盗めを助(す)けてくれないかといいだした。
(参照: 〔玉村〕の弥吉の項)

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三囲稲荷社(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

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年齢・容姿:50がらみ。とろりと脂が乗った、血色のよい顔。
生国:山城(やましろ)国相楽郡(そうらくこうり)上有市(かみありち)村(現・京都府相楽郡笠置町大字有市)。
「法妙寺」という地名はない。上方で探して、笠置町の西端に法明寺があったので、とりあえず採った。

探索の発端:すでに記したように、三囲稲荷社で〔玉村〕の弥吉の肩をたたいたときから、探索が始まっていたのである。弥吉は、お熊の茶店〔笹や〕に寄宿していることにして、〔法妙寺〕からのつなぎを待った。
鉄砲洲の薬種店〔笹田屋〕を下見に行った弥吉は、座頭・徳の市が〔笹田屋〕から出てきた。甞役をやっているにちがいない。

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湊稲荷社 鉄砲洲(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

〔笹田屋〕に押しこもうとした〔池尻〕一味は、鬼平の手の者に一網打尽にされていた。

結末:芝・田町7丁目の盗人宿の宿屋〔摂津屋〕に泊っていた〔法妙寺〕の九十郎は逮捕された。

つぶやき:原作は『オール讀物』1983年 5月号から11か月にわたって連載された。『鬼平犯科帳』が始まって15年目だから、愛読者は待ってくれるまでに寛容になっていた。それほどに愛読者は鬼平になじんでいた。池波さんのほうも、章ごとに新しい仕かけ---お松の色好みとか、〔玉村〕の弥吉のすご腕などをちりぱめた。
しかし、第2章[夜鴉]にほんの1行だけ触れられた〔法妙寺〕が、2カ月もおいた第5章[法妙寺の九十郎]の章末にふたたび顔をだし、つぎの章で配下30人も従えて江戸へ集まっているなんて、意表外の展開には、きっと驚いたろう。文庫で読むと100ページほどの時間経過なのだが。
それで、ファンにすすめているのは、雑誌連載のインターヴァルとはいわないが、せめて1篇からつぎの1篇へは2日間ほど間隔をあけて読みすすむと、雑誌連載でファンになった先覚者の気分が共有できるのではないかと。

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2005.08.08

女賊おひろ

『鬼平犯科帳』文庫巻9に収まっている[浅草・鳥越橋]で、〔傘山(かさやま)〕の瀬兵衛(50がらみ)の配下で、いまは浅草・瓦町の蝋燭問屋〔越後屋〕へ引き込みに入っている〔風穴(かざあな)〕(35歳)の仁助の女房おひろ。
もと両国の見世物で軽業をやっていた。〔蓑火(みのひ)〕の喜之助のもとで修業し、それから、〔傘山〕一味に加わった。仁助とはいま風にいうと職場結婚。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
そのおひろが、、〔傘山〕の瀬兵衛お頭と乳繰りあっているのをこの目で見た、と仁助に耳打ちして、仁助の嫉妬ごころに火をつけたのは、つなぎにきた〔押切(おしきり)〕の定七(35歳)である。場所は、蔵前の石清水正八幡宮の境内の絵馬堂で。

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年齢・容姿:書かれてはいないが、30前後。細っそりとして見えながら、裸になったときの胸乳と腰まわりの量感はみごと。
生国:信濃国か甲斐国と推量するが、不明ということに。

探索の発端:2つ、記さざるをえない。1は、おひろ。深川の東のはずれ、矢竹に囲まれた一軒家の土間の下に埋められているのを、仁助を尾行(つ)けて見張っていた火盗改メが発見。
2は、大横川ぞいの石島町、〔小房〕の粂八にまかされている船宿へ、客として現れた〔白駒(しろこま)〕の幸吉と〔押切(おしきり)〕の定七が尾行(つ)けられて、それぞれの住いが判明、見張られた。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
(参照: 〔白駒〕の幸吉の項)

