« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »

2005年9月の記事

2005.09.30

〔男鬼(おおに)〕の駒右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻3におさめられている[艶婦の毒]で、27歳の銕三郎(鬼平の家督前の名前)が、京都で親しんだ女性・お豊(24,5歳)がやっていた茶店〔千歳〕の老爺が、じつは〔男鬼(おおに)〕の駒右衛門と名乗る盗っ人だった。
(参照: 女賊お豊の項)
お豊のはげしい情欲におぼれていた銕三郎の目をさまさせたのは、京都西町奉行所の実直な与力・浦部源六郎(中年)であった。
伏見稲荷前で捉えられた老爺が〔男鬼(おおに)〕の駒右衛門とわかり、お豊も、上方から近江をテリトリーとしている盗賊〔虫栗(むしくり)〕の権十郎(先代)一味と知れた。

203

年齢・容姿:60をこえた、とのみでほかは記述されていない。
生国:近江(おうみ)国坂田郡(さかたこうり)男鬼(おおり)村(現・滋賀県彦根市男鬼町)。

逮捕の経緯:大坂を根拠にしていた〔千里(せんり)〕の草平が獄門になったので、その手下だった駒右衛門は、しばらく小泥棒をしてしのいでいたが、10年前、大坂町奉行所の盗賊方の同心・平山亀蔵につかまったものの、縄ぬけしてうまく逃げおうした。
それが、公用で京都へ出張してきた平山同心に、伏見稲荷の人ごみの中にいた亀蔵が見かけられ捕まった。
浦部与力の情けあつい尋問に、亀蔵は茶店〔千歳〕のお豊のことを白状におよんだ。

つぶやき:「男鬼(おおり、または、おうり)」という名の村が現実に存在していたことを知ったときの驚きといったらなかった。しかし、それが近江国とわかったときには、納得した。池波さんが綿密に取材した県の一つが滋賀県であることを知っていたからである。
とくに彦根市には愛着をおぼえていた、とエッセイに記している。
聖典には(おおに)とルビがふられているが、地元では(おおり)と呼んでいる。村名の由来は、霊山寺7別院の1つ、男鬼寺にちなむと。

| | コメント (0)

2005.09.29

〔己斐(こひ)〕の文助

『鬼平犯科帳』文庫巻5におさまっている[深川・千鳥橋]で、大工あがりの〔間取(まど))り〕の万三が、労咳の最後の静養費のために、手元に残っている5枚の大商店の間取り図を盗賊の首領へ200両で売りたいというので、上野山下・仏店で鰻屋〔大和屋〕を出している金兵衛(60すぎ)の口ききで、〔己斐(こひ)〕の文助がとりもった。
(参照: 〔間取り〕の万三)の項)
文助は、盗賊界の大物〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門のもとで15年も修行をつんだ本格派で、独立してからはすぐれた錠前はずしとして諸方の盗賊の頭領から高く買われていた。
(参照: 〔夜兎〕の角右衛門の項 )
さて、文助は、話を、3代つづいている盗みの世界での名門〔鈴鹿(すずか)〕の弥平次へもちかけ、快諾をもらった。
(参照: 〔鈴鹿〕の弥平次・3代目の項)

205

年齢・容姿:40すぎ(寛政元年 1789)。容姿の記述はないが、引き締まった躰つきと想像する。
生国:故郷の越中(えっちゅう)に老いた両親がいる---とあるが、越中には「己斐」という村はない。それで探したのが、婦負郡(ねいこおり)小井波(こいなみ)村(現・冨山県婦背負郡八尾町小井波)である。砺波郡(となみこおり)井波村は池波さんの先祖の地である。そのまま使うのは照れもあり、小井波村の前半分を借りて「己斐(こい)」としたのではなかろうか。
安芸(あき)国佐伯郡(さえきこうり)己斐(こい)村(現・広島県広島市西区己斐)も考えたが、故郷が越中とあるから、とるわけにはいかない。
蛇足だが、「己斐」ルビを池波さんは(こひ)としているが、元和5年(1619)の安芸国の「知行帳」は「こい村」である。

探索の発端: 〔大滝〕の五郎蔵が現役のお頭だった時分、日本橋南1丁目の呉服問屋〔茶屋〕の間取り図を万三から買ったことがある。そのことを、「お縄にはしない」との約定のもとに鬼平に話した。
鬼平は、五郎蔵に破牢の形をとらせて万三を探らせた。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項 )
かつて〔蓑火(みのひ)〕の下にいた〔大和屋〕金兵衛を五郎蔵が見張っていると、果たして、万三と文助があらわれた。

結末:間取り図を買うといった〔鈴鹿(すずか)〕の弥平次の3代目(40がらみ)は、悪だった。
〔己斐(こひ)〕の文助をなぐりつけて殺し、詭計をこらして万三を呼びだし、見取り図を奪い取ろうと---。その瞬間、鬼平が乗りこんで命をすくった。

つぶやき:シリーズの連載2年半目あたりのこの篇は、『鬼平犯科帳』のいちばんいい面---鬼平の人品の秀逸さ---小さなことは情で裁き、大きなことは法にまかせて密偵たちを心服させるところが遺憾なく描きこまれている。
吉宗の時代に整備された法の適用基準---一事一様は間違いではないのだが、とかく杓子定規になりかねない。鬼平が用いるのは、一事両様、すなわち、人情味の味つけの巧みさである。

追記:
井波町は市町村合併で、2004年11月1日に南砺市の一分となった。

| | コメント (2)

2005.09.28

〔蛸坊主(たこぼうず)〕の五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻16の冒頭に置かれている[影法師]で、探索の端緒をつかんだ密偵〔蛸坊主(たこぼうず)〕の五郎。元は本格派の盗賊であった。
血をみる畜生ばたらきがあまりにもひろがっているのに嫌気がさしていたとき、かつて何度も手伝った〔大滝〕の五郎蔵に出会った。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
「流ればたらきをしていても、根はしっかりしている」からと見きわめた五郎蔵が、鬼平に引きあわせると、五郎はたちまち鬼平の人柄に魅せられ、密偵になることを承諾したのである。

216

年齢・容姿:37歳。両眼が丸く大きく、口が突き出ていて蛸に似ている。
生国:3つのときに捨て子されていたのを、伊豆(いず)国加茂郡(かもこうり)八幡野(やわたの)村(現・静岡県伊東市八幡野)の寺僧に拾われ、15の年まで小坊主をしていた。
寺を飛び出てから悪の道へ入った。

探索の発端:密偵になってからの五郎は、むかしの育ちを生かして托鉢坊主姿で探索している。
たまたま、神田橋門外の茶店で一服していたとき、〔井草(いぐさ)〕の為吉(40がらみ?)を見かけた。首領〔湯屋谷〕の富右衛門が5年前に病死して以来、流れづとめをしいている男である。尾行して、西神田・蝋燭町の旅籠〔井筒屋〕へ宿泊していることをつきとめた。
(参照: 〔井草〕の為吉の項)
そこには、3人ほどの小人数で小さな盗めが専門の〔塩井戸〕の捨八もい、どうやら、麹町8丁目の菓子舗〔池田屋〕に目をつけているらしい。
(参照: 〔塩井戸〕の捨八の項)
結末:旅籠〔井筒屋〕へ泊り込みで見張りについた同心・木村忠吾を、〔さむらい〕松五郎こと〔網掛(あみかけ)〕の松五郎と見間違えている〔塩井戸〕の捨八が宿の階段でばつたり鉢合わせし、捨八は逃げにかかったが、酒井同心に捕まった。
(参照: 〔網掛〕の松五郎の項)
そのあと、為吉も捕縛され、入牢。そこには〔さむらい〕松五郎も入れられていた。捨八は松五郎の「影法師」に右往左往したことになる。
松五郎にそっくりの木村忠吾と盗っ人たちとのやりとりの仔細は、文庫巻14の巻末の[さむらい松五郎]に述べられている。

つぶやき:木村忠吾が〔網掛〕の松五郎に似ているために起きたもう一つの事件は、
(参照: 〔須坂〕の峰蔵の項)
〔塩井戸〕の捨八と〔井草〕の為吉との入りくんだ関係は、まもなく〔井草〕の為吉の項に記す。

| | コメント (0)

2005.09.27

〔五条(ごじょう)〕の増蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻14に収録の[殿さま栄五郎]で、急ぎばたらきが専門の〔火間虫(ひまむし)〕の虎次郎は、配下の〔長沼(ながぬま)〕房吉を使いにだし、谷中・三崎坂下の法住(受)寺(震災後、足立区伊興狭間へ移転)門前で花屋をやりながら裏で口合人稼業をしている〔鷹田(たかんだ)〕の平十に、血をみてもいいという腕利きを依頼させた。
(参照: 〔長沼〕の房吉の項 )
(参照: 〔鷹田〕の平十の項)
平十が紹介したのは、かつて大盗〔蓑火(みのひ)〕の喜之助のもとにいた、備前・岡山の浪人あがりで顔立ちも立派なら、目つきもやさしいが腕は滅法たつので〔殿さま〕栄五郎と呼ばれている助っ人だつた。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項
(参照: 〔殿さま〕栄五郎の項)
その〔殿さま〕栄五郎をかいま見て、「あれは真っ赤な偽者」と喝破したのが〔五条(ごじょう)〕の増蔵である。
増蔵は、どういう理由があったのか、故〔狐火(きつねび)〕の勇五郎のもとから追放されたのだが、まだ〔狐火〕一味にいた時分、〔蓑火〕の喜之助のところへ貸しだされたこともあった。それで、〔殿さま〕栄五郎を見知っていしたのである。

214

年齢・容姿:50がらみ。血色がよくない、頬骨が張り出した顔。痩せている。
生国:近江(おうみ)国野州郡(やすこうり)五条村(現・滋賀県野州郡中主(ちゅうず)町五条)。
京都を本拠としていた〔狐火〕一味にいたというから、近畿をまず選んだ。近江のここと、河内国河内郡五条村、大和国添下郡五条村、山城国愛宕町五条河原---なかでもっとも池波さんに縁が深いとおもったのが、野州の五条である。甲賀忍者ものの取材でしばしば訪れている。

