« 2005年11月 | トップページ | 2006年1月 »

2005年12月の記事

2005.12.31

道場主・和田木曾太郎

『鬼平犯科帳』巻11におさめられている[泣き味噌屋]で、勘定掛同心・川村弥助(27歳)の妻さと(20歳)を荒れ寺の墓地へ引き込んで犯した3000石の大身旗本・秋元左近鑑種(あきたね 30歳)の取り巻きで、この件にも手を貸したのが、ながれ者ながら秋元の引き立てで剣術道場を開いている和田木曾太郎である。
道場は牛込・中里町のはずれ、まわりは一帯、田畑といっていい場所にある。

_11

年齢・容姿:30がらみ。総髪。筋骨がたくましい。
生国:下野(しもつけ)国那須郡(なすこおり)木曾畑中村(現・栃木県黒磯市木曾畑中)。
池波さんが名前に「木曾」の2文字を入れたからには、なにか魂胆があってのことと推察。しかし、美濃国の木曾では広範囲にすぎる。武蔵国多摩郡(現・神奈川県)の木曾村もかんがえたが、現在はのこっていない地名である。それで黒磯市を採った。ここらあたりの出だと、「ながれ者」という形容もなんとなく似合いそうだ。

探索の発端:鮫ヶ橋の御用聞・富七の下っ引きの庄太が、牛込払町の菜飯屋〔玉の尾〕の亭主・房次郎から、さとの実家・四谷仲町の菓子舗〔栄風堂〕の名代「初塩煎餅」の名を口にした2人連れの浪人客のことを聞きこんだのが手がかりとなったて、密偵たちが〔玉の尾〕に張りこんだ。

結末:道場を取り囲んだ長谷川組の前に、和田木曾太郎とその門弟・柴崎忠助が現れた。柴崎は鬼平の一撃で太ももを切り払われた。和田は、川村弥助の捨て身の突きに胸を刺されて斃れた。
秋元左近は竜の口の評定所で裁かれて切腹、断絶。

つぶやき:川村同心の後日談が笑わせる。出戻りのお妙(25歳)を後妻にもらったが、木村忠吾のからかいに「しごく、よろしい」と惚気るとともに、雷鳴に地袋へ頭から逃げ込んだのに、鬼平がいう。
「お前が地袋へ、あたまを突き込んだことなど、わしは、すこしも見てはおらぬ」
温情というより、一種の叱声であろう。

| | コメント (0)

2005.12.30

引き込み女おしげ

『鬼平犯科帳』文庫巻10の巻頭に[犬神の権三]と、タイトルにもなって収まっているひとりばたらきの主人公〔犬神(いぬがみ)〕の権三郎の情婦で、引き込みもつとめるおしげだった。
(参照: 〔犬神〕の権三郎の項)
権三郎が〔雨引(あまびき)〕の文五郎(33歳)と組み、大坂・心斎橋筋の唐物屋〔加賀屋〕に押し入る半年前から、引き込みとして入っていた。
(参照: 〔雨引〕の文五郎の項)
上野・車坂の北、御切手町のはずれの老筆師の二階に、出戻りむすめという触れこみで住んでいる。

210

年齢・容姿:30女。お世辞にも美人とはいえない。骨張った躰つき。ぬけるように白い肌。蛇足だが、セックスの要求が強い。
生国:武蔵(むさし)国江戸(東京都)。
ぬけるように白い肌というから、越後か秋田あたりかとも考えたが、美人ではないとあるし、「江戸へ帰る」との表記もある。ま、江戸の水に親しんだ女は、おまさのように肌は白くないのが池波流なのだが。

探索の発端:上野広小路で、おまさとばったり出会った。2人は、〔法楽寺(ほうらくじ)〕の直右衛門一味(初登場時は60がらみ)にいて、友達だった。
(参照: 女密偵おまさの項)
(参照: 〔法楽寺〕の直右衛門の項)
汁粉屋で旧交を温めたのち、おまさが尾行して隠れ家をつきとめ、火盗改メの監視がついた。

結末:大坂の唐物屋〔加賀屋〕を襲ったときの盗め金のうち、300両をごまかした権三郎は、文五郎の仕置きを恐れ、逆に暗殺するべく動いて、火盗改メに捕まった。
権三郎を牢屋破りさせた文五郎は自裁。

つぶやき:この篇も、おまさがおしげと出あったことしから、探索がはじまっている。密偵の中で、もっとも発端の多いのがおまさで13編、次が彦十と伊三次がらみが各4篇、粂八と〔馬蕗(うまぶき)〕の利平治がらみが各3編。
(参照: 伊三次の項)
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
(参照: 〔馬蕗〕の利平治の項)


| | コメント (0)

2005.12.29

〔葛篭(つづら)師〕紋造

『鬼平犯科帳』文庫巻9に所載の[本門寺暮雪]は、井関録之助を狙う刺客〔凄い奴〕と鬼平の壮絶な決闘見せ場になっている篇だが、そもそも、生命で購わなければならない状況へ録之助を追い込んだのは、大坂の四天王寺の裏門筋に住んでいた〔葛篭(つづら)師〕紋造である。
江戸から大坂の縁者を頼ってくだっていた録之助だが、道場経営に失敗、食うや食わずの窮地にあったとき、紋造が引き合わせたのが、香具師の元締〔名幡(なばた)〕の利兵衛だった。
(参照: 〔名幡〕の利兵衛の項)
利兵衛が録之助に30両で請け負わせたのは、殺し---仕掛けであった。

209

年齢・容姿:中年。容姿の記述はない。
生国:摂津(せっつ)国(現・大阪府)のどこかであろう。

結末:井関録之助が殺しを断ると、「わしも、とんでもない人を拾ったものや」と嘆き、その後、首を吊って自裁---もっとも、〔名幡〕の利兵衛の手下がそのように見せかけたのかも知れない。

つぶやき:〔葛篭師〕紋造から離れて、〔凄い奴〕と鬼平が死闘をくりひろげた池上の本門寺の総門奥の石段は96段と書かれているが、いまも、そのとおりの段数である。
121
本門寺の石段(『江戸名所図会』部分 塗り絵師:西尾 忠久)

池波さんは、『鬼平犯科帳』130余篇の中での自薦ベストの中に、この[本門寺暮雪]を入れている。
ちなみに、ベスト5を列記すると、
通篇  巻 篇名     『オール讀物』   自薦の理由(推定)
・ 41 6-5  大川の隠居 1971年05月号   実在した巨鯉
・123 21-2 瓶割り小僧 1980年09月号   瓶を割るアイデア
・ 17 3-2  盗法秘伝  1969年05月号   秘伝のアイデア
・ 35 5-6  山吹屋お勝 1969年12月号   向こうへ手首を抜くアイデア
・ 60 9-4  本門寺暮雪 1972年12月号   イヌの助太刀のアイデア
と、アイデアがらみのものがほとんど。作家の苦心どころろがうかがえる選定である。

| | コメント (0)

2005.12.28

〔闇鴨(やみがも)の吉兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻3に所載の[艶婦の毒]で、鬼平を襲って一刀のもとに惨殺されながら、次篇[兇賊]になって初めて氏名をあたえられた無頼浪人が、この〔闇鴨(やみがも)〕の吉兵衛だった。
そのことを〔猫鳥(ねこどり)〕の伝五郎(20代)へ明かしたのは、吉兵衛の実弟の〔牛滝(うしたき)〕の紋次(30男)だった。
(参照: 〔牛滝〕の紋次の項)
〔牛滝〕の紋次が「兄貴とお頭(かしら)の敵(かたき)をとってやるのだ」といったところから推察するに、〔闇鴨〕の吉次郎も、艶婦お豊のことから身元が知れて逮捕された〔虫栗〕の権十郎の一味にちがいない。
(参照: 女盗お豊の項)
(参照: 〔虫栗〕の権十郎の項)

203

年齢・容姿:どちらも記述はないが、実弟〔牛滝〕の紋次の年齢から推量して、35,6歳か。
生国:和泉(いずみ)国泉南郡(せんなんこうり)牛滝村(現・大阪府岸和田市大沢町)。
弟〔牛滝〕の紋次の「通り名(呼び名)」により。推理。
市の南端。牛滝川にそった町で、町域の大部分が山地。

結末:襲ったその場で惨殺されたから、発端から結末まで、あっという間。

つぶやき:シリーズの連載がようやく2年目に入ったところで、当初の池波さんの予定としては、1,2年で切り上げるツもりであったから、賊たちの〔通り名」も〔闇鴨〕とか〔猫鳥〕とか〔虫栗〕などと凝りに凝っている。
そのうち、〔牛滝」と地名をつけたあたりから肩の力がぬけ、できるだけ、訪れたことのある地名をおもいだすようにしたのであろう。
地名を「通り名」にしたほうが、お国柄(県民性)などが人物造形に手がかりをあたえることもになる。

| | コメント (1)

2005.12.27

浪人刺客(しかく)・杉浦要次郎

『鬼平犯科帳』文庫巻8に収められている篇の中では中篇に近い[流星]で、浪人刺客・杉浦要次郎は、江戸への足がかりを意図している大坂の巨盗〔生駒(いこま)〕の仙右衛門(62歳)の命を受け、隠れ家にしていた河内(かわち)国茨田郡(まんだこおり)枚方(ひらかた)村名物---〔くらわんか舟〕の船頭・村五郎の家から、江戸へ向う。
(参照: 〔生駒〕の仙右衛門の項)
同僚は、やはり浪人刺客の沖源蔵(40すぎ)。25両ずつの仕掛け金を〔生駒〕の仙右衛門からもらっている。
(参照: 浪人刺客・沖源蔵の項)
江戸での隠れ家は、豊島郡染井村の植木屋〔植半〕の小屋。