結末:おひろは、〔押切〕の定七に謀殺されて埋められたことはすでに述べた。
〔傘山(かさやま)〕の瀬兵衛は、浅草・鳥越橋上で、たまたま行きあった〔風穴(かざあな)〕の仁助の嫉妬の刃で刺殺。仁助はその場で同心・沢田小平次に捕縛された。
押し込み当夜、全員が集まった〔白駒(しろこま)〕の幸吉の盗人宿へ、火盗改メが打ち込むのは時間の問題。

つぶやき:小説の塗れ場は、ほとんどが読者サーウ゜ィスと承知してはいるが、『鬼平犯科帳』の盗賊連の中でもとりわけ女好きの〔傘山(かさやま)〕の瀬兵衛がひろの媚態を回想するそれは、男性の読み手の想いをかなりくすぐる。おひろが「身持ちがはかたい」女と知ってはいても。

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2005.08.07

〔塩井(しおのい)〕の卯兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻18に収められている[蛇苺]は、〔沼目(ぬまめ)〕の太四郎(42歳)と「甞役」の〔針ヶ谷(はりがや)〕の宗助(44歳)、その女房で色好きのおさわ(30歳)を交えての、色情がらみの物語である。
老爺の〔塩井(しおのい)〕の卯兵衛が、上方と江戸を交互にあらしている〔沼目〕の太四郎とどこでからむかというと、太四郎が上方へ盗めているときの、浅草・阿倍川町の法成寺(豊島区駒込6丁目へ移転)の裏手の盗人宿を預かっているのが卯兵衛なのである。
(参照: 〔沼目〕の太四郎の項)

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年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国:大和(やまと)国宇陀郡(うだこうり)塩井村(現・奈良県宇陀郡曽爾(そに)村塩井)
塩井は山形県米沢市にもあるが、『旧高旧領』に記載されているのは上記のみ。

探索の発端:〔沼目(ぬまめ)〕の太四郎と〔針ヶ谷(はりがや)〕の宗助は、鬼平が亀戸天神の門前の料理店〔玉屋〕で鯉料理を食しての帰路、辻斬りに行きあわせたことから探索がはじまり、おさわも網にかかったが、塩井(しおのい)〕の卯兵衛の存在は、火盗改メも目こぼしてしまっている。

結末:したがって、この仁の結末は書かれていない。

つぶやき:脇役の中でも吹けばとぶような脇役---記述が1行しかない仁なので、扱いには手こずる。
話題を変えよう。『鬼平犯科帳』に登場する江戸とその近郊の寺院は208。うち、江戸期の火災や指令、維新と明治初年の排仏毀、つづく区画整理、大正の大震災、昭和の空襲などで移転した寺院は28---15%に近い。
それらの1寺ずつの経緯を調べることで、江戸の歴史への道が開ける。

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2005.08.06

〔海津(かいづ)〕の滝造

『鬼平犯科帳』文庫巻22、長篇[迷路]の第7章[座・徳の市]に、ちらっと登場する盗人---といっても、当人がじかに登場するのではなく、女盗お兼の自白の中で、何気なく語られる。
「池尻のつなぎの人の中で、海津(かいづ)の滝造(たきぞう)という爺さんが、いつだったか、ひょいと洩らしたことがありました。池尻のお頭には、なんでも義理の兄さんがいて、そのお人も、池尻のお頭同様、むかしは大きな盗めをしたお人らしゅうございます。もう亡くなっているのではないでしょうかねえ」
(参照: 〔池尻〕の辰五郎の項)

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年齢・容姿:爺としか書かれていない。容姿の記述もない。
生国:越中(えっちゅう)国射水郡(いみずこうり)海津村(現・冨山県氷見市海津)
氷見市にきめるまで、かなりの時間が経過した。〔池尻(いけじり)〕の辰五郎は美濃(みの)の大垣(おおがき)の近くの池尻の出とある。p207 新装版p196 それで、近江国高島郡海津をまっさきに候補にあげた。
この高島郡の高島は、百貨店〔高島屋〕の屋号にもなっている。
福岡県三池郡高田町海津は、あまりに地縁が薄すぎるので外した。
氷見町がひらめいたのは、池波さんの先祖が井波町の出身ということ。さらに、密偵〔豆岩〕が氷見の南隣の伏木の生まれであること、また、〔豆岩〕がほれ込みながら差した〔海老坂(えびさか)〕の与兵衛の「海老坂」は、氷見と伏木の中間にあること---などから、池波さんに土地勘もあるとみた。
(参照: 〔豆岩〕の岩五郎の項)
(参照: 〔海老坂〕の与兵衛の項 )