探索の発端:じつは、〔鷹田〕の平十から事情をきいた密偵〔馬蕗(うまぶき)〕の利平治が鬼平へ報告。と、鬼平は〔殿さま〕栄五郎になりすまそう、といい出したした。
(参照: 〔馬蕗〕の利平治の項)
ところが偽者がばれ、〔鷹田〕の平十が〔火間虫〕一味に吊れだされたことから、事態が急にあわただしく展開しはじめた。

結末:芝・方丈河岸の盗人宿は火盗改メに踏みこまれて、〔火間虫〕一味は、増蔵も含めて8名が逮捕され、浪人くずれを含めて抵抗した5名が斬りすてられた。

つぶやき:テレビの〔五条〕の増蔵は、ざんぎり頭の法衣姿である。そのほうがちょん髷に着物姿の盗賊たちのなかでくっきりと際立つと考えられたのであろう。
類推すると、「京の五条の橋の上---」の小学唱歌がで、弁慶がひらめいての、脚本家か衣装係の知恵だったみたいにもおもえる。

| | コメント (0)

2005.09.26

〔勘行(かんぎょう)〕の定七

『鬼平犯科帳』文庫巻7に収録[雨乞い庄右衛門]で、お頭の〔雨乞(あまご)い〕庄右衛門が疾患のある心臓の保養のために、安倍川の水源の梅ヶ島の温泉に滞在していたとき、3年も介添えをしていた配下が、この〔勘行(かんぎょう)〕の定七である。
(参照: 〔雨乞い庄右衛門の項)
定七が介添え役に選ばれたのは、勘行の生地が、梅ヶ島の温泉から西南西へ7キロばかりのところにある勘行峯(標高1450m)の麓で、土地勘があったためだろう。
なにしろ、梅ヶ島は駿府(静岡城下)から7里半(30キロ)も真北へ山奥へ入った温泉である。交通の便のなかったむかしは、不便きわまりなかった湯治場であった。
お頭の庄右衛門は、そこからさらに安部峠を越して身延側へくだり、富士川ぞいをすこし南へさがった横根村の出身である。

207

年齢・容姿:屈強な30男。
生国:駿河(するが)国安倍郡(あべこうり)奥仙俣(おくせんまた)村(現・静岡県静岡市奥仙俣)

探索の発端:小康に希望をもって江戸へむかっている〔雨乞い〕庄右衛門は、小田原宿で〔勘行〕の定七と〔駒沢(こまざわ)〕の市之助と出会った。二人は庄右衛門を殺そうと、江戸から上ってきていたところだった。
連れだって宿泊した平塚宿で、庄右衛門の首をしめようとしたところを、小田原帰りで泊りあわせていた岸井左馬之助が救ったが、定七と市之助はうまく逃げおうした。
庄右衛門は六郷の渡しにかかったところで心臓発作がおき、息をひきとるまぎわに、洞巻の30両を浅草・阿部川町の妾お照へとどけてほしいと頼んだ。
左馬之助が鬼平へ〔雨乞い〕庄右衛門の顛末を語り、手配がととのった。

結末:一味の若者伊太郎といちゃついていたお照は、庄右衛門の参謀格で眼鏡師をよそおっている〔鷺田(さぎた)〕の半兵衛の手で、すでに始末されていた。
(参照: 〔鷺田〕の半兵衛の項)
深川・小松町の半兵衛の家では、定七、市之助など一味の5人が鬼平の手で捕まったが、隠し金400両の分配の邪魔になる半兵衛は、一味の手で殺されていた。

つぶやき:悪の中の善、悪の中の悪---連載3年目の後半にあたるこの篇も、悪の世界のさまざまな色あいを描きわけており、いよいよ読み手の興をそそる。1年半前から掲載誌『オール讀物』の巻末が定位置になったのもとうぜんといえよう。

| | コメント (0)

2005.09.25

〔栗原(くりはら)〕の重吉

『鬼平犯科帳』文庫巻16に入っている[霜夜]で、、鬼平のかつての同門の池田又四郎が属しているのは、〔須の浦(すのうら)〕の徳松という盗賊一味。又四郎の義妹お吉に、鉄砲洲の薬種問屋〔大和屋〕の引きこみをするように、僧形を装っている配下の〔常念寺(じょうねんじ)〕の久兵衛、〔栗原(くりはら)}の重吉を介して強制している。
(参照: 〔須の浦〕の徳松の項)
(参照: 〔常念寺〕の久兵衛の項)

216

年齢・容姿:40がらみ。でっぷり肥えた町人すがた。
生国:近江(おうみ)国滋賀郡(しがこうり)和邇(わに)(滋賀県滋賀郡志賀町栗原)。
「栗原」という地名は、近畿・中京圏にかぎっても、兵庫県赤穂郡上郡町、奈良県高市郡明日香村、三重県度会郡度会町、岐阜県不破郡垂井町、同・武儀郡洞戸村、静岡市などにある。
〔須の浦(すのうら)〕の徳松一味のテリトリーは、上方から北陸道とあるので、もっとも近い志賀町を採った。

探索の発端:京橋・大根河岸の兎料理が名代の〔万七〕で、高杉道場でのかつての弟弟子・池田又四郎を見かけた鬼平は、南飯田町の船宿〔なだや〕まで後をつけた。
又四郎は、この船宿で、〔常念寺(じょうねんじ)〕の久兵衛と〔栗原(くりはら)〕の重吉から、義妹のお吉に引きこみをさせるようにせかされた。お吉は〔須の浦〕一味を勝手に抜け、本湊町の薬種問屋〔大和屋〕で女中をとして信頼を得ていたのである。又四郎の妻お米は、夫が妹のお吉とも通じていることを気に病みながら女賊として病死していた。
同じ夜、池田又四郎が役宅へ、「明日の午後2時に、砂村の元八幡の境内へ、一人で来てほしい」と置手紙していた(〔常念寺〕の久兵衛と同文)。

結末:池田又四郎は、きのうまで同類だった〔須の浦〕一味の者8名を斬り殺したが、自分も瀕死の重傷を負い、鬼平の手の中でこときれた。
江戸での盗めのために設けられた〔須の浦〕一味の盗人宿は、又四郎が打ち明けたので、残っていた者はことごとく逮捕。死罪であろう(同上)。

つぶやき:〔桑原〕の重吉には、いささか短気の気味がある。40をすぎていて、後先への配慮もなくいきりたつのは、思慮がたりない。お頭〔須の浦〕の徳松としてもそのあたりをおもんぱかって、〔常念寺〕の久兵衛を介添えにつけたのかもしれない。
重吉の短気は、けっきょく、池田又四郎の決意をさそいだしてしまい、文字どおりの命とりとなる。。

| | コメント (0)

2005.09.24

〔間取(まど)り〕の万三

『鬼平犯科帳』文庫巻5におさまっている[深川・千鳥橋]の主人公---大工の万三には〔間取(まど)り〕という「通り名(呼び名)」がある。大工として出入りしたあちこちの大商店の間取り図をつくって、盗賊の首領たちへ大金で売りこんでいるためについた「通り名」である。
労咳がすすんでいるいまの万三は、女を抱くだけが楽しみで、その夜も、池之端の出合茶屋〔ひしや〕で喀血したが、隣でうすい胸乳へ吐かれた血を、平然と始末したお元を見て、「この女にし死に水をとってもらおう」と決めた。
その支度金は、手元に残っている5枚の間取り図を売って200両こしらえよう、とも。
手はずは、足を洗って上野山下・仏店で鰻屋〔大和屋〕を出している金兵衛(60すぎ)の口ききで、〔己斐(こひ)〕の文助(40をこえている)が取りつけてくれる。
(参照: 〔己斐〕の文助の項)

5342_360
(五条天神の手前左が仏店 『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

205

年齢・容姿:51歳(寛政元年 1789)。労咳で骨が浮いている。
生国:生まれてすぐ、芝の増上寺の門前に捨て子され、〔大芳〕の頭領に拾われてそだてられた。

探索の経緯:〔大滝〕の五郎蔵が現役のお頭だった時分、日本橋南1丁目の呉服問屋〔茶屋〕の間取り図を万三から買ったことがある。そのことを、「お縄にはしない」との約定のもとに鬼平へ話した。
鬼平は、間取り図になっている残りの商店を聞くために、五郎蔵に破牢の形をとらせて万三を探らせた。
かつて〔蓑火(みのひ)〕の下にいた〔大和屋〕金兵衛を五郎蔵が見張っていると、果たして、万三があらわれた。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)

結末:間取り図を買うといった〔鈴鹿(すずか)〕の弥平次は、3代もづいてい名門(?)だが、3代目(40がらみ)ともなると、悪だった。
(参照: 〔鈴鹿〕の弥平次・3代目の項)
〔己斐(こひ)〕の文助をなぐりつけ、詭計でもって万三を呼びだし、見取り図を奪い取ろうとしたとき、鬼平が乗りこんで命をすくった。

つぶやき:間取り師のような盗賊の脇役を創造しただけでも、池波さんの力量が並みではないことを、読み手は納得する。
ラストは、芝居なら、幕がおりても、観客は感動でしばらく席を立てないだろう。

おまさの亭主になりたい密偵さんからの書き込み---

「鬼平犯科帳事件年譜」をつくっていて、文庫巻5[深川・千鳥橋]と同[乞食坊主]から妙なところを見つけました。
[深川・千鳥橋]p27 新装p28で「寛政元年12月5日の夜ふけ」、己斐の文助が鈴鹿の弥平次に殺されます。
「その翌日の七ッ…」(p31 新装p32)万三が鈴鹿に呼び出され、殺されようとするところを、平蔵が割って入り、お元とともに解放します。
ところが[乞食坊主]では、「12月3日が来た」(p71 新装p74)とあり、彦十からの情報をもとに古河の富五郎一味の押し込み日を「今夜だ」と推測しますが、「かの大工の万三事件が解決してから二日後にあたる」と。万三は12月 6日に解放され、事件解決のはず。
池波先生は、2日「前」とすべきところを「後」としてしまい、しかも万三が「翌日呼び出されている」ことを忘れてしまったのでしょうか?