208

年齢・容姿:30をすぎたばかり。一文字眉の精悍に顔貌。長身痩躯。
生国:北河内(大阪府北河内郡)のどこかと推定。

探索の発端:刺客の沖源蔵が惨殺した長谷川組の同心・原田一之助の妻女・きよ、先手の山本伊予守組の木下同心などにより、火盗改メの必死の探索が始まった。
一方、杉浦要次郎のたっての希望で、2人は登城途中の鬼平の姿を、3か月前に先発し、江戸の盗賊の頭領〔鹿山(しかやま)〕の市之助(年齢不詳)との連絡役をつとめている〔津村(つむら)〕の喜平から指さされた。
(参照: 〔鹿山の市之助の項)
(参照: 〔津村〕の喜平の項)

結末:巣鴨の庚申塚の立場で鬼平を見かけた2人は、板橋宿の裏道で乗馬している鬼平へ斬りかかったが、逆に2人とも深傷をおい、捕縛された。磔刑であろう。

つぶやき:〔生駒〕の仙右衛門からは、鬼平を殺さず、周辺の関係者を殺傷することで、鬼平を苦しめるようにとの命令を受けていた2人だが、腕におぼえがあるものだから、仙右衛門の命を破って鬼平に勝負をいどんでしまった。
〔生駒〕の仙右衛門の命令を守りきれなかったのは、組織の中の人間ではなく、礼金めあての刺客だつたからであろう。
一方の仙右衛門としても、相手がそういう組織に組みこめない仁たちと割り切っておくべきだった。

| | コメント (0)

2005.12.26

浪人盗賊・滝口金五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻17、長編[鬼火]の終末に名前があかされるだけだが、近江国・膳所生まれの浪人くずれ・滝口金次郎は、いまは隠退している元表御番医・吉野道伯(70歳近く)ぐるみの盗賊団の首領にかつがれている。
(参照: 表御番医・吉野道伯の項)
それというのも、3カ条を守りぬく本格派のお頭だった〔名越(なごし)〕の松右衛門が、一味が小網町の線香問屋へ押し入り、3000余両を奪ったとき、手代と小僧に重傷をおわせてしまったkことで落胆、盗金をすべて配下へ分配、独りで故郷の伊勢へ消えたあと、のこされた一味が滝口金五郎を首領にあおいだからである。
(参照: 〔名越〕の松右衛門の項)

217

年齢・容姿:43歳。大男。
生国:近江(おうみ)国滋賀郡(しがこおり)膳所(ぜぜ)]村。(現・滋賀県大津市膳所)。

駒込に〔権兵衛酒屋〕へ賊が押し入り、弥市夫婦を惨殺しようとするところを、鬼平が助け、弥市が逃げうせたことから、探索が始まった。謎は謎を呼び、600石の引退中の旗本・清水三斎までたどりついて、ようやく事件の真相が見えてくる。
(参照: 元旗本・永井弥一郎の項)
一方では、牛込の通寺町の薬種舗〔中屋〕へ賊が入り、家族・奉公人の全員23名を殺害し、大金のほかに秘伝の高貴薬〔順気剤〕まで奪った。ここにいたって、火盗改メの探索がはじまった。

結末:妖しい浪人たちを尾行しているうちに、関屋村の吉野道伯の寮がつきとめられ、次の狙い先が京橋・新両替町の菓子舗〔加賀屋〕であることが判明。待ち伏せていた鬼平の組に斬り殺されたり逮捕された。
滝口金五郎には一作年、麹町7丁目の呉服・太物問屋〔平松屋〕で一家皆殺しにした犯行もある。磔刑が至当。

つぶやき:〔権兵衛酒屋〕の襲撃と、清水老人、そして旗本・永井家、さらには大身・渡辺丹波守との結びつき、そして浪人盗賊・滝口金五郎の出番---どう糸がたぐられるのか。池波さんは、成り行きで書いてゆくというが、これだけの長篇となると、出たとこ勝負というわけにもいくまいに。
あえていうと、〔名越〕の松右衛門にしても滝口金五郎にしても、とってつけた感じがないでもない。つまり、ミステリー作法でいうところの「伏せ」が打たれていないのである。

| | コメント (0)

2005.12.25

〔野柿(のがき)〕の伊助

『鬼平犯科帳』文庫巻13に収録の[一本眉]で、〔清洲〕の甚五郎一味が仕込みをしていた、元飯田町の銘茶問屋〔栄寿軒・亀屋〕方へ、一足先に侵入して全員殺戮の上、奥座敷の金蔵から1,500両余を奪ってにげたのは〔倉渕(くらぶち)〕の佐喜蔵一味だが、その手引き役の座頭・茂の市との連絡(つなぎ)をつめたのが〔野柿(のがき)〕の伊助である。
(参照: 〔清洲〕の甚五郎の項)
(参照: 〔倉渕〕の佐喜蔵の項)
(参照: 座頭・茂の市の項)

213

年齢・容姿:記述はないが中年と推察。ある程度の年期がはいっていないと、金がらみの連絡(つなぎ)役はまかされない。もの堅い町人ふう。ただし、尾行に気づかないのは、注意力にぬかりがある。
生国:上野(こうずけ)国高崎城下(群馬県高崎市)の近郊か。
出所は季語かともおもい、2,3の『歳時記』の秋と初冬をあたってみたが、「野柿」はなかった。池波さんは、晩秋の風景をおもいえがいて「通り名(呼び名)」としたのかもしれない。
ある人から、高崎駅前からバスと聞いたことがあるが、地誌にも見あたらない。同地区の鬼平ファンのご教示を待つ。

探索の発端:押し入り先の一家惨殺に怒りをおぼえた〔一本眉〕こと〔清洲〕の甚五郎は、〔亀屋〕の間取りを売ったとおぼしい座頭・茂の市を見張った。案の定、〔倉渕〕一味の〔野柿〕の伊助が甞め料の残りの半金を渡しに現れた。
その伊助の帰り道を尾行して盗人宿が知れた。

結末: 〔倉渕〕一味の主な盗人宿、板橋駅の石神井川ぞいの旅籠〔岸屋〕を襲った〔清洲〕一味は、佐喜蔵をはじめとして男の盗人10名は惨殺、生け捕った2名を柱にくくりつけた。その上で、火盗改メへ〔岸屋〕の顛末を投げ文したのである。

つぶやき:〔栄寿軒・亀屋〕方へ引き込みに入っていた〔清洲〕の一味の女・おみちの機転で、出入りの座頭・茂の市が噛んでいることがばれる。
(参照: 引き込み女おみち
このあたりの、〔清洲〕の甚五郎の手くばりは、火盗改メもたじたじ---といった按配である。さすが、巨盗ともなると、水際だった差配ぶりではある。

| | コメント (0)

2005.12.24

〔奈良山(ならやま)〕の与市

『鬼平犯科帳』文庫巻7に所載[隠居金七百両]で、4年前、大盗賊の首領〔白峰(しらみね)〕の太四郎(72歳)は、配下の〔堀切(ほりきり)〕の次郎助(58歳)の引退を許し、雑司ヶ谷の鬼子母神・参道の茶店〔笹や〕を買ってやり、自分の隠居金700両の秘匿を約束させた。
(参照: 〔白峰〕の太四郎の項 )
(参照: 〔堀切〕の次郎助の項 )
その秘匿金をゆすりに来たのが〔奈良山(ならやま)〕の与市だった。与市は太四郎の妾おせいの実兄で、妹から700両が一味の〔薬師(やくし)〕の半平(中年)によって次郎助の許へ運ばれたのを聞き出していた。
(参照: 〔薬師〕の半平

207 border="1" />

年齢・容姿:40前か。妹おせいが72歳の太兵衛の妾ということからの推量。凶暴な性格。
生国:大和(ヤマト)国平群郡(へぐりこおり)若井村(奈良県生駒郡平群町若井)。
与市が〔生駒(いこま)〕の仙右衛門の紹介で〔白峰〕一味な一時いたというのを手がかりに、地縁を探して若井村と仮定したが、自信はない。地元の鬼平ファンの考察、ご教示を待つ。
(参照: 〔生駒〕の仙右衛門の項)
「奈良山」を『日本歴史地名大系 奈良県編』(平凡社)は「奈良市と木津町との間に東西に広がる低い丘陵をいう。大和と山城の国境となった。西は生駒山地の裾、東は笠置山地の裾につづく」と解説。

探索の発端:長谷川平蔵の嫡男・辰蔵が、鬼子母神・参道の茶店〔笹や〕のむすめ・お順を見初(みそ)めた。遊び仲間の阿部弥太郎にいわせると「芋の煮ころがしのような小むすめ」のお順をである。
そのお順がかどわかされるところへ偶然に行きあわせた辰蔵が、〔掘切〕の次郎助が隠した700両をねらっている〔奈良山〕の与市の存在を知り、盗人たちの全貌が明らかになった。

結末:捕らえられた与市と弟分の孫吉は、死罪であったろう。
〔掘切〕の次郎助は事件が解決した夜、腸捻転のような病気で死んだ。
火盗改メからの連絡で、京都・下寺町に潜んでいた〔白峰〕の太四郎とその妾おせいを、京都町奉行所は取り逃がした。

つぶやき:若い男性は、辰蔵のように乙女に手軽に興味をそそられるタイプの男性と、一生の伴侶をと思いつめる男性の、2タイプに分類できる気がする。
辰蔵や木村忠吾は前者、小柳安五郎は後者のタイプだろう。

| | コメント (0)

2005.12.23

〔梅原(うめはら)〕の伝七

『鬼平犯科帳』文庫巻2に収められている[お雪の乳房]で、表向きは芝・横新町で煙草屋をひらいている盗賊の頭領〔鈴鹿(すずか)〕の又兵衛の右腕、〔梅原(うめはら)〕の伝七も世間への顔は煙草きざみ職人で、又兵衛に仕えて10年余になる。住まいは金杉通りの寿運寺(戦災で廃寺)裏。
(参照: 〔鈴鹿〕の又兵衛の項)