探索の発端:---といっても、〔海津〕の滝造のではなく、正体が知れない刺客を操っている奥の人物への手がかりである。すでに打ち首処刑になってしまっている引き込み女お兼の自白書を、あらためて読み返すことを鬼平におもいつかせたのは、密偵〔玉村(たまむら)〕の弥吉であった。
(参照: 〔玉村〕の弥吉の項)

結末:もう亡くなっているかも、とお兼はいったが、〔猫間(ねこま)〕の重兵衛は生きていた。重兵衛と鬼平の一騎打ちで片がつく。
(参照: 〔猫間〕の重兵衛の項)

つぶやき:連想というのは、不可思議な働きをする。
「海津」という地名を『旧高旧領』を検索して近江国と越中国に見つけたときは、即座に近江だと思った。八日市から米原への近江鉄道の車窓から望んだはるか先、越前との国境の山々を連想していた。あの山々の手前が高島郡だと。
しかし、高島郡海津と射水郡海津の資料をそろえてたとき、とつぜん、〔飛鳥〕で伏木港へ入港・下船したときのことをおもいだした。臨時下船客のおおくが、合掌造りの白川を見学にいくという。地図でたしかめると、越中と美濃の白川はそれほど離れてはいない。
地縁という言葉が浮かんだ。大垣と氷見は山越えでつながるのだと。

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2005.08.05

〔生駒(いこま)〕の仙右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻7に収められている[掻掘のおけい]で、男なら木村忠吾ならずとも好きごころをそそられる女賊、〔掻掘(かいぼり)〕のおけいの後ろ盾といわれている大坂が本拠の巨盗〔生駒(いこま)〕の仙右衛門。ただし、この篇ではご本尊はまだ江戸には姿を見せない。下府してきているのは配下のみ。
(参照: 〔掻掘〕のおけいの項)
大坂では、表向きは心斎橋・北詰に〔山家(やまが)屋〕という屋号をかかげているもぐさ問屋の主人。
次の2編でも、火盗改メとかかわる。
巻8[あきれた奴]で〔鹿留(しかとめ)〕の又八をだますようにして引き込んだ〔雨畑(あまばた)の紋三郎は、かつて〔生駒〕の下にいた。
(参照: 〔鹿留〕の又八の項)
(参照: 〔雨畑〕の紋三郎の項)
また、同じ巻8[流星]で、腕の立つ浪人2人を江戸へさしむけて鬼平の眼を撹乱させようとしたのも、〔生駒〕の仙右衛門である。

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年齢・容姿:62歳。小肥りの躰。品のよい白髪頭。あざやかな血色。
生国:大和(やまと)国平群郡(へぐりこうり)信貴畑(しぎはた)村(現・奈良県生駒郡平群町信貴畑)
大坂の生駒町も考えたが、奈良県側の生駒山地あたりから大坂へやってきて、裏の世界でのしあがった男と見たほうが大物らしいとかんがえただけのことである。

探索の発端:この篇では、探索の手は、大坂にいる本人にはまだ及んではこない。

結末:したがって、捕縛されたのは、実行犯の〔和尚(おしょう)〕の半平一味と、手引きをした〔掻掘(かいぼり)〕のおけいである。
(参照: 〔和尚〕の半平の項)

つぶやき:妖艶な〔掻掘(かいぼり)〕を、後ろ盾の巨盗〔生駒(いこま)〕の仙右衛門はつまんだろうか---などと想像するのは、下司(げす)の勘ぐりというもの。
盗賊団のお頭は、腕力と資力と統率力が売りものの猿山のボス猿とおなじで、すべては意のままである。とともに、完全庇護のつとめもはたさないといけない。
まあ、62歳だし、血圧も高めのようだから、おけいとのことは、むかしのことと見ておこう。