ちゅうすけからのレス---

旧版も新装版もご指摘のとおりですね。文庫の前には単行本もあることですから、これは「…なりたい密偵」さんのオリジナルな発見かも。
こういうミスって、池波さんの生前に雑誌、書籍、文庫の編集者が発見し、池波さんの了解をとりつけた上で訂正しておくべきことです。
池波さんが亡くなっている現在では、いまのまま行くより仕方がないでしょう。

| | コメント (6)

2005.09.23

〔牛尾(うしお)〕の又平

『鬼平犯科帳』文庫巻20の巻頭に置かれている[おしま金三郎]で、盗めぶりが急ぎばたらきに変ってきたので、タイトルに名前があがっているヒロイン---女賊おしまに愛想づかしをされ、火盗改メに差された〔牛尾(うしお)〕一味の首領の又平。
(参照: 女賊おしま の項)

220

年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国:岩代(いわしろ)国河沼郡(かわぬまこうり)牛尾村(現・福島県耶麻郡西会津町下谷)
牛尾村は、明治8年(1875)に黒沢村ほか3か村と合併して下谷村となった。
『鬼平犯科帳』には〔牛尾〕の〔通り名(呼び名」を称しているもう1人の盗賊がいる。
2005年 2月26日に、静岡県島田市の旧金谷地区の牛尾出身として紹介した〔牛尾〕の太兵衛である。親子兄弟ではないのだから同じ土地にすることもあるまいとおもい、福島県の西会津町を採った。
というのも、2004年12月に、町役場の商工観光係の斉藤俊一郎さんから資料の送付をうけていたことによる。
千葉県香取郡多古町の牛尾でもよかったのだが。

探索の発端:冒頭に記したように、女賊おしまが同心・松波金三郎に密告と交換に抱かれた。それで、2か所の盗人宿が明らかになり、監視がはじまった。

結末:大伝馬町の提灯問屋〔河内屋〕へ押し入ろうとした〔牛尾〕一味18名が捕縛された。

つぶやき:「牛尾」という地名は湧き水「潮(うしお)」に由来すると教わった。西会津町の「牛尾」も長谷川の東岸にあり、旧郡名が「河沼」だからなんとなく湧き水に関係がありそう。明治8年の若松県管内地誌資料によると戸数15、人口66。米作中心の農業が主で、ほかに紙づくりも行っていたらしいと。
母親の勤務の関係で、小学校1,2年生を日本海側の山間の村ですごした。和紙づくりで生計を立てていた村だったが、乾燥過程に飛散する紙粉で胸の病に倒れる人が多かった。
又平が村をすてた動機もわかりそうな気がする。

追記:福島県耶麻郡西会津町役場 商工観光課 斎藤さんからのリポート

1.牛尾村の合併の経緯
牛尾村は江戸時代から明治8年まで存在した。若松県は当時の行政区である大区小区制(大区は郡単位、小区は町村レベルの区域)のうちの小区を改め、合併を行った。
その結果、牛尾村は近隣の小杉山村、黒沢村、出ヶ原村、山口村と合併し、下谷村が誕生した。
その後、下谷村は下記のとおり、西会津町となる。

2.西会津町誕生の時期と範囲
昭和29年7月1日、河沼郡野沢町・尾野本村・登世島村・睦合村・下谷村・群岡村・上野尻村・宝坂村・耶麻郡新郷村・奥川村の1町9村が合併して誕生。
面積293.32kh、当時の人口19,289人。戸数3,083戸。

3.合併当時の牛尾村の規模と産業
『明治8年区画改正 若松県管内地誌資料』より
牛尾村 村高 207石3斗3升4合 人口 66人 戸数 15戸
[参考]昭和29年 西会津町合併直前の下谷村全体の規模。
下谷村 人口 1,092人 戸数 162戸
産業 米作中心の農業が主。その他に紙作りも行っていたらしい。

| | コメント (1)

2005.09.22

〔切畑(きりはた)〕の駒吉

『仕掛人・藤枝梅安』文庫巻6,7に、大坂の暗黒街を仕切っていた〔白子屋(しらこや)〕菊右衛門の左腕だった〔切畑(きりはた)〕の駒吉は、菊右衛門と右腕の〔守山(もりやま)〕の繁蔵が梅安に殺された(巻5[東海道・藤枝宿])ので、敵を討って跡目をつぐ立場をしっかりさせようと、〔石墨(いしずみ)〕の半五郎ほかの腕ききの仕掛人を江戸へ送り込む。
(参照: 〔白子屋〕菊右衛門の項)
(参照: 〔石墨〕の半五郎の項)
その成果がなかなかにあがらないのにたまりかねたのと、江戸の〔音羽(おとわ)〕の半右衛門の地盤を奪うために、わざわざくだってもくるほどの熱のいれようである(巻7[襲撃])。

_7

年齢・容姿:どちらの記述もないが、40代と推測。
生国:摂津(せっつ)国川辺郡(かわべこおり)切畑村(現・兵庫県宝塚市切畑)。
「切畑」は、山を切り開いた焼畑につけられる地名であるそうな。
山口県防府市、新潟県五和泉市、山形県山形市にも「切畑」はあるが、〔白子屋〕菊右衛門が三重県鈴鹿市、右腕の〔守山〕の繁蔵が滋賀県守山市の出身と、池波さんの忍者もののテリトリー内であることをかんがえ、宝塚市をとった。

結末:巻7『梅安冬時雨』は未完---というより、末尾に(絶筆)と記されている。
したがって、梅安と彦次郎が>〔切畑(きりはた)〕の駒吉を始末する場面は描かれてはいない。

つぶやき:梅安たちの〔切畑〕が駒吉を迎え討って仕掛ける工夫は、読み手はいかようにも想像できる。
音羽9丁目に近い大洗堰での仕掛けを想像している。半右衛門の女房おくらがとり仕切っている料理茶屋〔吉田屋〕を観察したくなった駒吉が、夕暮れ、駕篭で目白坂をくだりながらささら窓ごしに〔吉田屋〕へ血ばしった目をはしらせたあと、江戸川橋の北側ぞいを西へ。おしげから聞いていた江戸の水道施設---大洗堰へ達したところで駕篭をちょっと下り、背伸びをして緊張をほぐそうとしたころへ、蓮華寺裏の崖を駆け下ってきた梅安がぶつかるようにしてぼんのくぼへ仕掛け針をずぶり。駒吉の躰は大洗堰の流れの中へころげ落ちた。
駕篭につきそっていた配下のくびには、彦次郎の吹き矢が---。

387
目白下大洗堰(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

| | コメント (2)

2005.09.21

女賊おしま

『鬼平犯科帳』文庫巻20の巻頭に置かれている[おしま金三郎]で、タイトルにも名前があがっているヒロイン---女賊おしまの両親は、本格派の大盗だった〔蓑火(みのひ)〕の喜之助に仕込まれていた。そのむすめのおしまも、お盗めは殺さず、冒さず、貧しきからは取らず---の3ヶ条をまもるものと信じていた。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
ところが、一味としてはたらいている〔牛尾(うしお)〕の又平のさいきんの盗めぶりは、急ぎばたらきに変り、殺しもいとわなくなってきていた。
(参照: 〔牛尾〕の又平の項)
数年前、偶然に出会った、これも〔蓑火〕のところ育ちの与吉と出あい、悩みを打ち明けたら、火盗改メ同心・松波金三郎(当時27歳)に引き合わされた。松波は、〔牛尾〕一味の盗人宿を教えるかわりに、おしま(当時24歳)を逃がすと約束した。それに対しておしまは、松浪に弱みをつくらせるために、松波に抱かれることを提案、松浪も受け入れた。
〔牛尾〕一味の18人は一網打尽、おしまは巧みに逃がされたが、おしまを抱いたことが長谷川組内にばれて、松浪は火盗改メから放逐された。

220

,年齢・容姿:この篇のこのときは27,8歳。色の浅ぐろい、下ぶくれの顔だち。左の顎に豆粒ほどの黒子。躰つきはすっきり(池波さんの頭にあったのは、若いころの木暮実千代、といっても、いまの人には通じまい)。
生国:肌が浅ぐろい、とあるから、江戸か関東のどこかとおもえるが、不明としておこう。

探索の発端:松波金四郎(30をこえている)がやっている麻布・田島町の鷺森神明宮(現在は港区白金2丁目の氷川神社へ合祀)脇の居酒屋へやってきたおしまが、〔牛尾〕の又平の実弟〔瀬田(せた)〕の虎蔵が、〔牛尾〕一味の逮捕に関係した同心・小柳安五郎の命をねらっている、と告げたことから、小柳同心の身辺に火盗改メの警戒網がしかれた。

221_360
(右川向うが鷺森神明宮 『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

結末:、〔牛尾(うしお)〕の又平の実弟〔瀬田〕の虎蔵はこしらえごとで、じつは〔牛尾〕一味が捕縛されたとき、その右腕の〔高山(たかやま)〕の治兵衛(50がらみ)だけが逃げおうせていて、小柳と松波への復讐をくわだてていたのであった。
(参照: 〔高山〕の治兵衛の項)
治兵衛は浪人を雇って金三郎を惨殺しようとしたが、金三郎はその場にあらわれた鬼平に助けられ、その後、〔高山〕の治兵衛も捉えられた。
が、これで結末---というわけではない。
数年前に、松波に5,6度抱かれたおしまは、松波が忘れられなくなった。ところが、事件がかたづくと、松波はおはまに見向きもしなくなったではないか。そこで、松波が組に居られなくいれば自分と添ってくれるとかんがえて、役宅の全員に自分たちの情事を暴露した手紙をばらまいていたのである。
数年後、松波金三郎とおしまが、上方で暮らしているのを、見かけた者があった。