202

年齢・容姿:どちらも記述されていないが、中年で中肉中背と推察。小男の又兵衛としては、大男は一味に入れたがらなかったろうから。
生国:美濃(みの)国郡上郡(ぐんじょうこおり)梅原村(現・岐阜県郡上郡美並村梅原)。
ものの本に、昭和29年(1954)に所帯数22戸とある。鬼平のころはもっと貧村だったのかも。
池波さんが甲賀忍者で親しんでいた近江国の、蒲生郡梅原新田はいまは別の名になっている。
〔鈴鹿〕の又兵衛との地縁でいうと、おなじく美濃・山県郡梅原(現・高富町)、紀伊国名草梅原村(現・和歌山市)も候補だが、又兵衛の義弟で三河の額田郡鴨田村(現・岡崎市)出の〔鴨田(かもだ)〕の善吉も考慮にい入れると、長良川左岸の台地に位置する美並村梅原がもっとも有力と見た。
(参照: 〔鴨田〕の善吉の項)

探索の発端:〔小房〕の粂八が、偶然に〔鴨田〕の善吉を見かけたことから、見張りがはじまり、芝・横新町で煙草屋〔しころや〕の又兵衛へ糸がたぐられ、つづいて〔梅原〕の伝七もみつけられた。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
密偵になる前、粂八が〔野槌(のづち)〕の弥平の下にいたとき、〔鈴鹿〕一味から借りられてきていた〔梅原〕の伝七を見知っていたからである。
(参照: 〔野槌〕の弥平の項)
伝七が、芝・松本町の明樽問屋〔大国屋〕の飯炊き女おろくと連絡(つなぎ)をつけたところから、〔鈴鹿〕一味の狙い先も知れた。

結末:〔大国屋」で待ち構えていた鬼平が名乗りをあげると、又兵衛一味は抵抗もせずに縛についたが、処刑は死罪であったろう。

つぶやき:〔小房〕の粂八が鬼平にいう。「なあに、私はもう死んだつもりでおりますよ。何人も、この手でにかけて殺した人のうらみが、つもりつもっているこの躰でござんす。いつ死んでも悔はございません」
一方、巻12[密偵たちの宴]では、集まった密偵たち6名(粂八も入っている)は、「いずれも本格派であった」とある。

| | コメント (0)

2005.12.22

〔枝場(えだば)〕の甚蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻7の[雨乞い庄右衛門]、つまり題名にもなっている首領〔雨乞(あまご)い〕庄右衛門(58歳)は、巨盗〔夜兎〕角右衛門に仕込まれた本格派である。
(参照: 〔雨乞い〕庄右衛門の項)
(参照: 〔夜兎〕の角右衛門の項)
駿河の山奥の温泉湯治場「梅ヶ島」で療養しながらも、次の盗め先と狙いを定めている深川・熊井町の油問屋〔山崎屋〕へ、1年半前から下男(飯炊き)として〔枝場(えだば)〕の甚蔵を住み込ませている。

207

年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国:いろいろと地理書をあさったが、記載がなかった。「枝葉」のような軽い男のもじりかともおもい、『旧高旧領』を検索したが、やはりなかった。
庄右衛門の地縁で考えると、甲斐国か駿河国の富士川ぞいのどこかの村とおもえるのだが。
もっとも庄右衛門の湯治中に手配されているので、それをした参謀格の〔鷺田(さぎた)〕の半兵衛(60近い)の地縁でいうと、美濃国のどこかもありうる。
(参照: 〔鷺田〕の半兵衛の項)
いちおう、駿河(するが)国駿東郡(すんとうこおり)水土野村(現・静岡県御殿場市水土野)としておく。

探索の発端:〔枝場〕の甚蔵の探索ではなく、庄右衛門である。
自分でも快癒とおもうほどに回復したので、妾のお照の待つ江戸で一仕事すべく、東海道をくだっているとき、平塚宿で配下に殺されかかったのを岸井左馬之助に助けられた。
六郷の渡し舟で心臓発作をおこし、左馬之助の手の中で絶命した。そのいまわのきわに、妾・お照(20代の半ばすぎ)の住いを告げたのが、探索の発端となった。
(参照: 女賊お照の項)

:結末:捕縛された〔勘行(かんぎよう)〕の定七らが、責められて、引き込みの甚蔵の所在を白状におよんだはず。
(参照: 〔勘行〕の定七の項 )

つぶやき:「狙いを定めている深川・熊井町の油問屋〔山崎屋〕」とさりげなく書かれているが、2重の意味で、池波さんの凄さを感じる。
その1.熊井町のそばに「油堀」という名の堀がある。油屋があったための命名という。
その2.徳川期の前、油の特権を有していたのが、山崎の八幡宮であったと、司馬遼太郎さんの『国盗り物語』(新潮文庫)で知った。なんとも符号する屋号であることよ。

| | コメント (0)

2005.12.21

〔馬返(うまがえ)し〕の吉之助

『鬼平犯科帳』文庫巻13に収録の[一本眉]で、ノー天気な同心・木村忠吾に酒をおごってくれる、一本眉の男、じつは盗賊の首領〔清洲(きよす)〕の甚五郎のやっている煮売り酒屋〔次郎八〕の亭主が、〔馬返(うまがえ)し〕の吉之助である。もちろん、一味の盗人。帳場にすわって、あれこれと若い者を指図している。
(参照: 〔清洲〕の甚五郎の項)
酒屋の場所は、湯島天神裏門に近い。去年(寛政8年 1795)の夏ごろ開店したが、流行っている。女は置かないで若い者5人がきりまわしているのも珍しい。
452B
湯島天神(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

213

年齢・容姿:40男。おだやかそうな風采。
生国:駿河(するが)国駿東郡(すんとうこおり)水土野(現・静岡県御殿場市水土野)。
「馬返し」と呼ばれた土地は、日光市と富士山の山梨県側、長野県小県郡新張牧(みはりのまき)にもあるが、尾張出身の〔清洲〕の甚五郎との関係から御殿場を採った。

探索の発端と結末:〔清洲〕の甚五郎は、一味よりも一ト足さきに元飯田町の銘茶問屋〔栄寿軒・亀屋〕に押し入り、一家を惨殺した〔倉渕(くらぶち)〕の佐喜蔵一味を割り出し、その盗人宿---板橋の料理・貸し座敷〔岸屋〕を襲って制裁したので、逮捕も仕置きもない。
(参照: 〔倉渕〕の佐喜蔵の項)

しばらく江戸を去るにあたり、やってきた木村忠吾に酒をおごったうえに、5両の小遣いをわたしてやったが、忠吾は例によっていっかな気づかない。

つぶやき:この篇の事件は、寛政8年だから、史実の長谷川平蔵はその前年に病死しているが、そのことはいまはとわない。

湯島天神裏門に近い〔次郎八〕は、改装しなかった7,8年前の〔しんすけ〕がモデルのような気がする。改装後は、〔次郎八〕の雰囲気が失われた。江戸らしい飲み屋がつぎつぎに消えていく。惜しい。

| | コメント (3)

2005.12.20

〔船明(ふなぎら)〕の鳥平

『鬼平犯科帳』文庫巻11の冒頭の[男色一本饂飩]事件の主人公・寺内武兵衛は、表向きは〔算者指南〕を掲げた経営コンサルタントだが、裏の顔は、出入りの商店から得た情報を盗みに使っている。
(参照: 浪人・竹内武兵衛の項)
と同時に、男色家でもあり、木村忠吾に魅力を感じて、火盗改メの同心とも知らず誘拐してしまう。
忠吾の姿を最期に見たのが、深川・海福寺門前の一本饂飩の〔豊島屋〕の女中のお静(年増)である。鬼平は、このお静を囮にして、竹内武兵衛をおびきだすことにした。
〔船明(ふなぎら)〕の鳥平は、いまは、竹内武兵衛と組んでいる、いっぽうの、ちっぽけな盗賊集団の頭である。

211

年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国:遠江(とおとうみ)国豊田郡(とよだこおり)船明(ふなぎら)村(現・静岡県浜松市船明)。

探索の発端:武兵衛は、囮のお静を気絶させ、老僕・吉六に背負わせて行かせた。その吉六がかけつけた先が、鉄砲洲川の船着き場の、〔船明〕の鳥平の盗人宿だった。
で、尾行していた沢田小平次たちに捕縛された。

結末:竹内武兵衛は鬼平に斬りかかって逆に殺されたが、あとの一味の処刑は記述がない。
幽閉されていた忠吾が純潔(?)を守りとおしたと力説するのみ。

つぶやき:池波さんの作品には、周囲か知りあいにその道の人でもいたかとおもうほど、男色者が登場する物語が少ないとはいえない。
むろん、そういう詮索は作品鑑賞の本筋から遠くはずれていることで、小説読みの醍醐味は、作品に徹して楽しむところにあることはいうまでもない。

それはそれとして、「船明」という地名に引かれて、天竜川を遡り、当時の天竜市船明を訪れた。いまは、船明ダムが築かれていた。
1301
天竜川を堰きとめた船明ダム

〔船明〕の鳥平の盗人宿を鉄砲洲川の船着き場に置いた池波さんが同地を訪れたのは、ダムで川が堰きとめられる前で、天竜下だりの船頭や木遣り師が多くいたころだったのかもしれない。


| | コメント (2)