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2005.08.04

〔長沼(ながぬま)〕の房吉

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収録の[殿さま栄五郎]は、口合人[鷹田(たかんだ)〕の平十と、〔火間虫(ひまむし)〕の虎次郎一味の蹉跌から生じた、盗人界の掟てを描いている。
平十と虎次郎を結んだのが、〔火間虫〕一味でも幹部級の〔長沼(ながぬま)〕房吉である。「腕っ節の強いのを1人、大急ぎで世話してほしい」との虎次郎の手紙を持って、平十に頼みにきた。
(参照: 〔鷹田〕の平十の項)

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年齢・容姿:どちらにも描写がおよんでいないが、〔火間虫〕の腹心とすると、中年。眼が鋭い。
生国:相模(さがみ)国大住郡(おおすみこうり)長沼村(現・神奈川県厚木市長沼)
別に、武蔵国葛飾郡や下総国埴生郡の長沼村も考えたが、文庫12の〔高杉道場・三羽烏〕で〔砂蟹(すながに)のおけいや〔笠倉(かさくら)〕の太平がからむ浪人盗賊・長沼又兵衛を探索するときまで取っておくことにした。
(参照: 〔砂蟹のおけいの項)
(参照: 〔笠倉〕の太平の項)

探索の発端:なやみきっている〔鷹田(たかんだ)〕の平十と出あった密偵〔馬蕗(うまぶき)が助人(すけっと)のことを引き受け、〔殿さま〕栄五郎に化けた鬼平が乗り出したはいいが、たちまちに化けの皮がはがれて---。
(参照: 〔馬蕗〕の利平治の項)
(参照: 〔殿さま〕栄五郎の項)

結末:芝・方丈河岸の盗人宿は火盗改メに踏みこまれて、〔火間虫〕の虎次郎一味は房吉も逮捕。死罪であろう。

つぶやき:この篇は、〔鷹田〕の平十を描くことで、口合人という裏の世界のパーソナル・エージェンシーの存在を示すことが、池波さんの創作動機だったのだろう。
「口合」は、「口入」以上に「保証する責任」が含まれている。この言葉を見つけたときの池波さんのにんまり顔が見えるようだ。

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2005.08.03

眼鏡師・市兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻18では[草雲雀]に、巻20では[二度あることは]に登場する、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助の下で錠前の合鍵づくりの名人として腕をふるい、いまはすっかり足を洗って眼鏡師として余生をおくっている爺。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
住いと店は、三田2丁目と3丁目の間の道を西へ曲がった5軒目。

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年齢・容姿:70歳に近い(巻20 p65 新装版p67)。容姿の記述はない。
生国:〔蓑火〕の配下だったころからずっと盗人宿として住んでいたというし、眼鏡師などという細工ができるのは江戸生まれだからであろう。若いころからの修業がものをいう。

探索の発端:権之助坂の小間物屋〔かぎや〕の亭主は、じつは〔瀬川(せがわ)〕の友次郎と名乗る盗人である。〔蓑火〕の一味にいたときから、市兵衛とは気があい、いまは足をあらっている市兵衛がつき合っているただ一人の現役(いま働き)である。
(参照: 〔瀬川〕の友次郎の項)
その友次郎が、上方で〔西浜(にしはま)〕の甚右衛門を助(す)けて押し入ったたときに、運あしく抱きついてきた手代を振り払ったところ、打ちどころが悪くて死んでしまったことを悩んで、相談にきたことがあった。
(参照: 〔西浜〕の甚右衛門の項)
しかし、友次郎は市兵衛のところから帰ったとき、女房の浮気相手の〔鳥羽(とば)〕の彦蔵に殺されてしまっていた。
そのことを知らない市兵衛が、〔かぎや〕の前をうろうろしたとき、同心・細川峯太郎に挙動を疑われて、自宅をつきとめられた。

結末:〔三雲(みくも)〕の利八に合鍵づくりを強請された市兵衛は、江戸を離れた。
(参照: 〔三雲〕の利八の項)
が、半年後に〔かぎや〕を訪れたところを、張りこんでいた女密偵おまさと〔大滝〕の五郎蔵に捕まり、鬼平に密偵となることをすすめられてしまった。
(参照: 女密偵おまさの項)
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)