つぶやき:シリーズもこのあたりまで引きのばされると、鬼平も行動も神出鬼没にちかくなる。
読み手も、そのことをゆるしてしまうほど、鬼平との一体感が強まっている。人気シリーズものの特典でもある。

| | コメント (0)

2005.09.20

〔古河(こが)〕の富五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻5に載っている[乞食坊主]こと、剣友・井関録之助に、南品川の貴船明神社(現・荏原神社  品川区北品川3-30-28)境内で盗めの会話を聞かれてしまった〔寝牛(ねうし)〕の鍋蔵と〔鹿川(しかがわ)〕の惣助は、ともに〔古河(こが)〕の富五郎一味の盗人である。
(参照: 〔寝牛〕の鍋蔵の項 )
(参照: 〔鹿川〕の惣助の項)

205

年齢・容姿:どちらも記載がない。
生国:下総(しもうさ)国葛飾郡(かつしかこうり)古河(こが)宿(現・茨城県古河市古河)
地名は、未開地を意味する空閑(くが)の転訛と。

探索の発端:冒頭に記したように、井関録之助が聞いたのがきっかけだが、鬼平の申しつけで、録之助は武士に変装して品川宿をさぐっているうちに、〔寝牛〕の鍋蔵が3年前からひらいている小間物屋を見つけた。隣の質屋〔横倉屋〕が押し入り先とわかり、見張り所が設けられた。
102
品川駅 (『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

結末:黒づくめの装いに身をかためた〔古河〕一味15名があらわれたのを、火盗改メの与力・同心・小者17名がとりかこみ、宿役人なども手伝って、全員捕縛。

つぶやき:連載3年目の第31話である。池波さんの筆づかいにも油がのった時期。枝葉の話にもきちんと説明がついている。
たとえば、井関録之助を消すために、両国の香具師の元締〔羽沢(はねざわ)〕の嘉兵衛に仕掛けを頼むなど。
(参照: 〔羽沢〕の嘉兵衛の項)

が、〔古河(こが)〕の富五郎の描写の手を抜いているようにおもえるのは、原稿枚数の制限を気にしてか。

| | コメント (0)

2005.09.19

〔浅羽(あさば)〕の久蔵

『仕掛人・藤枝梅安』文庫巻3におさめられている[梅安流れ星]で、7年前に、借財がたまっている木挽町3丁目の料亭〔吉野屋〕の謝金を肩代わりして店を手にいれたばかりか、娘のお園(当時20歳)の亭主におさまった元盗賊の首領〔浅羽(あさば)〕の久蔵は、かつていっしょに盗めた浪人・林又右衛門(37,8歳)に500両という大金をゆすられている。ときは寛政12年(1800)の晩秋。
(参照: 浪人・林又右衛門の項)

_3

年齢・容姿:47歳。でっぷりとした体格。精力的な風貌。
生国:武蔵(むさし)国入間郡(いるまこうり)浅羽村(現・埼玉県坂戸(さかど))市浅羽)
林又右衛門の言によると、全国をあらしまわったらしいから、さいきん、袋井市に合併された浅羽町(旧磐田郡)であってもおかしくはない。池波さんは、当町の馬伏塚(まむしづか)城址を訪れて、〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛という盗っ人も創作している。
(参照: 〔馬伏〕の茂兵衛の項 )
池波さんの取材ということでは、南端が川越市に接している坂戸市へも足がむいていたとおもわれる。とくに、『万葉集』の「浅羽の野」、
 紅の浅羽の野らに刈る草の束の間も吾を忘らすな
に魅かれて、坂戸市の「浅羽」にしたとおもいたい。

結末:「蔓」の〔玉屋〕七兵衛が、彦次郎にいちど命じた仕掛けを中止したことから、疑惑がしょうじた。仕掛ける相手は、林又右衛門で、これには梅安の同朋の小杉十五郎のこともからんでいたからである。梅安と彦次郎は、仕掛け金抜きで又右衛門をしとめたため、〔浅羽〕の久蔵は、又右衛門に誘拐されていた愛娘お梅(5歳)も取りもどすことができた。

つぶやき:〔浅羽〕の久蔵への林又右衛門の誘拐と恐喝、さにらは又右衛門が請け負っている小杉十五郎の抹殺、〔玉屋〕七兵衛が仕掛けてくる彦次郎の始末---と、ストーリーは込み入っているが、さすが、池波さんは巧みな筋はこびで、読み手をみちびく。
誘拐は、池波小説にはしばしばつかわれるテではある。

| | コメント (0)

2005.09.18

〔石墨(いしずみ)〕の半五郎

『仕掛人・藤枝梅安』文庫巻6は長篇だが、その冒頭の[殺気の闇]の篇で、梅安の捨て身の仕掛けで殺された大坂の暗黒街の顔役〔白子屋(しらこや)〕菊右衛門の跡目をねらう〔切畑(きりはた)〕の駒吉が、梅安をしとめることで後継者の地位を認めさせようと、すご腕の仕掛人を江戸へ送りこんだことが明かされる。その1人が〔石墨(いしずみ)〕の半五郎である。

_6

年齢・容姿:36,7歳。細身で、身のこなしが軽い。
生国:上野(かずさ)国利根郡(とねこうり)石墨村(現・群馬県沼田市石墨町)
池波さんは、下総(しもうさ)の生れなので江戸の地理にくわしく、3年前に〔白子屋〕菊右衛門に呼ばれて大坂へ行ったとしているが、下総には「石墨」という村はなく、あるのは昭和29年に沼田市の町名となったここだけ。石墨を産したからとも、穴居の遺跡(石住)が多いからの命名ともいう。
池波さんは『真田太平記』の取材で、幾度も沼田市とその近郊を取材しているはずである。そのときの記憶がなんらかの記憶とこんがらがって「下総」と書いてしまったのであろう。「石住」の意ならどこにあってもおかしくない。

結末:「石墨」の半五郎が独創とおもいこんでいた梅安への仕掛けは、じつは、かつて〔白子屋(しらこや)〕菊右衛門が〔鵜ノ森(うのもり)〕の伊三蔵に教えたものとおなじだったのである。
患者を装って施療をうけ、うつ伏せから仰向きになる瞬間に梅安の喉首を切り裂く。
しかし、梅安は2度と同じ術(て)にはひっかからなかった。半五郎の鼻柱に拳骨をくわせ、さらに胸の下の急所を打って気絶させておき、ぼんのくぼへ仕掛針を刺した。

つぶやき:文庫巻5,6,7(未完)は、仕掛人の梅安が、逆に、つぎからつぎと、すご腕の刺客に命を狙われる展開になっていて、読み手ははらはらさせられどうしである。池波さんの作劇術のいちだんの冴えを納得させられる。

| | コメント (2)

2005.09.17

〔白子屋(しらこや)〕菊右衛門

『鬼平犯科帳』文庫巻3の所載の[麻布ねずみ坂]で、指圧医師・中村宗仙(62歳)に、500両で愛妾・お八重(29歳)をゆずると約束した、大坂の香具師の元締〔白子屋(しらこや)〕菊右衛門。
3年前、お八重は京・東寺の境内茶屋〔丹後や〕の経営をまかされており、宗仙の指圧の妙技に、つい、割りない仲となってしまったが、菊右衛門の知られて、けっきょく、売られるような形となった。
江戸へ出てきた宗仙は、富裕な患者専門に高額の施療料をとっては500両に達する金を、取立てにきた浪人・石島某へわたしたが、〔白子屋〕はお八重をよこす代わりに、刺客を送ってきた。

203

年齢・容姿:50男。容姿はこの篇には記されていないので『殺しの四人』(講談社文庫)の[秋風二人旅]から引く。50男。でっぷりした体格--ただし、[麻布ねずみ坂]は寛政4年(1792)の事件、[秋風二人旅]の舞台は、7年後の同11年(1799)。
生国:屋号の〔白子屋〕を(しらこ)でなく(しろこ)と読むと、伊勢(いせ)国:奄芸郡(あんきこうり)白子(しろこ)町(現・三重県鈴鹿市白子)。
池波さんのルビどおり(しらこ)だと、山形県西置賜郡小国町白子沢、福島県岩瀬郡天栄町白子、千葉県安房郡丸山町白子、同千倉町白子と、大坂とは縁遠くなる。
40歳代で大坂の香具師の元締にまでのぼりつめるには、きわめて若い時分から大坂の暗黒街の水に染まっていなければ、とかんがえると、伊勢国の白子(しろこ)と見たい。とりわけ、池波さんは鈴鹿あたりになじみがふかい。

探索の端緒:中村宗仙の指圧治療を受けた鬼平が、高額の施療料に疑問をもち、同心・山田市太郎に見張らせたところ、浪人・石島某が本所・両国一帯を牛耳っている香具師の元締・〔羽沢(はねざわ)〕の嘉兵衛のもとに出入りしていることが分明。
(参照: 浪人・石島精之進の項)
(参照: 〔羽沢〕の嘉兵衛の項)

結末:〔白子屋〕菊右衛門が派遣した浪人・石島某は、取り立てた金をネコばばして、上州・高崎に念流の剣術道場を構えていた。送金が途絶えたのでお八重は殺された。
〔白子屋〕が派遣した刺客を捕えた鬼平は、石島某の悪事を告げ、〔白子屋〕のもとへ返すと、菊右衛門は500両を宗仙へ送ってよこした。
宗仙は、その半金で麻布・永坂の光照寺(昭和40年に八王寺市絹ヶ岡3丁目へ移転)に、お八重の墓を建てた。

つぶやき:〔白子屋〕菊右衛門は、『仕掛人・藤枝梅安』の準主役の一人でもある。梅安は、菊右衛門に仕掛人として仕こまれ、最後には菊右衛門と壮絶な対決をすることになる。その経緯は同シリーズで。
付記すると、藤枝梅安は寛政11年に35歳だから明和元年(1764)の生れで、延享3年(1746)生れの長谷川平蔵より18歳若い。

| | コメント (3)