2005.12.19

〔二俣(ふたまた)〕の音五郎

『鬼平犯科帳』文庫巻3に所載の[駿州・宇津谷峠]は、鬼平、同心・木村忠吾と剣友・岸井左馬之助が、京都からの帰路の浜松から岡部のあいだで遭遇した事件である。
もっとも、左馬之助は、浜松から竜川を遡って二股で気田(けた)川ぞいに秋葉大権現へ詣でたので、先行の2人より3日行程ほど遅れていたが。
左馬之助が袋井宿までもどって入った旅籠で、幼馴染の〔臼井(うすい)〕の鎌太郎会った。しかし鎌太郎は、左馬之助を避けるようにして夜発ちをした。
(参照: 〔臼井〕の鎌太郎の項)
発ったあとの鎌太郎を訪ねてき、後を追ったのが〔二俣(ふたまた)〕の音五郎だった。盗め金を横領しようと浜松でお頭の〔空骨(からぼね)〕の六兵衛と妾・おもんを殺害してきたのである。
(参照: 〔空骨〕の六兵衛の項)

203

年齢・容姿:年齢と面体の記述はない。背が高い、とだけ。
生国:遠江(とおとうみ)国豊田郡(とよたごおり)天竜村(現・静岡県浜松市二俣町二俣)
池波さんは、岸井左馬之助が詣でた秋葉神社への途中、武田の大軍に水を絶たれて落城した徳川方の堅城・二俣城址へ立ち寄ったとき、この地名を記憶にとどめたのであろう。
s
二俣城址

s
二俣城址下あたりの天竜川の流れ

探索の発端:〔臼井〕の鎌太郎とお茂の会話を聞き、〔空骨〕の六兵衛殺しや〔二俣〕の音五郎殺しに関連があると、鬼平に報告した。

結末:交情中にお茂までしめ殺した鎌太郎が、岡部川の上流の隠し金の場所までいったとき、まちかまえていた〔藤枝〕の久蔵もろとも、捕縛。

つぶやき:二俣城址へは、2度訪れた。鈍なことだが、1回目はカメラの電池切れで撮影できず、半年後に再訪した。
浜松から電車で約30分。鹿島(かじま)下車。

「二俣」の地名は、天竜川へ気田川が合流しているから。二俣城は、その合流点の上手---小高い丘の上にあった。

武田勝頼の大軍がこの城を攻めあぐんだとき、徳川方の守将は青木又四郎と中根正照だった。のち、水汲み施設を壊されて水絶ちにあい、落城。ところが家康は、帰ってきた2人を浜松城へ入れなかったので、2人は武田軍に討ち入って戦死した---という史話がある。
若かった家康は、部下にむごい扱いをした時期もあったらしい。

| | コメント (0)

2005.12.18

座頭・茂の市

『鬼平犯科帳』文庫巻13に収録の[一本眉]で、〔倉渕(くらぶち)〕の佐喜蔵一味の〔嘗役(なめやく)〕をつとめたのが座頭・茂の市である。〔倉渕〕一味は、〔清洲〕(きよす)〕の甚五郎の一味がじっくりと工作していた元飯田町中坂上の銘茶問屋〔亀屋〕方を、畜生働きでさっさと襲ってしまったのである。
(参照: 〔倉渕〕の佐喜蔵の項)
(参照: 〔清洲〕の甚五郎の項)

213

年齢・容姿:50がらみ。恰幅がいい。なかなかりっぱな顔だち。言葉づかいも上品。
生国:
江戸だろう。目が不自由だから、遠国からきたとはおもえない。
〔高砂煎餅〕が名代の神田三河町4丁目の〔高砂屋〕の横道を入っていったいまの家に住んだのは7年前からだが、その3年前に、旅籠に泊まっている〔野槌(のづち)〕の弥平を治療して、盗みの世界へ引き込まれた。

探索の発端と結末:〔亀屋〕の事件を調べていた火盗改メは、茂の市を圏外に置いた。ところが、〔清洲〕一味の引き込みで、4年も前から〔亀屋〕へ下女として入っていたおおみちが、事件のとき、屋根にのがれて生きのこり、仔細を甚五郎に告げたために、茂の市の家が〔清洲〕一味によって見張られ、板橋宿にあった〔倉渕〕一味の盗人宿が割り出され、襲われてほとんどが惨殺。
(参照: 引き込み女おみち
茂の市と女房のおふみも、〔清洲〕一味によって始末された。

つぶやき:〔亀屋〕の事件の夜、茂の市は現場に居合わせてはいなかった。
なのに、引き込みの下女・おみちが、なぜ、茂の市があやしいと断じたかというと、犯人たちの「さすがに、茂の市の嘗役はたいしたものだ」という盗人同士の会話を耳にしたからである。
お盗めの最中に、犯人同士がうっかり会話をかわしたのは、一家皆殺しにしたとおもい、つい油断したからであろうが、現場では、目さしや指の動きで意志をつたえあうのが、本格の盗賊集団の心得のはず。

| | コメント (0)

2005.12.17

〔かめや〕利兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻7に所載[隠居金七百両]で、4年前に病いのためにお盗めがつづけられなくなった〔堀切(ほりきり)〕の次郎助(58歳)は、大盗〔白峰(しらみね)〕の太四郎(72歳)に30年間仕えた労として、雑司ヶ谷の鬼子母神・参道の茶店〔笹や〕を買ってもらい、関宿から呼び寄せたむすめのお順と商売をつづけていた。
(参照: 〔堀切〕の次郎助の項)
(参照: 〔白峰〕の太四郎の項)
お順は15歳になるまで、関宿で饂飩屋〔かめや〕利兵衛夫婦に預けていた。というのも、利兵衛はもとは〔ひとりばたらき〕の盗賊だったが、引退して30も年下の女房をもらい、夫婦で店をきりもりしていた。男の子ももうけていた。
一方の次郎助---40をこえたばかりの頃、上方での大仕事を終えると、いっしょにお盗めをしたことがある利兵衛の店へ隠れた、そのとき、店の小女おきんに手をつけて生ませたのがお順というわけ。
おきんもお順も利兵衛夫婦にあづけっぱなしだったが、おきんは27歳のとき病没、利兵衛老人も1昨年(寛政2年 1790)の夏に85歳で大往生をとげた。
s
旧東海道・関宿の亀山側

207

年齢・容姿:没年85歳(寛政2年 1790)。容姿の記述はない。
生国:「通り名(呼び名)」が記されていないので、店名の〔かめや〕から推測する。関宿には「亀」のつく部落はなかったし、盗賊が生国へ引退してはとかくやばい。
金まわりに不自由しないことを妬んで妙な噂を立てられたり、幼馴染に酔ったいきおいでぽろっとお盗めのことを洩らしかねない。
尾張(おわり)国海西郡(かいせいこおり)亀ヶ地新田(現・愛知県海辺郡十四山村亀ヶ地)生まれとしておく。

探索の発端も結末:池波さんは、賛辞・感嘆をこめて書いている。
利兵衛老人は一昨年の夏に、八十五歳の長寿をたもち、
「あれこそ、真の盗人の最期だ」
といわれるほどの大往生を、我家の畳の上でとげたのであった。

つぶやき:利兵衛が引退したのは60歳ごろであろうか。30も年下の女房おしかをもらったというから、この篇のとき、おしかも57歳のいいばあさんになっていた。息子も25,6で、嫁もきていたろう。
そこへ、17歳のお順が戻っていくと、また、ひとつのドラマが発生しそう。

85歳で大往生をとげた利兵衛だが、引退して25年も経てば、盗賊の世界とはほとんど没交渉になっていたはず。だれが「あれこそ、真の盗人の最期だ」と賛嘆したんだろう? 池波さん?

| | コメント (0)

2005.12.16

〔大和屋(やまとや)〕栄次郎

『鬼平犯科帳』文庫巻3の[兇剣]に登場する、大和国(奈良県)大泉村うまれのむすめ・およねを、大坂・道頓堀川の東、下大和橋の南たもとで、〔讃岐・金毘羅出船所・諸国御宿〕の看板を出している〔出雲屋〕の主人・丹兵衛(60をこえた)のもとへ女中として口をきいたのが、大坂・堺すじ唐物町で小さな呉服店を出している〔大和屋〕栄次郎であった。
(参照: 〔高津〕の玄丹の項)
およねは、玄丹(出雲屋丹兵衛)一味が、大坂町奉行所の同心・稲垣鶴太郎(30がらみ)殺しを見てしまい、一味から命をねらわれるが、鬼平にかくまわれた。

203

年齢・容姿:どちらの記述もない。
生国:大和(やまと)国式上郡(しきのかみこおり)柳本村(現・奈良県天理市柳本町)。

探索の発端:g)京都の嵯峨野で、およねが鬼平に助けを求めたことから、事件の臭いをかぎとった鬼平が、歌姫街道をたどっての奈良見物に伴った。それを追う玄丹一味の浪人たちの存在で、辞退は一気に展開しはじめた。

結末:大泉村の大庄屋・渡辺家を襲った玄丹一味は、京都西町奉行・浦部彦太郎(40すぎ)が手くばりした代官屋敷から出動した組に捕らえられた。
盗人だった〔大和屋〕栄次郎ものちに捕まった。稲垣同心は、〔大和屋〕が盗人とうすうす気づいていて、その先を恐れた玄丹に殺されたのであつた。
玄丹は、1か月後に紀州・那賀郡・喜志で捕縛された。

つぶやき:連載第18話目にあたるこの篇は、ふだんの分量の倍もある中篇となっているのは、『鬼平犯科帳』の人気がようやく高まり、池波さんの裁量が『オール讀物』編集部内であるていど許されてきていたと見る---と、〔高津〕の玄丹の項で書いた。
人気の高まりがどれほどであったかは、いまとなってははかるすべもないが、松本幸四郎(白鴎丈)さんによるテレビ化の話は、このころ、着々と具体化していた。

さて、大和国大泉村へ、天領・辻村の代官屋敷から捕り方が出動したとあります。この磯城郡(しきこおり)辻村出身の人物が、『剣客商売』の第2話に登場する嶋岡礼蔵である。
[兇賊]の『オール讀物』への掲載は1969年7月号、[剣の製薬]は3年遅れの1972年2月号の『小説新潮』。池波さんがこの辻村に興味をもったのは、なにによってであろうか。謎がまた一つできた。

| | コメント (0)