つぶやき:『江戸買物独案内』(文政7年 1824)に掲載されている眼鏡師の広告---
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2005.08.02

〔飯富(いいとみ)〕の勘八

『鬼平犯科帳』文庫巻6には、全篇中のベスト5にランクされる[大川の隠居]が収録されている。
そう、いまは船宿〔加賀や〕の船頭としてはたらいている、かつての盗人〔浜崎(はまざき)〕の友蔵(友五郎)が戻り盗めをする一篇である。友蔵は〔飯富(いいとみ)〕の勘八の右腕だった。
そのころ、押し込み先の女に手を出して〔血頭〕の丹兵衛のところを追いだされた、20歳になったばかりの〔小房(こぶさ)〕の粂八も、〔飯富〕一味にいた。
(参照: 〔浜崎〕の友蔵の項 )
(参照: 〔血頭〕の丹兵衛の項)
(参照: 〔小房〕の粂八の項)

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年齢・容姿:武州・川越のわが家の畳の上で、女房と子どもたちに看取られてれてみまかったときが62歳。容姿の記述はない。
生国:上総(かずさ)国望陀郡(ぼうだこうり)飯富村(現・千葉県袖ヶ浦市飯富)。
甲斐国巨摩郡の飯富村もかんがえたが、テリトリーが上総、下総と江戸とあるので、上総の飯富村を採った。自宅が川越なのは、女房がそっちの出なのかも。

探索の発端:3ヶ条を守り抜いた上での病死なので、一度も捕縛されていない。

結末:前記のごとく、畳の上で、家族に看取られて大往生。

つぶやき:千葉の袖ヶ浦と埼玉の川越が、最初はどうしても結びつかなかったが、〔浜崎(はまざき)〕の友蔵の前身が、新河岸川ぞいの「浜崎村」生まれの川越船頭ということにおもいいたった。とすれば、〔飯富(いいとみ)〕の勘八に川越の家を世話したのも、女房となった女性に引きあわせたのも、右腕だった友蔵だったろうと。
すっきりおさまった。
池波さんが川越に取材に行った記録がのこっているのは1971年10月で、[大川の隠居]はこの年の5月号の『オール讀物』に発表されているから、これは事後の取材ということになる。その前に記録にのこしていない取材があったはずだ。

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2005.08.01

〔影信(かげのぶ)〕の伝吉

『鬼平犯科帳』文庫巻13に収められている[墨つぼの孫八]の主人公は、大工上がりの首領〔墨斗(すみつぼ)〕の孫八。
(参照: 〔墨斗〕の孫八の項)
孫八は、江戸四宿の一、板橋宿の古着屋に次男として生まれたが、父親が腹痛でもだえ死んだ翌年、11歳の兄、その次の年には母親も病死して、さらに弟も9歳で死んだために、自分も死病にとりつかれているとおもいこんでいる。
18の歳に奉公していた大工の親方〔大喜〕のところを逃げだして放浪している孫八を拾って、盗人に仕立てた八王子の盗賊が、〔影信(かげのぶ)〕の伝吉である。孫八は、20歳になっていた。

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年齢・容姿:どちらの記述もない。
生国:武蔵(むさし)国多摩郡(たまこうり)恩方(おんかた)村(現・東京都八王子市上恩方町)。
八王子市の西端に影信山(かげのぶやま 標高727.1m)がある。角川『日本地名大辞典』は「元亀年間小田原北条氏の臣、桜町中納言景信が、甲斐武田氏に備え遠見場を設けたことから山名となる」とする。
若いころにしばしば高尾山や小仏峠などを行脚した池波さんの記憶にある山の一つであろう。

探索の発端:〔墨斗〕の孫八が28歳のときに病没しているので、探索はない。孫八が一味を引きついだ。

結末:前述したごとく病死。

つぶやき:「影信山」からこの「通り名(呼び名)」を借用したときに、池波さんの頭をかすめた師匠は、だれだったろう。小学校の恩師でなければ、株屋の先輩か。まさか、長谷川伸師のおもかげではなかったろう、奥多摩の山々を渉猟していたときとは年代が違いすぎる。

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