2005.09.16

〔佐沼(さぬま)〕の久七

『鬼平犯科帳』文庫巻24の[女密偵女賊]で、鬼平の信任の篤い女密偵おまさは、いつもの小間物行商の姿で、渋谷の氷川神社の別当・宝泉寺(渋谷区東2丁目)門前で花屋をやっている〔佐沼(さぬま)〕の久七を訪ねた。老いた口合人でもある久七と連絡(つなぎ)をつけるためである。
(参照: 女密偵おまさの項)
久七は、盗みの世界からは足をあらったが、鬼平の指図で、口合人をつづけている。

224

年齢・容姿:70歳。よぼよぼの躰と卑下。
生国:伊達藩内登米郡(とよまこうり)佐沼宿(現・宮城県登米市迫(はさま)町佐沼)
「佐沼」という地名は、茨城県の竜ヶ崎市にもあるが、[つぶやき]に記した理由で、宮城県のここをとった。
『旧高旧領』には「佐沼村」は載っていないので、近世の佐沼宿とした。

密偵となった経緯:おまさが、(佐沼久七さんなら)と鬼平へ売り込み、深川の入船町に住み暮していた久七を捕えた。
しばらく役宅内の牢へ入れてすこしずつ説得したが、「同じ稼業の者を、売るなんてことはできねえ」と反発していたが、やがて鬼平の人柄を知るのつれて軟化、ついに密偵となることを承諾した。

つぶやき:空想をたのしんでいる。
昨日の[日録]に記した〔水越(みずこし)の又平の生国、陸前(りくぜん)国登米郡(とめこうり)水越村---現・中田町は、今日の〔佐沼〕の久七の故郷「迫(はさま)町」の東に接して位置している。
(参照: 〔水越〕の又平の項)
さらに、又平が住んでいた深川の「島田町」と、久七の家があった入船町は、1筋の堀をはさんでいるだけで、堀ごしに会話できるほどの近間である。迫川地縁で、久七又平を呼び寄せたと空想がとぶ。
また「中田町は東からの北上川、西からの迫川にはさまれている。懐郷の念から縦横に掘割がめぐっている水郷・木場の近くに居を構えたとも見る」とも記した。
久七の迫町も、迫川の氾濫でてきた長沼、伊豆沼へ白鳥が飛来する。いずれにしても、水辺に縁がふかい。

| | コメント (2)

2005.09.15

〔水越(みずこし)〕の又平

『鬼平犯科帳』文庫巻6に載っている[むかしなじみ]では、密偵の最古参〔相模(さがみ)〕の彦十爺つぁん(60に近い)に、20年ぶりの出会あったかつて小盗め仲間だった〔網虫(あみむし)〕の久六(53,4歳)が盗みの誘いをもちかけた。久六の巧みにつくった人情話に、彦十の胸の底で盗みの血が目をさました。
(参照: 〔網虫〕の久六の項 )
〔網虫〕の久六は、深川の木場の西---島田町で蝋燭やら灯油やらのこまごましいものを商っている〔いなばや」の亭主で、かつての盗め仲間〔水越(みずこし)〕の又平()と甥の房治(30男)も引き込んでいた。

576cn_2
深川木場 手前の画面外が島田町(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

210

年齢・容姿:50男。でっぷりと肥り、はげかかっている頭髪、うすい痘痕(あばた)面。
生国:陸前(りくぜん)国登米郡(とめこうり)水越村(現・宮城県登米郡中田町淺水)。
近江出生で大坂の見世物に売られた〔網虫〕の久六との縁からすると、越前・足羽郡の水越(現・福井市水越)もかんがえられる。
また、池波さんが司馬遼太郎さんの家をときどき訪問していたことから、河内国高安郡水越(現・大阪府八尾市水越)の地名記憶も推測できないではない。
いずれの地も、洪水にになやまされたことに由来する地名である。
中田町は東からの北上川、西からの迫川にはさまれている。
懐郷の念から縦横に掘割がめぐっている水郷・木場の近くに居を構えたとも見る。
陸前出身の又平、相模生まれの彦十、近江で捨てられた久六の出会いの場には、江戸がもっともふさわしい。

探索の発端:彦十の態度の変化から、鬼平が五郎蔵・おまさ夫婦に探索を命じ、五郎蔵の尾行によって、〔水越(みずこし)〕の又平の〔いなばや〕が見つけられた。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項目)
(参照: 女密偵おまさの項)

結末:日本橋橘町3丁目の町医・人見道春宅へ、いよいよ今夜は押しこもうと、〔水越〕の又平の家へ集まった6名は、全員、火盗改メに捕縛された。その中に彦十の姿はなかった。鬼平のおもわくで、五郎蔵に事前に拘束されていたからである。

つぶやき: 屋号の〔いなばや〕はの漢字は〔因幡屋〕ではあるまい。因幡国に水越村はない。〔稲葉屋〕のひらきで、郡名の登米(とめ)にちなんでいるのかも。もっとも、登米は人姓だが。

| | コメント (0)

2005.09.14

〔網切(あみきり)〕の甚五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻5に収録されている諸篇のなかでも、とくに秀逸と世評の高い[兇賊]である。
飄々とした味の賊〔芋酒・加賀屋〕の亭主〔鷺原さぎはら)〕の九平(くへえ)
に対して、何篇かに片鱗を見せつつ、ついに正体をあらわした凶悪な首領〔網切(あみきり)〕の甚五郎---この対も見事なら、鬼平の若き日の正義感と、甚五郎の父親〔土壇場どたんば)〕の勘兵衛の非道ぶりも、あざやかな対極。

205

年齢・容姿:50男。痩せてはいてもがっしりとした骨組み。細い両眼、細っそりと形のいい鼻。厚く大きい唇。
生国:武蔵(むさし)国江戸の本所(現・東京都墨田区のどこか)。

探索の発端:ひとりばたらきの小盗〔鷺原〕の九平が倶利伽羅峠で、「今度はお頭、ぜひにも江戸で、鬼の平蔵の血を見なくちゃあおさまりませんねえ」と話しあう2人連れの盗賊を見かけた。
次に、九平の店の「芋酒」を賞味にきた浪人風が、夜鷹に酒をおごり、「人なみって、人でねえか。お前もおれも、このおやじも----」とやさしい言葉をかけたのが鬼平と知って、好意をもった。
その鬼平が、〔網切〕一味の姦計に、向島の料亭〔大村〕で危機一髪と、火盗改メに急報。

結末:おくればせながら駆けつけた与力・佐嶋忠介、同心・酒井祐助ら7名が一味の数名は逮捕したが、〔網切〕の甚五郎と〔文挟ふばさみ)〕の友吉(ともきち)、〔野尻 のじり)〕の虎三は、巧みに火盗改メの網の目をくぐりぬけて本拠の越中へ向った。
が、倶利伽羅峠へ先回りしていた鬼平に、甚五郎は斬り倒された。

つぶやき:この篇までに登場した〔網切〕一味は、文庫巻4[おみね徳次郎]での、〔山彦(a< href="../08/strongstrong_d1e9.html">〔やまびこ)〕の徳次郎と〔佐倉( さくら)〕の吉兵衛(きつべえ)がいる。
同じく[あばたの新助]では、〔文挟〕の友吉、〔神崎(こうざき)〕の弥兵衛(やへえ)、そして本篇の〔野尻〕の虎三である。


池波さんに〔網切〕の「通り名(呼び名)〕のヒントを与えたとおもわれる、鳥山石燕画図百鬼夜行』から妖怪「網剪」の絵を添付する。蚊帳を切る妖怪と解説されている。
322

| | コメント (3)

2005.09.13

〔苅野(かりの)〕の九平

『鬼平犯科帳』文庫巻16に収められている[網虫のお吉]で、お吉(35歳だが25,6にしか見えない)が引退を願い出たのをこころよく許したばかりか、25両もの見舞い金をわたした話のわかるお頭。
女密偵おまさも、かつて〔苅野(かりの)〕の九平のお盗めを2度ばかり手伝ったことがあり、そのとき、〔網虫(あみむし〕)のお吉と知りあった。
(参照: 女密偵おまさの項)
(参照: 〔網虫〕のお吉の項)

216

年齢・容姿:60に近い。容姿の記述はない。
生国:相模(さがみ)国足柄郡(あしがらこうり)苅野村(現・神奈川県南足柄市苅野)。
お盗めのとき、殺傷はできるだけ避けているが、盗め先が江戸から名古屋、上方と東西におよんでいるのは、相模の生まれだからとみる。

探索の発端:小柳安五郎(33歳)は、亡妻の実家からの帰り、神田川ぞいの船宿〔井ノ口屋〕から出てきた2人連れに見おぼえがあった。男のほうは同僚・黒沢勝之助(40歳)。女は〔網虫〕のお吉で、3年前に取り逃がした女賊である。
3年前、おまさが浅草寺の境内でお吉を見かけ、木挽町4丁目の旅籠〔梅屋〕に宿泊していることまでつきとめたが、網を大きく張って〔苅野〕一味を一網打尽に---と手くばりしているあいだに、お吉にまんまと逃げられた。小柳同心はそのときに、お吉の顔を記憶したのだった。
2人は、不忍池のほとりの出合茶屋〔月むら〕へ消えた。

457c_360
不忍池・中島弁財天社(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

いまお吉は、盗みの世界から足を洗い、琴師・歌村清三郎(52歳)の後妻におさまって女としての幸せをつかんでいた。その弱みにつけこんだ黒沢同心は、口止め料50両をまきあげたうえ、お吉の裸躰をいたぶりつつ〔苅野〕の九平の居所を吐かせようとしていた。