2005.12.15

表御番医・吉野道伯

『鬼平犯科帳』文庫巻17は、長篇第2作[鬼火]である。この篇の後半部にいたって初めて登場するのが、この仁---いまは隠退して病臥中の、元表御番医・吉野道伯。
かつて、600石の旗本・永井弥一郎を浅草の水茶屋の茶汲み女・お絹に引き合わせだが、お絹が女賊だったために、家督を養子の弟の伊織へゆずる形で逐電させた。
(参照: 元旗本・永井弥一郎の項)
伊織は、大身7000石の渡辺丹波守直義が家督前の16歳のときに女中のお浜に産ませた子で、開幕以前には家臣であった永井家へ送りこまれていた。
道伯は、丹波守とは別腹の弟で、表御番医にまでなれたのも、父・渡辺直幸の配慮であったという。
しかし、道伯は医術を学ぶかたわら、本格派の盗賊〔名越(なごし)〕の松右衛門とも結びついていた。
(参照: 〔名越〕の松右衛門の項)
しかし、ある事情から、〔名越〕の松右衛門は一味を解散、飄然と故郷・伊勢国へ去った。残された者たちのうち、足を洗う気のなかったのが、浪人あがりの滝口金五郎(43歳)を頭にすえた。

217

年齢・容姿:70歳近くか。容姿の記述はないが、医者としてはなかなに商売上手で資産も多い。
生国:武蔵(むさし)国江戸の町家のむすめが生んだとある。

探索の発端:駒込に〔権兵衛酒屋〕へ賊が押し入り、弥市夫婦を惨殺しようとするところを、鬼平が助け、弥市が逃げうせたことから、探索が始まった。謎は謎を呼び、600石の引退中の旗本・清水三斎までたどりついて、ようやく事件の真相が見えてくる。

結末:吉野道伯は、入牢中に病死。滝口金五郎ほか一味は磔刑。弥一郎も死罪。

つぶやき:大身旗本家のお家騒動に盗賊をからませたところがストリー・テリングのうまい池波さんの手腕であろう。時代小説も、ミステリー風味をつけないと、読み手の興味をつなぎとめられなくなっている。

| | コメント (0)

2005.12.14

浪人くずれ・天野大蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻2に収録の[蛇の眼]のタイトルでも暗示されている主人公〔蛇(くちなわ)〕の平十郎は10歳すぎだったが、父親の歿後、母親と情をかわしたというので、〔今津屋〕季助ともども、2人を鉈で惨殺、内弟子だった由造(当時37歳)に導かれて大坂の実家を逃げ、諸国を浮浪していた。
(参照: 〔蛇〕の平十郎の項)
その平十郎(少年時代の幼名は与兵衛だが、ここではずっと平十郎でとおす)を拾いあげて、盗みの業(わざ)を仕込んだのが、浪人くずれの天野大蔵である。
いつごろ、平十郎に独立を許したかは書かれていないが、10歳すぎたばかりの少年が、30歳のときには押しも押されぬ金箔つきの大泥棒になっていたというから、22,3歳で1本立ちさせたか、あるいは天野浪人盗賊が病死したのを機に一味を組織したか。

202

年齢・容姿:どちらも記述されていないが、平十郎を拾いあげて12,3年後には引退か病死していたとすると、平十郎との初対面は40歳をすぎたころか。その年配の男性に、平十郎も印判師だった父親の面影を見たのかも。
生国:不明。平十郎のテリトリーは上方から東のようだから、東海道筋のどこかともおもうが。

探索の発端と結末:p41 新装版p43に、ほんの3,4行ほど顔を見せるだけで、その後のことも記されていない。もちろん、鬼平が火盗改メの任につくはるか以前のことなので、記録もなかろう。

つぶやき:浪人くずれというから、剣術もある程度できたろうし、なにより、用兵に通じており、指揮はたくみであったろう。
それに、平十郎の生来の残虐趣向が加わったのだから、〔蛇〕一味の外道ぶりは容易に想像できるというもの。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2005.12.13

女賊お杉

『鬼平犯科帳』文庫巻10に収められている[消えた男]の題名になっている男---火盗改メの元・同心高松繁太郎(当時27,8歳)とともに、属していた盗賊一味〔蛇骨(じゃこつ)〕の半九郎のもとから消えた女賊がお杉だった。
(参照: 〔蛇骨〕の半九郎の項)
本格派の盗賊〔千代ヶ崎(ちよがさき)〕の源吉のむすめ・お杉は、〔蛇骨〕一味の血なまぐさいやり方に嫌気がさしていた。
(参照: 〔千代ヶ崎〕の源吉の項)
〔蛇骨」一味の情報を高松同心へ売ることにしたが、高松が属している堀組では逃走資金の30両をケチった。
置手紙をして組屋敷から消えた高松繁太郎は、お杉とともにあちこちで盗みを働きながら潜伏をつづけたが、信州・上田でお杉ば病没。いまわのきわに、目黒の寺に眠っている父親の墓の隣へ埋めてほしいと懇願した。
繁太郎は遺髪を抱き、7年ぶりに江戸へ戻ってきたところを、いまは長谷川組に借りられて筆頭与力となっている佐嶋忠介とめぐりあった。

210

年齢・容姿:病死したときが34,5歳。盤台面(つら)。いさぎよい性格。
生国:武蔵(むさし)国荏原郡(えばらこおり)目黒村(現・東京都目黒区上目黒)。

探索の発端:お杉自身は病死しているので、探索の対象外。
高松繁太郎は、お杉の元情夫の〔笹熊(ささぐま)〕の繁蔵を殺して、目黒の墓のそばに立っているところを、鬼平に探りあてられた。
(参照: 〔笹熊〕の勘蔵の項)
結末:繁太郎は、鬼平のすすめで密偵となってみごとな働きをしたが、繁蔵の叔父〔蝋燭(ろうそく)屋〕六兵衛が雇った仕掛人に惨殺された。
(参照: 〔蝋燭屋〕の勘蔵の項)

つぶやき:元同心・高松繁太郎は、いっしょに7年間もにげまわったお杉のことを、「何事にもいさぎよい女でした」と鬼平に述懐した。
「いさぎよい」とは、済んでしまったことには愚痴をいわない、あきらめがいいとか、欲が強くない---といった意味があろう。
そういう、いってみれば、女の業みたいなものが少ない女性は、男にとっては理想だが、欲望をそそるようにできている現代社会では、稀有のことに属する。

| | コメント (0)

2005.12.12

〔大和屋(やまとや)〕金兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻5に所載の[深川・千鳥橋]に、脇役として登場する鰻店の〔大和屋(やまとや)〕金兵衛は、大盗〔蓑火(みのひ)〕の喜之助の配下として30年ものあいだ忠実にはたらき、老齢を理由に喜之助(62歳)が一味を解散したのを機に、すっぱりと足を洗い、もらった退(ひ)き金140余両にもち金をあわせ、上野山下の仏店(ほとけだな)に蒲焼の店をはじめたのが、5年前(天明4年 1784)だった。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
店構えも小ざっぱりしているし、はじめから腕のよい職人をあつめたので、たちまち評判となった。
そこへ、〔蓑火〕時代に図面のことでお頭・喜之助へ何度か口をきいてやった大工あがりの〔間取(まど)り〕の万三(51歳)が訪ねてき、手元に残っている5枚の間取り図を売りたいという。
(参照: 〔間取り〕の万三の項)
自分はすでに足を洗っているからと、〔己斐(こひ)の文蔵(40をこえている)に引きあわせた。
(参照: 〔己斐〕の文助の項)
〔己斐〕の文三は〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門の下で15年間腕をみがいたのち、腕のいい錠前外しとしてひとりばたきをしている。
(参照: 〔夜兎〕の角右衛門の項 )

205

年齢・容姿:60過ぎ。柔和な人柄。
生国:記述はされていないが屋号と、引く前の住まいが上方だったことから、大和(やまと)国(現・奈良県)のどこか、と推察。

(探索の発端)密偵になった〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が、逮捕とないという口約束を鬼平とし、〔間取り〕の万三を見つけるために、〔大和屋〕を見張った。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
鬼平が〔間取り〕の万三に執着したのは、図面を買った盗賊たちの情報がほしかったからである。

結末:五郎蔵も、足を洗って正業についているかつての同僚の金兵衛のことまでは、鬼平にもらしていなかったから、火盗改メは金兵衛の前身には気づかなかった。

つぶやき:
それにしても、池波さんの配慮も行きとどいている。〔間取り〕の万三が身の始末金をひねりだすために、間取り図の買い手をさがしたとき、〔大和屋〕金兵衛に、
「これからはう、私が手引をするわけにゃあいかないが---そのかわり、しっかりした人をお前さんに引き合せよう」
といわせて、盗めがらみのことには、直接にはタッチしないように設定している。もっとも、江戸時代の刑法では、紹介者も連帯して罰せられたはずだが。

| | コメント (0)

2005.12.11

〔桑名(くわな)〕の新兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻3の所載の[兇剣]で、〔高津(こうづ)〕の玄丹が〔白子屋(しらこや)〕菊右衛門へまわしてよこした、〔牛滝(うしたき)〕の紋次の依頼---鬼平暗殺の400両は受けとっておいて、菊右衛門は紋次の始末を右腕の〔桑名(くわな)〕の新兵衛へいいつけた。
(参照: 〔高津〕の玄丹の項)
(参照: 〔白子〕の菊右衛門の項)
(参照: 〔牛滝〕の紋次の項)

203

年齢・容姿:どちらも記述がない。
生国:伊勢(いせ)国桑名郡(くわなこおり)桑名(現・三重県桑名市桑名)。

探索の発端と結末:〔高津〕の玄丹一味が、大和・大泉の大庄屋・渡辺家への押し入りに失敗して逃亡したとの噂を耳にした〔白子屋〕菊右衛門は、〔桑名〕の新兵衛を相手に、
「今夜あたり、ちょと締めて、土の中へ入れたらええわい」
「あの、四百両は?」
「貰て、おこうかい」
これらの会話は、鬼平が聞いていいないところでおこなわれた。