結末:黒沢同心は役宅で切腹させられた。
お吉は、品川宿で旅支度をととのえて、いずこかへ消えた。
火盗改メは、またも、〔苅野〕の九平の消息をつかみそこねた。

つぶ゜やき:この篇は、黒沢同心の汚れた功名心が主題てはあるが、女賊時代におまさが助(す)けたお頭のうちの1人がスケッチされているのがなによりうれしい。

ついでながら---。
琴師・歌村清三郎を少年のころから仕込んだ京・の名人・歌村七郎右衛門のモデルは、京師の商店名鑑『商人買物独案内』(文政12年刊 1829)に載っている、建仁寺四条下ルの御琴三味線所・歌村卯之助であろう。
『江戸買物独案内』の成功にならって、5年遅れで刊行されたもの。

| | コメント (0)

2005.09.12

〔伊賀(いが)〕の音五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻1に収録されている[老盗の夢]に、ほんの2,3行だけでてくる盗賊で、当人よりも女房のお千代のほうが、巨盗〔蓑火(みのひ)〕の喜之助とより深いかかわりがある。
(参照: 〔蓑火)〕の喜之助の項)
池波さんの常套句をつかわせてもらうと、「なぜといいねえ」、〔伊賀(いが)〕の音五郎は捕えられ、大坂・千日前の刑場で火刑に処せられた---とあるだけだが、そのあと、寡婦となったお千代が、夫が生前にお世話になった礼をいいに京の〔蓑火(みのひ)〕のところへ行くと、彼女の巨躯にひと目で惚れこんだ喜之助が情を通じてしまった。
そのお千代も逝って20年になり、〔蓑火〕の喜之助も67歳。

201

年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国:河内(かわち)国丹南郡(たんなんこうり)伊賀村(現・大阪府羽曳野市伊賀)
三河国額田郡と、陸前国志田郡の伊賀村もかんがえたが、テリトリーが京・大坂あたりということで、羽曳野市の伊賀を採った。額田郡伊賀村(岡崎市)の出身なら大坂へより名古屋か江戸のほうへくだるであろう。

探索の発端:記述されていない。

結末:前述したとおり、盗みのために放火でもしたのか、火あぶりの刑。

つぶやき:畳の上で往生できるはずの本格派の巨盗〔蓑火(みのひ)〕の喜之助であっても、好みの女のために身を滅ぼす---というより、晩年、男の証しをよみがえらせてくれた相手は、なにものにもかえがたいらしい。

| | コメント (0)

2005.09.11

〔羽沢(はねざわ)〕の嘉兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻5でタイトルになっている[乞食坊主]こと鬼平の剣友・井関録之助に、南品川の貴船明神社(現・荏原神社  品川区北品川3丁目)境内で盗めの会話を聞かれてしまった、〔古河(こが)〕の富五郎一味の盗人たちは、100両を金策し、録之助殺しを、両国一帯の香具師の元締・〔羽沢(はねざわ)の嘉兵衛へ頼み込んだ。
嘉兵衛は、仕掛人の菅野伊介へいいつけた。ところが、伊介も高杉道場で同門だったために、奇計を案じて、六之助のボロ法衣に犬の血を塗って、首尾をごまかした。

205

年齢・容姿:あくまでも蔭の人物扱いなので記述がない。[乞食坊主]の篇は寛政元年(1789)の事件だが、寛政4,5年(1792-3)とおぼしい『闇の狩人』(新潮文庫)では、2年前に没したことになっている。
一方、寛政11年(1799)の事件が描かれる『仕掛人・藤枝梅安』(講談社文庫)の第1話[おんなごろし]では健在。
要するに、年齢不詳。容姿はいかにも香具師の元締風と。
生国:下総(しもうさ)国葛飾郡羽沢(はねさわ)村(埼玉県富士見市羽沢)。
葛飾あたりから江戸へ出てきて、さまざまな闇の仕事に手をそめてのしあがったのであろう。
武蔵(むさし)国橘樹郡羽沢(はさわ)村(現・神奈川県横浜市神奈川区羽沢町)ははずした。

探索の発端;〔古河(こが)〕一味には、録之助の注進によって火盗改メの見張りがついた。
・〔羽沢(はねさ゛わ)の嘉兵衛のほうには、さすがの火盗改メも、いまのところは手を打つすべがない。

結末:古河一味は捕縛されたが、〔羽沢の嘉兵衛には手つかず。

つぶやき:、『仕掛人・藤沢梅安』の第1話[おんなごろし]で、羽沢(はねざわ)の嘉兵衛の依頼で、薬研堀の料亭〔万七〕の先妻おすずを仕掛けたのは32歳のとき、寛政8年(1796)であった。
『闇の狩人』に描かれている年代を推測する唯一の手がかりは、安永元年に刊行された黄表紙『運附太郎左衛門咄』について、「20何年前に発行された」とある箇所がそれ。試算すると寛政4,5年になる。

| | コメント (0)

2005.09.10

〔鶉(うずら)〕の福太郎

『鬼平犯科帳』文庫巻2の所載の[蛇(くちなわ)の眼]で、頭の平十郎配下の1人。味噌こし売りをしているが〔女誑(めたらし)が専門。
(参照: 〔蛇〕の平十郎の項)
この篇では、医師・千葉道有の出身地、下総の大網から下女奉公にあがっているおもとをたちまち口説きおとして、押し入り当夜、戸締りをあけさせる約束をとりつけた。

202

年齢・容姿:25歳。眼もと涼やかで美男。愛嬌たっぷり。
生国:美濃(みの)国厚見郡(あつみこうり)鶉(うずら)村(現・岐阜県岐阜市北鶉、南鶉、東鶉、西鶉のいずれか)
群馬県邑楽郡邑楽超町にも鶉があるが、大坂生まれの〔蛇〕の平十郎とのつながりや、おもとへ小田原を口にしたところからいうと、西の出身と推理して、岐阜をとった。

探索の発端:〔蛇〕の平十郎の項に記したので、その一部を再録。
鬼平と平十郎が出会ったのは寛政3年(1791)初夏で、本所・源兵衛橋ぎわの蕎麦屋〔さなだや〕において。
視線を交わしあい、鬼平のほうは(油断のならぬ怪しい奴)としかおもわなかったが、平十郎は相手を鬼の平蔵と察知した。
日本橋・高砂町で〔印判師・井口与兵衛〕の看板をあげている平十郎は、浜町堀をはさんで斜向(はすむか)いの道有屋敷の金蔵を狙っていた。

犯行は行われた。全員惨殺。しかし、道栄が瀕死の中、血で「くちなわ」と書き残した。

これより前の事件---文庫巻1に所載の[座頭と猿]で逃げ隠れていた座頭・彦の市が女に会いに現われて逮捕され、〔蛇(くちなわ)〕一味の盗人宿が相州・小田原宿の北の部落・上之尾にあることを白状した。

結末:上之尾へ馬で急行、待ち構えていた鬼平以下の火盗改メに、全員逮捕、死罪。
平十郎だけは過去の残虐な所業もふくめて、市中引き回しのうえ火刑。

つぶやき:この篇での〔蛇〕の平十郎の配下は、軍師格の白玉堂の紋蔵のほかに、
 志度呂(しどろ)の金助(35歳) 「うろうろ舟」で盗み金をはこぶ下準備。
 片波の伊平次(40歳) 道有屋敷の近所で夜鷹そばの屋台を出し情報収集。
 (参照: 〔片波〕の伊平次の項)
 駒場の宗六(30歳) 合鍵づくり。
(参照: 〔駒場〕の宗六の項)
 鶉(うずら)の福太郎(25歳)前述のとおり
「それぞれの役割が説明された珍しいケースといえる。

| | コメント (0)

2005.09.09

〔万馬(まんば)〕の八兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻6に載っている[むかしなじみ]で、〔相模(さがみ)の彦十爺つぁんは、20年ほど前に小さな盗みをいっしょにやった〔網虫(あみむし)〕の久六(53,4歳)のつくり話にころりとだまされて、危うく盗めの世界へ逆もどりしかける。
(参照: 〔網虫〕の久六の項)
いち早く事情を悟った鬼平のはからいで、そうはならなくてすむが。
久六のつくり話は、大坂で女に子を産ませたが、仕事の邪魔になるので、人に金5両をつけてゆずったが、再会してみると、子どもともども労にかかってみじめな生活をしているために、金が必要なので盗めをするから助(す)けないかというのである。
彦十爺つぁんにも似たような過去があった。
豆腐屋の出もどり女と本所・中ノ郷のあばら家で2年ほどいっしょに暮らしていたが、名古屋の〔万馬(まんば)〕の八兵衛から助(す)け話がくると、盗みの血がさわぎはじめてどうしょうもなく、女を千住の煮売り屋の男に金5両つけて押しつけ、消えたのであった。

210

年齢・容姿:どちらも書かれていない。
生国:尾張(おわり)国海東郡(かいとうこうり)万馬(まんば)村(現・愛知県名古屋市中川区富田町万場)
学習院生涯学習センター〔鬼平〕クラスの堀眞治郎さんが、2003年1月10日の[週刊掲示板]に、「〔万馬〕は『大日本地名辞書』では〔万場〕と記載されているのを、池波さんが〔万馬〕と使ったのは、おそらく岸井良衛『五街道細見』(青蛙房)p153 にある佐屋街道の宿場である万馬を見られたからだと思います。現在は名古屋市中川区富田町万場となっています」と寄せられているのにしたがった
八兵衛のテリトリーは名古屋を中心にした地域と記されている。堀さんのリサーチに感謝。

探索と結末:なにしろ20年近く前のことだし、彦十爺つぁんが無事に鬼平のむかしなじみ兼密偵としてつかえているのだから、逮捕はなかったと推定せざるをえまい。

つぶやき:彦十爺つぁんが〔網虫(あみむし)〕の久六のつくり話にころりとはまったのは、鬼平がいうとおり「人のこころの奥底には、おのれでさえわからぬ魔物が棲んでいる」からである。
久六の誘いに、忘れていたはずの彦十爺つぁんの盗みの血が、われにもなく沸きたった。

| | コメント (2)

2005.09.08

女賊お糸

『鬼平犯科帳』文庫巻24の[女密偵女賊]で、女密偵おまさのかつての仲間として登場した女賊お糸は、鬼平の味なはからいによって、[二人五郎蔵]では、女密偵として初手柄をたてる
(参照: 女密偵おまさの項)

224

年齢・容姿:[女密偵女賊]は、計算どおりだと寛政11年(1799)の師走の事件となる。おまさ41歳。そのおまさよりお糸は4つか5つ年下(p18 新装版p16)というから、36か37か。色は浅黒いがたっぷりと量感のある大柄な躰。
生国:不明。

探索の発端:女密偵のおまさは、情報をとるために、渋谷の宝泉寺(渋谷区東2丁目)門前で花屋をやりながらときどきはいまでも口合人をやっている〔佐沼(さぬま)〕の久七(70歳)を訪ねた。

258_360
渋谷・氷川社と宝泉寺(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

〔押切(おしきり)〕の駒太郎の名を聞いた。そのあと、麻布の天現寺の毘沙門堂(港区南麻布4丁目)門前の茶店で、だれかと待ち合わせているらしい女賊お糸を見かけた。

218
(毘沙門堂 『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

翌日も、お糸は毘沙門堂門前の茶店で待っていた。
お糸が待ち合わせていたのは、夫婦約束までしていた〔押切〕の駒太郎であった。
〔押切〕の駒太郎が錠前はずしとして働いていたのは、血をみる急ぎばたらきも平気な〔鳥浜(とりはま)〕の岩吉(52歳)一味であった。

結末:〔佐沼〕の久七から〔鳥浜〕の岩吉一味の盗人宿を聞きとった鬼平は、駒込・吉祥寺裏の〔植半〕を急襲して13名を召し取った。岩吉の口から、一味を抜けたがっていた〔押切〕の駒太郎を、浪人・森七兵衛に殺させたことを吐かせると、鬼平は、賭場にあらわれた七兵衛を斬り、お糸に密偵となることをすすめた。

つぶやき:お糸は、女密偵第2号である。鬼平は、お糸のどこを見こんだのであろう。純粋さでか、仕事ぶりでか。

| | コメント (0)

2005.09.07

〔網虫(あみむし)〕の久六

『鬼平犯科帳』文庫巻6に載っている[むかしなじみ]は、鬼平の莫逆の友(?)を自称する古参密偵〔相模(さがみ)〕の彦十爺つぁん(60に近い)が、こともあろうにお盗めに加担しかける物語である。
爺つぁんに誘いをかけたのは、〔網虫(あみむし)〕---つまり、蜘蛛(くも)の異称をもつ久六で、20年ぶりの出会いであった。

年齢・容姿:53,4歳。矮躯(わいく)。うしろから見たら、まるで子ども。煤竹色の顔でどこに目鼻がついているかわからない。目だけがぎょろりとしている。
生国:近江(滋賀県)のどこか。p178 新装版p187  百姓の両親が、5歳の久六を見世物へ売ってしまったので、生国の記憶は「海のようにひろい水の上に舟が浮かんでいる景色だけよ」である。

210

探索の発端:本所二ッ目橋を林町の方へわたったところで、〔網虫(あみむし)〕の久六に声をかけられ、盗みの相談をうけたことまでは鬼平へ打ち明けた彦十であったが---。

5921
亀戸天満宮の御輿がわたっているのが二ッ目の橋。
(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

久六のつくり話に、かつての自分の所業をおもいだした彦十の胸の底で、盗みの血が目をさました。それからは、鬼平への報告がぴたりととまった。
不審におもった鬼平が、おまさと夫・〔大滝〕の五郎蔵に探索を命じた。
(参照: 女密偵おまさの項)
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項目)
〔網虫〕の久六は、かつての盗め仲間の〔水越(みずこし)〕の又平(50男)と甥の房治(30男)も引き込んでいた。
(参照: 〔水越〕の又平の項)

結末:日本橋橘町3丁目の町医・人見道春の家へ、いよいよ、今夜は押しこもうというとき、〔水越〕の又平の家へいそぐ彦十爺つぁんは、南本所の五間堀に架かる弥勒寺橋ですれちがった虚無僧に、尺八で首筋を強打されて失神、どこかへ運ばれていった。虚無僧は五郎蔵の変装であった。

580_360
二ッ目通りとその先に弥勒寺橋
(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

深川・木馬の西側---島田町で灯油や蝋燭、こまごました台所道具を商っている又平の〔いなばや〕へは、鬼平のほか佐嶋忠介、酒井祐助、五郎蔵、〔小房〕の粂八が打ち込んで、全員6名を逮捕した。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
576cn
深川木場(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

つぶやき:翌日、〔五鉄〕でふとんを頭からかぶって寝ている彦十へ、鬼平がいう。
「これ彦十、昨夜な、佐嶋忠介が、網虫の久六を詮議したところ、すっかり吐いたぞ。久六め、彦十に裏切られたと、歯ぎしりをして、くやしがっていたそうな」

鬼平にとって、彦十は青春時代をおもいださせてくれる「宝物」なのである。

| | コメント (3)

2005.09.06

〔横川(よこかわ)〕の庄八

『鬼平犯科帳』文庫巻13に収録の[熱海みやげの宝物]で、〔高窓(たかまど)〕の久兵衛の遺児・久太郎を探している〔馬蕗(うまぶき)〕の利平治にぴったりくっついて、利平治の宝物---「甞帳(なめちょう)」を奪うように、一味を強奪した浪人・高橋九十郎からいいつかっている〔横川(よこかわ)〕の庄八であった。
(参照: 〔高窓〕の久兵衛の項)
(参照: 〔布屋〕の久太郎の項)
(参照: 〔馬蕗〕の利平治の項)
利平治と庄八は、熱海の湯へつかりにきている。

年齢・容姿:30男。色白。でっふり肥えている。
生国:上野(こうずけ国)碓氷郡(うすいこうり)横川村(現・群馬県碓氷郡松井田町横川)。
「横川」という地名は、東京都墨田区、茨城県高萩市、静岡県下田市、愛知県半田市ほかにもある。しかし、池波さんは若かったころ、関東周辺の山へよく登っていたことから、すぐに浮かんだのは、駅弁の釜飯の名所「横川駅」だった。
上州から大坂の盗賊一味へ? との疑問もないではないが、江戸生まれの〔馬蕗〕の利平治だって大坂へ流れている、庄八にだって同様の事情があっても不思議ではない。

213

探索の発端:鬼平夫妻や女も密偵おまさとともに骨やすめの湯治に熱海へ来ていた彦十が、同じ宿をとった〔馬蕗(うまぶき)〕の利平治を見かけた。
(参照: 密偵おまさの項)
早速に接触をしてみて、一味の〔横川(よこかわ)〕の庄八につきまとわれている事情をうちあけられた。
久栄とおまさを先発させて江戸へ返した鬼平と彦十は、〔高窓(たかまど)〕の残党たちの探索へのりだした。

結末:権太坂で襲いかかってきた高橋浪人一味を鬼平が斬り倒し、〔横川〕の庄八は、利平治と彦十が押さえこんだ。
小田原の高橋九十郎の剣術道場へは、佐嶋与力らの出役全員逮捕。
大坂へは、町奉行所へ手配が申し送られた。

つぶやき:〔横川〕の庄八は、重大な役目をいいつかっているにしては、ぬかっている点の多い仁である。一味の中でも、そうたいした地位ではないとみた。それだけに人がよく、利平治が安心するとおもうとふんでの派遣だったのかも。

| | コメント (0)

2005.09.05

〔堂ヶ原(どうがはら)〕の忠兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻16にはいっている [見張りの糸] には、相互にまったく関係のない2組の盗賊グループが登場する。
最初の組は、かつて〔相模(さがみ)〕の彦十が3年ほど加わっていたことがある〔狢(むじな)〕の豊蔵の弟の〔稲荷(いなり)〕の金太郎(50がらみ)一味。盗人宿を彦十がつきとめた。
(参照: 〔稲荷〕の金太郎の項)
2つ目の組は、〔堂ヶ原(どうがはら)〕の忠兵衛親子と配下の太助(45,6歳)。17,8年ほど前に盗めをやめ、本拠の京都を引き払い、これまで一度も盗めたことのない江戸へくだってきて、芝の三田八幡宮(御田八幡神社 港区三田3丁目)の向いに仏具の店〔和泉屋〕を構えている。

082_360
三田八幡宮(『江戸名所図会』より 塗り絵師:ちゅうすけ)

ついでのようなもう一つの組は、兄を目の前で〔堂ヶ原〕の忠兵衛に殺され、いまは浪人となって忠兵衛の命と金を狙っている戸田銀次郎(35,6歳)一味である。
八幡宮の門前の茶店〔大黒や〕が、〔狢(むじな)〕の豊蔵一味の盗人宿と見込みをつけた火盗改メが、〔和泉屋〕の2階の表に面した部屋を見張り所に借り受けたことから、忠兵衛たちに不安がきざした。

216

年齢・容姿:70に近い。おだやかげな人品。
生国:山城(やましろ)国綴喜郡(つづきこうり)八幡(やはた)村堂ヶ原(現・京都府八幡市橋本堂ヶ原)
山口県と佐賀県にも「堂ヶ原」があるが、京都から江戸へくだってきたというから、八幡市を採った。

探索の発端:京都西町奉行所の与力・浦部彦四郎が下府してき、鬼平を訪ねて、探索の実地見学を希望。そこで、かつて幾たびも煮え湯を飲まされた、〔堂ヶ原(どうがはら)〕の忠兵衛親子を認めて、鬼平へそっと耳打ちして帰京していった。