つぶやき:シリーズ第19話目にあたるこの篇で、次篇あたりで連載を打ち止めにでもするかのように、池波さんは、悪という悪をすべて披露するかのように、どっと吐きだしている。

| | コメント (0)

2005.12.10

盗賊剣客(けんかく)・堀本虎太郎

『鬼平犯科帳』文庫巻15は、このシリーズ初めての長篇[雲竜剣]にあてられている。相手役は剣客(けんかく)医師の堀本伯道で、〔雲竜剣〕と名づけられた不思議な剣法を遣う。
(参照: 剣客医師・堀本伯道の項)
ところが、鬼平は、ある夜、金杉川の南岸で、〔雲竜剣〕を遣う曲者に襲われた。
そのときの追い詰められた印象は、夢にまででてくるほど強烈であった。
そのころ、火盗改メの同心・片山慶次郎と金子清五郎が暗殺された。中でも、片山同心の胸の斬り傷は、かつて銕三郎(鬼平の家督前の名前)が、恩師・高杉銀平に見せられた刀傷跡と同じ刀法によるもまであった。
嫌疑は、堀本伯道へかかったが、高杉師が伯道と真剣勝負をしたのは35年ほども前のこと、とすると闇討ちの主は70歳を超えていることになるが、金杉川のそれは40歳そこそこに見えたのだ。

215

年齢・容姿:40歳そこそこ。背丈が高い。筋骨尋常。
生国:備前(びぜん)国御前郡(みまえこおり)伊福村(現・岡山県岡山市伊福町)。
篇中で堀本虎太郎は、「備中岡山出身の医師」(p336 新装版p348)と名乗っているが、岡山なら備前のほうがいいかも。
生母おせきは女賊で、伯道を盗みの道へみちびき、のち、伯道によって成敗された。虎太郎の剣は、父・伯道仕込みである。
おせきの兄・松蔵は、3年前に、虎太郎が住んでいる根岸の寮へ、伯道が寮番として送りこんだ。

探索の発端:西久保町の京扇店[ 平野屋]の番頭・茂兵衛が、近江・八日市村の鍵師・助治郎が訪れてきたとの密告してきた。鍵師・助治郎を尾行することで、背後に剣客医師・堀本伯道の影が見えてきた。深川の足袋問屋〔尾張屋〕が標的らしい。
(参照: 鍵師・助治郎の項)
(参照: 〔馬伏〕の茂兵衛の項)
伯道の足跡をたどるうちに、丸子の剣術道場が割れ、浪人たちを尾行(つ)けることによって、根岸の寮が浮かびあがった。
牛込・若松町の薬種店〔長崎屋〕を襲って一家を惨殺して金を奪ったのも、虎太郎一味の所業と知れた。

結末:伯道は、盗人宿にしている根岸の寮で虎太郎を成敗しようとして、逆に斬られた。対決を、鬼平が引き継いだ。虎太郎の喉もとに血が走った。

つぶやき:この長篇は、『オール讀物』1976年7月号から翌年新年号までの7回にわたって連載された。
『鬼平犯科帳』はいわゆる読切短篇の連鎖形式のシリーズだったが、始まって13年目、ファンもすっかり固定しているというので、長篇の分載---というより、構成を検討してみると、書いているうちに分載長篇になってしまった気味がある。
それにしても、達者なものだ、というのが本当のところの、つぶやき。

| | コメント (0)

2005.12.09

浪人刺客(しかく)・沖源蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻8に収められている篇の中では中篇に近い[流星]で、浪人剣客・沖源蔵は、江戸への足がかりを意図している大坂の巨盗〔生駒(いこま)〕の仙右衛門(62歳)の命を受け、隠れ家にしていた京都の油小路二条下ルの研師〔笹屋〕から、江戸へ向う。
(参照: 〔生駒〕の仙右衛門の項)
同僚は、やはり浪人剣客の杉浦要次郎(やや年少)。25両ずつの仕掛け金を〔生駒〕の仙右衛門からもらっている。
(参照: 浪人刺客・杉浦要次郎の項)
江戸での隠れ家は、豊島郡染井村の植木屋〔植半〕の小屋。

208

年齢・容姿:40をこえている。ひろい肩幅、がっしりとして体躯。
生国:山城(やましろ)国(現・京都府)のどこかと判ずる。研師〔笹屋〕弥右衛門の縁者とおもえるからである。研師のような職業は、大きな都会か大藩の城下町でなくてはやっていけまい。

探索の発端:刺客の沖源蔵が惨殺した長谷川組の同心・原田一之助の妻女・きよ、先手の山本伊予守組の木下同心などにより、火盗改メの必死の探索が始まった。
一方、同僚の杉浦要次郎のたっての希望で、2人は登城途中の鬼平の姿を、3か月前に先発し、江戸の盗賊の頭領〔鹿山(しかやま)〕の市之助(年齢不詳)との連絡役をつとめている〔津村(つむら)〕の喜平から指さされた。
(参照: 〔鹿山の市之助の項)
(参照: 〔津村〕喜平の項)

結末:巣鴨の庚申塚の立場で鬼平を見かけた2人は、板橋宿の裏道で乗馬している鬼平へ斬りかかったが、逆に2人とも深傷をおい、捕縛された。磔刑であろう。
409
巣鴨 庚申塚立場(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

つぶやき:沖源蔵や杉浦要次郎のよう浪人剣客は、いってみれば、置き換えのきく点景的な登場人物である。
それを、沖の場合は、「京都の油小路二条下ルの研師〔笹屋]弥右衛門」の家に寄宿、杉浦要次郎は「河内(かわち)国茨田郡(まんだこおり)・枚方(ひらかた)の町外れの船頭・村五郎」のところに寄宿---と微にいった説明をつけ加えているのは、物語にリアリティをもたせたいとかんがえている池波さん得意の手法である。

| | コメント (0)

2005.12.08

〔蓑虫(みのむし)〕の久

『鬼平犯科帳』文庫巻1の第2話をかざっている[本所・桜屋敷]は、鬼平(43歳)の本格登場篇であるとともに、古いなじみの〔相模〕の彦十(50すぎ)が、約20年ぶりに鬼平と再会を果たす。
手配中の〔小川や〕梅吉がそのあたりで消えた、本所・南割下水の御家人・服部角之助の家をさくるようにいいつかった彦十は、面倒をみてやっているこそ盗の〔蓑虫(みのむし)〕の久が、服部一味から本町の呉服問屋〔近江屋〕を襲う仲間へ誘われていることを聞き出した。
(参照: 〔小川や)〕梅吉の項)

201

年齢・容姿:彦十が「若い者(の)」というから、30歳前後か。容姿の記述はない。
生国:彦十が「面倒をみている」というから、同郷でもあろうか。相模国(現・神奈川県)のどこか。

探索の発端:鬼平がまだ銕三郎(てつさぶろう)を名乗っていたころのマドンナ・ふさが再縁した御家人・服部角之助の家のあたりで、〔野槌(のづち)〕の弥平一味の残党で、手配中の〔小川や〕の梅吉が消えたということから、警戒が強まった。
(参照: マドンナ・ふさの項)
(参照:〔野槌〕の弥平の項 )
服部の家には、素性のしけない浪人が4,5人とぐろをまいているし、博打も行われているらしい。

結末:〔蓑虫〕の久の手引きで、火盗改メが討ち入り、全員逮捕。梅吉は磔刑。ほかは死罪。ふさは遠島。

つぶやき:『鬼平犯科帳』が、ほとんど準備なし、スタートしてしまった経緯は、どこかに書いたとおもうが。

中堅作家になっていた池波さんは、1967年(昭和42)に、『オール讀物』から4回、短篇の依頼されている。
その年の12月号用に渡したのが、鬼平がちらっと出る[浅草・御厩河岸]だった。

原稿を受け取りにきたのが、その後、『週刊文春』の編集長として名をなした花田紀凱さん。文春に入社して2年目の駆け出し。
原稿を渡すとき、池波さんがいった---。
「長谷川平蔵という面白い幕臣がいてね。火盗改メなんかもやってね」(花田さんの記憶)。
池波さんの言葉を、花田さんが杉村友一編集長へつたえると、 杉村編集長は即座に、
「その、長谷川平蔵で連載を頼もう」

池波さんが手にしていた史料としては、長谷川伸師の書庫の『寛政重修諸家譜』の長谷川平蔵の項と、『江戸会誌』の合本---明治23年(1890)6月号の「長谷川平蔵逸事」くらいのはずで、それを使い、平蔵がちらっとでる[江戸怪盗記]と[白浪看板]を他誌に書いてはいた。
1121
長谷川伸師の書庫の合本された『江戸会誌』。池波さんはこの中の「長谷川平蔵逸事」で鬼平のイージをつくった

それほど、平蔵についてのデータは少なかった。
『オール讀物』から連載をいわれても、第1話[唖の十蔵]では、平蔵はあいかわらず、ちらっ、だった。
池波さんとしては、平蔵データの少なさは、悪漢小説として、盗人側から12回ほど書けばいいぐらいにおもっていたのである。

さて、[唖の十蔵]を新年号に載せるについて、通しタイトルが必要---というので、『鬼平捕物帳』とか『入江町の銕』とか、編集部内でいろいろでたらしい。
降版ギリギリに、誰かが、『犯科帳』とつぶやいた--その4年前に出ていた岩波新書『犯科帳---長崎奉行の記録---』がネタだった(花田さんの証言)。
1121
シリーズ名のヒントとなった岩波新書『犯科帳』

つまり、『鬼平犯科帳』という通しタイトルには、池波さんはかんでいなかったようだ。

同時に、第1話の[唖の十蔵]を下読みした『オール』の編集長がいったとおもう。
「面白い幕臣といって売り込んだ長谷川平蔵は、どこにいるんだ?」
それで、池波さんは、あわてて、[本所・桜屋敷]を書きあげた。けれど、データなしでやったので、長谷川平蔵の屋敷や組屋敷の位置など、ずいぶん、ムリしている。
第3話以下も、しばらくは盗賊主体の悪漢小説の形をとっている。

| | コメント (0)

2005.12.07

〔蝋燭(ろうそく)屋〕六兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻10に収められている[消えた男]で、題名になっている火盗改メ・堀帯刀組から消えた元・同心高松繁太郎(当時27,8歳)に、女賊お杉を奪われ、8年間にわたって高杉を狙っていたのが〔笹熊(ささくま)〕の繁蔵(37,8歳)である。
(参照: 元同心・高松繁太郎の項)
(参照: 〔笹熊〕の勘蔵の項)
品川宿の外れで〔蝋燭(ろうそく)屋)を営んでいる六兵衛は勘蔵の叔父で、尾張から美濃へかけてずいぷんとお盗めをしたが、安永6年(1777)ごろに足を洗い、労咳病みの女を女房にし、品川へ来て店をだした。

210

年齢・容姿:62,3歳。無口。すっかり老け込む。
生国:遠江(とおとうみ)国(現・静岡県)のどこか。

探索の発端:8年前(天明6年 1786)〔小房(こぶさ)〕の粂八が〔野槌(のづち)〕の弥平一味にいたころ、〔野槌〕のところへいっときいた〔笹熊〕の勘蔵が、粂八に、高松の命を狙っていると打ち明けたことがあった。
(参照: 〔小房〕の粂八の項)
(参照: 〔野槌〕の弥平の項)
それをおもい出した粂八が、なにげないふりで六兵衛の店を訪ね、〔大滝(おおたき)〕のお頭から勘蔵が江戸へ戻ったと聞いたが---とカマをかけた。
(参照: 〔大滝〕の五郎蔵の項)
六兵衛は、元同心・高松が江戸へ帰ってきているとわざわざ告げに来たことを、勘蔵へ話したといった。

結末:逆に勘蔵を殺した高松は、鬼平のすすめで密偵になったが、六兵衛が雇った殺し屋に殺された。
鬼平が気づいて、〔蝋燭屋〕へ手をまわしたときにはすでに遅く、六兵衛は姿を消していた。

つぶやき:あらかじめ、六兵衛を捕縛しておかなかったことを鬼平は後悔しているが、10年も前に足をあらった者を、どういう理由をつけて逮捕できるのか。時効は、泥棒にはないのか。未詳。

| | コメント (0)

2005.12.06

〔日妻(ひづま)〕の文蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻5に収まっている[おしゃべり源八]で、を記憶喪失にさせたのは、残忍な畜生ばたらきが専門の〔天神谷(てんじんだに)〕の喜佐松配下の〔日妻(ひづま)〕の文蔵であった。
(参照: 〔天神谷〕の喜佐松の項)
文蔵は、東海道・藤沢の遊行寺坂で、尾行(つ)けのぼってくる同心・久保田源八を影取(かんどり)の千本松林へ誘いこみ、棍棒で頭を殴って気絶させ、手がかりになる持ち物をすべて処置した。
そのために記憶を失った久保田同心は、江戸まではたどりついてもの、目黒の百姓屋で厄介になつているところを、目黒の行人坂で木村忠吾同心の叔父の中山茂兵衛に見つけられた。
232b
夕日岡・行人坂(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

だが、呼びかける中山叔父にも、久保田は無反応だった。寛政2年(1790)年1月10日のできことであった。

205

年齢・容姿:どちらも記述されていない。
生国:「日妻」という地名はないので、不明。
ただ、陸中国巌手郡(現・岩手県盛岡市)に上・下鹿妻(かづま)というよく似た地名があることを付記しておく。

探索の発端:中山叔父による発見から、久保田源八の唯一の所持品である笠に刻印された〔とみや〕の文字を手がかりに、鬼平以下が藤沢へ出張り、遊行寺坂したの茶店〔とみや〕の店主・仁助の記憶から源八が失踪した日の経緯がやや判明した。
それをよりどころに手がうたれた。

結末:ついには、川崎宿はずれの旅籠[大崎屋〕が〔天神谷〕一味の盗人宿と知れて、打ち込み、喜佐松以下7名、すべて捕縛。文蔵もその中にいた。
6名は江戸市中だけでも40人も殺していたから死罪となったが、鬼平は文蔵のみを牢中にとどめおき、のち、密偵としたようだが、その記録はない。

つぶやき:鬼平が文蔵の性根を買ったのは、源八を棍棒で殴りたおし、首を絞めてとどめをさそうとしたとき、源八の幼児のようにあどけない顔をみてと手をとめた、その仏ごころを評価したのであろう。
篇中でも、文蔵は、首領〔天神谷〕の喜佐松の残虐ぶりに愛想をつかせていたとある。

| | コメント (0)

2005.12.05

〔薬師(やくし)〕の半平

『鬼平犯科帳』文庫巻7に所載[隠居金七百両]で、大盗賊の首領〔白峰(しらみね)〕の太四郎(72歳)は、体調をくずした配下の〔堀切(ほりきり)〕の次郎助(58歳)の引退願いを許すとともに、30年もよく勤めてくれた退職金代わりに雑司ケ谷の鬼子母神・参道の茶店〔笹や〕の権利を買ってやり、その見返りに自分の隠居金700両を秘匿するように命じた。4年前のことだった。
(参照: 〔白峰〕の太四郎の項 )
(参照: 〔堀切〕の次郎助の項)
そして去年、700両を京都から無事に持ちくだってきたのが、配下の〔薬師(やくし)〕の半平であった。そのとき半平はこういった。
「次郎助どん。お頭は、来年の夏ごろに最後のお盗めをなすって、足を洗い、江戸へ来なさるつもりだ。そのつもりで、お頭の住家のことも、気にかけていてくれ。おれも、そのときは、お頭といっしょに足を洗うつもりでいるがね」

207

年齢・容姿:中年としか書かれていない。足を洗うにはいささか早すぎる気もしないではないが、44,5歳か。
生国:「薬師」という地名は、それこそ全国にちらばっている。しかし、上方がテリトリーの〔白峰〕の太四郎との地縁、池波さんの取材の足跡をかんがえると、もっとも近いのが近江(おうみ)国蒲生郡(がもうこおり)薬師村(現・滋賀県蒲生郡竜王町薬師)であろう。
ほかに、越前国大野郡薬師神谷村(現・福井県吉田郡松岡町薬師)や、遠江(とおとうみ)国長上郡(ながかみこおり)薬師村(現・静岡県浜松市薬師)もすてがたいが。

探索の発端:〔薬師〕の半平は探索のまったく埒外である。
鬼平の嫡男・辰蔵が、昨秋のお会式(日蓮上人の命日を記念した儀式)に行き、次郎助のむすめ・お順に岡惚れしてしまった。
399b
雑司が谷御会式(『江戸名所図会』より 塗り絵師:西尾 忠久)

が、たまたま、隠居金目あての〔奈良山〕の与市が彼女をかどわかした現場を目撃し、鬼平とともに捕縛したために、〔白峰〕一味のことが知れた。
(参照:〔奈良山〕の与市の項)

結末:火盗改メから京都の町奉行へ連絡が行ったときには、京・下寺町に潜んでいた〔白峰〕の太四郎も妾おせいも逃亡したあとだった。むろん、〔薬師〕の半平も逃げおうせていたろう。

つぶやき:隠居金が次郎助のもとへ運ばれたことを〔奈良山〕の与市へ洩らしたのは、太四郎の妾おせいである。与市はおせいの実兄だった。
72歳にもなって27,8歳の妾をもてば、欲求不満で裏切ることぐらい、経験豊富な太四郎ならわかっていそうなもの。
いや、池波さんは、年齢不相応な女性との関係をいましめたのかもしれない。あるいは、女性の縁者には気をつけろ、といいたかったか。 与市が性質(たち)の悪い男であることはわかっていても、おせいを手離せなかった太四郎の優柔不断ぶりをたしなめたかったか。

| | コメント (0)

2005.12.04

〔空骨(からぼね)〕の六兵衛

『鬼平犯科帳』文庫巻3に所載の[駿州・宇津谷峠]は、京都からの帰路の浜松で、岸井左馬之助は10余里の寄り道にはなるが、かねて念願の秋葉大権現社へ参拝、さらに10余里を歩いて袋井宿へ下り、旅籠〔六文屋〕へ入った。
泊まりあわせていたのが、30年ぶりの再会となる臼井での幼なじみ・鎌太郎だったが、なぜか彼はそそくさと出立していった。
(参照: 〔臼井〕の鎌太郎の項)
盗賊〔空骨(からぼね)〕の六兵衛の一味の鎌又郎としては、左馬之助がけむったかった。

203

年齢・容姿:〔空骨〕の六兵衛についての記述はない。ただ、配下にそむかれるほどシミったれた性格らしい。
生国:駿州か遠州(どちらも静岡県)の生まれだろうが、〔空骨〕という地名は見あたらない。

探索の発端:舞台は変わり、こちらは鬼平と随行の同心・木村忠吾。
左馬之助に先行していて、大井川越えした先の林で、忠吾が下痢の処理をしていると、〔臼井(うすい)〕の鎌太郎がお茂を絞め殺すのが聞こえてしまった。
その鎌太郎と〔稲荷(いなり)〕の徳治は〔空骨(からぼね)〕の六兵衛一味だった。府中(静岡)の薬種問屋〔神崎屋〕で奪った460余両の分配をめぐっての不満から、お頭の六兵衛と妾おもんを殺害し、金を横領しようというわけだ。
岡部川をさかのぼる2人を尾行(つ)けていく鬼平と忠吾。