結末:鬼平がひそかに『〔和泉や〕忠兵衛を監視していたとろころへ、戸田銀次郎たちが忍びこんできたものである。たちまち逮捕。しかも、忠兵衛親子もかつての呼び名を告げて逮捕。
もちろん、赤坂・表伝馬町の〔丸屋〕へ押し入ろうとしていた〔稲荷〕の金太郎一味17名も一網打尽。

つぶやき:戸田銀次郎の実兄を、なぜ、〔堂ヶ原(どうがはら)〕の忠兵衛が殺害したかは、書かれていないし、戸田浪人も口を濁す。
ということは、非は戸田の兄のほうにあったとみる。分け前のことで理不尽ないいがかりをつけたか、忠兵衛の女に手をつけたか。
このあたりを読み手の想像にまかすところも、『鬼平犯科帳』の連載も佳境に入り、池波さんも老練になってきた証拠か。

| | コメント (0)

2005.09.04

型師(かたし)・卯之吉

『鬼平犯科帳』文庫巻6のタイトルにもなっている[,猫じゃらしの女]のヒロイン、上野山下は下谷町2丁目の岡場所・提灯店〔みよしや〕の娼婦およねのもとへ、外神田の経師屋というふれこみで去年(寛政2年 1790)の秋ごろから客として通っていた卯之吉は、じつは型師でもあった。
表の仕事の経師のしごとがらみで富裕な商店へ入りこんでは、蝋のかたまりに錠前のかたちを捺しとり、諸方の盗賊の頭へ高く売るのである。

年齢・容姿:30男。小肥りで色白。
生国:江戸と見たのは、30そこそこで外神田に経師の店をかまえているとすると、親ゆずりにちがいないとふんだから。。

206

探索の発端:密偵・伊三次は、〔みよしや〕の娼婦およねとはおなじみである。
(参照: 密偵・伊三次の項)
およねが、きのう卯之吉が預けていった蝋型を伊三次に見たのである。伊三次はすぐに〔小房〕の粂八にきてもらった。案の定、蝋型を受け取りにきた者がいた。すかさず、粂八が尾行(つ)ける。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
卯之吉を監禁したのは、上州・信州を荒らしまわっている〔伊勢野(いせの)〕の甚右衛門一味であった。
(参照: 〔伊勢野〕の甚右衛門の項)
〔伊勢野〕の甚右衛門へ卯之吉を引きあわせたのは、上州・高崎に本拠を置く〔中釘(なかくぎ)〕の三九郎だ。
(参照: 〔中釘〕の三九郎の項)

結末:およねを誘拐にきた3人は、鬼平に捉えられ、新鳥越4丁目の先に荒物屋の店を盗人宿にしていた〔伊勢野〕の甚右衛門一味も、鬼平の指揮する火盗改メに捉えられた。

つぶやき:池波さんのエッセイによると、猫を飼っている銀座の酒場のホステスが、猫じゃらしを1個、これまた猫好きの池波さんに呉れたので、この篇の想がなったと。
こういう好篇を読ませてもらえたぼくたちは、そのホステスに感謝しないといけないな。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

2005.09.03

〔須の浦(すのうら)〕の徳松

『鬼平犯科帳』文庫巻16に入っている[霜夜]で、、鬼平のかつての同門の池田又四郎が属しているのは、〔須の浦(すのうら)〕の徳松という盗賊一味。又四郎の義妹お吉に、鉄砲洲の薬種問屋〔大和屋〕の引きこみをするように、僧形を装っている配下の〔常念寺(じょうねんじ)〕の久兵衛らを介して強制している。
(参照: 〔常念寺〕の久兵衛の項)

216

年齢・容姿:どちらもまったく記述されていない。
生国:若狭(わかさ)国遠敷郡(おにゅうこうり)須那(すの)浦(現・福井県小浜市西田烏(たがらす))
熊野市にも「須野浦」があるがある。とはいえ、〔須の浦〕一味のテリトリーは上方から北陸道とあるから、池波さんの念頭にあったのは小浜市の田烏川の南側の「須那浦」とみた。

探索の発端:京橋・大根河岸の料亭〔万七〕で耳にした、隣室の池田又四郎の声に、うしろをつけた鬼平は、又四郎が南飯田町の船宿〔なだや〕へ消えた。しばらく見張っていると、〔常念寺〕の久兵衛と〔栗原(くりはら)〕の重吉が出てきた。2人を尾行(つ)けようとすると、又四郎が尾行をはじめ、備前橋ところで2人を斬り殺した。そのとき、人が集まってきたので、鬼平はその場を去ったのである。

結末:役宅の届けられていた池田又四郎からの手紙に指定された砂村の元八幡へ行って待つと、重傷の又四郎が現れ、〔須の浦(すのうら)〕の徳松一味を殺傷したためにが傷を負ったことを告げ、鬼平の手の中で息を引きとった。

つぶやき:20歳にまだ間があったころの池田又四郎は、兄弟子で銕三郎時代の鬼平に男惚れしていた。よそよそしくされたとおもい、家出して盗みの世界に入ったという。池波さんは、男にも惚れられるほどの人物造型を目指した。
その一方で、又四郎は妻の妹ともできてしまっていた。世の中はまならない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.09.02

女賊おみね

『鬼平犯科帳』文庫巻4に収録されている[おみね徳次郎]で、兇賊〔網切(あみきり)〕の甚五郎一味の引きこみと錠前外しの腕ききとの〔山彦(やまびこ)〕の徳次郎(30歳前後?)は、四谷・伝馬町2丁目裏の長屋で同棲しているおみねが、巨盗 〔法楽寺〕の直右衛門の配下の女賊であることを知らない。躰と肌があった女、と単純におもいこんでいる。
(参照: 〔山彦〕の徳次郎の項)
(参照: 〔法楽寺〕の直右衛門の項)
そこへ、〔網切〕から、次のお盗めのために上方へ集まるようにとのつなぎがあり、邪魔になりそうなおみねを絞殺しようとしたところを見破られる(ふい、と消えればどうってことないのに---。知恵がまわらないねえ)。

204

年齢・容姿:おまさより4つ年少(p214 新装版p225)という。この篇は寛政元年(1789)夏から秋へかけての事件だから、おまさ32歳---で、おみねは28歳。小柄で細っそりとした躰つきだが、胸と腰の肉置(ししお)きはすばらしい。受け唇。お歯黒。
(参照: 女密偵おまさの項)

生国:おみねが7つ8つ、おまさが11か12のころからの幼なじみというから、江戸生まれと推察できよう。

探索の発端:四谷の全勝寺の前で、おまさが幼馴染のおみねに出会ったことから、見張られて、〔法楽寺〕の直右衛門一味の〔名草(なぐさ)〕の嘉平が店主として預かっている千駄ヶ谷の仙寿院前の茶店と、浅草新堀の浄念寺門前の盗っ人宿がつきとめられた。
(参照:〔名草(なぐさ)〕の嘉平の項)

strong>結末:浄念寺門前の茶屋〔ひしや〕を急襲した火盗改メ17名は、〔法楽寺〕一味の6名を捕らえたが、おまさとの約束により、鬼平はおみねを特別のはからいにした。

つぶやき:おまさとの約定にしたがって赦免されるおみねを、筆頭与力・佐嶋忠介が「密偵として使いますか」と鬼平に問いかけると、
「そりゃ、いかぬ。同じ稼業をし、同じ女であっても、おまさとおみねではくらべものにならぬ---。女という生きものは、みな一色のようでいて、これがちがう。女は男なみの仕事をさせたときにちがってくるのだ」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.09.01

〔鈴鹿(すずか)〕の又兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻2に収められている[お雪の乳房]で、同心・木村忠吾と割りない仲になってしまったお雪(18歳)の父親・〔鈴鹿(すずか)〕の又兵衛は、余生の一時期を、お雪といっしょに暮らしたいと望み、盗っ人稼業からの引退を考えていた。
その矢先に、お雪を預かっていてくれた亡妻の弟で、浅草・田原町1丁目で足袋屋〔つちや〕を開いている善四郎(40男。じつは元盗っ人の〔鴨田(かもだ)〕の善吉)から、彼女が惚れた相手が、選りによって火盗改メの同心と知らされて大あわて。
(参照: 〔鴨田〕の善吉の項)

202

年齢・容姿:60歳。顔も躰つきも〔いたち科〕の「川獺(かわうそ)」そっくり。渋紙色でしわの多いちんまりとしてた老顔。細身の小男。
0327
池波さんの「川獺」のイメージは、鳥山石燕『画図百鬼夜行』(安永5年 1776)に拠ったものだろう

生国:伊勢(いせ)国鈴鹿郡(すずかこうり)伊船(ふな)村(現・三重県鈴鹿市伊船町)
「通り名(呼び名ともいう)」の「鈴鹿」を鈴鹿山脈と捉えると、広範囲にわたることになる。『旧高旧領』から「伊船」村を拾って、現在の鈴鹿市出身とした。

探索の発端:〔小房〕の粂八が、偶然に〔鴨田(かもだ)〕の善吉)を見かけたことから、見張りがはじまり、芝・横新町で煙草屋〔しころや〕を装っている〔鈴鹿〕の又兵衛へまで、糸がたぐられた。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)

結末:芝・松本町の明樽問屋〔大黒屋〕へ押し込んだ〔鈴鹿〕の又兵衛一味は、待ち伏せていた鬼平たちに逮捕された。
木村同心との仲を裂くべく、お雪を連れた〔鴨田〕の善吉は、つつがなく京へ逃避できたよもう。

つぶやき:〔鈴鹿〕の又兵衛が営んでいる煙草屋の屋号〔しころや〕の「錣(しころ)」は、兜(かぶと)の鉢から左右や後部に垂れている首の保護材の呼称。
鈴鹿山脈の中に「錣峰」と呼ばれる山でもあるのだろうか。それれとも、鈴鹿郡にそういう武具職人のいる村でもあったか。
〔鈴鹿〕の又兵衛一味が盗み装束でそろいの「錣頭巾(しころずきん)」をかぶって押し入ったわけではあるまい。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

« 2005年8月 | トップページ | 2005年10月 »