結末:行きついた山中の小屋で待っていたのは、お茂が酔わせて締め殺したはずの久蔵だった。徳治も鎌太郎も久蔵に殺されたが、その久蔵は鬼平の手に。
鬼平とすると、鎌太郎の正体を左馬之助に知らせずに終わったのがせめてもの友情であった。

つぶやき:〔空骨〕の六兵衛はお茂を密偵として配下の動きを探ぐっていたというが、それにしては〔二俣(ふたまた)〕の音五郎にあっさり殺されたものだ。
音五郎もお茂を抱いているらしいから、謀反一味だという情報は〔空骨〕の耳に入っていて、用心はしていたろうに。
さらにいうと、自分を守ってくれる配下をつくっていなかった六兵衛は、首領になる器量のなかった人物だったのかもしれない。

| | コメント (2)

2005.12.03

〔白玉堂(はくぎょくどう)〕紋蔵

『鬼平犯科帳』文庫巻2に収録の[蛇の眼]で、残虐な首領〔蛇(くちなわ)〕の平十郎の軍師として登場しているのが、飯倉3丁目で唐物屋〔白玉堂(はくぎょくどう)〕をやっていた紋蔵である。
(参照: 〔蛇〕の平十郎の項)
記憶力のいい読み手なら、〔白玉堂(はくぎょくどう)〕紋蔵がすでに巻1[座頭と猿]に顔をみせていることに気づいていよう。そう、〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門は以下の〔尾君子(びくんし)小僧〕と綽名されている軽業育ちの徳太郎が、助(す)けにいく〔蛇(くちなわ)〕一味の紋蔵のもとへあいさつに行っている。
(参照: 〔夜兎〕の角右衛門の項)
(参照:〔尾君子小僧〕徳太郎の項 )
座頭・彦の市が愛欲のもつれから徳太郎を刺殺したので、身の危険を感じた紋蔵は店を閉めて、本所・成願寺(切絵図の誤植で正しくは成就寺。明治期に江戸川区平井1丁目へ移転)裏の百姓家へひそんでいる。
[暗剣白梅香]で、本郷の顔役〔三の松〕の平十ところへ、〔蛇〕の平十郎の代理として鬼平の暗殺を依頼に行ったのも紋蔵である。平十は、金子半四郎に300両で請け負わせた。
(参照: 〔三の松〕平十の項 )
(参照: 仕掛人・金子半四郎の項)

202

年齢・容姿:どちらも記述されていない。
生国:記述はないが、店の屋号の〔白玉堂〕が手がかり。古代からシナでは、金よりも玉(ぎょく)を最高の宝とした。とりわけ白い玉が珍重された。
玉の輸入口は長崎で、それらを仕入れたのは大坂の商人である。〔蛇〕の平十郎とは、同じ大坂の出ということで信頼関係ができたと見る。
大津市に「白玉(edoqj)町」が誕生したのは明治7年(1874)だから、対象外である。

探索の発端:これより前の事件---文庫巻1に所載の[座頭と猿]で逃げ隠れていた座頭・彦の市が女に会いに現われて逮捕され、〔蛇(くちなわ)〕一味の盗人宿が相州・小田原宿の北の部落・上之尾にあることを白状した。
また、襲われて殺された医師・千賀道栄が、いまわのきわに自らの血で「くちなわ」と書いていた。

結末:上之尾へ馬で急行、待ち構えていた鬼平以下の火盗改メに、紋蔵も含めて全員逮捕。

つぶやき:紋蔵が〔白玉堂〕の財物を処分するには、ずいぶんと時間がかかったろう。
しかし、唐物屋とはかんがえたものである。『鬼平犯科帳』で盗賊たちが狙うのは現金ばかりだが、『御仕置例類集』で現実の盗難の記録を読むと、財物もかなり盗みの対象となっている。
財物は、この一味は、〔白玉堂〕で売りさばいたのであろう。

| | コメント (0)

2005.12.02

下働きの又太郎

『鬼平犯科帳』文庫巻6の巻頭に置かれている[礼金ニ百両]で、不逞浪人と組んで、2000石の大身旗本・横田大学(40過ぎ)の嫡男・千代太郎(12歳)を誘拐、身代金1,000を要求した又太郎は、かつて兇賊〔網切(あみきり)〕の甚五郎の手先だった。
甚五郎一味が捕縛されたあと、又太郎のような下働きは仕事にあぶれて、悪事をおもいつくのだった。

206

年齢・容姿:22,3歳。骨ばった躰つき。切れ長の両眼は獣のそれのよう。
生国:駿河(するが)国駿府(すんぷ)の外れの安部郡(あべこおり)宇津谷(うつのや)村(現・静岡県静岡市宇津ノ谷)
横田大学の先代が女中もよに手をつけて孕ませたが、妻女・芳乃(現・61歳)が承知せず、もよに10両渡して追い出した。もよは遠縁をたよって駿府へ行き、産みおとしたのが又太郎であった。
駿府でもいい扱いをうけることができず、城下はずれで暮らしたろうから、宇津谷村あたりと推定した。

探索の発端:筆頭与力・佐嶋忠介の叔父・谷左衛門(60過ぎ)は横田家の家老だが、千代太郎の誘拐事件の話をもちこみ、鬼平がかかわることになった。
鬼平は、横田家の家来・山本伊助がかんでいると察して手くばりをすすめた。

結末:浪人2人は鬼平に斬られ、又太郎は逮捕。誘拐犯だから獄門であろう。

つぶやき:誘拐事件を盗賊に結びつけるのに、池波さんは苦労したろう。けっきょく、又太郎をもよの子とすることで、盗みの世界へ入る筋道をつけ、そのあと〔網切〕の甚五郎の下働きという形をとり、前の[兇賊]のときには逮捕の現場にいあわさなかったというような苦しい言い訳を設定せざるをえなかった。
もっとも、この篇の主題は、火盗改メのお頭は、私財の持ち出しをしなければつとまらないということだあろうし、幕府も、裕福な幕臣をえらんで火盗改メに任じたふしがある。

| | コメント (0)

2005.12.01

〔雲霧(くもきり)〕仁左衛門

『雲霧仁左衛門』(文庫 前・後編)の主人公。
吉宗が将軍だった享保(1716-35)のころ、小頭(こがしら)の〔木鼠(きねずみ)〕の吉五郎(40歳前後)、〔七化(ななば)けのお千代(26,7歳)、〔三坪(みつぼ)〕の伝次郎、〔因果小僧〕七之助、〔洲走(すばし)り〕の熊五郎、〔山猫(やまねこ)〕の三次といった手だれのほか、数十人(伝説では600人)の配下を自在に動かして大仕事をしてのける巨盗。

対する捕り方は、火盗改メのお頭が安部式部信旨(のぶむね 1000石 先手筒の第16組組頭)、与力・山田藤兵衛、同心・高瀬俵太郎らが立ち向かう。

仁左衛門は、冤罪から盗みの世界へ入ったことになっていて、沈着果断、深慮遠謀、部下の才を巧みに引き出し、配下からは深く崇拝されている。
とりわけ〔七化け〕のお千代は、仁左衛門を敬愛すること妻君以上で、物語に色味を添えている。

0001

年齢・容姿:45,6歳。中肉中背。隆(たか)い鼻すじ、切長の両眼。細く長い眉。
生国:甲斐(かい)国巨摩郡(こまこおり)樋口村(現・山梨県韮崎市清哲町樋口)
「韮崎」としたのは、『大岡政談』(東洋文庫 巻2)に拠る。

データ:原作は『週刊新潮』の、1972年8月26日号から2年後の4月4日号まで連載された。火盗改メvs.盗賊の形でいうと『鬼平犯科帳』連載開始の4年半後である。

仁左衛門の存在は、『大岡政談』の中に[雲切仁左衛門]として記録されているほか、嘉永5年(1852)に市村座上演の[名誉仁政録]に浄慶国師じつは雲切仁左衛門として登場のほか、文久元年(1861)桜田治助と河竹黙阿弥合作[竜三升高根雲霧(りゅうとみますたかねのくもぎり)]が、仁左衛門より因果小僧を主役に上演されたと、『大岡政談』(東洋文庫 1,2巻)の辻達也さんの解説にある。

池波さんは、両戯曲も参考にはしたろうが、雲霧仁左衛門を最初に見つけたのは、三田村鳶魚(えんぎょ)『江戸の白浪』(早稲田大学出版部 1931 のち中公文庫 1997)だと推定する。
1002
この労作の末尾近くに、
[雲霧仁左衛門]
[偽役人の化けの皮]
[六之助殺し]
[洲走と山猫]
[事実は何程ある]
の項があり、池波「雲霧」に登場する江州生れの〔木鼠〕の吉五郎、羽州生れの〔おさらば〕伝次、越後生れで山猫を退治したことから〔山猫(やまねこ)〕三次、門徒坊主で背中に石塔2基刺青(ほりもの)をしている掏摸(すり)上がりの〔因果小僧〕六之助、〔洲走り〕熊五郎の名前があげられているからである。
池波さんは、これらの「通り名(呼び名)〕を想像の手がかりにして、一人ひとりの個性を創造していったのであろう。

ただ、〔七化け〕のお千代は池波さんのまったくの創作だが、映画「雪之丞七変化」あたりがヒントになっているかもしれない。

安部式部だが、火盗改メの任期は『柳営備任(ぶにん)』によると、
宝永5年(1708)正月15日御目付より (40歳)
           4月 5日火付改加役
   6年(1709)2月20日御免
享保2年(1717)正月28日加役     (49歳)
   9年(1724) 2月24日卒       (56歳)

したがって、池波さんは、仁左衛門と式部の主対決を、享保7年から8年に設定した。

| | コメント (2)

« 2005年11月 | トップページ | 2006年1月 »